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「そうですか、今しがた少年は死んだと」
礼拝堂内の脇にある小部屋で、ガイヤールは薄く笑う。
「遺体は?」
「確認できておりません」
「そうですか」
「遺体だけでも回収しますか」
兵士の問いに、ガイヤールはゆっくりと首を振った。
「おそらくシュザン殿は引き渡さないでしょう」
「ならば、死亡したことを確認に行きますか?」
「会わせてくれないと思いますよ」
ガイヤールの返答に兵士は戸惑う面持ちになる。
「それでは……」
「仕方ありません、ここはひとつ別の方法を考えることにしましょう」
「別の方法、ですか」
「最後の伝言を頼まれてもらえますか。……シュザン・トゥールヴィル殿には『とりあえず少年は死んだことにしておきます』と伝えてください」
「よろしいのですか」
「シュザン殿の強さを見たでしょう? 刃向かえば返り討ちにあいますよ」
「……は」
頭を下げて辞す兵士を見送ってから、ガイヤールは再び薄く笑った。
一方こちらは、とても納得のいった様子ではない。
またぞろ計画が失敗したジェルヴェーズは、苛立ちまぎれに葡萄酒の杯をあおっていた。
午後の演奏会に参加したものの、ジェルヴェーズを取り巻く雰囲気は険悪そのもので、周囲にいる者たちは緊張しきっている。
声をかけるのを躊躇う様子の酌取りの代わりに、フィデールはジェルヴェーズへ尋ねた。
「まだお召し上がりになりますか、殿下」
ああ、とジェルヴェーズが答えたので、フィデールは酌取りに目配せして葡萄酒を注がせる。これ以上酒を入れると危険ではあったが、飲ませなければ機嫌は悪くなる一方だろう。
ジェルヴェーズがルスティーユ公爵とこそこそ話しあっていたことは、フィデールも知っていた。内容まではわからないが、リオネルを陥れる計画だということは明白だ。
神前試合に出席せず、チェスに付き合えと言い出した時点で、ジェルヴェーズの機嫌はすでに最悪だった。
フィデールに相談せず計画したからには、その愚痴を言うわけにもいかぬらしく、ひたすら酒をあおりつつジェルヴェーズはチェスの駒を動かしていた。だから、あえてフィデールも尋ねなかったが、おそらく失敗したのだろう。
タイミングとしては神前試合の始まるころだったし、リヴァルとなったシュザンの活躍と、最後の挑戦者が小柄なわりに剣豪だったことなどは、すでにフィデールの耳にも入っている。
そのあたりから、どのような姦計だったのかくらいはおおよその予測はついた。
とすれば、リオネルが神前試合に出席しなかったのが、故意なのか偶然なのかが気になるところだ。体調不良とは聞かされているが、少し調べてみる価値はありそうだ。
他国から招いた楽団の演奏は続いていたが、ついにジェルヴェーズは席を立った。
けれど即座に父王に呼び止められ、ジェルヴェーズはしかたなしというふうに足を止める。
「なんでしょう、父上」
「演奏の途中で席を立つものではない」
舌打ちしそうな勢いで、ジェルヴェーズはどんと椅子に座りなおす。
「ジェルヴェーズ」
「座ったではありませんか」
「新年の祝いの席だ。晴れやかな日に、そのような態度でどうする」
ジェルヴェーズはエルネストに答えず、足を組み、つまらなそうに楽団を見つめた。そこへ声をかけたのは王妃グレースである。
「ジェルヴェーズ」
さすがのジェルヴェーズも不機嫌な面持ちを少しばかりあらためて、母親を見やった。
「なんでしょう」
「殿下は演奏がお得意でしょう? 楽団の方々からひとつ楽器をお借りして、なにかわたくしに聞かせてくださいませんか?」
「は? ……あ、いえ、母上、そのような……長いこと楽器など触れておりませんので」
珍しくまごつくジェルヴェーズを、フィデールはちらと見やる。
「平気ですよ、あなたならできます。ツィンクなどどうでしょう? お好きではありませんでしたか?」
ツィンクは美しい旋律を奏でる金管楽器だが、演奏が難しいために奏者が少ない。そのツィンクを得意とするのだから、だれもがジェルヴェーズの音楽の才は認めるところである。
「私もぜひ聞いてみたいです、殿下」
横からフィデールが口を挟めば、エルネストもうなずいた。
「久しぶりにそなたの演奏を聞くのもいいな」
ジェルヴェーズは目を眇めて、口端を吊り上げる。
「フィデール、そなた覚えていろ」
苦笑でフィデールが応じれば、ジェルヴェーズはさっさと立ち上がり、大勢の貴族らが見守るなか、楽団のほうへ歩んでいく。
ちょうど曲が終わったころ、奏者たちはジェルヴェーズをみとめてさっと立ち上がる。
そのなかのひとりからツィンクを取り上げると、ジェルヴェーズは壇上の国王夫妻に向けて優雅に一礼した。
ゆっくりと唇を楽器に押しあて、軽く身体を揺らすと、やわらかな音色がジェルヴェーズの口元から会場へと流れはじめる。
優しく澄みわたる音色からは、普段のジェルヴェーズの気性が想像できない。フィデールはその姿を黙って見つめていた。
本職でさえ聞き惚れるほどの演奏を披露し終えると、盛大な拍手が会場を包む。
媚びへつらいではない、純粋な称賛。
新年を飾るにふさわしい、実に珍しい余興だった。
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新年の祝いに皆の心が浮き立つなか、すっかり忘れ去られつつある存在がある。
「……っくしょん!」
くしゃみの原因は、噂話などではなく、完全なる風邪。
噂もしてもらえぬレオンは、布団のうえで呻いていた。
「うぅ、関節が痛い……」
「もうしばらくの辛抱です、殿下。医者の処方した薬を飲んでいれば、少しずつ改善しますから」
近衛兵のシモンとクリストフがそばにいてくれることだけが、唯一の慰めである。
「……頭が割れそうだ」
「新年だというのに、なんとお気の毒な」
つぶやくシモンは、顔を歪めて泣きだしそうだ。
「……リオネルやディルクは、どうしてる?」
神前試合や演奏会に顔を出さぬことで、友人らに心配をかけていないだろうかと案じるレオンへ、クリストフは微妙な面持ちで告げた。
「いえ、連絡などはきておりませんが」
「……そうか」
心配をかけたいわけではないが、音沙汰がないというのは、それはそれで複雑な気分でもある。
いや、むしろ彼らは無事なのだろうか。兄たちが悪巧みをしていたらしいことを、熱に浮かされた頭でふと思い出して不安になる。
「……神前試合はどうなった?」
「食事を取りに行った際に少し聞きました」
「それで?」
「リヴァルは正騎士隊のシュザン・トゥールヴィル隊長だったそうです」
「シュザン……」
「最後のひとりが少年のごとく若いのに手強い挑戦者で、かなり盛り上がったようですが、むろん勝者はシュザン殿です」
「そうか、よかった……っくしゅん!」
「あまり話をせず、お休みになっていたほうがよろしいのでは」
寝返りを打って呻きながら、レオンはなにかが引っかかる気がしてつぶやく。
「うぅ……少年のよう……?」
「少年?」
「挑戦者の……」
「ああ、そのようで」
「…………」
具体的な情報を得られず、レオンは黙りこんだ。
そのとき、扉をノックする音がある。すぐさまシモンとクリストフは緊張を走らせた。二人が最も恐れる来訪者はジェルヴェーズ王子だったろう。
だが、誰何の声に答えたのは意外な声。
「――私だ」
声だけですぐに相手を知った二人は、扉を開けた。
「失礼いたしました、ルスティーユ公爵様」
「いや、しっかりレオンを守ってくれているようだな」
労いの言葉をかけてから、ルスティーユ公爵はレオンの寝台へ歩み寄る。
「伯父上……」
よろよろと起きあがろうとするのを、公爵は手でやんわりと押しとどめた。
「動く必要はありません、殿下。突然の訪問をお許しください」
「いや……かまわない」
熱に浮かされたままレオンは母方の伯父を見上げる。皆が新年に酔い痴れているときに、自分のような病人の部屋へ来るとは何用だろうか。
「お加減はいかがですか」
「……正直なところ、あまりいいとは言えない」
「実はお話しがあってきたのです」
「話……」
「殿下がこのようなときに心苦しいのですが、こうなってしまった原因といったものについて話したかったので、あえてご訪問させていただきました」
こうなった原因という言葉にぎくりとする。
いやな話だということはなんとなく想像がついた。
「実は今日の神前試合で、私とジェルヴェーズ殿下は、リオネル殿をリヴァルに立てる計画を練っておりました。挑戦者の剣に毒を塗り、リオネル殿を亡き者にするためです」
げほッ、とレオンが派手にむせ返り、そのまま咳きこむ。
まさか新年を迎える喜ばしき日に、そのような卑劣な謀計が裏で巡らされていたとは!
「大丈夫ですか、殿下」
慌てて背中をさすってくれるルスティーユ公爵へ、うなずきを返す余裕さえレオンにはない。あわやリオネルが今日殺されるところだったことを思うと、身の毛がよだつ。寒気で熱も下がりそうだ。
「ですが、もうご存知でしょう? リオネル殿は王宮に姿を現さず、失敗に終わりました」
ぜえぜえと荒く呼吸をしながら、伯父の言葉をどこか遠い世界から響いているような気持ちで聞く。いや、本当に遠い世界の出来事であったらいいのにとレオンは思った。
もうリオネルを殺そうとするのはやめましょう、などとは言うこともできず、レオンは高熱でなにも反応ができぬ状態であることを今は感謝した。
「なぜこの話を殿下にしたと思いますか?」
なぜだろう。さっぱりわからない。
知っておきたかったような、聞きたくもなかったような……。
「もう一度、殿下には我々の側へ戻ってきていただきたいのです」
レオンはさらに頭が痛くなっていくのを感じた。
「リオネル殿は我々の存在を脅かす、けっして相容れることのない存在。紛うことなく我々の敵です。お間違えなきよう」
「…………」
「もうあまりリオネル殿やそのお仲間とはお付き合いなさいますな」
「それは――」
「ジェルヴェーズ殿下を困らせてはなりませんぞ。殿下も好きこのんで貴方をこのような目に遭わせたいと思っているわけではありません」
そうだろうか、とレオンは内心で首をひねる。
「ジェルヴェーズ殿下に、もう二度とこのようなことをさせてはなりません」
なに、悪いのはおれなのか、とレオンは熱に浮かされながらも、意見したい気持ちになる。
「お二人が手を携えこの国を治めることが、もっとも望ましい形なのですから。覚えておいていただけますね」
頭を押さえて顔をしかめることで、レオンはまともに返事ができる状態ではないことを主張する。実際、高熱で話ができるような状態でないことはたしかなのだが、それ以上に返答を避けたかった。
「ご回復されましたらまたうかがいます」
そう言って出ていくルスティーユ公爵を見送りながら、このまま高熱が続けばいいのにとレオンは密かに思った。