38
朝の礼拝のあと、ジェルヴェーズは席を立たなかった。
皆が礼拝堂を出ていき、ジェルヴェーズが最後のひとりになると、そこへ示し合わせたようにガイヤールがゆっくりと歩み寄る。
「昨夜はお手間をおかけし、申しわけございませんでした」
深く腰を折るガイヤールへ、ジェルヴェーズは冷ややかな視線を向けた。
「もう少しで、シュザンの寝首を掻くことができたはずだった」
「館のなかに、それらしき者はひとりも?」
「ああ、いなかった。医務室から客室、他の部屋まで探したが、どいつも正騎士隊に所属する騎士か、その従騎士たちだ」
「不思議ですね、あの少年はどこへ消えたのでしょう」
「どうせシュザンが小細工をして逃がしたのだろう」
「まだ近くにいるかもしれません」
「シュザンが匿っているという証拠がなければ、私にとってはもはや見つけ出す意味はない。おまえがその挑戦者にこだわる理由はなんだ、ガイヤール?」
「敗者が神に祈りを捧げることは定められています」
「それだけか?」
「あえてもうひとつ理由を加えるなら、少年は死にたがっていたようなので、私が死なせてあげようかと」
ジェルヴェーズは皮肉に口を歪めた。
「たいした親切だな」
「お褒めに預かり……」
「シュザンに救われて、生きる気になったのではないか?」
「なんにせよ、もう騎士館へは戻ってこないでしょう」
「だろうな」
興味が失せた様子でジェルヴェーズは立ち上がる。
「無駄骨となってしまいましたこと、どうかお赦しください」
再び腰を折るガイヤールへ、ジェルヴェーズは砂色の瞳を向ける。
「またおもしろい話があれば報告しろ」
「かしこまりました」
入口に控えていた近衛兵らを引き連れ、ジェルヴェーズは礼拝堂を出ていった。
一方騎士館では、少年の声が上がる。
「それで姉さんは?」
「わからない、殿下が去ったあとに見にいったが、すでに建物の周りにはいなかった」
「窓から飛び降りたって……そんな」
姉がいなくなったと聞いて、カミーユは顔を蒼白にした。
「雪が積もっていたとしても、無事ではすまないでしょう」
カミーユと共にアベルに会いにきたトゥーサンもまた、深く案じる面持ちである。
「わからない。だが、いなくなっていたということは、少なくとも動くことはできたということだ」
険しい面持ちで沈黙しているカミーユに代わって、トゥーサンが口を開く。
「どこへ行ったのでしょうか」
「王宮内にはいないはずだ」
「そもそも、なぜジェルヴェーズ王子はシャンティ様を?」
「最後の挑戦者が生きていると踏んだのだろう」
シュザンはガイヤールの顔を思い浮かべたものの、二人にはその名を告げなかった。
「本来なら、敗れた挑戦者は死の祈りを課されなければならない。例外は認められない」
「義はあちらにあるということですね」
「見つかれば、シャンティ殿も私も裁かれるだろう」
来訪を知らせるノックがある。シュザンが扉を開けると若い騎士が一礼した。
「失礼いたします。ベルリオーズ家別邸から密かに使者が訪れ、これを」
手紙を渡されたシュザンは、騎士が部屋を出ていくとすばやくそれを開き、一読する。
短い文章を読み終えると、シュザンは大きく息を吐き出し、カミーユとトゥーサンへ視線を戻した。
「シャンティ殿はリオネルのもとにいるようだ」
「え――」
目を見開いたカミーユへ、シュザンは手紙を手渡す。カミーユは受けとった手紙へさっと目を通した。
『昨夜遅くにそちらへ行きました。彼女は私のもとにいます。怪我もなく、無事です。どうかご心配なさらず』
送り主の名も、宛名も書かれていなければ、アベルやシャンティという名もない。万が一ジェルヴェーズらに見つかったときのために、用心したのだろう。
「怪我もなく無事……」
カミーユは肩を撫で下ろす。皆が読み終えた手紙を、シュザンは素早く暖炉の火に投じた。
「よかったですね」
トゥーサンの言葉にうなずくカミーユだが、次のシュザンの台詞には納得できなかったようだ。
「ここにいるより、リオネルのもとにいたほうが安全だろう」
「リオネル様のもとって……これからずっとですか?」
「先のことはまだわからないが、これまでだってリオネルのもとにいたのだから、不思議なことではない」
「けれど姉は、ディルクの婚約者です」
「……おれに言われてもな」
そのとおりである。シュザンに言ってもしかたがない。
「だが、リオネルは本気できみの姉君に惚れているようだ」
「世間では横恋慕というのではないでしょうか」
ぼそりとカミーユがつぶやく。
「すごい言葉を知っているのだな」
シュザンは苦笑したが、カミーユは真剣だ。
「前王の王家の直系であり、ベルリオーズ公爵家の跡取りであるリオネル様が、姉さんと結婚できるわけありません」
「それは――」
鋭いところを突かれたシュザンは、言い淀んだ。
「……まあ、それはそうだが、人の気持ちなど理詰めでどうにかなるものではない」
「それに、リオネル様のそばにいることは危険と隣り合わせでもあるということです。これからもジェルヴェーズ王子と接触する機会も多いでしょうし、とても安心していられません」
さらにまっとうな指摘をされてシュザンは頭をかいた。
リオネルを守るために、アベルはこれまで幾度となく怪我を負ってきた。彼女の功績は素晴らしいものだが、親族にしてみれば耐えられないだろう。
「ですが、カミーユ様」
発言したのはトゥーサンだ。
「リオネル様のもと以外に、シャンティ様を委ねる場所がありますか?」
「ディルクのところだったらよかったのにとは思うよ」
「私の印象ですが、シャンティ様もディルク様も互いにそういった感情を抱いているようには見えませんでした」
「……ディルクは姉さんの本当の姿を知らなかったし、姉さんはそういう感情を諦めていたからだよきっと」
「今からでもお二人は結婚できるとお考えですか?」
シュザンの問いにカミーユがすぐに答えられなかったのは、その可能性が低いことを感じとっていたからだ。
「私はまえにも申し上げましたとおり、シャンティ様にとって最も安全なのはリオネル様のお近くなのではないかと思うのです」
「安全、かな」
「これまで怪我を負ってきたのは、シャンティ様が自ら望んで、リオネル様をお守りするためだったのではないでしょうか」
そうなのだろうか。
考える面持ちになって、カミーユはシュザンを見やる。視線を受けて、諭すようにシュザンが言った。
「シャンティ殿の望む場所へ、行かせてさしあげたらどうだ?」
「姉の望む場所――それがリオネル様のもとなのですか?」
「おれの目にはそう見えたが」
「戻らないと姉は言っていました」
「姉君は、カミーユ殿やリオネル、そのほか周囲の者の立場を真っ先に考えておられるようだった。ブレーズ家の血を引く自分が、ベルリオーズ家に仕えることの弊害を考慮したのだろう。だが、彼女の気持ちということになれば、それはまた別の話だ」
カミーユは沈黙する。リオネルが気に入らないというわけではない。いや、素晴らしい人物であることはわかっている。なにもなければ、カミーユだって憧れる存在だ。
ただ、ディルクに焦がれていたシャンティを知っているだけに、すぐには消化できないものがあった。
リオネルに対する感謝の気持ちはたしかにある。
三年前も、昨夜も姉を助けてもらった。他にも、きっと自分が知らないだけで、様々なことがあったに違いない。
「……とりあえず、今回姉を助けていただいたことについては、リオネル様に心から感謝しています」
リオネルがいなかったら、シャンティの命はなかったかもしれない。
「その気持ちがあるなら本人に伝えたらいい」
「けれど私は王宮から出られません」
そうだったな、とシュザンは気遣う様子でカミーユを見やる。
従騎士一年目のカミーユは、王宮から出ることを許されておらず、ベルリオーズ家別邸にいる姉に会いにいくこともできないのだ。計らずも、シャンティとは騎士館で話したのが最後になってしまった。
「生きていれば、また会う機会もあるだろう。リオネルのもとにいるなら、なおさらその機会も訪れるはずだ」
シュザンの言うことはもっともだ。けれど。
大人たちは、姉とディルクが結ばれる未来を夢見ていたカミーユの感情を置き去りにして、とても合理的な考えのもとにいる。
カミーユは無言でうなずかざるをえなかった。
+++
ジェルヴェーズの魔の手から逃れ、一夜明けたこの日、アベルが目を覚ましたのはすでに昼近くだった。
慣れ親しんだベルリオーズ家別邸で眠ったからかもしれない。それにしても、戻って早々寝過ごすとは。
慌てて跳ね起き、身支度を整えてアベルは階下へ向かう。ベルトランが起こしてくれなかったのを少し恨めしく思いながら、けれど起きない自分が悪いのだし、それが彼らの気遣いだということもよくわかっていた。
そして階下へ戻る途中、ふと我に返って足を止める。
どんな顔で――いや、どんな立場でリオネルに会えばいいのか。
昨夜は『今夜だけ』と約束したけれど、今日はどうするのか。
明日は、明後日は?
立場をはっきりさせずに、漠然とリオネルのそばにいるのはよくない。シャンティとしてここに留まるのか、従騎士として過ごすのか。
アベルではなくシャンティだという事実を突きつけられたうえは、以前の関係に戻ることは難しいように思われた。
このまま会わずに館を出ていきたいような衝動に駆られるのは、どんな顔をしていいかわからないという、そんなつまらない理由のせいだろうか。
リオネルのそばにいたい。
けれど、どうしていいかわからない。
せめぎ合う二つの思いにアベルが立ちつくしたとき、廊下の角からリオネルとベルトランが姿を現す。
「――あ」
咄嗟に気持ちは逃げ腰になったものの、ここで走って逃げたところで何の解決にもならないことはわかりきっている。アベルはとりあえず留まり、一礼した。
「アベル、おはよう」
すぐにこちらへ駆け寄ってきたリオネルは、安堵の色と共に、柔らかい表情でアベルに挨拶する。
「すみません、すっかり寝過ごしてしまって」
「いいよ、もっとゆっくりしていてかまわなかったのに」
「もうお昼ですし」
「疲れはとれた?」
「はい」
緊張した気配が伝わったのか、リオネルがかすかに困ったような面持ちでほほえんだ。
「きみは〝アベル〟だよ」
突然の宣言に、アベルは顔を上げる。
「おれにとって、きみはアベルだ」
アベル心の迷いはすべてお見通しのようで、リオネルは揺るぎのない語調で告げた。
「たしかに一度はきみをシャンティ殿と呼んだ。けれど、おれにとってきみは出会ったころと変わらず、アベルだ」
「…………」
「不器用で、泣き虫で、頑固で、お転婆で、向こう見ずで――でも、いつも一生懸命でまっすぐな、おれの大切なアベルだ」
リオネルの強く優しい眼差しがアベルを射ぬく。気遣うようでありながら、その根底には迷いのないリオネルの決意のようなものが感じられた。
「お帰り、アベル」
ただいま、と心のなかでつぶやきかけて、再び我に返る。
お帰り……とは、ここに留まるのはひと晩だけの約束ではなかったか。
返答できないアベルをまえに、リオネルはさらに見透かしたように言った。
「早速だけど、もうひと晩ここに留まってもらえないか?」
「…………」
「答えはすぐに出さなくていいから、今夜までに考えておいて。さあ、お腹も空いただろうし、いっしょになにか食べよう」
なんだか完全にリオネルの調子に乗せられている気がした。
こうなると、なんのためにアベルが頑なにリオネルのもとに戻るのをよしとしていないのか、わからなくなってくる。
べつに、アベルが意地を張って戻らないと決めているわけではない。
もう一度リオネルを信じることができたとしても、互いの立場とか、互いの気持ちとか……そういった部分を置き去りにするわけにはいかないのだ。
「そういえば」
突っ立ったままのアベルを、リオネルは足を止めて振り返った。
「ディルクが来ているんだ」
「――ディルク様が?」