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サン・オーヴァンの〝春待ちの宴〟も終わって幾日か経ち、街も、王宮も少しずつ普段の落ち着きを取り戻しつつある。
けれどシャルムの春はまだまだ遠そうだった。
さすがにこの季節に外で待ち合わせるのは辛い。
降りしきる雪のなか、カミーユはくるぶしまで雪に埋もれている。
コンスタンと待ち合わせたのは、庭園の脇にある木立の一角だ。ここは、自分たちが出会った場所でもある。
基本的に王の居住棟にいるカミーユと、騎士館で生活するコンスタンは、その中間地点であるこのあたりで会うことにしていた。
「早く来ないかな……」
ひとりぼやくと、遠くの白んだ木々の合間から駆けてくる者がある。
「コンスタン!」
大きく手を振れば、向こうも振り返してきた。
「遅くなって悪い。待ったよね」
「まあね」
息を切らして走ってきたコンスタンはすまなそうな顔になる。コンスタンの吐く息で、彼の顔の周りは真っ白だ。
「練習が終わらなくて……」
「いいよ、平気だから。なんか久しぶりだね」
年が明けてからカミーユは幾度も騎士館へ足を運んでいるが、姉のシャンティに会っていることを知られてはならないので、コンスタンには秘密にしていた。
近くにいながら、声をかけなかったことに対する少しばかりの負い目が、カミーユにはある。けれどそんなことを知る由もないコンスタンは、なにやら目を輝かせていた。
「久しぶりだな、カミーユ」
「新しい年になってから、会ってないもんね」
「そのあいだに、おれは騎士館ですごいものに出会ったんだ」
「すごいもの?」
「天使だよ!」
「天使?」
突拍子もない話に、カミーユは目を丸くする。
「天使っていったい……」
「空から舞い降りてきたんだ」
「舞い降りてきた?」
厳密にいえば落ちてきたのだが、そこはコンスタンの記憶のなかでは舞い降りてきたと塗りかえられている。
「真っ白な天使だった」
「へえ……」
ちなみに当然のことながら、カミーユは天使を見たことがない。
「どんな感じなの?」
「人間の年齢でいうと、十五、六歳かな。ものすごく綺麗だった。淡い金糸の髪に、空色の瞳なんだ」
「へえ……」
なんだか身近な人を連想させるような。
「どうして天使だと思ったの?」
「空から降りてきたし、真っ白なドレスを着て素足だったから」
「素足?」
「こんな時期に、素足で外を歩いてる人なんていないだろう?」
まあ、たしかに……。
「髪は長いの?」
「けっこう長かったよ。背中くらいまであった」
「小柄?」
「うん、細くて、身長も高くなかった。だからかわからないんだけど、服を貸してほしいって言われて」
「服?」
「薄手のドレスを着ていて、寒かったんじゃないかな」
「天使が寒いの?」
「太陽の照る空のうえにいたのに、急に地上に降りてきたら寒いだろう」
そういう問題か? とカミーユは心のなかで首を傾げる。
カミーユのなかではほとんど確信に近いところまできている。コンスタンが見たのは、天使ではなく姉のシャンティだ。
「その人ってさ、いつ、どのあたりに落ちてきたの?」
「年が明けて二、三日くらいだったかな。騎士館のすぐ脇に降りてきた」
間違いない。
シャンティはジェルヴェーズから逃れるより以前にも、一度あの部屋から飛び降りたのだと、あとからシュザンに教えてもらった。理由はすぐに察せられる。素性が明るみになったからには、カミーユやリオネルのそばにいるわけにはいかないと考えたに違いない。
だれにも頼らず、ひとりで生きていくつもりだったのだろう。
シャンティはそういう人間だから。
けれどリオネルは、そのシャンティを説得し、自らのそばに置いた。シャンティがひとりで生きていかなくていいように。自分の手で彼女を守れるように。
それを考えれば、カミーユはやはりリオネルに感謝をしなければならなかった。
望むと望まざると、シャンティを救えるのは、リオネル・ベルリオーズだけなのかもしれないという思いは、カミーユのなかにも生じ始めている。
カミーユの葛藤をよそに、コンスタンは活き活きとしていた。
「さすがに素足は気の毒だと思って、靴を貸そうと思ったんだ。そうしたら、騎士館の五階あたりからシュザン様が顔を出して、その人を捕まえろと」
「……捕まえたの?」
「おれは靴を脱ぎかけていたから、すぐに走れなくて。それに、天使はとても足が早かった」
真面目な考えごとをしていたのに、コンスタンの台詞に笑いが込み上げる。
「天使が走るんだ?」
姉だとわかっているからこそおかしくて、カミーユは必死に笑いをこらえた。
「きっと、理由があって翼を失って天上から落ちたんだろう」
大真面目に言うコンスタンに、吹きだしてしまいそうになる。笑いをこらえるのもそろそろ苦しいので、話の続きを尋ねた。
「それで、どうなったの?」
「わからない。シュザン様が追いかけていったようだけど、その後のことはなにも教えてもらえなかった」
「そっか」
「天使って、あんなに綺麗なんだな。顔も手も足も真っ白なんだ」
「会いたいな……」
それは本心だ。
今朝、ディルクが王宮へ現れ、これからリオネルやシャンティと共にベルリオーズ領へ発つからと、別れを告げにきた。
しばらくシャンティには会えない。
姉に会いたいと、カミーユは心から思った。
「あれ? だれか来るよ」
雪景色のなかを歩んでくるのは、コンスタンの師匠であるシュザンだ。
二人は居住いを正し、正騎士隊の隊長である彼に向けてきっちりと一礼した。
「ああ、カミーユ殿。コンスタンといっしょだったのか。よかった見つかって」
「どうしたのですか?」
「頼まれてほしい用事がある」
「用事?」
コンスタンは不思議そうにシュザンとカミーユのやりとりを見守っている。
「仕事、と言うべきかな。レオン殿下が出掛けられるそうだ。その護衛をカミーユ殿に任せたいと、ノエル殿からのご指示だ」
「叔父上から? でも、私は護衛なんて……」
たしかに自分は近衛に所属する従騎士だが、とてもではないが王子殿下を守れるような実力はない。
突然の話に驚いているカミーユへ、シュザンは「急いで」と肩に手を置く。
「レオン殿下はすでに門前で待っておられる。早く行って、付き添って差し上げなさい」
「ほら、カミーユ。行ったほうがいい」
コンスタンにも言われて、カミーユは慌てて足を門の方角へ向ける。
「え、ああ、うん、そうか。……ごめん、話が途中になっちゃって」
「そんなことはいいから」
慌ただしくシュザンへ一礼して、カミーユはレオンのもとへと駆けて行った。
+++
降りしきる雪のなか、リオネルらはベルリオーズ領へ戻る準備を進めていた。
雪道を馬車で移動するのは必要以上に時間がかかるため、深窓の令嬢ならともかく騎士である彼らは騎乗での旅だ。来たときと同様、馬上の旅であるから寒さは厳しい。
馬の背中に荷物をくくりつけているだけで、髪や外套、それに睫毛に雪が積もっていく。
アベルの肩に積もった雪を、リオネルがそっと払い落した。
「この雪は厳しいね」
「思ったより降っていますね」
「やはり出立はもう一日伸ばしたほうがよかったかもしれない」
独り言のようにつぶやくリオネルを、アベルは振り返る。彼が一度決めたことで悩むのは珍しい。それはおそらくリオネル自身のことではなく、アベルのことを心配してくれているからこそだ。
「だが、いつ降り止むとも知れない」
ベルトランが不機嫌な声で言う。
いや、機嫌が悪いわけではないのだろうが、寒さのせいか、あるいは長旅のまえに気が張っているせいか、やや不機嫌に響いた。
そう、〝春待ちの宴〟が終わってから、もっと早くにベルリオーズ領へ戻るはずだったのが、連日の雪で出立が先延ばしになっていたのだ。
雪はいつ止むとも知れないため、ついにリオネルは出立を決めた。
「いや、ふと思っただけだ。予定通り今日出発しよう」
リオネルは、アベルが持っていた荷物を馬の背に手際よく括りつける。
「やっぱり年が明けると、ぐっと冷えるね」
今朝方すでに王宮を往復してきたディルクは、ややうんざりした様子だ。
「アベルは平気?」
「平気です。いつでも出立する準備はできています」
寒さには弱いが、弱音を吐くつもりはない。きっぱりと胸を張ってアベルは言った。
「頼もしいなあ。おれも見習わなきゃ。おまえも頑張れよ、シリル」
そう言いながらディルクは愛馬シリルの首を撫でてやる。
「ただ、レオン殿下やシュザン様にご挨拶できなかったことだけは心残りです」
小さくつぶやいたアベルを、マチアスが気遣わしげに見やった。本当はそこへカミーユの名を加えたかったアベルの気持ちを察してのことだろう。
「また王都に来る機会もあります」
カミーユの名を加えなかったのは、皆に気を使わせたくなかったからだ。けれどマチアスにはすっかり見透かされている。
きっとリオネルもわかっているのだろう、静かにこちらへ眼差しを注いだ。
護衛の騎士たちの支度も整い、前庭へ見送りに出ていたジェルマンがリオネルに言葉をかける。
「この雪です。どうかお気をつけて」
冷静な表情のなかにも、深く案ずる色がうかがえる。リオネルは安心させるように笑ってみせた。
「おれたちは大丈夫だ。ジェルマンや館の皆も元気で」
挨拶を交わし出発するというところで、リオネルは門のほうを見やる。それから、だれかが現れるのを待っているかのように、なかなか出立しない。
「どうしたんだ?」
不思議そうにリオネルを見やるディルクへ、ちょっと、とリオネルは曖昧に答える。
リオネルはそのまましばらく門のほうを見つめていたが、ややあって諦めたように視線を伏せた。
「いや、なんでもないんだ。行こうか」
馬の腹を蹴ったリオネルに続いて、一行はベルリオーズ家別邸の庭から門へ向かって駆けだす。またたくまに門の外へ出て、雪道へ。
純白の世界を駆けだしたそのときのこと。
「リオネル!」
あまり通らない声が、ふと空耳のようにアベルの耳に届いた。地獄耳のディルクにはよく聞こえていたらしく、すぐに馬の手綱を引く。
一同が馬の足を止め、振り返った先にいたのは、レオンと――カミーユだった。
アベルは目を見開く。
――どうして彼らがここに。
「ああ、間にあわないかと思った」
馬を寄せてきたレオンは、ほっとした表情だ。
「どうしてここに?」
さっきまでレオンを待っていたのかと思いきや、リオネルは想定していなかった様子である。周囲は状況が呑み込めない。
「同盟を結んだばかりのローブルグや、真意の測れぬユスターの様子を見るため、西方の視察に行くよう父上から命じられたのだ」
驚く気配が一同のあいだに流れる。
「ということは……」
「そう、どうせ西へ向かうなら皆といっしょに行こうと思ってな。同行させてもらってもいいか?」
「もちろん大歓迎だ。こんなに嬉しいことはないよ。いっしょに行こう、レオン」
降りしきる雪のなか、リオネルは笑顔でレオンを迎える。
「そうか、レオン王子殿下におかれては、いっしょに行けるのか」
ディルクも満足げである。レオンのほうの事情を呑みこむと、今度は皆の視線がカミーユへと集まった。
「カミーユ……?」
アベルはカミーユのもとへ馬を寄せる。カミーユはやや緊張した様子で答えた。
「ここまでの、レオン殿下の警護を命じられたのです」
「あなたが?」
アベルが驚くのも当然のこと。能力もさることながら、カミーユでは王族を守るにはあまりに若く未熟だ。
「うん、おれも不思議なんだけど」
ふと思い至ってアベルはカミーユに尋ねる。
「だれに言われたの?」
「ノエル叔父上からそういう指示があったって……シュザン様から」
アベルはリオネルを振り返る。リオネルは穏やかな表情でこちらを見守っていた。その様子にアベルは確信する。これはリオネルの計らいだと。シュザンに知らせてくれたに違いない。
この願ってもみない再会に、アベルは馬から降り、カミーユの跨る馬のほうへ。
するとカミーユも馬から降りて、少し不安げにアベルを見つめた。
「姉さん」
カミーユの目のまえに立ち、三年前よりずっと身長の伸びた彼の背中へ腕をまわす。広く逞しい男性の背中だった。
もう、抱きしめているというより、抱きついているという構図だ。けれど、気持ちはいつだってカミーユをすっぽりと包んでいる。
「ごめんね、カミーユ。突然姿を消したきり、最後まで会いに行かなくて」
「突然いなくなったのは、ジェルヴェーズ王子から逃れたからだろう? 王宮には不用意に近づかないほうがいいよ。それくらいおれにだってわかる。もう十歳の子供じゃないんだ」
アベルはカミーユの言葉にほほえむ。
離れ離れになったとき、アベルは十三歳、カミーユは十歳。もうカミーユはあのときの子供ではないのだ。
突然訪れた姉弟の別れ。
二人でデュノア邸の庭をはしゃいで駆けまわったあのころには、もう戻れない。
切なさに駆られて、アベルは腕に力を入れる。
「大好きよ、カミーユ」
「おれも」
「また会えるから」
「うん、わかってる」
「……でも、別れるのは寂しいわ」
「うん、おれも」
ゆっくりと身体を離して、二人は見つめあった。
「それでも、会えてよかった」
別れを察してカミーユの顔が歪む。
「姉さん――」
「身体を大切にして。周りの言うことをよく聞くのよ。お母様やエマに優しくね。困ったときはトゥーサンを頼って」
「わかってるよ」
少しふてくされたように言うカミーユの顔は、泣きそうだった。
「元気でね、カミーユ」
「おれは元気だよ、きっと風邪も引かない。怪我もしない。姉さんが哀しむから。だから、姉さんも身体に気をつけて」
「ありがとう、カミーユ。あなたのために身体を大切にするわ」
「いつかイシャスにも会いにいくから」
「ええ」
名残惜しそうにカミーユがアベルの手を取る。
「大好きだよ、姉さん」
それから、手を握ったままカミーユはリオネルへ視線を向けた。
「姉さんをよろしくお願いします」
深々とカミーユはリオネルに頭を下げる。
「必ず守るよ」
交わされる二度目の約束。カミーユは祈るように、いつまでも頭を下げていた。
「さあ、行こう」
ベルトランがアベルを促す。
ゆっくりとほどけていくアベルとカミーユの手。
アベルは馬に跨った。レオンを加えた一行は、いっせいに走りだす。
ひとり雪道に残されたカミーユを、アベルは何度も振り返った。
駆け寄って再びその手を取りたい衝動に駆られて、気がつけば、頬をあたたかい雫が濡らしている。
「アベル」
リオネルの優しい声が心に沁みる。
「ごめんなさい」
ぬぐってもぬぐっても涙は止まらない。
「おかしいですね……」
もうけっして取り戻すことのできない、かつての二人の幼さに……離れていくカミーユとの距離に、涙があふれる。
最後に振り返ったアベルの瞳に、涙でぼやけた雪景色のなかで立ちつくすカミーユの姿が焼きついた。