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「突き落とされた?」
皆がそろうと、レオンの風邪をひいた経緯が話題に上る。新年の前日に兄ジェルヴェーズに池に突き落とされたと、レオンは皆に説明した。
「そう、そのあとすぐに近衛兵のシモンとクリストフに助けられた」
「命拾いはしたけれど、すっかり風邪をひいたというわけか」
干し無花果をつまみながら、ディルクが顔を顰める。
「最低な兄だね」
「すぐに池から救いあげられてよかった」
しみじみと言うのはリオネルだ。
「いや、リオネル。はじめから兄上はそのつもりだったはずだ。おれを殺す気はない」
「けれど一歩間違えば本当に死んでしまいます」
納得できぬ思いでアベルはレオンを見やった。
五月祭のときにも、レオンはジェルヴェーズに毒を飲まされている。アベルがシュザンに知らせなかったら、どうなっていたかわからない。
「あんな形でしか、気持ちを伝えられないのだ」
「ちなみに、どんな気持ち?」
ディルクが胡散臭そうに尋ねた。
「それはだな……自分の側に立ってほしいとか、言うことを聞けとか」
「ああ、なるほど。リオネルやおれとつきあうな、とかね」
意味ありげに言うディルクを、レオンは眉を寄せて一瞥する。かつてジェルヴェーズからリオネルを殺せと言われていたことを、ディルクだけは勘付いていると知っているからだ。
「そんなことで凍った池に突き落とすなんて」
アベルは苦い声音をこぼす。いくらなんでも横暴だ。同じく弟がいる身としては、理解に苦しむ。
ディルクは論ずるまでもないというふうに言い捨てた。
「あの御仁には常識とか通用しないから」
「最も近くにいるレオンは苦労も多いね」
リオネルから気遣う視線を向けられると、レオンはやや落ちつかぬ面持ちになる。早くこの話題を終わらせたいようだった。
「いや、いいんだ。おれのことはどうとでもなる。心配はいらない。むしろリオネルのほうが今回は危険だった」
「リオネル様が危険?」
飲もうとしていた蜂蜜酒の杯を、アベルは小卓へと戻す。
はじめて聞く話だ。リオネルは毎日アベルに会いに来てくれたが、危険があったなどとはひと言も言っていなかった。
「なにがあったのですか」
「――ある筋から直接聞いたことだから、ここだけの話にしてほしいのだが」
「ある筋って言うのは、ジェルヴェーズ王子か? それとも国王……ルスティーユ公爵あたり?」
横から口を挟むディルクへ、レオンは不機嫌な声を放る。
「言えないから〝ある筋〟と言っているのだ。理解しろ」
「それで?」
「ああ、本人にはもう言ったのだが、今年のリヴァルはもともと、シュザンではなくリオネルがなるはずだった」
「は?」
告げられた衝撃的な真実に、ディルクが目を見開く。
アベルは呆然と聞き返した。
「リオネル様がリヴァルというのは――」
「リオネルをリヴァルに立てたうえで、挑戦者の剣に毒を塗る。つまり挑戦者にリオネルを殺させる算段だったらしい」
アベルは息を呑んだ。とっさに言葉が出てこず、ただ血の気が引いていく。
蒼くなって押し黙るアベルをちらと見やってから、ディルクはレオンへ確認した。
「それってつまり……」
「だれの剣に毒を塗るつもりだったのかはわからない。だが最悪の場合、アベルとリオネルが戦っていれば、ひどい結末になっていたということだ」
「そのような陰謀があったために、今年は事前にリヴァルが発表されなかったのですね」
マチアスは険しい面持ちだ。ベルトランが低い声で言う。
「だが皮肉なことに、アベルが出ていったからこそ、リオネルは新年祭を欠席した。アベルが出ていかなければ、リオネルは嵌められて挑戦者に殺されていたことになる」
「つまり、リオネルとアベルが戦う展開には、どうやったってなりえなかったわけだ」
「考えてみればそうだな」
顎に指先を添えてレオンがつぶやく。
「アベルが館に留まっていたら、アベルは挑戦者にならず、逆にリオネルはリヴァルに抜擢されていたということだからな」
「つまるところ、アベルは館を出て……よかったってことかな」
ディルクが曖昧な調子で確認すれば、マチアスがはっきりと答える。
「リオネル様のお命のことだけを思えば、そういうことになりますね」
ベルトランが深く溜息をついた。
「結果論だが、アベルの行動がリオネルの命を救った。――実に奇妙な顛末だが」
「まったくきみたちはすごいね。壮絶な別れの危機も、互いを救う機会に代えてしまうのだから」
ディルクは軽く言うが、アベルはとてもそんなふうに楽観的にはなれない。
「……出ていっていなかったらと思うとぞっとします」
「本当だね。でも、だからといってまた出ていっちゃだめだよ」
「ディルク、冗談にしても笑えない」
生真面目にリオネルが言った。
リオネルの視線がこちらに向けられたのを感じて、アベルは顔を上げる。
「アベルがこの雪のなかを外套も羽織らずに出ていくくらいなら、おれはリヴァルになっていたほうがましだった」
「そんなこと――」
「館を出てから、きみは雪のなかで倒れていたんじゃないか?」
リオネルの名推理にアベルは舌を巻く。
「そうなのか?」
ディルクにうなずきを返せば、たちまち彼の表情が曇る。
「アベルこそ死ぬところだったということか」
「この雪のなかを薄着で歩きまわるなど、死ににいくも同然だ」
ベルトランも同意見のようだ。
毎年、シャルムでは真冬に多くの凍死者が出る。むろん北方のエストラダなどはさらに寒いのだろうが、シャルムも冬も厳しい。
「そんなことになるくらいなら、おれがリヴァルとして戦うほうがよほどいい」
「それにしたって、陰謀があるとわかっていて行く馬鹿はいないだろう」
ディルクはやや呆れた口調だが、リオネルは真剣だった。
「かすり傷ひとつ負わずに勝てばいいだけのことだ」
はははは……と、乾いた声でディルクが笑う。
「笑いごとじゃないぞ、リオネル」
低い声で言うベルトランに、リオネルは微妙な面持ちになった。
「おれは笑ってないけど」
「剣に毒を塗った相手と戦うなど言語道断だ」
ベルトランが不機嫌に言い捨てる。二人のやりとりを横目で見守りつつ、レオンが尋ねた。
「――それで、アベルは雪のなかで倒れてからどうなったんだ」
「気づいたらガイヤール様のもとにいました」
「やはりあの方が絡んでいたのですね」
マチアスが険しい面持ちになる。
「彼が貴女に神前試合に出るようにと?」
再び無言でうなずくと、ディルクは眉をひそめた。
「ああ、思ったとおりだ。――ね、リオネル」
あの日のことを話していると、否が応でも、外套も羽織らず雪のなかへ出たときの気持ちをアベルは思い出す。〝シャンティ殿〟と呼ぶリオネルの声はまだ耳に残っていた。
この世界に絶望したのは、デュノア邸を追放されたとき、そしてサミュエルに裏切られたとき以来のことだった。
これ以上あの日の出来事を話題にされるのが辛く、アベルは「そういえば」と強引に話を変えた。
「リオネル様はカミーユと会えましたか?」
「え、……ああ、うん」
突然話が変わり、リオネルは戸惑う様子ながらも、安心させるようにアベルへ柔らかい表情を向ける。
「彼には会って話をすることができたよ。きみと会えなくなったことは残念がっていたけれど、元気でいると伝えたらほっとした様子だった」
「そうですか、ありがとうございます」
話題が変わったことなど、少しも気に止めておらぬらしいディルクは、「そういえば、殴られた跡はないね」と呑気だ。
「殴られた跡?」
驚いてアベルはリオネルの顔をまじまじと見つめる。
「いや、なんでもないよ」
苦笑するリオネルへおそるおそる尋ねる。
「カミーユが無礼を……?」
アベルは冷やりとした。先日の勢いを思えば、おおいにありうる話だ。
「いや、本当になにもない。アベルを助けたことへの感謝と、これから先もよろしくと言ってくれた」
「そう――ですか」
「彼は、きみによく似ている」
似ているだろうか。
どのあたりが似ているのだろうとアベルは内心で首を傾げた。
「きみを傷つけるようなことがあれば、赦さないと言われたよ」
え、とアベルは耳を疑う。カミーユがリオネルに対してそんなことを口にしたとは。
「すっ、すみません……立場もわきまえずカミーユが失礼なことを」
「アベルを必ず守るとおれは彼に約束してきた」
必ず、守る……。
その言葉にアベルは落ちつかない心地になった。
自分がリオネルを守るのであって、リオネルに守られるのではないし……いや、そもそもそんなことをカミーユに約束するなんて。
「だからアベルも、少しはおれの面子を立てて、大人しくしていてくれると助かる」
そうか、とアベルは思い至る。わざわざこの話をアベルにしたリオネルの狙いは、ここにあったのか。
微妙な面持ちで黙りこんだアベルを見やって、ディルクが声を立てて笑った。
「一本取られたね、アベル」
「こうなっては、カミーユのためにも、リオネルのためにも、大人しくしている以外にないな」
レオンにまで言われて、アベルは少しばかり小さな声で答える。
「普段から大人しくしているつもりですが……」
どこがだ、と呆れた口調はベルトランだ。
「おれたちから逃れようと騎士館の五階から飛び降り、リオネルの手に爪を立て、リオネルから奪った短剣を喉に押しあて――手におえない荒くれ野良猫だ」
「喉に短剣を押しあてられたときは、本当に冷やりとした」
リオネルは思い出すだけで、頭が痛むようだ。
「も、もうこの話はやめましょう」
「そうですね、あまりアベル殿を追い詰めてはかわいそうです」
助け船を出してくれたのはマチアスだった。
「さあ、今夜はこうして全員で集まることができたのですから、もっと飲みましょう」
そう言いつつ、マチアスが皆のグラスに葡萄酒を注いでいく。それから、アベルのために新しい蜂蜜酒を扉の外に控えている者に持ってくるよう伝えた。
「それで、レオン殿下におかれては、兄君やルスティーユ公爵からなにを言われたんだ?」
「まだその話をするか、ディルク」
「そういえばどうなったの? リオネルのあんさ――」
なにか言いかけたディルクの口を、レオンが咄嗟に塞ぐ。
「だまれ、この軽薄男」
レオンの手を引きはがして、さらにディルクが言う。
「わかったよ、じゃあ西方にいる年上の恋人は――」
ディルクが最後まで言えなかったのは、彼の足をマチアスが踏ん付けていたからである。
「その話は大概になさいませと言ったはずです」
いってぇ、と足を押さえながらディルクが、
「この暴力従者!」
とマチアスを睨む。
「大丈夫ですか、ディルク様?」
尋ねるアベルへ、
「ああやって、ディルクはマチアスとの友好を深めているんだよ」
と、リオネルのおなじみの台詞。いや、今度はディルクの相手の名が違う。
存外リオネルも適当だな、とつぶやいたレオンの声は、暖炉の薪の爆ぜる音にかき消された。