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どれほど危険な戦場に行くにも怖れはしない。けれど今、アベルのもとへいくことには、少なからぬ勇気を要した。
拒絶されることもむろん辛いが、それ以上にこたえるのは、アベルの傷ついた眼差しだ。
こちらへ向けられる瞳は、三年前と同様、人を信じることができぬ孤独な眼差しだった。
自分の勝手な思い込みで振りまわしてしまった。
アベルの心を溶かすことができるなら、これからいくらでも彼女のもとへ通いつづける覚悟はある。けれど、果たして本当に彼女の心を溶かすことができるのだろうか。
それに、アベルが王宮内に滞在していると思うと、また別の不安も募る。
ジェルヴェーズ王子は、いつでも騎士館へ向かうことができる。万が一にでも二人が再会するような事態になれば、ジェルヴェーズはアベルがあの夜の踊り子であることに気づくだろう。
アベルは無事ではすまされない。
「あれ? もう行くのか?」
目覚めて顔を洗い、食堂へ降りてきたばかりのディルクが怪訝そうに尋ねる。
「ディルクはゆっくりしていてかまわないよ、すぐに行って帰ってくるから」
「通い婚か?」
一昨日はほとんど休んでいないため、ディルクはひと晩寝てもまだ疲れが取れぬ様子だ。
「通い婚なんて言ったらアベルが怒るだろうね」
「そうか、先は長いねえ……」
軽く欠伸をしながら、ディルクは温められた羊乳に口をつけた。
「ディルク様は行かれないのですか?」
マチアスに問われると、寝ぼけた顔のままディルクは覇気なく答える。
「あ? ああ、会いたいけど、まあ、おれが行くと余計にややこしそうだから……」
それもその通りだ。カミーユがとにかくシャンティとディルクが結ばれることを望んでいる。リオネルとディルクがそろって押しかければ、本人たちの意思に反してシャンティを奪い合う構図ができあがってしまうだろう。
「……すごく、会いたいけどね。シャンティだと知った今、なおさらアベルが愛おしいよ」
「好きな時間に会いにいったらいいよ。ディルクが行けば、きっとアベルもカミーユも喜ぶから」
「……おい、リオネル。いじけてるのか?」
真意を探るように尋ねてくるディルクへ、いや、ときっぱりリオネルは首を横に振る。
「本心だよ」
そう、アベルが少しでも楽しい気持ちになってくれるのだったら、多くの人に見舞いにいってもらいたい。一日でも早くアベルの笑顔が見たかった。
「健気だねえ……」
「さっさと朝食でも食べてしまわれたらどうですか」
ぴしゃりと言うマチアスは不機嫌そうにも見える。
「急にどうしたんだ、マチアス。なんか怒ってる?」
「いえ、ふとこの現実の残酷さに腹が立っただけです。お気になさらず」
八つ当たりされてる気がするのは思いすごしだろうかと内心でこぼしつつ、黙ってディルクは並べられた朝食に手をつける。
「いってらっしゃい」
「お気をつけて」
ディルクとマチアスに見送られてリオネルは館を出る。黙って従うのはベルトランだ。
年が明け、アベルと再会して二日目。
雪道を馬で駆けながら、リオネルは思う。今、アベルはどんな気持ちでいるだろう。
これまで盲目的なまでに自分を信じていてくれたが、それを裏切られたアベルは今どのような思いでいるだろう。
きっとアベルは『愛している』などという言葉を必要とはしていなかった。
求めていたのは、ただ変わらず『ここにいていい』という、ひと言だけだっただろう。
ここにいていいのだ、と。
ここがアベルの戻る場所なのだと。
その言葉だけをすがるように求めてきたはずだ。
それを拒絶され、帰る場所を失い、誘われるがままに神前試合に出た。死ぬつもりだった――あるいは死んでもかまわないと思っていたに違いない。
それを思えば、リオネルは胸が押しつぶされるような心地がする。
過去などどうでもいいのだと――周囲の思いなど気にしなくていいから、このままそばにいてほしいと、ただひたすらにアベルを抱きしめ、どこへも行くなと伝えてあげられればよかったのに。
そしてそれは、自分の思いでもあったはずなのに。
ディルクがシャンティを男女の意味で愛していないこと、そしてアベルもまたディルクへの想いより、リオネルとの絆を支えにしてきたことを思い知らされ、ようやくリオネルはアベルに再び「戻ってきてほしい」と伝えることができるようになったのだ。
我ながら情けないと思う。
これほどまでに大事なのに、どうしてなりふり構わず繋ぎとめようとしなかったのか。
けれど、落ちこんでいるわけにはいかなかった。
アベルが再び死に手を伸ばすようなことがあってはならない。
そんな結果をけっして導いてはならない。
そして素直に、アベルを放したくないと思う自分もいた。
シャンティと知ってもアベルを愛している。
たとえブレーズ家の血を引く娘であってもこの気持ちは変わらない。それは、はじめから考える余地もないくらいはっきりしている。
どんな形でもいい。
そばにいてほしい。
アベルの笑う姿をそばで見ていたい。
あの笑顔を取り戻すまでは、どんな努力も惜しまぬ覚悟だった。
+
重い眠気で起きあがることができずにいる。
起きなくちゃ、と思うのに身体が動かない。
神前試合で負った細かな怪我や、古傷の痛みもあるが、それだけではない。
昨日は、様々なことが起こりすぎて頭の整理ができなかった。身体はこれ以上物事を考えることを拒否しようとしているかのように、重くしんどい。
起きあがろうとして失敗し、けっきょく布団にうつぶせになってぶらりと手を垂れる。
アベルは重くため息を吐いた。
これからどうすればいいのか、見当もつかない。
行き場を失ったうえに、カミーユにもリオネルにも会ってしまった。ノエルに知られたからには、デュノア邸の父に伝わる可能性がある。そうなればどうなるかわからない。
もう二度とカミーユのまえに現れるな、ベルリオーズ家やアベラール家にも近づくなと手紙が送りつけられてくるだろうか。それとも、今度こそデュノア家の恥だと、池に突き落とされるだろうか。
どこへも行き場がないのだから、それでもかまわないが、それにしても我ながら下手なことをしたと思う。もっと計画的に行動すべきだった。
といっても、計画的になったところで、行くべき場所などどこにもなかった。
当面の目標は、ここを密かに抜けだすことくらいだ。
そう考えてから、はっとアベルは瞳を開いた。
そうだ、自分はなにを悠長に構えているのだろう。すぐにここを出なければならないはずだ。皆を面倒事に巻きこむまえに姿を消さなければ、大変なことになる。
一刻も早く出ていくべきなのだ。
うまく回転しない頭でそんなことを考え、アベルは寝台から降りた。身体は重いし、着慣れないドレス……というか今は薄手の女性用の夜着のままだが、そんなことにかかずらっている場合ではなかった。
思い立ったらすぐに実行する質である。
シーツを剥がして切り裂き、先端をしっかりと結び付ける。長いロープのようにつなげると、片方の端を寝台の脚に縛りつけ、もう片方を窓のそとへ放り出した。
窓枠に足をかけ、アベルはシーツのロープを伝って降りはじめる。
朝食の時間帯なので、騎士らの姿はない。
このままゆっくり降りていけば騎士館から出られる……と確信したところで、思わぬことが起きた。ローブが大きく弛んだと感じると、ほぼ同時に身体が宙に浮く。
ローブが解けたのだ。
悲鳴も上げられぬほどの速さで身体が落下する。
一瞬のうちに身体は地面の高さ。
「――――ッ!」
ぼすッ。
落下が止まったとき、痛みはなかった。
それはいつかセレイアックの大聖堂から落ちたときとも異なる感覚。なんだかお尻の下がやわらかい。やわらかいけれど、冷たい。
「雪……?」
アベルは沈みこんだ雪のなかからもぞもぞと起きあがる。
そうか、雪が積もっていたので助かったのだ。そのことに気づけば、自分がひどく滑稽な気がした。いつも望むと望まざると、意外なところで意外なものに助けられる。
ゆっくりと起きあがったとき、アベルははじめて人の気配に気づく。
壁際で長剣を握ったまま、こちらを凝視する青年がいた。
カミーユくらいの年齢だろうか。小柄だが、意思の強そうな眼差しの持ち主だ。
しまったと思うがもう遅い。相手がだれだか知らないが、しっかりと見られていた。このネグリジェ姿で落下する、はしたない姿を。
「だれですか……?」
尋ねたが、不審なのは明らかにアベルのほう。
名を問われて青年は一瞬たじろいだが、すぐに我に返ると、長剣を鞘に収めて駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!」
「……平気です。今のは見なかったことにしてください。それでは」
雪を払いもせず逃げ去ろうとするアベルを、青年は呆然と見つめている。
まっしろな雪景色のなか、純白のネグリジェを着た色白のアベルは、風景に溶け込んでむしろ違和感がない。しかし本人は、はたと気づく。
この格好でいれは、いくらなんでも門番に怪しまれる。
アベルは慌てて来た道を引き返し、まだそこに突っ立ていた青年に声をかけた。
「お願いがあります、服を貸してもらえませんか」
「服!」
青年は唖然として目を丸くする。
「あいにくお礼をすることはできないのですが、お名前をうかがえれば、いずれお返ししますので」
「いや、だって、服って――」
青年は動揺しきっている。けれど、その視線がふとアベルの足もとへ落ちると、なにか衝撃を受けた面持ちになった。
「裸足……」
「靴はいらないです」
「靴はいらないって、そんな」
やおら靴を脱ぎはじめる青年に、今度はアベルが慌てる。
「あっ、本当に靴はいいので」
「雪のうえを裸足なんて、たとえ貴女だって風邪をひきます!」
まるでアベルのことを知っているかのような口ぶりが気になったが、いちいち追及している時間はない。
「なんだかわかりませんが、本当に一番上の外套を貸していただくだけで――」
「いいから、靴を履いてください!」
押し問答を繰り広げていると、突然頭上から鋭い声が響いた。
「シャンティ殿!」
はっとして見上げた窓にはシュザンの顔。
見つかったらしい。
これは逃げるしかない。足には自信があるし、身ひとつならどこか物蔭にでも隠すことができる。アベルが駆けだすとシュザンが叫んだ。
「コンスタン! その娘を捕まえてくれ!」
「えっ、あ、はいっ!」
困惑しながらコンスタンと呼ばれた青年がアベルのあとを追ってくる。だが、彼は靴を脱ぎかけていたうえに、アベルの俊足にはとても追いつけない。
かなり走ったと思う。うまく撒けたようで、途中で彼の姿はまったく見えなくなっていた。
リヴァロ式庭園の木々のなか、雪の上を走り抜ければ、足の裏はあまりの冷たさに感覚を失っていて、思ったより辛くはない。このままどこかへ身を潜めよう、と思った矢先のこと、視界に思わぬものが飛び込んできた。
まさか、どうして、このときに彼がここに――。
王宮の門は反対側のはずなのに、まったく目立たない木立のあいだから現れたのは、騎乗したリオネルとベルトランではないか。
「アベル!」
リオネルは驚きを隠せない様子だった。
後方にはおそらくあの青年やシュザンがいるし、前方はリオネルとベルトランに阻まれている。窮地に陥ったアベルがしかたなく足を真横へ向ければ、当然のことながらリオネルが馬の腹を蹴り、器用に木々の合間を駆けて追ってくる。
さすがにアベルの俊足も、名馬ヴァレールには勝てなかった。