32
さすがにアベルの俊足も、名馬ヴァレールには勝てなかった。
背中から抱きこまれてアベルの身体は宙に浮く。気づけば馬上のリオネルの腕のなかだ。
「放してください」
暴れるが、リオネルの腕はびくともしない。
「アベル、落ち着いて」
リオネルの声が戸惑いに満ちているのを感じて、アベルは余計に手足をばたつかせる。
「どうして止めるのですか、行かせてください……」
「アベル、アベル――」
背中からリオネルの身体に抱きこまれて、背筋が震える。薄い夜着越しでは、アベルの身体の細さも、体温もすべてリオネルに伝わるだろう。
「――こんなに身体が冷え切ってる。無茶だ」
「わたしはここにいてはいけないんです。カミーユにも、貴方にも迷惑がかかります。お願いです、放してください」
「落ちついて、アベル」
どうあがいてもリオネルの力に叶うはずないので、アベルは奥の手に出た。つまり、リオネルの手の甲に爪を立てたのだ。
「…………っ」
わずかに息を呑む気配があったものの、それだけだった。力は少しも緩まない。
「……放すわけがない。こんな格好で、いったいどこへ行くつもりだ」
「あなたの知らない場所です」
「アベル――頼む、行かないでくれ」
「行かせてください」
ばんばんとリオネルの腕を叩くが、やはり解放してくれる気配はない。
「リオネル、その凶暴な子猫はおれが運ぼうか?」
ベルトランが見かねた様子でリオネルに尋ねる。
凶暴な子猫とは……。
「いや、大丈夫だ」
そう言って、リオネルは先程よりもぎゅっとアベルを抱きこんだ。
リオネルの体温で、徐々に身体が温まってくる。どれほど身体が冷えていたか今頃になって気づかされる。
あいかわらずリオネルは優しくて、温かかった。
このままではいられないと言っておきながら、アベルではなくシャンティと呼んでおきながら、この人の腕はまだ温かい。
思わずアベルは涙が溢れそうになって、唇を噛む。
こんなところで泣き顔を見せるわけにはいかない。
手を伸ばせば触れることのできる場所には、リオネルの腰に下がる剣。
躊躇いつつもその柄に指先を触れれば、ベルトランが自らの剣の柄に手をかけた。
「ベルトラン!」
それを厳しく制したのはリオネルだ。
「アベルに剣を向けることは許さない」
「だが、リオネル」
「いいんだ、アベルのしたいようにすればいい。この腕のなかにいるなら、なんだってかまわない」
リオネルの言葉には、たしかにアベルの胸に響くものがあった。それは、嬉しさとか安堵というよりも、言い知れぬ切なさだった。
どうして、と思う。
なぜ自分はブレーズ家の血を引く娘なのだろう。
デュノア家の令嬢で、ディルクの元婚約者で、知らぬ者の子を宿して家を追放された娘。
そして、どうしてリオネルはベルリオーズ家の者なのだろう。
どうして――、なぜ。
二人がなんの身分もなく出会っていれば、互いに裏切りあうこともなかったのに。
この先に、美しい未来を描くことができたというのに。
大人しくなってしまったアベルを、今度は心配そうにリオネルがのぞきこむ。
「大丈夫?」
強く抱き締めすぎたと思ったのかもしれない、リオネルの腕から力が弱まる。
優しさにつけこむのは卑怯だとわかっている。けれどアベルはその隙にリオネルの腕から逃れ出た。
「アベル!」
馬上から転げ落ちたアベルが自らの喉元へ突きつけたのは、リオネルの腰から奪った短剣。
リオネルが息を呑んだ。
「言ったはずです、わたしはここにいてはいけないと」
「だめだ――アベル、やめてくれ」
リオネルの声が揺れる。
「カミーユを愛しています。あの子を守るために――そして、あなたやディルク様に迷惑をかけないためにも、こうするしかないのです」
「だめだ、アベル、頼むからその剣を手から放してくれ」
「ならば、行かせてくれますか?」
「わかった、おれはきみに近づかない。だからその剣を放して」
「もう追ってこないと誓ってくださいますか」
「……一度話し合わないか。きみがそこまで追い詰められている理由を知りたい」
「わかりきっているではありませんか」
「きみがシャンティ殿だから? だが、これまでだってきみはそれをわかっていながら、おれのそばにいてくれた」
「もう戻れません」
「叔父上やノエル殿から話が伝わることを心配しているなら、二人には黙っていてもらうよう約束してもらった。ノエル殿へはおれが直接言ったわけではないが、カミーユが頼んだようだ。これまでどおりきみはアベルとして生きていけばいい」
リオネルの言葉にアベルは泣きたい気持ちになる。
そうじゃない。
だって、リオネルはもう知ってしまった。
もう、もとの関係には戻れない。
……そしてなにより、アベル自身が気づいてしまったのだ。
涙が溢れそうになって、視線を伏せる。その瞬間、背後から剣を叩き落とされた。
「…………っ」
豹のごとく馬から飛び降りてアベルの剣を打ち、さらにアベルの身体を拘束したのはベルトランだ。
暴れようとするにも、痛いくらいに拘束する力は、リオネルの比ではない。こちらは手加減がなかった。
「ベルトラン!」
リオネルが眉を顰めて馬から降りる。
「乱暴なことをするな」
「手加減なんかしていたら、おれたちだけではなく自分自身にも噛みつくぞ、この荒くれ猫は」
羽交い締めにされてどうにも身動きできなくなっているところへ、軽快な走りで一騎が駆けてくる。馬で追ってきたらしいシュザンだ。
「か弱い女性になにをしているんだ、ベルトラン」
「か弱い? どこがだ。この野良猫はお転婆を通りこして凶暴だ」
荒くれ猫、野良猫、凶暴……さんざんな言われようだった。
ちらと雪のうえに落ちた短剣や、リオネルの手の甲についた爪跡に視線をやってから、シュザンはため息をつく。
「しかたがない、そのまま騎士館へ連れてきてくれ」
どう暴れてもベルトランの腕からは逃れられるはずがないことを知っているアベルは、すっかり消沈して騎士館へ連れ戻された。
+
暖かい蜂蜜酒の香り。
けれど、脱走に失敗したうえに、シャルム国内でも一、二を争うのではないかというほどの剣豪たちが、アベルの周囲を取り囲んでいる。
今後の身の振り方など、見当もつかない。
とても酒に手をつける気持ちにはならなかった。
「もう少しで足の指が凍傷になるところだったと、医者は言っていました」
淡々と告げるシュザンの声は呆れ気味だ。
「シャンティ殿、いくらなんでも先程の格好で抜け出すのは、無謀だと思いませんか?」
アベルは答えなかった。
今更、無謀かどうかなんて考えようとは思わない。
「まともな男ならば、あの格好では目のやり場に困ります。逆に性根の腐った男なら、やましい思いを抱きます。そのような姿で、貴女はどこへ行くつもりだったのですか。それに、この雪のなか、薄着ではすぐに風邪をひきます。足だって凍傷になりかけていたのです」
シュザンの説教は、怒り口調ではないが、淡々としていて長い。アベルのもっとも苦手とする種の説教だった。
今アベルがまとっているのは男物の冬服だ。夜着のドレスで脱走されるよりはましと、ようやくドレス以外の服を与える気になったようだ。
「どれほど危険な真似をしたか、わかっておられますか」
やはりアベルは答えなかった。強制的に連れ戻されたが、カミーユやリオネルのそばにいてはならないという気持ちに変わりはない。
「叔父上、もういいです」
まだまだ続きそうな説教をリオネルが遮ると、シュザンが顔を顰める。
「また同じことが起きたらどうする。シャンティ殿を預かる以上、おれには責任がある」
「ええ、わかっています。……アベルから事情を聞きたいのです」
リオネルはアベルへ視線を向けた。
「きみをここまで追い詰めてしまったことを、心からすまなく思っている。だから、教えてくれないか。きみがカミーユ殿やおれたちのそばにいてはいけないと思う理由を知りたい。アベル自身の気持ち……あるいは立場の問題なのか」
きっと両方だ。けれど、アベルは黙っていた。
ここにいてはいけない理由をうまく説明できる自信もないし、わかってもらえる気もしない。
「立場の話は、さっきも言ったとおり、叔父上とノエル殿以外にはだれも知られていない。ノエル殿にはおれからも他言しないようお願いする。これではだめか」
「…………」
これで、いいのか。
アベルにもわからない。
「ほかにも事情があるなら、教えてほしいい」
優しく尋ねてくるリオネルへ、返す言葉は思いつかなかった。
この人を、すでに自分は愛してしまっている。
主君として、人間として、異性として……その境界線は曖昧だが、それを区別することに大きな意味があるとは思えない。
ただ、愛しているのだ、リオネルを。
そのことに気づいた今、もはやどうすればいいのかアベル自身にもわからないのだ。
真実の気持ちに気づいたぶん、リオネルに突き放された傷もまた深い。
いずれ再び、彼がアベルの手を放そうとする日がくるかもしれない。そのことに怯えて生きるくらいなら、いっそ彼から遠く離れた場所へいってしまいたかった。
それは、互いに傷つけあうことのない場所。
立場や出自に振り回されることのない場所。
その場所は、きっと喜びも哀しみもないところだ。
「……アベルは、自分がここにいてはならないのだと言っていたけれど、おれはそうは思わない。皆がきみを必要としている。なによりおれが、アベルにそばにいてほしいと思う。これから先ずっとアベルといっしょにいたい」
リオネルの声は穏やかはずなのに情熱的に響く。
「話したくないなら、無理にとは言わない。ただ、ひとつだけ頼みを聞いてほしい」
椅子から立ち上がり、リオネルはアベルのそばへ寄る。目線を合わせるように屈むと、先程よりずっと強い語調で言った。
「ひとりで勝手にいなくならないでくれ、頼むから――」
間近で見つめてくるリオネルの瞳を、まともに見返すことができない。
「きみにひどい言葉をつきつけておきながら、こんなことを言う資格はないかもしれない。それでも、アベルのことが心配でどうにもならないんだ」
アベルがうつむいていると、リオネルは軽くアベルの髪に指先で触れる。愛おしげなその仕草の直後、リオネルは祈るようにもう一度言った。
「ここから、いなくならないでくれないか」
「……お約束は、できません」
ようやく声を発する。小さすぎて、自分でも聞きとれないほどの声だった。けれどリオネルの耳には届いたようだ。
「どうしたら約束してくれる?」
穏やかな声音に尋ねられて困惑する。どうしたって約束できるはずない。
「今すぐじゃなくてもいい。どうしたら約束してくれるか、考えておいてくれないか。その答えを、おれはいつまでも待つし、アベルが出した答えに応えられるよう努力するから」
「…………」
「きみが戻ってきてくれるまで、何度でも迎えにくるよ」
リオネルが立ち上がり、離れていく。
出ていく姿は見なかったが、リオネルとベルトランが部屋からいなくなる気配があった。
彼の気配が完全に消えると、途端に心に隙間ができたように感じられる。
もう、引き返せないほど、リオネルを好きになっている。その事実を思い知らされて、戸惑う。
それはきっとこの数日の話ではない。ずっとまえから、きっとリオネルを愛していた。
いつからだったのかさえ、もはやアベルにはわからない。この気持ちに気づかなかった自分は、相当な鈍感だったのだろう。
シュザンと二人きりになったアベルは、居心地の悪さから思わず蜂蜜酒へ手を伸ばす。またあの説教を聞かされてはたまらない。
けれどそれは杞憂だった。ただ、ひとこと。
「あいつは真剣ですよ」
と、シュザンはアベルに向けてつぶやいただけだった。