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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第七部 ~神前試合は、運命の歯車に導かれ~
415/513

28









 ……どうしてこの人がここに。


 すらりとした腕がこちらへ伸びる。と、途端に視界が長身に遮られた。


「アベル――無事で……」


 吐き出すように口から漏れるリオネルの言葉。

 この日、抱きしめられるのは二度目だ。


 強く、強く抱きしめてくるのはカミーユと同じなのに、こちらは、けっして壊れぬよう気づかうかのように力を加減しているのがはっきりとわかる。


「赦してくれ」


 すぐ耳元で響く美声。

 アベルは声が出せない。かわりにカミーユにしたように両腕を突っ張る。


「アベル、聞いてほしい」


 今更なにを聞くことがあるというのだろう。もう自分はリオネルのそばにいてはならないのに。

 リオネルの腕から逃れようともがくと、信じがたいことが起こった。


「姉さんを放せ!」


 そう叫んだのはむろんカミーユで、彼は力ずくでリオネルの腕を引きはがしたのだ。

 なにがどうなっているのか把握しきれないシュザンとノエルのまえで、カミーユがリオネルを睨み上げる。


「今度姉さんに触れたら、たとえ貴方でも赦さない。姉さんに触れていいのはディルクだけだ!」


 呆然とするリオネルの背後で、ディルクが頭を押さえて天を仰いだ。


「ちょっと待て、ちょっと待て」


 取り散らかった状況のなか、声を上げたのはシュザンだ。


「ちょっと待て――、おまえたち。いったいなにがどうなっている」


 頭痛持ちのシュザンは、片手でこめかみを押さえている。


「ここは一度状況を整理しよう」


 とてもそのような雰囲気ではなかったが、シュザンはかまわず続けた。


「まずは、リオネルとディルク。なぜおまえたちがここにいる。今日は体調不良で館で休んでいたのではなかったのか」

「いいえ。アベルを探していたのです、叔父上」


 きっぱりと答えるリオネルに、シュザンは眉をひそめる。


「アベルとは――」

「この女性ひとです」


 答えながらリオネルは視線をアベルへ向けた。


「その方はシャンティ殿だそうだが」

「ええ、そのようですね」


 再びシュザンはこめかみを押さえて両目を閉じた。


「だから、なぜアベルがシャンティ殿なんだ。アベルはベルトランの従騎士で、シャンティ殿は三年前に亡くなったディルクの婚約者で……」


 あれこれ話している隙にアベルはこの場から逃げようとしたが、真っ先にリオネルに見つかり腕を取られる。


「待ってくれ」


 低い美声に、まともにリオネルの顔が見られない。

 と、すぐにカミーユが駆け寄って、リオネルの手をアベルから引き離す。


「気安く触らないでください」

「まあまあ、カミーユ。ここは落ちついて」


 なだめたのはディルクだ。


「ディルクもディルクだよ! 姉さんが他の男に抱きしめられるのを見て、なにも思わないのか!」

「いや、えと、そういう話じゃ……」

「せっかく会えたのに、なにしてるんだよ!」


 話は再びおかしな方向へ向かおうとしている。


「もう少し、もう少し待て」


 シュザンはさらに声を上げた。


「まず前提を整理しよう。だが、この状態では話ができない。どうだろう。皆、いったん椅子に座らないか。シャンティ殿も、隙あらば貴女が出ていこうとするかぎり、カミーユ殿もリオネルも私も落ちつかない」

「行かせてください」

「どこへ行くというんだ?」


 すかさずリオネルが詰め寄る。

 どのような心境の変化があったのか、リオネルは以前と同じリオネルに戻っていた。アベルに向ける眼差しも、表情も、声も。すべてアベルの知っているリオネルだ。


 彼に対する想いに気づいた今、気持ちは揺らぎそうになる。――けれど。


「……リオネル様は」


 けれど、態度が元通りになったとしても、もはや以前と同じ場所は、アベルにもリオネルにも用意されていなかった。


「リオネル様は、これからどうするか考えると……そうおっしゃったではありませんか」


 ――つまり、もうそばにいてはいけないと。


 もう再び戻ることのない関係に、終止符をつけなければならない。

 ぐっと言葉に詰まったリオネルの代わりに答えたのは、ベルトランだ。


「それは、おまえとディルクのことを考えてのことだ」


 そうだったのかもしれない。

 リオネルの考えは理解できる。先に裏切ったのはアベルのほうなのだから。拒絶するのは当然のこと。

 けれど、いや――だからこそ、もう。


「リオネルも動揺していたんだ。リオネルは、アベルがいなくなってから雪のなかをひと晩じゅう探し回っていた。見ていられないほど、自分のしたことに打ちのめされていた。赦せとは言わないが、こいつの思いもわかってやれ」


 アベルは唇を引き結んでうつむく。


 正体を隠してリオネルのそばに居たのは自分。

 アベルの懇願を退け、距離を置いたのはリオネル。


 先に裏切ったのは自分。

 別れを選んだのはリオネル。


 ベルトランの言うことはわかる。だからこそ、怒ってもいなければ、恨んでいるわけでも、意地を張っているわけでもない。

 むしろ謝るべきは自分のほうだ。


 けれど今は、赦す赦さないという問題ではない。

 事実が明るみに出た以上、もうまえの関係に戻ることなどできるはずなかった。

 いつまた〝シャンティ殿〟と呼ばれる日がくるかもしれない。

 ――怖い。

 怖くて息もつけないほどに。


 リオネルがなぜ態度を再び変えたのかは、わからない。けれどリオネルはすでに一度、アベルという存在をはっきりと否定した。リオネルから向けられた言葉が、眼差しが、そして二人の置かれた現実が、今もアベルの心を深く抉り、血を流させている。

 それは癒しようのない傷だ。


 アベルの心はもうすでにとても遠い場所にあり、リオネルが元の態度に戻ったからといって、この状況についてうまく考えることができなかった。


「リオネルが、どんな気持ちでおまえを――」

「もういい、ベルトラン」


 リオネルがベルトランの言葉を遮る。


「このままでいいのか」


 問われてもリオネルは答えなかった。

 行き場のない感情の波に、アベルは押し流されそうになる。このままリオネルの腕に身を委ねることができたら、どんなにいいだろう。けれど。


 館を出て、雪のなかで気を失ったときから、アベルはすでに大切なものを捨てた。

 あのまま死んでもいいと思ったのだから。

 もう……もうこれでおしまいにしたかった。

 失うのは、もうこりごりだ。

 この世界に幾度も絶望するくらいなら、はじめからなにもほしくない。


「お願いです、もう……」


 胸が痛くてどうしようもない。


 カミーユの妨害にも懲りずに延ばされたリオネルの手が、アベルの両肩にかかる。

 視線を合わせようとしないアベルをのぞきこむようにして、リオネルはかすれた低い声で告げた。


「気持ちは変わらない。アベル……きみを愛している――それだけは信じて」


 天下のベルリオーズ家の嫡男にして、先王の正統な血筋を唯一受け継ぐリオネルの突然の告白に、ベルトラン以外の者は完全に固まった。


 むろんリオネルの気持ちを知っていたディルクやマチアスでさえ、その言葉を直接聞くのは初めてのことだ。

 カミーユもリオネルの手を払いのけるのを忘れて、立ちつくしている。


 時が止まったかのようななかで、がらにもなくシュザンがうろたえた声を発した。


「リ、リオネル……」


 けれどそれを聞き流して、リオネルは続ける。


「おれが立ち去ることで、きみが叔父上のもとに大人しく留まってくれるなら、おれは今すぐここを去る」


 アベルはうつむいたまま唇を噛みしめる。


 違う。

 リオネルを苦しめたいわけではない。

 ただ、ひとつの関係が、終りを迎えたというだけ。

 それだけのことだ。


「今のアベルは身体じゅう傷だらけだ。ザシャにやられたところも疼くだろう。今すぐに戻ってきてくれとは言わないから、せめて叔父上のところにいてくれないか。きみにひどいことをしておいて身勝手な頼みかもしれないけれど、こんな身体で、こんな格好で、アベルがひとり出ていくなど、そんな悪夢だけは見たくない」


〝こんな格好で〟という言葉で、自分がドレス姿だったことを今更ながらに思い出し、アベルは妙に居心地が悪くなる。


「ということなので、叔父上。この子をお願いしてよろしいでしょうか」

「リオネル……この女性を慕っているというのは――」

「本心です」


 絶句するシュザンにリオネルは一礼した。


「また来ます」

「お、おい、待て」


 慌ててディルクがその後を追いかけながら、最後にアベルへ声をかける。


「アベル、また話そう。だからここにいてね」


 元婚約者だと知っても、ディルクは普段どおりの口調。

 ベルトランやマチアスも含めて四人がいっせいに居なくなると、へなへなとアベルはその場にへたりこむ。


「姉さんっ」


 心配そうに駆け寄るカミーユの存在を感じながら、アベルはもはやどうすればいいのか完全にわからなくなっていた。






+++






 やわらかい香りが立ちのぼる。

 温かい蜂蜜酒を用意してくれたのはカミーユだった。


「姉さん、好きだったろう?」


 医務室から小部屋に移り、アベルはカミーユと長椅子に並んで座っている。


 けっきょく騎士館から出られなかったアベルは、シュザンとノエルの勧めもあってカミーユと二人きりで話すことになった。


 こちらの反応をうかがうように、顔をのぞきこんでくるカミーユへ、アベルはかすかな笑みを返す。

 こうなってしまえば、シャンティではないと言い張ることにもう意味はない。きちんと話しあってから、再び別れを告げるしかなかった。


「覚えていてくれたのね」

「忘れるわけないよ」


 今でもアベルを見つめるカミーユは涙目だ。

 それも無理からぬことで、アベルはカミーユが元気に王宮で過ごしていることを知っていたし、その間、幾度かその姿を目にしていたが、カミーユは姉の生死さえ知らなかったのだ。

 再会できた感動は、ともするとアベル以上のものだろう。


「忘れるわけない……毎朝、目が覚めるたび、姉さんはもしかしたら死んでるんじゃないかって不安に襲われて。でもそのたびに信じようと思った。姉さんは生きてるって。どこかで元気に暮らしているって」

「ごめんね、カミーユ。わたしのせいであなたに辛い思いをさせてしまったわ」


 カミーユは首を横に振った。


「違うよ、一番辛かったのは姉さんだ」

「いいのよ、わたしのことは」

「よくないよ、いつだって姉さんはそうだ。自分のことは二の次で、いつも他人のことばかり考えてる」

「そんなことない、いつもわたしは身勝手よ。さっきだって、せっかくカミーユと会えたのに、知らないふりしてあなたのまえから去ろうとした」

「父上との約束を守るためだろう? 姉さんは真面目すぎるんだよ」


 アベルは答えずに蜂蜜酒の表面が揺れるのを見つめる。

 父との約束を守るのは、真面目さゆえか、カミーユのためか、あるいは他の理由なのか、もはや自分でもわからない。


「ねえ、館を追い出されてからなにがあったの? お腹の子供は?」


 気遣わしげに尋ねてくるカミーユへ、アベルはどこから話そうか迷う。


「いろいろあったわ」

「うん……」


 デュノア邸を追い出されてすぐに髪を切り、男として生きることを決意したこと。それからどうやって生きてきたか、アベルぽつりぽつりと話しはじめた。


「デュノア領内にいてはならないから、サン・オーヴァンを目指して旅に出たの。けれど、すぐに病を患い、所持金も尽きてしまって」


 目的地に着いたころにはすでに重い肺炎を患い、お腹の子供と共に死ぬ寸前だった。そのときアベルを救ってくれたのは、他でもないリオネルだ。


「リオネル様は、命を救ってくれただけじゃなくて、生きることに絶望しかけていた私の心まで救ってくれたわ。生きる意味を与えてくれたリオネル様のために命を捧げると、わたしは心に決めたの」

「だから、ベルトランの従騎士に?」

「ええ、どんな形でもリオネル様に仕えたかったから」

「……お腹にいた子供は?」

「元気よ」


 大きく見開き、カミーユはアベルを見つめる。死んだものと思っていたのかもしれない。

 絶句したあと、おそるおそる尋ねてくる。


「本当に?」

「ええ、男の子で、名前はイシャス。もうすぐ三歳で、今はベルリオーズ邸で養ってもらっているわ」

「イシャス……」

「リオネル様がつけてくださったの」

「なんでもリオネル様なんだね」


 つぶやくカミーユは不満そうである。


「え?」


 よく聞き取れなくてアベルが聞き返せば、なんでもないとカミーユは答える。


「いつか、イシャスに会いたいな」

「……あなたによく似ているわ」


 そうなんだとカミーユは嬉しそうに笑ってから、再び真剣な顔になった。


「それで、姉さんはずっとベルリオーズ邸にいたの?」

「ええ、リオネル様につきまとって、山賊討伐や、ユスター国境の戦いに参加しながらね」

「……すごい」


 目を見張ってから、


「でも、姉さんならやりかねない」


 と小さく笑う。


「なによ、それ」


 笑い返せば、カミーユがはにかむようにこちらを見つめた。


「姉さんの笑った顔、三年ぶりだ」


 なにを答えたらいいかわからず、アベルはただ少し切なくなった。


「三年の歳月が経ったって、そんな傷だらけになったって、姉さんはまえと少しも変わらず綺麗だ」

「お世辞がうまくなったのね、カミーユ」

「お世辞じゃないよ」

「あなたは立派になったわ。すっかり背が伸びて、もうわたしを追い越してしまった」

「おれより小さい姉さんなんて不思議だ」

「あなたが大きくなっただけよ」


 アベルは笑った。が、カミーユは真剣な面持ちで瞼を伏せる。


「五月祭のとき」

「え?」

「助けてくれたのは、姉さんだったんだね」










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