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「気になっていることがあるんだ」
リオネルが顔を向けると、ディルクは珍しく沈痛な面持ちになる。
「あの子が襲われたってことが、未だに信じられないでいる。経緯が知りたい」
ああ、とリオネルは声を落とす。リオネル自身もその件については詳しく知らなかった。
「おれはベルトランから聞いただけで、アベルから直接打ち明けられたわけじゃない」
「ベルトランはなにか知ってるのか?」
「いや――、相手は知らない相手だということだけだ。それ以外にはなにも言っていなかった」
「イシャスが生まれた時期を考えると、デュノア邸を追い出されたときにはすでに子供を宿していたはずだ」
三年前のことを思い出しながらリオネルが言うと、ディルクは眉をひそめる。
「ということは、デュノア伯爵は気づいていたかもしれないね」
「そこへ、おまえからの婚約破棄が重なったのか」
ベルトランの言葉にディルクはうなずいた。
「知らなかったとはいえ、最悪のタイミングだ」
「ディルクは、シャンティ殿のことをまったく聞かされていなかったのだろう?」
「もちろん。それを知って婚約を破棄したわけじゃない」
「けれど、すべて知って婚約破棄したと思われてもおかしくない時機だ」
ベルトランの指摘にディルクは押し黙る。
「けれど、アベラール家に黙っていたとしても、早かれ遅かれ妊娠は発覚したのになぜ言わなかったのだろう」
「伯爵も、ほぼ同時に知ったか……あるいは、子供を産ませず、すべて隠しておくつもりだったか」
「最低な父親だな」
苛立たしげにベルトランが言い捨てる。
「ですが、未婚の娘の立場を思えば、それがもっとも自然な考え方になるのかもしれません」
マチアスの台詞に、ディルクが考え込むように腕を汲んだ。
「そうかもしれないし、あるいはシャンティのためではなく、デュノア家の存続のためにその選択をしたかもしれない。今となっては答えが出るはずもないけれど」
重苦しい空気が四人のあいだに横たわる。
アベルの気持ちを思えば、リオネルの胸は痛んだ。
「妊娠と婚約破棄がきっかけになって、悲劇が起きたということか」
リオネルのつぶやきにディルクはうなずく。
「そういうことだと思う」
「さっきベルトラン殿が指摘したとおり、デュノア伯爵は勘違いをしたのかもしれません。婚約を破棄されたのは、ディルク様がシャンティ様の身に起こったことを知ったからだと」
「アベルが孕んだせいで、アベラール家から婚約を断られた――だから、アベルを館から追い出し、死んだことにした」
実際口にしてみると、リオネルは感情を抑えるために浅い溜息をつかざるをえなかった。
「なかったことにしたかったのかもしれないね……すべて」
ディルクも苦い口調だ。
「本人から話を聞けないから、憶測の域を出ないけれど」
「……残酷なことです」
マチアスのつぶやきに続けて、リオネルはその先の出来事を思い起こす。
「これまでの経緯を繋ぎ合わせれば、アベルはそうしてデュノア邸を追い出され、身ひとつで旅に出た。途中、コカール領マイエで病気になりサミュエルに助けられたが、けっきょく裏切られて人買いから逃れ、やがてサン・オーヴァンに辿りついた」
「そこでも再び病気が悪化し、死ぬ寸前のところでリオネルに救われた」
ディルクの視線を、リオネルはかすかに眉を寄せつつ受け止める。
「そう、出会ったころのアベルは弱りきっていて、野良猫のように警戒心を剥き出しにしていた」
「デュノア邸でも辛い目に遭ったが、その後もおれたちが知らないところで、苦しい思いをしてきたのだろうな」
「イシャスを生んでから、アベルは川で死のうとしたんだ」
リオネルが告げると、ディルクは大きく目を見開く。マチアスにも驚く気配があった。
「――本当に?」
「あの子は当時、それくらい生きることに絶望していた」
「よく踏みとどまってくれたな……」
しみじみと言うディルクの声は、わずかにかすれて揺れていた。
「よほどリオネル様に恩義を感じたのでしょうね」
「リオネル、ありがとう。……シャンティを救ってくれて、本当にありがとう」
拳を握るディルクの腕にリオネルは手を置いた。
「おれだけじゃない。ディルクの明るさや、マチアスの優しさ、レオンの呑気さや、ベルトランの仏頂面に触れて、アベルは心を徐々に開くようになっていった。皆がアベルを救ったのだと思う」
そうだな、と同意するディルクの傍らで、
「なんだ、おれの〝仏頂面〟というのは」
とベルトランが苦言を呈する。
「ごめん、言葉が足りなかったね」
はっとしてリオネルは謝罪した。
「仏頂面の裏にある深い思いやり、と言いたかったんだけど、長かったから省いてしまった」
「省くなよ、わかりづらい」
と言ったのはディルクで、むしろベルトランは思いがけない反応を示す。
「ああ、省いてくれてけっこうだ。むしろ永遠に省いてくれ」
「照れるなよ、ベルトラン」
「黙れ、ディルク」
二人の会話にマチアスは溜息をついたが、リオネルは静かに笑った。
「感謝するのはおれのほうだよ」
やりあう親友と用心棒、それにマチアスを見やってリオネルは言う。
「アベルを支えているのは、おれだけじゃない。皆がいてくれたからこそ、アベルは笑顔を取り戻したんだ」
「こうなってくると、レオンがこの場にいないことがかえすがえすも惜しいな」
ディルクの意見に、本当ですね、とマチアスが賛同する。
「これから皆で王宮からさらってくるか?」
物騒な提案はベルトランだ。
「王妃様が嘆かれる」
「あの方を哀しませるわけにはいかないよ」
「まあ、そうだな」
リオネルとディルクの意見にベルトランも賛同して、レオンをさらってくるという本気かどうか判じかねる案は立ち消える。
「そろそろおれは寝ようと思う。明日くらいは王宮に顔を出して、陛下にもう一度挨拶をしてこなければ」
「最後の挨拶だろう?」
問われてリオネルはディルクへ微笑を向けた。
「そうだね。明日行けば、もう王宮へは足を運ばないつもりだ」
「それならカミーユにも会っていくのか?」
「アベルを預かりたいと伝えにいかなければ」
殴られるかもしれないけれど、とリオネルは付け加える。
「……まあ、カミーユはシャンティのことになると一生懸命だから。自業自得とはいえ、おれも最初は色々な目に遭った」
たしかに今でこそ二人は仲がいいが、かつてディルクは婚約破棄をしたことで、カミーユから刃のような言葉の数々を浴びせられ、花束を顔面に叩きつけられた。
「大切な姉君を預かるのだから、それくらいは受けてくるつもりだ」
「甘んじるのか?」
「殴り返すわけにはいかないだろう」
「おまえも苦労するな」
ディルクは苦笑した。
「リオネルが殴られたからって、カミーユを殴るなよ、ベルトラン」
最後にディルクが赤毛の用心棒に釘をさすと、彼は例の仏頂面で答える。
「許すのは一回だけだ。二度目は、指一本触れさせない」
「子供相手に大人げないね」
「アベルの弟でなければ、リオネルに危害を加える相手は、子供でも容赦なく殴り飛ばす」
ディルクは顔を引きつらせた。
「こわ……」
「明日は大仕事ですね。そろそろ今夜は休みましょう」
マチアスの促す声で、長い夜に帳が落ちた。
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「ああ、退屈だ」
新年が明けてすでに六日。
すっかり熱も下がったレオンだが、大事をとって休んでいるよう医者に言われて、退屈を持て余していた。
なにしろ、母グレースから見舞い禁止令が出たものだから、だれもこの部屋を訪れない。
毎日シモンとクリストフ、そしてグレースとしか会えず、あとは時折父王エルネストが様子を見にくるくらいだ。
「シモン、おれは決めた。少しばかり部屋を出る」
「けれどレオン殿下。医者はもうしばらく休んでいるよう言っていましたが」
「おれが病人に見えるか?」
「いえ……ですが」
「心配するな、少し王宮内を歩いてくるだけだ」
そうですか、とシモンがあっさり許可したのは、実際にレオンは完全に治っており、むしろ部屋にこもっていたほうが退屈で体調に悪そうだったからだ。
「クリストフはまだ当分戻らないと思うので、私がお供します」
「かまわない」
部屋の外に出ると、レオンは大きく伸びをする。
「ああ、部屋のそとは最高だ」
「変哲のない、ただの廊下ですが」
「六日間も部屋に閉じこめられていたおれの身にもなってみろ。廊下が天国だ」
「はあ……」
階段を下りて、大勢の者が行き交う大回廊へ出ると、方々から声をかけられる。
「レオン殿下、具合を崩されていたと聞き及びましたが」
「ああ、このとおり治った」
するとまた別のほうからも問われる。
「もうお身体は平気なのですか?」
「平気だ」
貴族や家臣からひっきりなしに風邪のことを聞かれるので、はじめこそ丁寧に答えていたレオンだが、そのうちに面倒になって大回廊から脱出した。
「退屈か、大忙しか、どちらかしかないのか」
こぼすレオンへ、シモンが生真面目に尋ねる。
「どちらがいいですか?」
「どっちもいやだ」
人気のない場所を選んで歩けば、知らぬうちに最上階へ戻っている。王族しか出入りできぬこの場所くらいしか、王宮内で人気のないところなどないからだ。
自室へは戻りたくないレオンが、階段の踊り場で足を止めたとき、廊下の先から歩んでくる者があった。
「あれは――」
相手もすぐにレオンに気づき、軽く走るようしてこちらへ近づいてくる。
「レオン――、やっと会えた」
目のまえで立ちどまり、ほっとしたような笑みをたたえたのは従兄弟のリオネルだ。
「リオネル、どうしてここに」
「ちょうど陛下に挨拶をしてきたところだ。新年の行事をすべて欠席していたから、一度話をしなければと思っていたから」
「父上の部屋にいたのか」
どうりでこの階にいるわけだ。少しばかりの不安と共にレオンは尋ねる。
「大丈夫だったか?」
「普通に話して終わったよ」
「そうか……」
ほっとしている自分自身に、レオンは複雑な思いを覚えた。兄や父親が、従兄弟であり友であるリオネルに卑劣な真似をすることを、恐れている。なぜそんな心配をしなければならないのかと思えば、情けない。
「そのあとレオンの部屋を訪ねたけれど、だれも出ないから心配していたんだ。会えてよかった。体調は?」
見舞い禁止令を無視して、リオネルはレオンを訪ねてくれたらしい。案外そういうところではリオネルは囚われがないと言うか、怖いものがないというか。
「ああ、このとおりだ。退屈で仕方ないから、少し歩いて身体をほぐしていたのだ」
「元気な姿を見ることができて安心したよ」
「心配かけたな」
「ディルクが、レオンに会えなくて残念がっていた」
「来てくれたのか?」
うなずきつつリオネルが、
「早く会いたそうだったよ」
と言うので、そうか、とレオンは視線を逸らして頭をかく。むろん嬉しいのだが、普段は喧嘩ばかりしているぶん気恥かしくもある。
「このあいだは具合の悪いときに騒がせて、ごめん」
「いや、おれこそ助けてもらったのに、なにもできずに悪かったな。兄上が負わせた怪我は平気か?」
「怪我ってほどのものじゃないよ」
「もうおれのために、兄上と喧嘩などしないでくれ」
あのときグレースが現れなければ、どうなっていたかわからない。それを思えばレオンはぞっとする。
けれどリオネルは曖昧に笑っただけで、何気なく話を逸らした。
「これから、叔父上やカミーユ殿に会おうと思ってるんだ」
「カミーユ?」
「騎士館からアベルを連れ出したから、カミーユ殿には直接話をしておくべきだろう?」
「連れ出した? いや、そのまえに、それは例の――」
「そう、アベルはカミーユ殿の姉君にあたるからね」
レオンはじっとリオネルを見つめた。
「あれは高熱のせいで見た夢の話ではなかったのか?」
「本当だよ、アベルはシャンティ殿だ」
「…………」
そんなことが本当に起こりうるのか、レオンにはまだ信じられない。そんなレオンの心情を察したようにリオネルは説明した。
「おそらくアベルは事情があってデュノア家を追い出されている。これからもシャンティではなくアベルとして生きていくしか道ははない。いや、他でもないおれが、そうしてほしいと願っている。だから、レオンもそのつもりで彼女に接してくれないか」
「わかった」
むしろほっとした様子でレオンは首肯する。
「生まれがどうであれ、おれにとってあの子はアベル以外の何者でもない」
急にシャンティだと言われても、今更態度など変えられそうにもない。すでにアベルはレオンにとっても大切な仲間であり、かけがえのない友人だった。
「レオンがそう思っていてくれたら、アベルはすごく喜ぶよ」
「しかし、ディルクと婚約していたのだろう? 連れ出したといっても、このままリオネルのところにいていいのか? いや、その――むろんそこが一番いい終着点だと思うが、ディルクの心情もあるだろうと……」
もごもごと言うと、リオネルがふと切なげな表情になった。
「ディルクの本当の気持ちはわからない。けれど、おれはディルクの言葉に甘んじて、これまでのままでいたいと考えている」
「ディルクはなんと言っているのだ?」
「シャンティ殿のことは家族のように思っていると」
「家族か……」
「シャンティ殿が生きていたことに安堵したし、それがアベルだったのだから、なおさらよかったと――アベルの居場所はおれのもとだけだと、そう言ってくれた」
「そうか、そのように言っていたのか」
レオンは、かつてシャンティの死を嘆いていたディルクを思い出す。
お守りだといって持ち歩いていた、シャンティからの手紙。
シャンティに対してディルクが抱いていた気持ちについては、レオンには計り知ることはできない。
けれど、ディルクがリオネルに言った言葉はよく理解できる。
死なせてしまったと思っていた相手が生きていて、自分たちのそばにいたのだから嬉しいに決まっている。さらにそれが、あのアベルだったのなら、なおさら。
そして、自分たちにとってアベルはすでにシャンティではなく、アベルなのだ。アベルは、リオネルの忠実な家臣で、かけがえのない仲間。
だから、今更シャンティだったからと――婚約していたからといって、恋心を抱くことがないという気持ちも理解できる。
レオンとて女性だと聞かされても、アベルに対する思いは変わらない。けれど、ディルクと親友であるリオネルの気持ちはどうだろう。
ディルクの気持ちを慮らないはずのないリオネルへ、レオンは正直に考えを伝える。
「それはディルクの本音だと思うぞ。おれも、あいつと同じ気持ちだからな」
少しうつむいて、リオネルは微笑した。
言葉にはしなかったが、その笑みは〝ありがとう〟と伝えている。
リオネルにとってどれほどアベルが大切な存在かということが、レオンには手に取るようにわかる。それは、アベルがリオネルに対して抱く感情と同様だろう。
今更リオネルとアベルを引き離そうだなどと、だれも思うわけがない。
「もう幾日か王都にいるつもりだ。皆レオンに会いたがっているから、よければ館へ遊びに来てくれないか」
「むろんだ。退屈で仕方ないからな」
近いうちにベルリオーズ家別邸を訪れる約束をしてリオネルと別れたあと、ふとレオンは伯父ルスティーユ公爵の言葉を思い出す。
そういえば公爵から、リオネルやディルクとはもうこれ以上つきあうなと言われたのだ。
彼らとつきあっているから、ジェルヴェーズが困ってレオンを池に突き落としたというようなことを言っていた気がする。
どちらの味方だとか、どちら側の人間とかそういうつもりはなかったが、兄やルスティーユ公爵からは、レオンはリオネルの仲間と思われているらしかった。たしかに弟を裏切った父エルネストや、リオネルを殺そうと企む兄たちより、王弟派の者たちのほうがよほどまともだとは思っているが。
なにより、リオネルやディルクとの友情がある。
今更彼らとつきあわないなどという選択肢は、レオンにはなかった。
風邪が治ったらまた来るとルスティーユ公爵が言っていたことを思い出し、レオンは大きく溜息をつく。
部屋へ戻る気も起きず、とりあえずシモンを従えて王宮内をさらにうろつくことにした。