第三章 二人で待つ春の歓び 33
参ったな、とその顔には書いてある。
普段は心情を露わにしない彼が珍しいことだった。
先程リオネルが極秘でノエルのもとを訪れ、シャンティのことを一切他言しないでほしいと頭を下げにきたのだ。
ブレーズ家の血を引くといっても、所詮ノエルは妾腹の子だ。正妻から生まれた兄姉と違って、その立場は不安定なものである。
そこへ政敵のはずのリオネル・ベルリオーズが深々と頭を下げにきたのだから、ノエルは困惑せざるをえない。
デュノア家の令嬢であり、姪にあたるシャンティが池で死んだということは、異母兄であるブレーズ公爵から聞いていた。
けれど、そこにいわくがあることは知っていた。具体的にどのようなことが起きたかは知る術もなかったが、穏やかならぬものだということは確信していた。
――けれど、まさか生きていたとは。
生きて、政敵であるはずのベルリオーズ家に仕えていたというのだから、正直ノエルでさえ驚かずにはおれなかった。
事態は複雑だ。
ノエルの立場からすれば、シャンティのことは異母姉ベアトリスに告げぬわけにはいかないだろう。けれど、カミーユからも黙っていてほしいと懇願され、さらにはベルリオーズ家の嫡男にまで頭を下げられた。
それでも伝えるべきだと判断したならば、ノエルは伝えただろうが、どうしてもひっかかったのは、シャンティ自身のことだった。
なにが起きたかは知る由もない。
けれど、なぜシャンティが死んだことにされねばならなかったか――あるいはデュノア邸から追放されなければならなかったかについては、思い当たることがある。
だからこそ、ノエルは未だデュノア家にもブレーズ家にもまだ今回の件について伝えていなかった。
もし伝えれば、あの少女の身になにが起きるか。
ノエルはそれを想像することをためらった。
……そう、今度こそあの娘は死ぬかもしれない。
そう思えば、ノエルの口から告げることはできそうになかった。
「叔父上、新年おめでとうございます」
真剣に考え込んでいたところ、折り悪く、甥であり剣の教え子でもあるフィデールと王宮の廊下ですれ違う。
フィデールの背後には、北方の生まれらしき風貌の従者。いつどこで拾ってきたのか、フィデールの背後にはしばしばこの長身の男が従っていた。
「なにかご心配でも?」
探るような視線を受け、ノエルは平静を装う。
「新年の催事で少し疲れたようだ」
「そうですか」
珍しいものを見るようにフィデールが目を細める。
「カミーユは?」
「彼も疲れているようだったから、少し自由になる時間を与えた」
「どこへ?」
「さあ」
本当は知っているが、ノエルは答えない。この若者もまた三年前の出来事に一枚噛んでいるということに、ノエルは薄々気がついていたからだ。
カミーユは騎士館へ、姉のシャンティに会いにいっているが、それを悟られてはならなかった。
「そうですか、年が明けてからあまり姿を見ないので、気にかかっていたところでした。レオン殿下やリオネル殿、それにそのご友人も体調を崩されているようなので、叔父上もお気をつけください」
そう告げると、軽く一礼してフィデールは立ち去る。その後ろ姿を見送りながらノエルは思う。
ブレーズ家を裏切ったことになるだろう。
だが、こういう形の復讐があってもいいかもしれない。
ずっと長いこと考えないようにしてきた。
憎しみがさらなる憎しみしか生まないことを、母からよくよく聞かされてきたからこそ、その母を死に追いやった異母兄姉を恨まぬように努力してきた。
けれど赦せるわけではない。
そう、きっと本当は憎いのだ。
心優しかった母を、前ブレーズ公爵から深く愛されたというだけで死に追いやったベアトリスを、心の奥ではずっと赦せないでいた。
なにかをするわけでない。
ただ黙っているという小さな復讐。
ノエルはだれのためでもなく、自らのためにシャンティの事実を封印した。
けれど運命の歯車は軋みながら、ゆっくりと回っていく。
ノエルとすれ違ったあとフィデールは、背後の侍従に声をかけた。
「エフセイ、叔父上は本当にお疲れだったのか」
「疲れているというよりも、迷っておられたようでした」
エフセイの返事に、フィデールは眼差しを鋭くする。
「迷う?」
「なにかを知っておられるようです」
「それはなんのことだ」
「とても重大なことです」
「回りくどいな。それはカミーユと関わることか」
「……そうかもしれません」
「はっきり言ったらどうだ」
「私は人が考えていることを読む超能力者ではありません」
「そんなことは知っている。だが、気づいているのだろう? カミーユに関わることで、叔父上が話したがらないこと……あるいは三年前のことか」
「…………」
黙りこんだエフセイへ、フィデールは冷めた眼差しを向ける。
「おおかたそんなところか。だが、なぜ叔父上は今更デュノア家のことを」
思案する面持ちになってから、ふとフィデールは思い至ったようだった。
「……まさかカミーユは」
そこまで言ってフィデールは口をつぐんだ。再び考え込んでからフィデールは、はっとした面持ちでエフセイを見やる。
「生きているのか」
無表情のまま沈黙しているエフセイは人間味がなく、上演を待つ繰り人形さながらだった。
「シャンティは生きているのか」
「私にはわかりかねます」
「〝わかりかねる〟のではなく〝答えかねる〟のだろう?」
「フィデール様に偽りを申すことはありません」
エフセイの真剣な様子に皮肉めかして笑ったフィデールは、すぐに考え込む面持ちになる。
「けれどなぜ叔父上が……そうか、カミーユが気づいたということか。ならば、どこへ」
フィデールは目を細めた。
+++
「姉さん!」
嬉しそうに部屋に飛び込んでくるのはカミーユだ。アベルが脱走しようとしたことは、彼には伝えないでもらっている。
なにも知らぬカミーユは、無邪気に姉と会える喜びを噛みしめているようだった。
「わあ、本当に姉さんだ。こうして毎日会えるなんて夢みたいだ」
そう言いながら自分の頬をつねるカミーユは、実にかわいい。
なにも言わずにいなくなったら、どれほど哀しんだだろうかと思えば、昨日リオネルとベルトランに連れ戻されてよかったのかもしれない。そんなふうに考えてしまう自分は、やはり甘いのだろうか。
「姉さんは、いつまで男の子の格好してるつもり?」
「ずっと」
「ずっとって……まあ、このほうがちょっとは安心だけどさ」
「ん?」
「ううん、なんでもない」
昨日に引き続き男装したままの姉を、カミーユはにこにこと見つめている。新年から三日連続で自分に会いにくる弟を、アベルは不安な気持ちで見返した。
「こんなに騎士館のほうへ来ていて大丈夫なの?」
「うん、叔父上から許可はいただいてる」
「剣の鍛錬は?」
「新年は少しお休み」
「そんなんじゃ上達しないわよ」
「姉さんに剣の小言を言われるのも久しぶりだね」
なにを言われても嬉しそうなカミーユに、シャンティはもはや小言をこぼす気も失くす。
身体は大きくなっても、中身は愛すべき弟のままだ。
「こっちにおいで、カミーユ」
向かいの席に腰かけているカミーユに手招きすれば、子犬のように無邪気にこちらへくる。長椅子に座るアベルの隣へ腰掛けたカミーユへ腕を伸ばし、アベルはできるだけ包みこむように抱きしめた。
「姉さん?」
少し恥ずかしそうにカミーユが尋ねてくる。
「……ちょっとだけ、こうしていさせて」
顔は見えないが、アベルの腕のなかでカミーユが目をつむったのがわかった。
「本当は、わたしだって信じられない。またこうしてあなたと会えたなんて」
うん、とカミーユはうなずく。
再会したことが正しいのかどうかはわからない。
けれど、もう二度と会えないと思っていたカミーユを、こうして抱きしめられる喜びは、なににも勝るものだった。
もう離れたくないと思う。――もしそれが許されるなら。
「きっと、こうして会えただけでも、神様からの贈り物だと思うわ」
「うん。三年前、おれは神様を恨んだけど、でもこうして会わせてくれたことに、今は感謝してる」
「本当に大きくなったのね、もうわたしの腕には収まりきらない」
笑いながらカミーユを解放すれば、少しばかり恥ずかしそうなまま彼は目を輝かせた。
「今日はね、トゥーサンにここへ来るように言っておいたんだ」
「トゥーサンはデュノア邸にいるのでしょ」
驚いてアベルは聞き返す。
「ううん、トゥーサンはおれといっしょに王宮に来てる」
「わたしのことを話したの?」
「うん……だめだった? 昨日までは黙ってたんだけど、どうしても我慢できなくて」
トゥーサンはデュノア家の真面目な家臣だ。シャンティが生きてリオネルに仕えていたことを知れば、伯爵夫妻に伝えぬわけにはいかないだろう。
もうすでに、いろいろなことが潮時であるような気がした。
「いいのよ、わたしも会いたかったから」
アベルはカミーユへ微笑みかけた。
「そっか」
ほっとした表情でカミーユが笑う。
「ちょっと待ってて、もうすぐ来ると思うから」
とカミーユが言った直後のこと、ノックされたあと扉が開く。もう来たのかと思えば。
「トゥーサン! ……じゃなくて、貴方ですか」
カミーユの声が途端に冷ややかになる。苦笑しつつ入室したのはリオネルだ。
「おれですまなかった」
「あ、ディルクも来たんだ!」
「おう」
ディルクが片手を上げる。その明らかな態度の差にベルトランが眉をひそめた。
「おい、リオネルに文句があるならおれが聞くが?」
わずかに怯えた顔になったカミーユだが、すぐに目をきっと吊り上げる。
「ああ、あるよたくさん。姉さんが神前試合なんかに出ることになったのは、リオネル様が姉さんに心ないこと言ったからだろう? それで姉さんのことを想ってるとか言ったって、おれは納得しないからな」
「おまえはリオネルとアベルのなにを知っているんだ。子供が知ったような口を効くな」
「おれは子供かもしれないけど、姉さんのことは生まれたときから知ってる。姉さんはずっとディルクのことが好きだった。それに、名前はアベルじゃなくて、シャンティだよ」
ベルトランのこめかみに青筋が浮かぶ。
「カミーユ、やめなさい」
アベルが諌めれば、ほぼ同時にディルクもベルトランをなだめる。
「ベルトランも、年下相手に大人げないな」
「おれが来たせいですまなかった。アベルの元気な顔も見れたし、もう帰るよ」
微苦笑で踵を返すリオネルを、「おい」とディルクが呼び止める。
「帰ることないだろ」
リオネルが扉をくぐろうとしたところへ、ちょうどひとりの騎士が現れた。その姿にアベルは目を見開く。
懐かしい姿は、三年前と変わらない。
「皆様、お揃いで――」
相手は男装姿のアベルに気づいておらず、むしろ入れ違うように部屋から出てきたリオネルや立ったままのディルクらに気をとられたようだった。
「ああ、トゥーサン、久しぶり」
友達のように親しげに声をかけるディルクへ、トゥーサンは生真面目に一礼する。
「皆様、新年おめでとうございます」
「もう三日経ってるけどね」
「リオネル様はもうお帰りに?」
部屋を出ていこうとするリオネルへ声をかけるトゥーサンを、アベルは呼んだ。
「トゥーサン!」
なかなかこちらに気づかないので、痺れを切らして駆け寄れば、驚く瞳がこちらを振り返る。
「……シャンティ様……」
彼にしては珍しくうろたえた声だった。