34
「カミーユ様から聞いてはおりましたが、まさか本当のこととは……」
「ひどいな、トゥーサン。信じてなかったの?」
そう詰りつつも、カミーユは泣きそうな笑顔だ。
「……久しぶりね、トゥーサン。元気そうでよかった」
「シャンティ様……よくご無事で。お許しください。あの嵐の日も、お別れした最後の日にも、貴女を守れなかった私を、どうか」
眉を寄せてうなだれるトゥーサンに、アベルは泣きそうになりながら笑いかける。
「あなたが精一杯やってくれたこと、すべてわかっているわ。ありがとう、ずっとお礼も言えないままだった。それに、あなたはカミーユの従者として、本当に立派に仕えていてくれてる」
おれも、もらい泣きしそうだ、と目元を押さえるディルクへ、
「もらい泣きもなにも、まだ、どなたも泣いていませんから」
とマチアスが冷静に指摘する。
「さあ、我々は帰りましょう。デュノア家の方々がせっかく再会したのですから」
「じゃあ、おれもリオネルといっしょに……ってもういないか」
「先に帰られたようです」
マチアスとディルクの会話が聞こえていたアベルは、顔を上げる。リオネルが帰ってしまった、ということに一抹の寂しさを覚える自分がおかしい。
騎士館へ来て三日目。けっきょくだれよりもリオネルが来るのを待ち焦がれている。
それなのに素直に振る舞えないのは、やはりもうそばにいてはいけないと知っているからだ。
騎士館で過ごすあいだ、自分の気持ちを見つめる時間だけは充分にあった。
アベルの素直な思い。それは……。
リオネルのもとへ戻れるなら、まえのような関係に戻れるなら、アベルだって本当は戻りたい。リオネルのそばにいたい。
彼のことが好きなのだと自覚したからこそ、いっしょにいたい。
彼のことが好きなのだと自覚したからこそ、いっしょにいられない。
……なにが正解なのか、わからなくなる。
また来るから、と手を振って帰ろうとするディルクを、すかさずカミーユが引きとめた。
「待って、ディルク。少し話そうよ。姉さんと会えてから、まだちゃんとディルクを交えて話せてないし」
「でもせっかくデュノア家は水入らずだし、おれはまた来るよ」
「ねえ、ディルクは姉さんのことを、もう〝アベル〟としか見れないの? こんな格好してたって、本当はすごく女性らしいんだよ」
「い、いや、カミーユ。どんな格好でもアベルは素敵だとは思うけど、そういう問題じゃなくてさ」
「じゃあ、どういうこと」
詰め寄るカミーユの勢いにディルクはややたじろぐ。
「すみません、ディルク様」
アベルは慌てて割って入った。
「カミーユ、ディルク様を困らせてはいけません」
「だって姉さんはあんなにディルクのことを好きだったじゃないか」
「今だって大切な人よ」
「友達としてとかじゃなくてさ。ディルクのお嫁さんになるんだろう? それが姉さんの夢だっただろう?」
「カミーユ、冷静になって。だれが今のわたしなんかをお嫁にすると思う?」
「〝今のわたしなんか〟ってなに? 姉さんは素晴らしい女性だよ」
「これ以上言わせないで、カミーユ」
まあまあ、と仲裁に入ったのはマチアスだ。
「ディルク様もなんだか知りませんが感動していますし、これくらいでいいのでは」
感動しているというディルクを姉弟二人そろって見やれば、眉間に皺を寄せていたく感じ入る様子だった。
「ディルク様……?」
険しい顔のまま、ディルクがアベルの両肩に手を置いてうなだれる。
「アベル、おれを〝大切な人〟って……」
「は、はい」
「本当にアベルはいい子だね。カミーユの言うとおり、本当に素敵な子だよ。お嫁にいけないわけないじゃないか。第一、アベルを熱望するリオネルという存在を忘れてはいけないよ」
どこからどこまでが本気なのかわからぬ台詞に返答しかねていると、カミーユが不満げに口を挟む。
「なんだよ、ディルクまで! 親友には婚約者を譲るのか?」
「カミーユ様」
アベルより先にカミーユを諌めたのはトゥーサンだった。
「それくらいにしましょう」
「だって、トゥーサンは納得できるの?」
「我々の知らなかった三年間という歴史が、シャンティ様にもディルク様にもおありでしょうから」
ようやくカミーユは沈黙し、視線を下げる。
トゥーサンがディルクとマチアスに向けて告げた。
「お忙しいでしょうから、お二人はどうぞ行かれてください。私どもがシャンティ様と共におります」
どこか冷ややかな態度は、あくまでトゥーサンが王弟派とは距離を置くという立場を守っているからだ。
「カミーユ、またゆっくり話そう」
気遣う様子のディルクへ、カミーユは視線を合わせず「またね」とだけを返した。
「その態度はなに?」
ディルクとマチアスが去ったあと、アベルは呆れた声を弟へ向ける。
「だって」
「だってじゃないでしょう」
姉弟でやりあっていると、トゥーサンが笑う。
「こうしていると、三年の歳月が経っても、お二人ともお変わりないですね。昔に戻ったような気がいたします」
アベルとカミーユは、困惑の面持ちでトゥーサンを見やる。
「成長してないってこと?」
「大きくなったはずなんだけどな」
「あなたは、中身はそのまま」
「ひどいなあ」
トゥーサンが再び笑う。けれど、アベルが懐かしい心地でその顔を見つめていれば、すっとその笑みは消えていった。
真剣なトゥーサンの表情に、アベルは現実に引き戻される。
「シャンティ様、これからどうなさるおつもりですか」
自分でも、最も答えの見つからぬ問いだった。
「……わからないわ」
「ならば、このままリオネル様のもとにお戻りくださいませ」
単刀直入に告げられたトゥーサンの言葉。
正直なところ、アベルは驚いた。
職務や立場に忠実なトゥーサンが、ブレーズ家の宿敵であるベルリオーズ家に身を寄せるようになどと言うとは、思ってもみなかったからだ。
「そういうわけにいかないことは、あなたが一番よくわかっているでしょう、トゥーサン」
「私の口から、伯爵様に事実を告げることはありません。幸い、ノエル・ブレーズ様も他言しないと約束くださっているようですし」
「それでは、あなたがお父様やお母様を裏切ることになるわ」
「私はデュノア家の家臣であるまえに、カミーユ様とシャンティ様にお仕えする者でありたいと考えています」
「そうだとしても、わたしがこのままリオネル様のおそばにいていいわけがないわ」
「昨日、カミーユ様より話をすべてうかがってから、私なりに考えたのです。シャンティ様がデュノア家に戻ることはできません。ディルク様との結婚も難しいでしょう。かといって、危険に満ちたこの世界へ貴女をひとり行かせるわけにはまいりません。ならば、〝アベル〟という少年としてリオネル様のおそばに仕え、お守りいただくことが最善の道と存じます」
「トゥーサン!」
抗議の声はカミーユだ。
「なんでそうなるんだよ」
「最悪の事態を考えてください、カミーユ様。シャンティ様は死んだことになっているのです。生きているとなれば、デュノア家は様々な追及を受けることになります。それは同時に、シャンティ様を苦しめることにもなるのですよ」
「…………」
カミーユも状況を呑み込んだようだった。
すべてが明るみになれば、アベルの身に起こったことすべてが人々に知れ渡る。それはすなわち、アベルを苦しめることだと。
「再会を喜ぶより先に、シャンティ様にお伝えしたかったのです。一刻も早くリオネル様のもとへお戻りくださいませ。この王宮とて安全とは言い切れません。今の貴女を守る力を持ちえるのは、リオネル様以外にはおられないと存じます」
思いも寄らなかった提案に、アベルは反応できずにいる。
「敵の手に貴女を委ねるような思いではありますが、必ずしも味方と思っていた者が味方、敵と思っていた者が敵とはかぎりませんから」
謎めいた言葉だったが、アベルにはなんとなく理解できるような――けれど理解したくないような気がした。
幼いころから兄のように頼れる存在だったトゥーサンの出した結論は、少なからずアベルの心を揺さぶる。けれど解決できない問題がある。
たとえリオネルのもとに戻ったとしても、以前と同じ関係には戻れない。
リオネルはアベルの素性を知ってしまった。そして、アベルはリオネルへの気持ちに気づいてしまった。〝シャンティ殿〟と呼ばれ、突き放されたときの心の痛み。そう、それはきっと完全にリオネルへ心を預け切っていたからだ。
もとの関係に戻れないならば、いっしょにいても辛いだけ。
答えを出しあぐねていると、トゥーサンがあらためて言った。
「どうか、よくよくお考えになり、結論をお出しください」
「……ええ、わかったわ」
「それからシャンティ様、今更ではありますが、お会いできて心より安堵しております。今日ほど嬉しい日は他にないでしょう」
真面目なトゥーサンらしい口ぶりのなかにも、彼の心からの気持ちを感じ取る。
「ありがとう、トゥーサン。わたしも同じ気持ちよ」
「身に余るお言葉です。せっかく再会できたシャンティ様を、もう二度と危険な目に遭わせたくないというのが、私の心からの思いです。あまり長居すると怪しまれますので、我々はそろそろ失礼いたします」
「そうだね、トゥーサン」
名残惜しそうにカミーユが同意する。
「シャンティ様、私が申しあげたこと、ぜひ前向きにお考えください。カミーユ様を安心させるためにも」
「ちっとも安心なんかしないよ」
そうは言いつつも、先程より歯切れの悪いカミーユだ。
二人がいなくなってひとりきりになると、アベルは握った拳をひたいに押しつけた。
ここを出ていくつもりだったのに、トゥーサンの言葉に心が揺れる。
そう、再び姿を消せばカミーユが哀しむだろう。充分に苦しんできただろうカミーユに、もう哀しい思いはさせたくない。そして――。
叶うならリオネルのもとに戻りたい。リオネルのそばで、生きたい。
それが、アベルの正直な思い。けれど、思いだけではどうにもならないこともある。
……いったい、どうすることが正解なのか。
アベルは浅く溜息をついた。
+++
入室してすぐに目に飛び込んできたのは、豪奢な寝台に横たわるレオンだ。
「ああ、リオネル、こんな姿ですまない……」
起きあがろうとするレオンに、そのまま横になっているよう伝えながら、リオネルは寝台へ駆け寄った。二人の近衛は、レオンの指示によって室外で待機している。
「辛そうだね」
軽くひたいへ触れて体温を確かめれば、レオンが顔を背けようとする。
「あまり近づかないほうがいい、風邪が移る」
「平気だよ」
微笑みかけると、レオンの表情がくしゃっと崩れた。
「優しいな、おまえは……」
「普通だよ、むしろずっとレオンが体調崩していることに気づかなくて、ごめん」
「いや……リオネルも具合が悪かったのだろう」
「それは口実だったんだ」
「口実……?」
レオンは布団のなかから不思議そうな眼差しでこちらを見上げる。熱に浮かされた瞳に、リオネルは首を横に振った。
「また元気になったら話すよ」
「……いや、聞きたい。熱も下がってきたし、だいぶ体調はいいんだ」
少し迷ったものの、レオンがそう言うなら話さぬ理由もない。
「きっとすごく驚くと思う」
「ああ……この世のなか、いろいろと驚くことは多い」
「アベルはシャンティ・デュノア殿だったんだ」
「そうか……」
答えてから、「は?」とレオンは目を見開く。
「アベルがだれだって?」
「ディルクの元婚約者で、カミーユの姉君のシャンティ殿だ」
「……なんの冗談だ?」
「かつて彼女がディルクに宛てた手紙の筆跡から気づいた」
「〝彼女〟って、アベルは男では……」
「女性だよ」
「手紙……筆跡……女性……」
頭が痛むようで、レオンは片手をひたいに当てた。
「気づいてからいろいろあってね、おれはアベルにひどいことを言って傷つけてしまった。アベルはおれのもとを飛び出し、行方がわからなくなった。それが新年の前日の話だ」
「……つまり新年当日は、アベルを探しにいっていたのか」
「そう、そのために、体調不良を口実にして新年の祝いの席をすべて欠席した」
「それで、アベルは見つかったのか」
「神前試合の挑戦者として出場していた」
なにがなんだかわからないといったふうに、レオンは眉をひそめる。
「やっぱりこの話はまた今度にしようか」
「……おれは、熱に浮かされておかしな夢を見ているのか?」
「夢じゃないよ。アベルがシャンティ殿だったというのも、アベルが挑戦者として神前試合に出たというのも、すべて本当の話だ」
「……本当だというリオネルも、夢のなかの住人のような気がする」
「なんだか哲学的な世界に迷い込んだみたいだね」
「とすると、まるで少年のように年若い最後の挑戦者というのは――」
「そう、アベルだ」
「……シュザンに負かされたと聞いたが」
「剣で貫くふりをして、救ってくれた。今は騎士館にいる」
「はあ……そうか……」
深々とレオンは溜息をつく。
「とりあえず、夢だったとしても、夢のなかの現実として受け止めておこう」
回りくどい口ぶりにリオネルは小さく笑う。
「……けれどそれが事実だとすれば、大変なことになるところだった」
レオンは意味ありげな口調だ。
「大変なこと?」
「詳細は言えないのだが、小耳に挟んだのだ。……神前試合でリヴァルに抜擢されるはずだったのは、おまえだったらしい、リオネル」
さすがにリオネルも瞳を大きくする。
「おれが、リヴァルに?」
「リオネルが当日欠席したから、シュザンが代わりになったんだ」
「なぜおれが」
「……挑戦者の剣に毒を塗って、おまえを殺させる算段だったらしい」
リオネルは胸が冷やりとした。これまで黙って話を聞いているだけだったベルトランでさえ息を呑む。
「つまり、アベルにおれを殺させようと?」
「……彼らがどこまで知っていて仕組んだのかはわからないけど、結果的にはそういうことになる」
「…………」
「っくしょん……ああ、すまない。……そう、詳しいことはわからないが、ともかく出ていったアベルを探していたから、おまえは助かったわけだ。不幸中の多大な幸いというところか」
「とんでもない計画だな」
低くつぶやいたのはベルトランだ。
「アベルはおれを殺すために利用されたということか」
リオネルが声を低めたとき、扉の向こうからなにやら話す声が聞こえた。どうもなにか揉めているようである。
「おれが見てこよう」
ベルトランが扉へ向かうと、前触れなく扉が開けられた。三人の眼差しの先に立っていたのは思いも寄らぬ相手。
招かれざる客は――ジェルヴェーズ王子だった。
レビューを下さった読者様、素敵な感想をいただきありがとうございます。
いつもお礼をお伝えしたいと思いつつ、なかなか機会がないので、この場をお借りしてお伝えできましたら幸いです。
これまでいただいたレビューのひとつひとつ、とても嬉しく拝読させていただいております。
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レビューやメッセージやお便り…読者様からいただくあたたかい応援メッセージは、作者の宝物です。
ありがとうございます。心からの感謝を込めて。