39
「――ディルク様が?」
「心配するといけないから、きみがここにいることは、叔父上とディルクに知らせておいた。きっとカミーユ殿にも伝わっているだろう」
カミーユ殿はきっと納得しないだろうけれど、とつぶやくリオネルは、少し困ったような顔つきだ。
「あの……カミーユがいろいろと失礼なことを言って、すみませんでした」
「いや、彼がそう思うのは当然だよ」
そう言ったきり、リオネルは無言で廊下を歩きだす。けれどアベルが動かないでいると、すぐに振り返って首を傾げた。
「食堂へは来ない?」
アベルは視線を伏せて、かすかにうつむく。
「お腹は空いていない?」
ゆっくりこちらへ戻ってきたリオネルは、アベルの目前で足を止める。
「……いろいろなことが」
正直な気持ちを、語るしかなかった。
「なんだか、よくわからなくて……」
地面に落とすようにぽとりと言葉を発する。
リオネルは黙って話の続きを待っていてくれる。
「その……」
うん、とリオネルがひとつうなずく。
けれど言葉は続かない。
いくら待っても沈黙しているアベルをまえに、リオネルは屈んで安心させるように視線を合わせてくれた。
「わからないままでもいい。これから、ひとつずつ整理していこう」
ひとつずつ、整理していく……。
「二人でいっしょに」
リオネルの言葉に、ふと胸の奥に込み上げるなにかがある。
アベルは目を閉じた。
どうして、どうして。
失いたくないと、願ってしまう。
手に入るはずのないものを、欲してしまう。
優しくなんてしないでほしい。
そんな眼差しを向けないでほしい。
でなければ、この世界で最も大きな不安を抱え込んでしまう。
二人でいっしょに答えを出していこうと言ってくれるリオネルを――、そう言ってくれるリオネルだから。
どうしようもなく好きなのだ。
「……行きます」
「え?」
「食堂」
今、リオネルの綺麗な瞳が自分だけをとらえている。
心が震えた。
「昼食をご一緒させていただいてよろしいでしょうか?」
アベルのひと言に、リオネルは安堵の表情になった。
「もちろん、大歓迎だ」
どうしたって、この先リオネルから完全に切り離されて生きていけるわけがない。
そのことに気づかされたとき、もはや自分の意志でこの人に別れを告げることなど、できるはずないことにも、また気づかされた。
「ああ、アベル! よかった、間にあったんだね」
リオネルの言っていたとおり、食堂にはディルクが先に到着していた。こちらへ手を振るディルクへ、アベルはきっちりと頭を下げる。
「いろいろとご心配をおかけしました」
「そんな固い挨拶はいいから、こっちへおいでよ」
ディルクは自分のすぐ横の椅子を引く。戸惑いながら腰かけたアベルへ、ディルクはこれまでの明るい雰囲気を淡く溶かして、真剣な調子で告げた。
「あのさ……アベル」
「は、はい、ディルク様」
なにか深刻な話をする雰囲気に、アベルは感じるものがあって、やや緊張する。
「これまで、騎士館ではバタバタしていてちゃんと話す機会がなかったけれど、この数日で今更と思われるかもしれないけど、話させてほしいんだ。アベルが……きみが、おれの婚約者のシャンティだったんだね」
三年ものあいだ、こんなにそばにいたのに真実を隠していたのだ。それは、ディルクに対する裏切りでもあった。
「ごめんなさい……ディルク様」
うつむき、謝罪するアベルをのぞきこむように、ディルクは視線を合わせる。
「謝らなくていい。謝るのは、おれのほうだよ」
「……なぜディルク様が?」
「婚約を破棄した」
「それは、わたしのことを考えてくださったからです」
「けれど、そのことで辛い目に遭わせた」
「違います……それは、違うのです。ディルク様のせいではなく、あのとき、わたしは……」
デュノア邸を追い出されたのは、アベルがイシャスを身ごもったことと、皮肉にも婚約破棄が重なったからだ。残酷な運命の歯車が、父オラスの怒りと失望を何倍にも膨らませた結果だったと、アベルは思う。
だが、身ごもったことを、アベルはディルクのまえでは口にできなかった。ディルクは、リオネルからすでに聞いているかもしれない。それでも、アベルの口から本人に直接伝えることは、なにより辛かった。
言い淀んでいると、ディルクが首を横に振る。
「アベルがどう思おうと、おれは、婚約を破棄したことを後悔している」
「……ディルク様」
「でも、こうして会えた。今、おれの大切な婚約者だったシャンティは、アベルとしておれたちのそばにいてくれている」
込み上げてくる思いがあり、アベルはうつむき、唇を噛んだ。
「アベルだとかシャンティだとか、この際、名前はどっちでもいいんだ。ようするに、きみはおれにとって、いつでも大切な人だったし、これから先も大切な存在でありつづけるってことだ。アベルはアベル――おれの、かけがえのない人だから」
ディルクの言葉に、目頭が熱くなる。涙は堪え切れなくなりそうだ。
「どちらでもいいと言っておきながら、けっきょく〝アベル〟になっていないか?」
ベルトランの指摘に、ディルクは片眉を吊り上げる。
「これまでそう呼んでいたんだから、しかたないだろう? そんな瑣末なことは、どうでもいいんだよ」
ディルクは実際にどうでもよさそうにそう答えてから、アベルへ向きなおった。
「お帰り、アベル。そして、生きていてくれてありがとう、シャンティ。婚約者だったきみが生きていたことが、どれほど嬉しかったか。本当に、言葉にならないくらいの思いに満たされてる。がんばって生き抜いてくれたきみに、そしてきみを守ってくれた神々に、心から感謝している。――アベル、そして、シャンティ。きみがいなくちゃ、ここにいるおれたちの世界は、なにもはじまらないよ」
両手で顔を覆ったアベルへ、マチアスが黙ってハンカチを差し出す。礼の代わりにうなずいて、アベルはそれを受けとった。
リオネルも、ディルクも、ベルトランも、マチアスも、こんなに優しい……。
皆の優しさに救われている自分がいた。
「私からもあらためて」
柔らかい声音で語りかけるのは、今しがたハンカチを貸してくれたマチアスだ。
「アベル殿――我が主の奥方となられるはずだった貴女を、私は心と力を尽くしてお支えする所存です。けれど、貴女がそのような肩苦しいことをお望みではないと存じていますので、アベル殿はあまり深くは考えず、これからも主人に仕える者どうし、どうぞよろしくお願いします」
マチアスの台詞にアベルは何度もうなずく。
アベルの望むように――望む形で、皆はアベルを受け入れてくれている。
アベルの居場所はここにあるのだと、帰ってきていいのだと、なにも心配いらないと、そう伝えてくれている。
あんなにも心配していたことが、今はすっと身体の奥で溶けていく。残された問題なんて、とてもちっぽけなものに思えた。
「お祝いだ」
葡萄酒を酌取りに注がせるディルクへ、マチアスが怪訝そうに尋ねる。
「なんの祝いですか?」
「新年の祝いだよ。まだ皆で祝ってないじゃないか」
「なるほど」
ベルトランは納得したが、リオネルは首を傾げた。
「でもレオンがいない」
「ああ、風邪引き王子は午後にでも見舞ってやるか。とりあえず、レオンがいないから今日は前祝いだ」
「もう五日も過ぎていますが」
「いいんだよ、こうしてアベルもいっしょに祝えるんだから」
そうだね、とうなずくリオネルはだれよりも嬉しそうだ。
「風邪をひいたレオン王子の回復と、未来永劫途切れぬおれたちの友情を願って……新年、おめでとう!」
新年を祝う皆の声が、耳に心地よく響いた。
+++
ゆったりと時間は流れ、穏やかな空気のなかで一日が終わっていく。リオネルにとっては、平和な時間の大切さにあらためて気づかされた日だった。
ディルクがいて、アベルがいて、ベルトランやマチアスも変わらず自分たちに仕えていてくれている。
――失うかもしれないと恐れた友情も、手放しそうになった最愛の人も、こうしてここへ戻ってきてくれた。
共に食卓を囲み、笑いあい、グラスを傾け、同じ時間を共有する。
それは、どんな宝石にも勝る、かけがえのない時間だった。
夕飯を食べ終ってかなり経つが、仲間と共に過ごせる喜びを噛みしめる五人は、夜更けまで話しこんでいた。
ここにレオンがいれば言うことはないのだが。
昼間レオンを見舞ったはずのディルクは、ほとんどとんぼ返りでベルリオーズ家別邸へ戻ってきた。というのも王妃のお達しで、レオンの風邪が癒えるまで一切の来客を禁じられているという。
その原因の一端を作ったのはむろんリオネルだ。
「おまえのせいだな」
「多分ね」
リオネルもそれには素直に同意する。
「レオンの部屋で、ジェルヴェーズ王子と殴り合いの喧嘩なんかするからだよ」
二人の会話を聞いていたアベルが、ぎょっとした様子で蜂蜜酒の杯をテーブルに置いた。
「リオネル様とジェルヴェーズ殿下が……殴り合い?」
「ああ、そうだよ、アベル。風邪を引いて寝ているレオンの隣で、殴り合いの喧嘩をしたんだ」
いつものようにアベルへあれこれと話すディルクに、リオネルは苦笑する。
「いいよ、話さなくて」
「収拾がつかなくなったところへ、王妃様が現れて喧嘩を止めたらしいよ。リオネルは無罪放免だ」
完全にリオネルの言うことを無視してディルクは話し続ける。
「でも、王妃様はかなりお怒りだったんだろうね、その後からレオンの部屋は何人たりとも立ち入り禁止だ」
すっかり驚いているアベルをちらと見やってから、リオネルは諦めの境地でつぶやく。
「悪かったとは思っている」
「レオンを庇うためだったようだからしかたないよ。いや、おれだって、リオネルの立場だったら同じことをやってたと思う。だからいいんだけど、見舞いに行けなかったのは残念だった」
「そう思うなら、日頃からもっと優しくして差し上げればいいのに」
淡々と主人に指摘するのはマチアスだ。
「いつも優しくしてるつもりだけど?」
「つまらない言い合いばかりしているではありませんか。ローブルグ王のことでからかうのは、もうおやめになったらどうです?」
「ああ、そんなことになれば、生きる楽しみも半減だな」
呆れた面持ちになったマチアスは、
「やはり今日ディルク様に見舞われなくて、レオン殿下は幸せだったのでは?」
と冷たく言い放つ。
「そのほうがきっと早く治るかと存じます」
「なんだと、マチアス。おまえが風邪をひいても見舞ってやらないぞ」
「かまいませんよ」
さらりとマチアスに言われてディルクが押し黙ると、アベルがそんな二人のやりとりを気にすることなく難しい顔でつぶやいた。
「レオン殿下が心配ですね。早く良くなるといいのですが」
「そうそう、そうだよね。どうしてマチアスはアベルのように素直な意見を口にできないのかな」
「私なりに素直に申しあげているのですが」
すると、二人の会話を気に止めていなかったように思えたアベルが、実はしっかり聞いていたらしく、次のようにマチアスへ説明した。
「あれは、言い合いにみえて、友好を深めているらしいですよ、マチアスさん」
あえてリオネルの受け売りをアベルが口にすると、マチアスよりも先にディルクが「いやいやいや……」と言ったきり気まずそうに明後日の方向を向いた。
アベルとマチアスがおかしそうに笑いあう。
「案外、アベルも意地が悪いな」
ベルトランが苦笑すると、リオネルがうなずく。
「おれも、からかわれないように気をつけるよ」
「え、なぜですか?」
ベルトランの台詞が聞こえていたのかどうか判じかねて、リオネルは「なんでもないよ」ととりあえず誤魔化す。すると、
「ねえ、アベル」
ディルクが真剣な声音をアベルへ向けた。
「あのさ、真面目な話なんだけど、いいかな」
少しばかり身構える様子で、アベルがディルクを見返す。
「そのさ、おれはアベルにずっとおれたちのそばにいてほしいと思っているわけで、それを実現させるためにいろいろと考えなくちゃならないと思うんだ」
「…………」
「とりあえず、ノエル殿は他言しないと言ってくれたみたいだし、トゥーサンもデュノア伯爵夫妻に話す気はなさそうだ。だから、このままいっしょにいられると思う。いや、必ずそうできるようにする。……ただ、おれにはまだわからないことが多い。もしアベルさえよければ、三年前になにがあったか、話してくれる気はないか?」
真面目な様子のディルクをまえに、アベルはうつむき押し黙る。
以前からアベルがこの件についてはけっして語りたがらないことを、リオネルは知っていた。
「ディルク、この話はいい」
「でも、リオネル。なにがあったかわからないままでは、アベルを守るにあたって、困ることもあるだろう」
ディルクの言っていることは正しい。また、なにも知らないという状況は、ディルクにとっても辛いに違いない。
だが、リオネルは無言で首を横に振った。
アベルは、この話題に触れられたくないはずだ。三年前の話をすれば、イシャスを孕んだときのことも関わってくるだろう。
アベルにこの事件をディルクのまえで話させるのは、残酷なことだ。彼女はまだ当時ディルクと婚約していたのだから。
「……そうか、そうだね」
ディルクはリオネルの表情からなにか察した様子で、すぐに引き下がった。
「ごめん、アベル」
「いいえ、こちらこそすみません」
「さあ、今夜は飲もう」
まだ入っているアベルのグラスに、ディルクは蜂蜜酒を注ぐ。
「……おれが言いだしたことだけど、今日は昔のことを思い出すのはやめよう。なんてったって新年だからね。今年のことを、未来のことを語ろう。そうだ、ベルトラン、今年の抱負は?」
「なんでおれなんだ?」
「筋肉増強とか?」
「馬鹿にしているのか?」
やや強引なディルクの提案により、それぞれが今年の抱負とやらを宣言させられ、他愛のない話で盛り上がる。
ディルクの作ってくれた明るい雰囲気のなか、酒がすすんだアベルは、やがて椅子でうたた寝をはじめ、寝入ったところをリオネルに寝台へ運ばれることとなった。
+
アベルを寝室へ運んだあとリオネルが居間へ戻れば、ディルクが軽くグラスを持ち上げて尋ねてくる。
「アベルはちゃんと寝た?」
うなずきながら、リオネルはもとの席についた。
「アベルは、少し飲み過ぎていなかったか?」
「安心したのだろう、きっと長いこと気を張り詰めていただろうから」
空になったグラスに葡萄酒を注ぎたせば、四人の話題はすぐに先程出た三年前の出来事へと戻る。
「さっきの話だけれど」
リオネルはディルクへ説明した。
「三年前になにが起きたのか、アベルは話したがらない。けれど、ディルクが言うことは最もだとも思う。三年前の出来事をはっきりさせておきたい」
ディルクはうなずいた。
素敵なレビューをいただき、ありがとうございました。心より感謝いたします。 yuuHi