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「殿下、ご来客中ですので、どうか後ほどお越しください」
慌てる様子でシモンとクリストフがジェルヴェーズを追い返そうとしているが、本人は意に解さぬ風情だ。
「来客とは、リオネル・ベルリオーズのことか」
「お久しぶりです、殿下」
不愉快な気持ちを押し隠して、リオネルはその場で一礼した。
自分が幾度も殺されかけていることより、五月祭の折りにアベルを傷つけられ、さらには踊り子に扮したアベルを寝台に押し倒されたことのほうがよほど我慢できない。
この男がアベルの唇を奪ったのだと思えば、すっと冴えきった感覚をまとった指先で、長剣を引き抜きたい衝動に駆られる。
「そなた、体調が悪いのではなかったのか」
「このとおり回復したので、レオン殿下のお見舞いに」
鼻で笑ってから、ジェルヴェーズはどかっと我が物顔で室内の椅子に腰かける。
「招待された祝いの席を欠席するとは、さすがはベルリオーズ公爵家。いい度胸だ」
「体調ばかりは、どうにもなりませんので」
「煙突掃除の少年イシャスは元気か?」
「彼は五月祭の折りに死んでおります」
「その作り話は聞き飽きた。私は本当のことを聞いているのだ。あのとき、イシャスを牢に繋ぎ、そなたを呼び寄せ、目のまえで嬲り殺してやればよかったとつくづく後悔している」
ジェルヴェーズの口調には余裕が感じられない。機嫌は抑えようがないほど悪そうだった。概ね、リオネルを殺す計画が失敗に終わったためだろう。
「それはどういうことでしょう」
静かなリオネルの口調の裏に、凍るような怒気が滲む。
「言葉通りだ。煙突掃除の少年を鞭で打ちすえ、熱した鉄の棒を押しあてて泣き叫ぶ姿をそなたに見せてやりたかった」
「……兄上、おやめください」
寝台から弱々しくレオンが声を発する。
「裏切り者は黙れ」
「リオネル……もう帰ったほうがいい」
「せっかく話をしているのに、帰ったほうがいいとはどういう了見だ?」
「……兄上の言動は、話をしているとはいえません。脅しや嫌がらせの類です」
「ああ、そなたは本物の裏切り者だからな」
ジェルヴェーズが寝台のレオンへ近づく。レオンがよろよろと身体を起こそうとするのを、手荒に突き倒した。
寝台のうえでレオンが呻く。
「だれに従うべきか、もう一度痛い目に遭わなければわからないか?」
けれど振り上げられたジェルヴェーズの右手は、宙に浮いたまま動かない。彼の手首をきつく捕らえていたのはリオネルだ。
「ジェルヴェーズ殿下、共にこの部屋を出ましょう。ご病気のレオン殿下を休ませるべきと存じます」
低い調子でリオネルが言えば、ジェルヴェーズが口元を歪める。
「わかった、そうしよう」
いやに素直な反応だった。リオネルがジェルヴェーズの手首を放した直後、扉に向かいかけたジェルヴェーズが振り返りざまにリオネルへ向けて拳を叩きつける。
至近距離ゆえにベルトランでさえ庇いきれない。
顔を背けたリオネルの口端から、ゆっくりと血が滲んで顎へ伝った。
「なにをなさいますか、殿下」
リオネルのまえに立ちはだかったのはベルトランだ。
「私に刃向かうなら死罪だぞ、ベルトラン・ルブロー」
寝台から這うようにレオンが半身を乗り出した。
「リオネル、ベルトラン! 命令だ、早くこの部屋から出ていけ……ッ」
叫んだレオンの顔を、ジェルヴェーズが硬い靴のまま蹴りつける。
リオネルの忍耐も、もはやここまでだった。レオンを蹴りつけた直後のジェルヴェーズの胸倉を掴み上げる。
「リオネル!」
ベルトランの叫ぶ声に、リオネルは握った拳をいったん宙で止めた。
「そうか。私を殴るか、リオネル・ベルリオーズ」
ジェルヴェーズの声に愉快げな響きが宿る。もしそうなれば、不敬罪でリオネルを堂々と処罰できるからだ。
「レオン殿下への暴行については、国王陛下と王妃殿下にご相談させていただきます」
冷ややかに言い放てば、今度はジェルヴェーズの拳がリオネルの顔めがけて飛んでくる。
リオネルは素手で拳を受け止め、ジェルヴェーズの胸倉を掴んだまま、その身体を部屋の壁に叩きつけた。
暴れるジェルヴェーズがリオネルへ蹴りを繰りだそうとするが、それを避けたリオネルが均衡を崩したところで、二人は床に倒れ、絨毯のうえでもみあいになる。
「兄上、リオネル……!」
叫ぶレオンの声にかぶさるように、場違いな声が上がった。
「まあ!」
取っ組み合いの喧嘩をはじめようとしていた二人が振り向いた先。
王妃グレースが両手で口元を押さえている。
「お二人とも、なにをなさっていらっしゃるのです」
グレースの両脇にはシモンとクリストフ――彼らが王妃を呼んできたようだった。
リオネルとジェルヴェーズはすぐさま互いを解放し、立ち上がって居住いを正した。
「お従兄弟同士で、喧嘩ですか?」
グレースは驚きを隠せない様子だ。けれど、緊迫した場面のはずが、その頬をかすかな笑みがかすめる。
「ジェルヴェーズが取っ組み合いの喧嘩をするなんて。そのようなことができる相手など、この国にはひとりもいないと思っていたのですが、リオネル様とならできるのですね」
取っ組み合いの喧嘩を褒めているようにも聞こえるが、グレースの瞳は笑っていない。
「対等に素手で戦える相手がいるというのはよいことです。ねえ、クリストフ?」
突然話を振られた近衛兵クリストフは、えっ、と一歩後ずさりした。
「けれど、レオンの部屋でしてはなりませんよ。この子は今、風邪を引いているのですから。やるなら、そうですね、陛下の御前などでいかがでしょう?」
グレースの提案は、穏やかな声音の裏に厳しい裁きを感じさせる。
リオネルは沈黙していたが、ジェルヴェーズは小声で「遠慮しておきます」と答える。
さしものジェルヴェーズもグレースには弱いようで、見ていておかしくなるほどおとなしい。
「さあ、お二人とも部屋を出ましょう。リオネル様はお口を怪我されているようですね。もうこれ以上喧嘩をなさらないのであれば、手当てする者を呼びましょう」
「お気遣い感謝いたします、王妃殿下。けれど私は平気ですので」
「そのようなわけにはいきません。ジェルヴェーズが負わせたのでしょう? クレティアン様にも申し訳が立ちません。手当てくらいはさせてください」
リオネルはグレースの意に従わざるをえなくなり、またジェルヴェーズのほうはリオネルの不敬を咎めるわけにもいかなくなり、かくして収拾がつかぬと思われた騒動はひとまず落ちついたのだった。
声を立てて笑ったのはブレーズ公爵だった。
「笑いごとではない。王妃が行かなければ、とんでもない事態になっていた」
「申しわけございません」
笑いをおさめてブレーズ公爵は言う。
「けれど、まったく思いも寄らなかったお話でしたので」
愉快げなブレーズ公爵とは対照的に、シャルム国王エルネストは重いため息をついた。
「ジェルヴェーズが、リオネルと殴り合いの喧嘩をするとはな。斬り合いでなくてよかったと言うしかない」
「さすがにお二人ともそこはわきまえているでしょう。リオネル様が剣を抜けば即不敬罪ですし、ジェルヴェーズ殿下が剣を抜けば、王弟派との決定的な対立を生じさせます」
「だが、危ういところだった」
「リオネル殿がジェルヴェーズ殿下に刃向かったのは、レオン殿下を守るためだったのでしょう? 見捨てることもできたものを、なかなかの男気ですな」
そう言われればエルネストは言葉に詰まる。
ジェルヴェーズの横暴な振る舞いには以前から目に余るところがあるとは思っていたが、まさかレオンにまで暴行を加えるとは思ってもみなかった。
それを救ってくれたのだと知れば、敵とわかっていても感謝の念は湧く。
潔いその姿勢と優しさは、否が応でもアンリエットを思い起こさせた。
「リオネル殿らしいといえば、らしいのでしょうな。その優しさがいずれ身を滅ぼすことになるはずです」
「……ジェルヴェーズは、このところ少し放縦すぎるようだ」
「フィデールが殿下のおそばにいればよかったのですが。申しわけございません」
「そなたの息子とて、片時も離れずそばにいることはできまい。ジェルヴェーズには次期国王たる自身のあり方をよく考えるよう、私から諭す必要がありそうだ」
「私からフィデールにもあらためて伝えておきます」
「そなたの息子は、よくジェルヴェーズに仕えてくれている。今や、あれが最も信頼する相手だ」
「愚息にはもったいないお言葉です」
ブレーズ公爵は恐縮する様子で視線を下げる。
「我々がそうであるように、二人が手を携えてこの国を治めていくことが私の願いだ」
「そのためにも、一刻も早くリオネル殿を亡き者にしたいというのが、ルスティーユ公爵殿やジェルヴェーズ殿下のお心なのでしょう。このところ不穏な噂を聞きまして」
エルネストは小さく唸る。
「神前試合だな」
「ええ、リオネル様をリヴァルに立てる計画だったとか」
「その話は事前に聞いていた」
「ご許可を?」
「しかたあるまい。計画は成功するかのように思えた」
「けれど下手なことをすれば、王弟派貴族らが兵を率いて王宮に攻め入ってくることになりかねませぬ。エストラダやユスターの動きが定まらぬなかでは、我が身を滅ぼすことになりましょう」
「そのとおりだ。今回のような計画も含めて、フィデール殿にはよくジェルヴェーズの行動を見張っておくよう伝えてほしい」
「かしこまりました」
かつてクレティアンを王宮から追い落とした二人は、今、ジェルヴェーズの治世を盤石なものにするため、頭を悩ませなければならなかった。
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雪のなかを駆けまわり、はしゃいだ声を上げているのはイシャスだ。雪を投げ合って遊ぶ相手は、このごろ病から回復したクレティアンである。
騎士館から本邸のほうへ向かう途中、そばを通りかかったクロードとジュストは、その光景に気を取られる。
「クレティアン様は、すっかりイシャスを可愛がっておられる」
「本当ですね」
「リオネル様にお子ができたら、さぞや喜ばれるだろう」
クロードのつぶやきに、ジュストはちらとその横顔を盗み見る。それから、さらりと尋ねてみた。
「もしリオネル様が市井の女性を愛され、ご結婚なさるとおっしゃられたら、どうなるでしょうか?」
なにも口にしていないというのに、クロードが咳きこむ。
「大丈夫ですか、クロード様」
「……なんだその突拍子もない質問は」
ジュストに背中をさすられながら、クロードは顔をしかめた。
「もしもの話です」
「〝もしも〟でも、そんな仮説を立てるな」
「やはり市井の娘では認められないのでしょうか」
「……それはリオネル様が愛された相手なら、私は祝福したいが、クレティアン様や周囲の方々が認めるかどうか」
「認められなかったらどうなるのでしょう」
「貴族の子弟が、市井の娘と恋に落ちるという話はよくあるが、その結末はいずれも不幸だ。認められても、相手の女性が貴族社会に適応できず心を病むとも聞く。ともかく、あまり滅多なことを言うものではない」
「すみません」
生来、会話の機微などに鈍いクロードは、まさかジュストがなにかを知っていて質問しているのだとは露とも疑っていないようだ。
王都にいるリオネルとアベルのことをジュストは思った。
二人がベルリオーズ邸からいなくなり、ひとり冷静になってみると、無性に今後のことが気になった。
リオネルは、三年前にサン・オーヴァンの街で救った少女を愛している。リオネルに対するアベルの気持ちはわからないが、盲目的な忠誠心については疑いようがない。アベルが女性である以上、それをひとつの愛の形と捉えても、まったく不思議ではなかった。
けれど、二人の先に未来はあるのだろうか。
リオネルがアベルを妻として迎えるには、あまりに障害が大きい。
騎士らのなかでも、クロードのように個人的には認めたいという者と、名家の令嬢でなければ認めないという頭の固い連中に分かれるに違いない。
けれどこのままアベルが家臣としてリオネルに仕えるとすれば、リオネルは別の女性を妻として迎えなければならない。自分自身のことではないとはいえ、ジュストは切ない思いに駆られる。
「まあ、そうだな」
クロードの声にジュストは思考を中断して、横を向いた。
「リオネル様が心から愛する相手が現れたなら、それは素晴らしいことだ。リオネル様はご自身に対しても、周囲の者に対しても誠実な方だ。だからこそ、今回はフェリシエ様との婚約も解消されたのだろう。そのリオネル様が妻にと望む相手が現れたなら、私は心から歓迎し、たとえ身分の低い者だったとしてもその足もとにひざまずき、礼を尽くして仕え、命をかけて守り抜くつもりだ。ああ、きっとそうだ」
自分で話を打ち切ったはずなのに、ひとりで結論を出して納得するクロードに、ジュストは小さく笑う。
「……って、おれになにを言わせるんだ」
「すみません」
「さあ、早く昼食をとって午後の鍛錬に励むぞ」
「はい、クロード様」
この人の従騎士でよかったと、ジュストは心から思った。