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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第七部 ~神前試合は、運命の歯車に導かれ~
424/513

37








 ジェルヴェーズの来訪より少し前のこと。


「起きてください、早く起きて」


 ノックもせずに入ってきたらしい騎士に起こされたとき、アベルは眠りについたばかりで朦朧としていた。


「え……」

「ジェルヴェーズ殿下が、最後の挑戦者である貴方を探すために、騎士館へ来ています。すぐに逃げるようにと隊長からの指示です」

「ジェルヴェーズ殿下……挑戦者……逃げる……」


 つぶやいてから、ようやくアベルは我に返る。なぜだがわからないが、またもジェルヴェーズに追いまわされる羽目になったことに気づいた。

 けれど、なぜガイヤールではなくジェルヴェーズが……?


 混乱しつつも、慌てて飛び起き、寝台の乱れをきっちりと直す。シュザンに迷惑をかけたくない。自分がいた証拠はすべて消すつもりだった。


「私が廊下の様子を見てきます、貴方は私が合図したら出てきてください」


 うなずいたが、状況は最悪であることにアベルはすぐ気がつく。

 シュザンの配下の騎士が出ていってすぐ、かすかな話し声が聞えてきた。

 ――ジェルヴェーズとシュザンの声。

 もう彼らはすぐそこまで来ている。


 アベルは血の気が引いていくのを自ら感じた。

 捕らえられるのも殺されるのもこの際仕方がないにしろ、シュザンに迷惑がかかることだけは避けたい。


 それに。

 ……わずかに残る生への未練。

 騎士館で生活し、様々な人と会っているうちに、アベルの気持ちは少しずつ変わりつつあった。トゥーサンと交わした会話も、アベルの心を大きく揺さぶっている。

 きっと答えはひとつじゃない。

 そのことに気づいたとき、アベルはようやく素直な自分の気持ちを探り当てることができた。


 もし叶うなら――それが赦されるなら、もう少し生きてみたい。


 せっかく再会できたカミーユに、再び哀しい思いはさせたくない。

 ディルクも、マチアスも、シュザンも、アベルの身を案じてくれている。

 一度は突き放されたが、リオネルは何度だってアベルのもとへ会いにきてくれる。……彼をもう一度信じてみたい、という気持ちは、恐怖と隣り合わせに存在していた。


 もう一度、神様の足元にすがり、あと少し大好きな人たちと共に生きることへの許しを請いたいと思った。


 けれど、ジェルヴェーズの足音と共に、死は直前に迫っている。


 そうだ、とアベルはしばらくまえまで使っていた暖炉へ視線を向ける。

 もうほとんど冷めている暖炉は、煤だらけだが登れないことはない。五階にあるこの部屋から飛び降りるより、煙突を登ったほうが命を繋ぎとめる可能性は高いと思った。


 腕まくりして登りはじめようとした、まさにそのとき。

 窓にコツンとなにか当たるかすかな音を聞いた気がして、アベルは振り返った。逡巡したものの、予感があってアベルは窓辺に寄り、闇夜の雪景色を見下ろす。

 と、篝火のかすかな明かりのなか、リオネルの姿をみとめた。


「リオネル様……?」


 アベルの姿を確認すると、リオネルは指先で五階から地面までをつーっとまっすぐに指し示し、最後に大きく手を広げてみせる。


 え、とアベルは我が目を疑った。ここから飛び降りろという意味だろうか。


 アベルの不安を読みとったかのようにリオネルは大きくうなずく。それから彼は部屋のすぐ真下へ移動し、その姿が見えなくなった。アベルは息を呑む。


 ――ここから飛び降りる?


 かなりの高さだ。

 けれど暖炉を登るにはもう時間がない。迷っている余裕はなさそうだった。


 意を決してアベルは窓に足をかける。身体を外へ出し、可能なかぎり枠にしがみつき、アベルは閉められるだけ窓を閉めようとした。いくらか閉めたものの途中で力が足りずに手をすべらせる。

 途端にアベルは宙に放りだされた。


 思わず目をつぶる。悲鳴を上げそうになるのをどうにか堪えながら、落下する時間はひどく長く感じられた。

 意識が途切れそうになる、その寸前。


 すとんっと身体が沈みこむ。

 落下の恐怖と混乱から、すぐにはどこへ落ちたかわからなかった。


「……アベル、大丈夫だ。もう平気だから」


 すっぽりとリオネルの腕に包まれ、きつく抱きしめられる。なだめるように優しく声をかけられ、はじめてアベルは自分の身体が震えていることに気づいた。


「五階からでは、ここは見えない」


 暖かいリオネルの腕。外套を肩から掛けられ、まるで子供にするように、すっぽりと包まれ頭を撫でられる。

 こんな状況なのに、抱きしめられている安心感で、震えはまたたくまに収まっていった。


 リオネルの声には、体温には、アベルを落ちつかせる不思議な力が宿っている。

 ……まるで魔法だ。


 気持ちが落ち着くと、すぐそばにベルトランがいることに気づいた。


「ここに長居すると、いずれ探しに来るかもしれない」


 低くベルトランは忠告する。


「わかってる」


 短く答えたリオネルは、意を決した様子でアベルの身体を抱いたまま立ちあがった。


 自分で歩ける、と可愛げのないことを言おうと思ったが、実際にアベルがとった行動は正反対で、両腕をリオネルの首の後ろへまわしてぎゅっとしがみつく。

 今だけは、なにも考えずにリオネルにすべてを預けていたい。

 こんなことがなければ、きっとリオネルに対して素直に抱きつくことなどできなかった。


 リオネルの香り、温もり、息遣い、鼓動……。五感のすべてを使って、この人のことを全身で感じている。

 やはり自分は、こんなにもこの人を――。


 騎士館の壁を伝うようにして移動すると、リオネルとベルトランは雪道を歩きだす。降り積もる雪が一刻も早く足跡を消してくれることを、アベルは願った。

 木立のなかに繋いであった愛馬ヴァレールにアベルを乗せると、リオネルもまたその後ろへ跨る。


「……ここは危険だ。今夜はベルリオーズ家別邸へいっしょに来てほしい」


 リオネルの懇願に、アベルは無言でうなずきを返した。






+++






 何日かぶりのベルリオーズ家別邸は、とても懐かしく感じられる。もう何ヶ月もここへは来ていなかったような気がした。


 深夜に戻ってきたアベルにジェルマンは驚いた顔もせず、当然のように迎え入れてくれる。無断で姿を消したというのに、なにも聞かずにいてくれるその優しさを、アベルはありがたく思った。


 居間の椅子に腰かけたアベルの目のまえに、暖かい蜂蜜酒が差しだされる。


「いっしょに来てくれてありがとう」


 礼を述べるリオネルに、アベルは複雑な気持ちになった。助けてもらって礼を言うのはアベルのほうなのに、逆に礼を言われるなんて。

 リオネルは自分に甘すぎると、アベル自身でさえ思う。


「いいえ、リオネル様。感謝するのはわたしのほうです」


 アベルは座ったまま膝に手を置いて、頭を下げた。


「さっきは助けていただき、ありがとうございました」


 向かいに座るリオネルの腕がすっと伸びて、アベルの頬に触れる。


「頭なんか下げないでくれ」


 持ち上げられて、アベルはゆっくりと顔を上げた。


「助けたのは、おれの自己満足だから」

「リオネル様が来てくださらなかったら、どうなっていたかわかりません」

「そんなことない、アベルは煙突から脱出できただろう?」


 ずばり言いあてられてアベルは口をつぐむ。なにもかもお見通しのようだ。


「きみを窓から脱出させようとしたのは、こうして連れて帰る口実を作りたかったからだ」

「煙突を登るのは危険で心配だったからだろう?」


 平らな声で口を挟んだベルトランは、なぜか不機嫌そうだった。


「それもあるけれど」


 リオネルは苦笑する。


「アベルを自分の手で確実に救いたかった」


 まっすぐなリオネルの言葉に、アベルはうつむき、蜂蜜酒の杯を両手で包みこむ。温かくて、じんと指が痺れた。


「……リオネル様は、どうして騎士館へ?」


 ジェルヴェーズの来訪を知っていたはずがないのに、リオネルがあんな時間に騎士館へ現れたのが不思議でならない。

 うん、とうなずきつつ視線を下げてから、リオネルはゆっくりと答える。


「どうしても会いたくなったんだ」


 アベルは顔を上げた。リオネルの伏せられた睫毛に視線を吸い寄せられる。


「こんな夜中に起きているとは思っていなかったから、実際に会うつもりはなかったよ。近くにいるだけでよかったんだ」


 会えないとわかっていて……?

 硬く冷たい石の壁を隔てて、そばにいるだけのために?


 そんな理由でわざわざこの雪の中、このような時間帯に、ベルリオーズ家別邸から王宮の騎士館まで馬を駆けてきたのかと、驚きを通りこしてアベルはやや呆れる。


 リオネルは自嘲するように笑った。


「ごめん、迷惑だね」


 アベルは唇を噛む。迷惑ではない。けれど。


「……そんな危険な真似、もうしないでください。夜の雪道は危ないですし、刺客に狙われたらどうするのですか」

「ベルトランにも同じことを言われたよ」


 容易に想像がついて、アベルは赤毛の用心棒へちらと視線をやった。


「でも、今夜は不思議なくらいきみのそばにいたかった。無事を確認しないと気がすまない気分だった。だから無謀だとわかっていても騎士館へ向かった」

「いつからあそこに?」

「異変に気づいたのは、着いてすぐだ。騎士館の入り口が騒がしいことに気づいて、身を隠した。ジェルヴェーズ殿下が最後の挑戦者を探しにきたと知って、慌ててきみの部屋の窓の下へ回り、飛び降りるよう合図をした」

「……本当に偶然だったのですね」

「偶然――ああ、偶然かもしれない。けれど、おれはアベルの危機を感じとっていたような気がしている。どうしてもそばにいたかったのは、アベルに近づく危険を予感したからのような、そんな気がするんだ。……そんなふうに思うおれは、やっぱりおかしいかな」


 小さく笑うリオネルをまえに、アベルは胸がじんと熱くなる。

 気のせいでも、気のせいでなくとも、どちらでもかまわない。

 おかしくなんてない。

 そこまでリオネルが想っていてくれていることが嬉しくて、けれど、苦しく……怖くもあった。


「けれど、なぜジェルヴェーズ王子は、アベルを?」


 煙突掃除の少年でも、踊り子レナーテでもなく、神前試合の挑戦者としてのアベルを捕らえようとしたジェルヴェーズの意図。それはアベル自身でさえ、知る由のないことだった。


 わからないと正直に首を横に振れば、リオネルが溜息をつく。


「……ともかく二重にも、三重にも、アベルはジェルヴェーズ王子の近くにいたら危険だ」


 リオネルの言うとおりだと思う。

 もう騎士館へは戻らないほうがいい。これはアベルだけの問題ではなく、シュザンや他の騎士らに危険が及ぶようなことがあってはならないからだ。


「ガイヤールあたりが絡んでいる気がするな」


 ベルトランのつぶやきに、リオネルが考え込む様子で沈黙する。


「シャルム王宮は陰謀の巣窟だ」


 そうベルトランが断じたとおり、魔物や化け物の類より恐ろしいのは生きている人間たちだった。


「……アベル」


 呼ばれて視線を向けると、まっすぐにリオネルがこちらを見つめている。深い紫色の瞳に、アベルは今更ながら戸惑った。


「戻ってこないか」


 どこへ、とは聞かずともわかる。胸にちくりと痛みを覚えた。


「騎士館にいるきみのことが心配で、夜もおちおち眠れそうにない。もうあそこへは行かないでほしい」


 少し間を置いて、アベルはゆっくりうなずく。

 もう騎士館へは戻れないことは、よくわかっている。


「図々しい頼みとは承知だけれど……もし叔父上のところへ戻る気がないなら、それなら、ここにいてくれないか」

「…………」

「そばにいてくれないか」


 アベルは目をつむった。


「一方的に心ないことを告げて、アベルを深く傷つけた。おれのことを生涯赦さなくていい。状況が複雑だということもわかっている。けれどもう一度……ベルリオーズ邸へ戻ってきてほしい。おれに仕えなくてもいい。父上に仕える騎士でもいいし、イシャスの教育係としてでもいい。クロードやラザールの従騎士でも――いや、なにもしなくてもかまわないから」


 リオネルの声は、懇願に近い。


「――いっしょにいる最後の機会をくれないか。もう二度とアベルを傷つけたりしない」


 真剣な眼差しが、まっすぐこちらへ向けられている。心臓が押しつぶされるように苦しかった。


 いっしょにいる最後の機会。

 二度と傷つけたりしない。

 ――だから、もう一度だけ信じてほしい。

 リオネルの願い。

 息苦しさを覚えるのは、彼が悪いわけではないと知っているから。


「……はじめにリオネル様を傷つけたのは、私です」


 小さな声で答える。


「リオネル様やディルク様に素性を隠していたのは、わたしです」

「言ったら離れる運命にあると、わかっていたからだろう?」


 そのとおりだ。


「リオネル様のおそばに……」


 声が揺れて、最後まで言葉を紡ぐことができない。泣いてしまいそうだ。

 それでもどうにか最後まで伝えたい。


「リオネル様の、おそばに……いたかったのです」


 そう……真実を隠し通したのは、リオネルのそばにいたかったから。真にリオネルやディルクのことを思えば、三年前、イシャスを産んだらすぐに立ち去るべきだったのだ。


 それでも。

 ……それでも、すべてを隠してリオネルのそばにいた。


 裏切りになろうとも、どんな結末が訪れようとも、リオネルに仕えていたかったから。

 リオネルのそばに――。


「アベル」


 躊躇うように伸ばされた手が、アベルの肩を抱き寄せる。アベルは軽くリオネルの胸に額を押しつけて、涙をこらえた。


「……わたしはブレーズ家の血を引く者です。そして、ディルク様の婚約者でした。知らぬ男の子供を身ごもり、デュノア邸を追い出された身です」

「アベル、もういい」

「言えば別れることになると、わかっていました……だから」

「もういいから、アベル」

「三年間ものあいだ、わたしはリオネル様を裏切り続けていました」

「おれは裏切られてなんかいない」


 はっきりとそう告げたリオネルは、きつくアベルを抱き締める。


「……アベルは最後まで信じてくれていた。すべて知られても、それでもおれに仕える従騎士のアベルでいたいと言ってくれた。繋がりを信じ切れなかったのはおれ――裏切ったのはおれだ」


 アベルは目を閉じ、リオネルの鼓動と体温を感じる。

 このまま時間が止まればいい。さもなくば、なにもかもが壊れてしまえばいいと思った。


「違います、リオネル様」


 アベルは静かに言った。


「リオネル様がそうすることを、わたしは知っていました」

「アベル……」

「ご友人であるディルク様の立場に、リオネル様が配慮しないはずありません。わかっていたから、言えなかったのです」

「〝わかって〟はいたけれど、きみは信じていてくれていた。違うか?」


 ややあってから、リオネルの腕のなかでアベルはうなずく。


 信じたかったわけでも、信じようとしたわけでもない。

 きっと、信じずにはおれなかったのだ。

 心からリオネル・ベルリオーズという人を信じ切っていた。この人ならアベルに、『ここに居てもいい』と言い続けてくれると。


 けれどそれは身勝手な考えだった。

 そう、裏切られたと少しでも感じたのは、きっと身勝手な思いこみ。

 なぜならリオネルはリオネルらしく行動しただけで、当然の帰結だったのだから。それが結果的に、彼自身に別れを選択させることになってしまったというだけのこと。


「今夜だけ」


 アベルはつぶやいた。


「……今夜だけ、リオネル様のもとへ戻ってもいいでしょうか?」


 沈黙と共にベルトランの困惑した空気を、アベルは肌で感じる。けれどリオネルは違った。


「ありがとう」


 心から安堵した様子でリオネルは言う。


「今夜だけでもかまわない。戻ってきて」


 リオネルの腕のなかで、アベルはかすかにうなずく。


「それが、明日、そしてその次の日と、一日ずつ延びていけばもっといい。毎日だっておれはアベルにここにいてほしいと懇願するよ。死ぬまで毎日続けたっていい。いや、必ずそうする」


 リオネルの『今夜だけ』はとても長い期間のようだった。けれどそれは、彼がアベルの気持ちを汲み取ってくれているからこそだとアベルは知っていた。


 ――今夜はリオネルのそばにいる。

 けれど明日はどうかわからない。


 この残酷な運命の歯車が回り続ければ、いずれアベルはリオネルのもとを去らなければならない日が来るだろう。未来は見えない。それでも。

 共にいられる今だけはそばにいたい。それが、『今夜だけ』の意味だった。









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