表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第七部 ~神前試合は、運命の歯車に導かれ~
416/513

29








「おれのために、ジェルヴェーズ王子から瀕死の怪我を負わされたアベルという人に、ずっと会ってお礼を言いたかった。でも、姉さんだったなんて……あのときの、真黒な煙突掃除の男の子が、姉さんだったなんて」


 両手を固く握るカミーユの、そのさらさらの髪にアベルは触れる。


「どうしておれは気づけなかったんだろう」

「気づかなくてよかったのよ」


 うつむけていた顔を上げて、カミーユはアベルを見据える。


「いやだ。だめだよ、そんなの。あんなに近くにいたのに、姉さんはおれをかばってくれたのに、なにも知らなかったなんて。姉さんがあんな暴力を振るわれていたなんて、思い起こすだけで苦しいよ。もしあのまま姉さんが死んでいたりでもすれば、おれはどうしたらよかったの?」

「わたしは三年前に死んだも同然だったのだから」

「違うよ、そういうんじゃないよ、おれは姉さんに生きてほしい……」


 泣きそうなカミーユをまえに、アベルはすまない気持ちになる。


「ごめんね、カミーユ」

「謝らないでよ、謝るのはおれのほうなのに」


 青みがかった灰色の瞳を潤ませるカミーユを、アベルは抱き寄せる。


「離れていても、ずっとあなたのことを思ってた」


 腕のなかで黙りこくってしまったカミーユへアベルは問いかける。


「あなたはノエル様の従騎士になったの?」

「うん」

「ノエル様は厳しい?」

「優しすぎて、おれはちっとも腕が上がらないよ」


 カミーユの回答にアベルは笑う。今日初めて会ったが、たしかにノエルは知的で穏やかな雰囲気の男性だった。


「王宮での生活はどう?」

「うん、叔父上や従兄弟のフィデール様が面倒を見てくれてる。最近、友達もできたんだ」

「よかった。安心したわ」


 こうしてカミーユを抱きしめていると、三年前までのカミーユを思い出せそうだ。


「姉さん」

「なに?」

「姉さんはさ、もうディルクのこと、なんとも思ってないの?」


 唐突な質問にアベルはぎくりとする。


「だって、ずっとそばにいたんだろう? それなのに、姉さんはリオネル様のことばかりだ」

「それは――」

「リオネル様が姉さんのことを〝愛している〟って」

「…………」

「ううん、ごめん。なんでもない。こんなこと言われても困るよね」


 なんと答えればよいかわからず、アベルは押し黙る。


「でも、姉さんはとても綺麗だから、ただそれだけで惹かれる男はたくさんいると思う」

「綺麗なんかじゃ――」

「おれだっていちおう男だから――だからわかる。男なんて簡単に信じちゃだめだ。もう嵐の日のような、あんな目に二度と遭わせたくない」


 あんな目、という言葉がなにを指すのかはわかる。


「あなたが気にすることじゃないわ」

「やだよ、姉さんが苦しむのは。もう嫌なんだ」


 カミーユの言葉にアベルの胸は苛まれた。

 彼にそんな思いを抱かせていることに、アベルもまた苦しくなる。


「リオネル様はいい人よ」

「わかってる。でも……本当に姉さんのことを想っているなら、どうして姉さんの手を離したの? 姉さんがこんな傷だらけの姿だってことは、リオネル様が姉さんを守れてないってことだ」


 いつのまにカミーユは、このようなませたことを言うようになったのだろう。

 怒っているらしい弟へ、返す言葉などむろん見つけられない。そもそもリオネルが自分を愛してくれているなんて、未だに信じることができていないのだから。


「ディルクならさ、ずっと姉さんのことを慕っていたし、安心して任せられるんだけど……」


 アベルが戸惑いを隠せずにいると、カミーユは目を伏せた。


「って、やっぱり言われても困るよね。ごめん、もうやめよう、この話は」


 つられてアベルも瞼を伏せる。カミーユからこんなことを言われて、どんな顔をしていればいいのかわからない。

 アベルはすでに自分の気持ちに気づきはじめている。

 けれどそれは口が裂けても言えなかった。


「ともかくさ、姉さんは怪我が治るまでここにいるんだよ。どこに行くにしたって、そんな身体じゃ倒れてしまうから」

「カミーユ」

「なに?」

「ノエル様がわたしのことを知ったのよ。わたしが生きていて、リオネル様にお仕えしていたことは、すぐにノエル様からデュノア家のお父様の耳に入るわ」

「…………」

「わたしは罰せられる。わたしのそばにいれば、あなたも」

「そんなことさせない。姉さんを罰するなんて……」


「いいこと、カミーユ。よく聞きなさい。もうあなたはここへは来ないの。ね、わかって。お父様の怒りを買えば、どうなるかわからないわ」

「怒りなんてかまわないよ。でも、わかった。そういうことなら、叔父上には絶対に言わないようにお願いしておくから」

「そういうわけにはいかないでしょ、ノエル様の立場というものがあるわ」

「叔父上は、姉さんの叔父でもあるんだよ? きっと守ってくれるよ」

「世のなか、そんなに甘くない」

「おれはここへ来るよ。毎日姉さんに会いにいく。それは、おれが決めたことだ」

「カミーユ」


 叱る語調も、三年前のようにはカミーユを従わせることができない。


「もしここから勝手にいなくなってたら、おれは従騎士をやめて、姉さんを探しにいくからね!」

「…………」


 強烈な脅し文句を残してカミーユは部屋を出ていった。




 カミーユが去った後の部屋。

 控えめなノックのあとに入室したのはシュザンだ。


「少しいいですか、シャンティ殿」


 アベルは立ち上がり、従騎士らしく一礼した。ドレス姿でのその動作にシュザンは軽く戸惑いの面持ちになる。


「……いろいろと申しわけありませんでした」


 謝罪するアベルをまえに、シュザンは微妙な面持ちになって顔を背けた。


「五月祭の折り、レオン殿下を救うために私へ手紙を届けてくれたのは、貴女だったのですね」

「あのときは無礼なことをいたしました」


 正騎士隊が五月祭に向けての演習をしているところへ、アベルはレオンの危機を知らせる手紙を矢にくくりつけてシュザンのそばへ射たのだ。


「いえ、貴女のおかげで殿下を助けることができました。リオネルを幾度も救い、そしてこの度の戦いではフランソワの命も救ってくださった。心から感謝します」


 頭を下げるシュザンにアベルは慌てる。


「やめてください、シュザン様。わたしはなにも」

「一度会って礼を言いたかったのです。まさか、貴女のような女性だったとは思いも寄りませんでしたが」

「……わたしはアベルです。女性としての生き方など捨てました。どうかフランソワ様にはわたしのこと一切伝えないでくださいますか。そして、こんな綺麗なドレスではなく、男物の質素な服をお貸しください」

「ええ、フランソワには言わないと約束しましょう。けれどデュノア家のご令嬢にそのようなものを着せることはできません。それに貴女は、リオネルの想い人です」

「その話は――」

「ええ、わかっています。押しつけるつもりはありません。貴女はディルクの婚約者だったし、様々な思いがあるでしょう。ただリオネルが、軽い気持ちで『愛している』などと口にする男ではないことだけは、叔父として断言させてください」


 わかっている。

 リオネルがどれほど愛していてくれていたか。


 それを裏切ったのは自分だ。

 はじめに裏切ったのは、他ならぬ自分なのだ。


 傷つけたのか、傷ついたのか――もはやアベルにもわからない。あるいは両方なのだろう。自分たちは裏切り、深く傷つけあった。

 もう、なにも知らなかったころに戻る道はない。


「今夜、ここを去らせてもらえませんか?」

「リオネルに任された以上、私は貴女をここから出すことはできません。どうかご理解ください」

「…………」


 どうすればいいのか。

 自分自身の気持ちもさることながら、アベルの知らぬところで事態が動きだすまえに――カミーユや、アベルと関わった者たちに迷惑をかけるまえに、どうにかここを出なければならなかった。






+++






 王宮からベルリオーズ邸に着いたディルクは、大きく溜息をつく。

 帰る道中、だれもが寡黙で会話はほとんどなかった。


 外套を脱いで暖炉のある部屋へ入っても、ディルク以外の者はため息さえつかない。アベルが見つかったというのに、この重苦しい雰囲気はなんだろうか。


「……と、とりあえず、見つかってよかったな」


 おそるおそるディルクが声を発すれば、


「そうですね」


 とだけ答えてくれたのはマチアスだった。けれどディルクは話を続ける。この機を逃したら、また重苦しい沈黙に戻ってしまうだろうから。


「まさかアベルが本当に神前試合に出ていたとはね。いったいどうやって挑戦者になったんだろう」

「それについては思い当たることがあります」


 黙りこくっていたリオネルやベルトランの視線が、ようやくマチアスに集まった。


「思い当たること?」

「王宮で参加した夜会で、私たちが控室で休んでいたことはご存知でしょう? そのときに、アベル殿は声をかけられたのです」

「だれに?」

「大神官ガイヤール様です」


 静まり返った一瞬の間をおいて、ディルクは「ああ」と声を発する。


「間違いない。それだね」

「アベル殿の剣が立派だと褒めていたそうです。はじめからそのつもりで声をかけたのでしょう。ベルリオーズ邸を出たアベル殿と、どのように接触したのかはわかりませんが」

「神前試合の挑戦者なんていくらでも集められるのに、なんでアベルだったんだろう?」

「さあ、そこまでは」

「くそう、神職に就いているくせに、傷心でふらふらしていたアベルを言いくるめて、利用したんだな。人の弱みにつけこむなんて悪魔がすることだ」

「リオネルの家臣と知って、声をかけたのだろうか」


 疑問を口にしたのはベルトランだ。


「それはないと思います。ガイヤール様がご存知なのは、我々の名前だけです」

「神前試合に抜擢したということは、ひと目でアベルの実力を見抜いたということか」


 司祭といえども侮れない、とベルトランは厳しい表情になる。


「本当にアベル殿が無事でよかったです」

「対戦相手がシュザンだったからよかったんだろうな」


 先程から会話をしているのはディルクとマチアスとベルトランだけで、リオネルは黙りこくっている。


「なあ、リオネル。リヴァルがシュザンだったのは、不幸中の幸いだったね」


 同意を求められたリオネルは、ようやく目線をディルクへ向けた。


「そうだね」


 アベルがリオネルのもとへ戻ってこようとしないのはさておき、とりあえず無事だったことだけは喜ばしい。それは皆同じ気持ちだ。


「あとはどうやってアベルを説得して連れ戻すか、だな。カミーユもすごい剣幕だったし」

「…………」


 沈黙しているリオネルを一瞥して、ベルトランがぼそりと言った。


「こう見えて落ちこんでいるから、その話はやめてやれ」

「いや、どう見たって落ちこんでるよ」


 平然とディルクは答える。


「なら言うな」


 ベルトランは呆れた声を放った。


「アベルの説得は時間をかけるしかないんじゃないか? 隠しておくべき事実が明るみになって、身の振り方にも戸惑っているだろうし、信頼しきっていたリオネルから距離を置かれたんだから、傷ついた心を癒すのにも時間が必要だろう」


 厳しい言葉だが、そのとおりである。

 状況は複雑であるし、いかなる理由であれ、リオネルに突き放されたアベルの心の傷はすぐに癒えるものではないはずだ。


「カミーユはさ、シャンティがおれに憧れていたという考えから、まだ抜け出せていないだけのことだよ。接していればすぐにわかるさ、あの子がどれほどリオネルを求めているかってことに」


 やはりリオネルは黙ったまま。


「でも、おまえの口からあらためて率直な気持ちを聞けて、今日はよかったよ」


 リオネルがアベルに「愛している」と告げたことを言っているらしい。リオネルが複雑な面持ちで顔を上げた。

 わずかに寄せられたリオネルの眉根に、後悔とも懺悔ともつかぬ色が垣間見えて、ディルクは軽く笑う。


「言っとくけど、少しも嫉妬なんてしていないぞ」

「ディルク……」

「正直、安心した」

「安心?」

「そう、言葉で実際に聞けてよかった。将来のことはこれから皆で考えていけばいいだろ。まあ、まずはアベルの心を溶かすのが先か。それはおまえが頑張れ」


 視線を伏せ、「ああ」とリオネルが息を吐きだすように答えた。


 ようやくリオネルの表情がわずかばかり和らぐのを確認して、ディルクは内心で肩を撫で下ろす。

 親友がアベルの態度やカミーユの言葉だけに思い悩んでいるわけではなかったことくらい、ディルクにはわかっていた。自分がリオネルの告白に安心したように、彼もまたディルクの気持ちをあらためて確認して安堵したに違いない。


「とりあえず今日は休んだほうがいい」


 ベルトランが皆を促せば、マチアスがうなずく。


「そうですね、国王陛下には体調不良で休んでいると伝えてありますし」


 皆ぎりぎりのところで動きまわっていた。疲れきった身体を休めなければそろそろもたないだろう。


「明日の朝まで起きるなよ、リオネル」

「ディルクとマチアスはこのまま泊まっていくだろう?」

「もちろん、一部屋借りるよ」


 諸々の不安は残っているものの、とりあえず眠りにつくことくらいはできそうだった。























誤字脱字報告ありがとうございます。大変助かっておりますm(_ _)m yuuHi

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ