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珍しく雲間から太陽の光が差し込んでいる。わずかな隙間から差し込む陽光は、天使の梯子となって地上に一筋の光を与えていた。
けれど美しい景色に寄りそうのは、不穏な影。
「カミーユが騎士館に?」
問い返せば、はい、と配下の騎士が頭を下げる。
「カミーユ様はこのところ、しばしば騎士館のほうへ足を運ばれているようです」
フィデールは眉をひそめた。カミーユは近衛隊に所属するノエルの従騎士だから、正騎士隊の営所である騎士館とは無縁のはずだ。
近頃なにやらシャンティについて知ったらしいノエルの様子から、カミーユの行動を配下の者に探らせていたが、結果は意外なものだった。
「そこでカミーユはなにをしている?」
「騎士館内でのことまではわかりかねます」
まあ、そうだろう。部外者であるブレーズ家の騎士が、騎士館内部まで足を踏み入れることはできない。
ただ――、と騎士は続けた。
「騎士館へ向かうときは、カミーユ様おひとり、あるいは従者のトゥーサン殿を伴うようです」
「従者を? どういうことだ」
「それが、本日はリオネル・ベルリオーズ様が王宮に現れ、カミーユ様とお二人で騎士館に向かわれました」
正直なところフィデールは驚いた。シャンティが関わると思われるこの一件に、リオネル・ベルリオーズが出てくるとは思わなかったからだ。
「今、カミーユはリオネル殿と騎士館に?」
「今しがた、こちらへ戻られたようです」
「…………」
シャンティは騎士館内にいるのかもしれない。これまでの話からすると、カミーユは従者を連れて彼女に会いにいっていると予測できる。けれど。
そんなことがありうるだろうか。突拍子もない話だ。
なぜシャンティが騎士館に?
それも、なぜそこにリオネルが出てくるのか。
あるいは騎士館にシャンティがいるというのはまったくの思い違いなのか――。
ノエルが〝知っていること〟とは関係なく、単に、ディルクと仲がよいカミーユが、シュザンの元従騎士らと共に騎士館で集まっている、という可能性もある。
調査をさせていた騎士を下がらせると、フィデールは背後を振り返った。
先程からひと言も発せずフィデールのそばに控えているのは、銀髪の異国人エフセイだ。
「ノエル叔父上が、なにか重大なことを知っているようだと言っていたな」
はい、とフィデールは声の抑揚なく答える。
「シャンティが生きているのだろう?」
「先日も申しましたとおり、そこまでは分かりかねます」
「では、デュノア家に関わることかどうかというのは?」
「おそらく関わることだと思われます」
「デュノア家に関わることで、叔父上が知り得たこと、か」
それは三年前のこと、あるいはもっと以前の……?
「いっしょに来い」
扉へ向かいながらフィデールはエフセイへ言う。どこへ、とは尋ねなくともこの男はわかっているだろう。
エフセイは黙ってついてきた。
カミーユを見つけたのは〝騎士の間〟の出入り口である。彼は騎士館から戻り、ノエルと合流し移動するところらしかった。
「カミーユ」
声をかけると、ノエルと共にカミーユが振り返る。叔父ノエルは普段どおりなにを考えているのかわからぬ穏やかな面持ちで、カミーユはというと、人を疑うことを知らない純粋な眼差しだった。
「おはようございます、フィデール様」
「おはよう」
カミーユに答えてから、その隣にいるノエルへも挨拶する。
「年が明けて一週間近く経ちますが、まだ王宮内は華やかですね」
「おそらく街もまだお祭り騒ぎだろう」
「〝春待ちの宴〟もまだですし、しばらくまだ明るい雰囲気が続きそうです」
カミーユが不思議そうにこちらを見上げる。
「〝春待ちの宴〟ですか?」
静かな口調でフィデールは説明した。
「そうか、カミーユにとっては初めて王都で迎える新年だったな。サン・オーヴァンの街で新年の祭りを締めくくるのが〝春待ちの宴〟だ。市民も貴族も街の広場に集まり、飲み、歌い、踊り、春の訪れを願う」
へえ、とカミーユは目を輝かせて話に聞き入っている。
「来年にはカミーユも参加してきたらいい」
「はい!」
他愛のない会話をしばらく交わしてから、なにげないふうを装って尋ねた。
「ああ、そういえばカミーユ」
カミーユが視線を上げる。
「さっき、リオネル殿といるのを見かけたが、どこかへ出かけたのか?」
「え――」
カミーユの表情がぎくりと固まる。
「王の居住棟から出ていったようだが」
「……っと、少し散歩を」
「リオネル殿と?」
「あ、はい。その――ディルクのこととか話したり……」
もごもごと答えるカミーユの脇で、ノエルが「ではそろそろ」と助け船を出す。
「ええ、お引き留めしてすみませんでした、叔父上。――カミーユも」
ぺこりとこちらへ頭を下げてから、カミーユはノエルのあとを追って廊下を歩み去っていく。その後ろ姿を見送ってから、フィデールは背後のエフセイを振り返った。
これまで一度も声を発しなかった男へ、フィデールは声をかける。
「二人とも〝なにか〟知っているようだな、エフセイ」
「そのようですね」
「騎士館か――」
「もうおそらくだれもおりません」
聞き流すことのできぬエフセイの言葉に、フィデールは目を細めた。
「いない? ――本当にシャンティがいたのか」
「だれかがいたのでしょう。けれどもういないようです」
「それはカミーユから感じとったのか?」
「お二人からです」
小さく声を立ててフィデールは笑う。そして笑みが消えたとき、冷ややかに青みがかった灰色の瞳で虚空を見据えた。
「リオネル・ベルリオーズの身辺を探らせろ、エフセイ」
「かしこまりました」
わずかな感情さえ浮かべずに、エフセイは長身を軽く折り曲げて一礼した。
+++
もう一度リオネルを信じたいという気持ちは、はっきりとアベルのうちにある。
信じられるかどうかではなく、信じたいのだ。
けれど信じることは難しく、また怖くもある。彼への気持ちに気づいたからこそ、なおさら。
「それ、神前試合の話だろう?」
アベルが手に持っている本を差してディルクが言う。ぼんやりと物思いにふけっていたので、実際には本を読んではいなかった。
これは、館を出ていく直前に読んでいた物語だ。
「ご存知ですか?」
「昔ここに来て読んだことがあるよ。でもよく覚えていないな。最後はどうなったんだっけ?」
「まだ途中なので、わたしも知らないんです」
「ああ、そう。じゃあ最後は思い出しても言わないほうがいいね」
「もしディルク様が思い出せなかったときには、読み終わってからお伝えしますね」
リオネルが王宮へ行っているあいだ、アベルとディルク、そしてマチアスはベルリオーズ家別邸でおとなしく留守番をしていた。
「そういえばさ、アベル。もしリオネルのことが嫌になったら、いつでもおれのところに来ていいからね」
「え?」
突然の言葉にアベルは瞳を大きくする。
「だから、もうなにも言わずにいなくならないで」
少し迷ったものの、ディルクの優しさと気遣いを感じとって、アベルはうなずいてみせた。
「ありがとうございます」
二人の会話が聞こえているのかいないのか、マチアスは黙って暖炉に火をくべている。
「アベルの帰る場所はリオネルのところだけじゃない。アベルは、おれにとって長らく婚約していた大切な人であり、今では色々な意味でかけがえのない人だ。レオンだってマチアスだって、れっきとしたアベルの友人のつもりだろう。おれも、皆も、相談してくれれば必ず力になる」
ディルクの言葉にじんと胸が熱くなる。
「たぶん、このなかじゃ一番頼りになるのはマチアスだけどね」
自嘲するディルクへ、アベルは笑いながら何度かうなずく。
「ええっ、否定してくれないのか?」
「マチアスさんの頼りがいは、余人を凌駕しますから」
アベルの言い方にディルクは声を立てて笑い、たしかにそうだねと納得する様子だ。
「マチアスは若いときから長老の貫禄だった。ようするに、昔から内面が老けていたという意味だ」
と、火をくべていたはずのマチアスが、いつのまにか冷ややかな眼差しをディルクへ向けている。
「あなたが昔から幼すぎるのですよ。そのぶん私が年を食うのです」
「おれのせいか?」
「今更、議論の余地もないことでしょう」
二人の会話にアベルはつい笑ってしまう。
「笑ったな、アベル」
「均衡が取れていて、いいと思います」
「バランスですか……」
疲れた声でマチアスが溜息まじりにつぶやくと、扉が開く。
「ああ、リオネル。お帰り」
雪の香りと共に室内へ入ってきたのは、王宮から戻ったばかりのリオネルとベルトランだ。
リオネルは、アベルの姿をみとめてほっとした面持ちになる。
「なんだか楽しそうだね」
「もちろん楽しいよ。アベルとこうしていっしょにいられるからね」
「なにか温かい飲み物を用意します」
落ちつかぬ思いでアベルが立ち上がると、すぐにリオネルが首を横に振った。
「あとでジェルマンに頼んでおくから平気だよ、アベルはそのまま休んでいて」
「おれの飲みかけでよければあるよ?」
ディルクが葡萄酒のグラスを持ち上げる。
「嫌がらせか?」
と口端を引きつらせたのは、リオネルではなくベルトランだ。
「じゃあ、アベルの飲みかけなら飲む?」
蜂蜜酒を口に運ぶ途中だったアベルは、思わずむせ返りそうになる。軽く咳きこむアベルの背中を、駆け寄ったマチアスが軽くさすった。
「おかしな発言は慎んでください、ディルク様」
「あ、いいんです、マチアスさん。すみません、平気ですから」
恐縮するアベルの傍らで、マチアスの苦言にディルクはけろりと答える。
「だって、なかなか進展しそうにないから」
「そういう話は、アベル殿のいないところでなさるものです」
リオネルは無言だったが、ベルトランからはディルクの頭上へ拳が見舞われる。
「いってぇ」
「元婚約者の台詞か」
「おれなりに温かく見守ってるんだけど」
頭を押さえながらディルクはぼやく。
「邪魔しているようにしか見えん」
「そう?」
ディルクは再び飄々と答えると、今度はアベルの手を取った。
「なんならおれと飲み物、交換する?」
再びディルクの頭の天辺に、ベルトランの拳が落ちた。
「いっってぇ……!」
アベルの手を握ったばかりのディルクの手は、すぐに頭を押さえるために離れていく。
「今、本気で殴っただろう、ベルトラン」
「どっちの方向へ向かっているんだ、おまえは」
「隙あらばってやつ? だって、全然進展しないから……」
「それならそれで、相当の覚悟が必要ですよ、ディルク様。反対はいたしませんが」
なぜか後押しするようなマチアスの台詞に、ついにリオネルが頭を抱える。皆、どこからどこまでが本気なのか冗談なのかわからない。
ここまでくれば、アベルのとりうる行動はただひとつだ。
「そんなに蜂蜜酒が飲みたいのですか? 皆様には甘すぎると思いますけど……」
そんなに飲みたいなら四人分頼んできます、と席を立つアベルに全員が「いい、いい、冗談だから」と止めにかかる。
アベルとてむろん冗談だったが、皆は本気で断っているようだった。
そこへ、扉が鳴ってジェルマンが入室した。
立派な騎士四人が従騎士のアベルを取り囲む奇妙な光景をまえにしても、ジェルマンはなにも見えていないかのように平然と告げる。
「お客様です」
彼の背後から現れたのはレオンだ。
「ああ! レオン!」
ディルクが大声を上げる。
「指を差すな、指を。おまえは子供か」
「だって高熱で見舞い禁止令が出てたはずだろう? 幽体離脱してきたのか? もしかして死にかけて分離してるのか?」
「勝手におれを殺すな」
ぶっきらぼうに言いつつも、レオンはどこか嬉しそうである。
「早かったね、レオン」
リオネルが言うのも当然のこと、二人はつい先程王宮で会って話したばかりである。
「あまりに退屈でな。だが、王宮内は落ちつかない」
「おれたちのいるところが、一番落ち着くんだよな?」
そういって気安く肩を叩くディルクを、レオンは一瞥した。
「おまえが、見舞いにきたが会えずに残念がっていたと聞いたから、会いにきてやったのだ」
「だれがそんなことを? って、リオネルしかいないか」
余計なこと言いやがって、とぼやきつつもディルクは満足げである。
「久しぶりに皆そろったね」
リオネルも気持ちは同じらしく、ひとりずつ椅子に座るよう促すと、ジェルマンに人数分の新しい飲み物を用意させる。
「来てくれてありがとう」
「いや……まあ、退屈だったし、皆にも会いたかったからな」
やや気まずげに言うレオンへ、リオネルは杯を掲げた。
「あらためて、祝おうか」
「レオンの回復に」
とディルク。
「シャルムの平和に」
とベルトラン。
アベルとマチアスは顔を見合わせ、代表してマチアスが言う。
「皆がこうして集まれたことに――」
そして。
「新年、おめでとう!」
全員の声が合わさりあい、グラスの中身はまたたくまにそれぞれの口へ吸い込まれていった。