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「アベル……?」
「えっ、あの、その……ああ、ええっと、そう、男の人の踊りはできないから、とか思ったのですが、でもやっぱり着替えよう、かな……」
わけのわからないことを言いつつ着替え室に戻ろうとすれば、女主人につかまりリオネルたちがいるほうへまた押し返される。
「ほら、踊っておいでってば。恋人が待ってるじゃないか」
「こ、恋人?」
問い返すアベルの声が上ずる。女主人はリオネルへ大声で話しかけた。
「背の高い騎士さん、かわいい恋人をさっさと踊りへ連れていきな。他の男に横取りされないようにね!」
間近でリオネルと視線が絡まり、アベルは顔から火が出るかと思う。穴があるなら入りたい。
「アベル、その……」
言いづらそうに口に開いたのはリオネルだ。
「え?」
「……すごく似合っている」
「え、あ、っと……嘘、ですか?」
「嘘じゃない」
リオネルが生真面目に答えるので、アベルはうつむいた。
「あ、ありがとう、ございます」
普通の、だれでも着ているようなドレスだが、リオネルに褒められれば素直に嬉しい。
「嫌じゃなければ、このままおれといっしょに踊ってもらえないか」
ますますアベルは顔が赤くなっていくのを感じる。
リオネルから踊りに誘われるなんて、夢でも見ているのだろうか。だとすれば、こんな夢を見るなんて、自分はよほどうぬぼれている。
リオネルに対してこんな気持ちを抱くなんて、数か月前までは想像もできなかった。
どれほど彼のことを想っていたのか。今更気づく自分は、呆れるほど鈍感なのだとアベルはようやく知る。
リオネルから想いを告げられなければ――そして、彼から〝シャンティ殿〟と呼ばれて突き放されなければ、永遠に気づかなかったかもしれない。そこまでされなければ己の気持ちに気づけないなんて、やはり自分はよほどの阿呆だ。
「わたしなんかでよければ、よ、よろしくお願いします……」
小さな声で答えれば、わずかに目を細めたリオネルがすっと屈み、アベルの手を持ち上げ流れるような仕種で口づけを落とす。
唇を寄せるときの、瞼を伏せたリオネルの完璧なまでの美貌。
一連の仕種の優雅なこと。
アベルは気後れした。
「いい男だねえ……騎士さんって、皆こうなのかねえ……」
仕立屋の女主人がうっとりとつぶやく。
いや、皆こんなふうなわけがない。リオネルがずば抜けて洗練されているのだ。少なくとも、すでにリオネルへの気持ちに気づき始めているアベルの目にはそう映る。
「ありがとう、アベル。さあ、広場へ行こう」
リオネルに手を引かれて宴の広場へ。
心臓の鼓動が鳴りやまない。
気がつけば、踊る人々のなかにいてリオネルと向きあっている。いや、きっと近くにベルトランもいるはずなのだけど……。
しなやかでいて逞しいリオネルの腕に、腰を抱かれる。薄いドレスの生地越しに触れるリオネルの体温に、アベルは眩暈がしそうだった。
しっかりとアベルの身体を抱きしめたリオネルが、ふと不安げな表情になる。
その表情の意味を解せぬまま、踊りがはじまった。
楽曲に合わせて身体を自由に動かせば、緊張しきっていた気持ちも少しずつほぐれていく。
アベルも踊りは得意なほうだが、リオネルもまた驚くほど上手だった。
王宮や貴族の館で催されるときとは違う、軽快な調子の音楽に合わせた踊りに、気づけばアベルは夢中になっている。リオネルと手を繋ぎ、彼の腕から離れ、そして再びその腕のなか。
リオネルの腕に戻って抱きしめられるその瞬間の、胸の高鳴りと高揚感は言葉にならない。
好きなんだ、とあらためて思う。
この人が、好きだ。
リオネルに心を預けている。
手を放したくない。この腕のなかに包まれていたい。ずっと、ひとりの少女としてこの人といっしょにいたい。
今だけは、そう願うことが許されるだろうか。
見上げれば、リオネルの美しい紫色の瞳と間近で視線が絡みあう。
いつまでもこの瞳を見ていたいと思った。ひたと見つめれば、少し困ったようにリオネルが微笑する。
「……アベル、そんなに見つめられると、勘違いしてしまいそうになるから」
そう、この気持ちは伝えてはいけないのだろう。
未来のない二人だからこそ、伝えれば余計に互いに苦しむことになる。けれど。
――今日、この日このときだけは泡沫の幻を見ていたい。
明日からは、なにもなかったようにきっと互いに振る舞うことができる。そう心のなかで言い訳して、アベルは顔をリオネルの胸にうずめ、かすれる声でつぶやいた。
今なら、神様も赦してくれるのではないかと願う。
「――好きです、リオネル様」
自分の鼓動が、信じられないほど早鐘を打つのを感じる。
「あなたのことが、好きです」
しばしの沈黙のあと、響く優しいリオネルの声。
「ありがとう、アベル」
「…………」
あれ、とアベルは思った。
こちらが一世一代の告白をしたわりには、リオネルの反応があっさりしすぎている。
「その気持ちだけで、おれは幸福だ。充分すぎるくらいに」
なにかリオネルは多大な勘違いをしているようだった。先程リオネルが言っていた勘違いとは、まったく逆の勘違いを。
……二度も、言えるはずない。
「ええと……」
「今だけ、抱きしめてもいいか?」
「え――」
答えるより先に、リオネルの胸のなかに強く強く包まれている。
「ごめん、どうしようもなくて」
どうしようもなく、なんなのだろうか。
普段は気遣うように抱擁するリオネルが、今日は少し苦しいくらいに強く抱かれる。
「アベル……」
耳元でささやかれる、少しかすれたリオネルの切なげな声に、背筋を甘い疼きが駆ける。
今回王都では最大の別れの危機に陥った。リオネルのそばにいられないなら死んでしまってもかまわないとさえ思ったが、こうして彼の腕のなかに戻ってくることができた。
その喜びに胸が震える。
もう一度、彼を信じたいと心から思った。
きゅっとリオネルの服を掴み返したときのこと、ベルトランがリオネルを鋭く呼ぶ声が鼓膜を打った。
「リオネル」
はっと顔を上げたリオネルがアベルを解放する。そのまま流れるような仕草で、瞬時にアベルは背後に庇われた。
なにが起きたかわからないまま、リオネルの眼差しがまっすぐにだれかを見据えるのをみとめる。その視線を追ってリオネルの肩越しに垣間見たのは、鋭い青灰色の瞳の貴族。
その人に、アベルは見覚えがあるような気がした。
「フィデール殿」
冷ややかな声音でリオネルが口にした名に、アベルははっとする。
フィデール・ブレーズ。
ブレーズ家の嫡男にして、アベルの従兄弟。ジェルヴェーズの片腕と称されている若者だ。
アベルはこの若者と、王宮の廊下で会ったことがある。五月祭の折り、煙突掃除の少年の姿でジェルヴェーズに激しい暴行を加えられた際に、そばにいたはずだ。
この日フィデールは、ジェルヴェーズと共にはおらず、代わりに異国人と思しき男を従えている。タマラやミーシャの同郷と思われる風貌の若者だった。
警戒するベルトランをちらと一瞥してから、フィデールは優しげでいて隙のない笑みを浮かべる。
「リオネル殿――これは珍しいですね、貴方が女性を伴っているとは」
「……街でたまたま見かけて声をかけたのですよ」
穏やかに告げるリオネルだが、その声には警戒心が宿る。
「驚きました。貴方が女性に声をかけるとは、思いも寄りませんでした」
「ときに息抜きもしたくなるものです」
「ええ、そうですね」
リオネルの肩越しに、フィデールはちらとこちらへ視線をよこす。咄嗟にアベルは顔を背けたが、薄くフィデールが笑ったのがわかった。
「とても美しい方ですね」
「噂が立つと困るので、彼女のことはだれにも言わないでいただけますか」
「むろんです」
答えながらフィデールはリオネルを斜めから見やる。
「エルヴィユ家との縁談を断ったばかりなのに、街の娘を踊りに誘い、出会って間もないその娘を抱擁していたとなれば、波風が立って大変でしょうから」
挑発的な物言いだが、リオネルは涼しげな微笑を返した。
「私も所詮、男なので」
フィデールが声を立てて笑う。
「なるほど、言い分はよくわかりました。邪魔者は立ち去りましょう。最後に、貴方のような方に見初められた幸運なお嬢さんにご挨拶しても?」
視線を向けられ、慌ててアベルはリオネルの背中に隠れる。
「このとおりなので、ご容赦を」
アベルを背に庇いながら、リオネルがきっぱりとフィデールに告げた。
恥ずかしがりやな娘を演じているつもりはなく、隠れたのはフィデールに見られると実際に困るからだ。従兄妹どうしなのだから、よくよく観察すれば互いに似ているところもきっとあるだろう。
「可愛らしい方ですね。結ばれぬ運命に目をつむり、今だけは身分を捨ててお楽しみください」
「そういたします。――貴方もよい時間を」
〝春待ちの宴〟は盛大な祭りであるから、貴族が参加するのは不思議ではない。お忍びであるか否かも、まちまちだ。真の目的はいざ知らず、フィデールが街の祭りを見にきているというのも特段不思議なことではなかった。
フィデールが立ち去ると、ベルトランがわずかに警戒を解きながら、その後ろ姿に向けてつぶやく。
「食えない男だな」
その〝食えない男〟は、アベルの従兄弟だ。
背後に庇ったアベルへ視線を遣りながらリオネルが言う。
「もう踊りはやめておこうか」
きっと……そのほうがいいだろう。とても残念だけれど。
「ずっとアベルと踊っていたかった」
切なげなリオネルの声に胸が疼く。
「……わたしも、もっとリオネル様と踊っていたかったです」
「そんなことを言われると、また勘違いしてしまうから」
困ったような声で言うリオネルに、アベルは心のなかで勘違いではないのだけれど、と答える。
もう一度気持ちを口に出して伝えられるほどの勇気はない。
伝えてはならない気持ちだ。
――それでも。
気づいてほしい。
伝えたい……。
言葉や態度でこれだけ示しているのに、リオネルはなにも気づいていない。
案外、鈍感なのは、リオネルのほうなのではないかとアベルは思う。
名残惜しくて――気づいてほしくて、最後にリオネルの手を握り、指先に少しばかり力を入れる。
気づいて……。
こんなにもリオネルのことが好きなのに。
「だから……」
とリオネルが苦笑した。
「アベル」
次の瞬間には抱き寄せられていた。
ごめん、とつぶやきながらリオネルはアベルの身体をすっぽりと胸に抱く。謝る必要なんてない。勘違いではないのに。
アベルはリオネルの背中に腕をまわすが、
「あまりおれを調子づかせないでくれ」
と困りきった声が降ってくるだけだ。どのように伝えたら、この人はアベルの気持ちに気づいてくれるだろう。――いや、気づかれてはいけないのだった。
目を閉じてリオネルの温度を感じる。
想いは伝わらなくとも。
恋人にはなれなくとも。
結ばれなくとも。
今だけは、何も考えずに、ただこうしてリオネルの温もりを感じていたかった。