27
………。
「……彼は瀕死の状態……そのような……死の祈りを課すなど、馬鹿げている」
「これ……決まりです、……ン・トゥールヴィル様」
「祈りなど課さずとも……もうすぐ彼は死……」
「我々は、ガイヤール様のご命令で、必ず連れ帰るようにと……ています」
「もうすぐ死ぬという者を連れ帰ってどうする」
押し問答を繰り広げている声が徐々にはっきりと聞こえてくるにつれて、意識は現実へ引き戻されていく。
ぼんやりと開いた瞳に映ったのは、すっきりとした内装の……ここは医務室だろうか。
薬の瓶が棚にずらりと並び、その下はすべて引き出しになっている。
言い争っている声は廊下から聞こえているらしく、室内に人の姿はない。
意識が追いつくより先に、身体の感覚のほうが覚醒して、ぴりと肌を苛む痛みにアベルは息を詰めた。
全身にまとわりつく違和感は、痛みのせいではない。いやにすーすーとした頼りない感覚は、もう何年も忘れていたものだ。
――死んだ……?
いや、生きている。
アベルは寝台に横たわったまま、自分の手を見える位置まで動かし、そして開いたり閉じたりしてみた。
やはり生きている。
また死に損なったのだ。
笑いたい気持ちになって身体を縮めると、再び痛みではない違和感に襲われる。そう、確認するのもいやで、アベルはあえて布団をめくらなかった。
おそらく今この部屋を出れば、押し問答を繰り広げている者たちに遭遇するだろう。
アベルは、ガイヤールのもとへ引きずり出されても、死の祈りを課せられてもいっこうにかまいはしない。けれど、この格好では絶対に嫌だ。
なぜこんな服を着せられたのか。
これでは満足に外へ出られないではないか。
横を向けば、ほどけた長い髪が目に入る。それは淡い金色だった。そういえば手も、もとの肌色だ。だれかが怪我の治療と同時に、湯で身体を流してくれたということはわかる。
そのときに、気づかれたのだろう。
最悪だ。
リオネルの叔父のもとで、このような姿を晒すなんて。
いっそこのまま逃げてしまおうかと起きあがったところで、扉が開いた。
そういえば、いつのまにか話し声は止んでいる。
扉からのぞいた男性と、寝台から下りかけていたアベルは、ばっちり目を合わせることになった。
「すまない、寝ていると思ったから」
ノックをせずに入室したことを詫びているらしい相手をまえに、アベルは決まり悪く視線を伏せる。明らかに女性として意識されていることが居心地悪い。
身体の汚れを流し、傷の手当までしてもらったのだから、今更ではあるが。
「……起きあがらないほうがいい。今日私が負わせてしまった怪我も軽くはないが、それ以前の古傷が開きかけている」
古傷とは、ユスターとの戦いでザシャに負わされたものだろう。
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です」
はっきりと告げて、アベルは地面に立とうとする。と、布団からのぞいたのは、真っ白で、頼りなげな細い足首。続いてするりと揺れる絹地は、間違いなく女性用の服だ。
自分がこのような格好であるという事実に、アベルはあらためてがっかりした。
シュザンが近づき、アベルの腕を軽く掴む。
「無理にでも動こうというなら、私はどんな方法をつかっても貴女をここへ引きとめておかなければならない」
こういうときの厳しい口調は、やはりリオネルにそっくりだ。
アベルは切ない思いに駆られる。
会いたいと思うのに、怖くてしかたがないのは、すでに自分の気持ちに気づきはじめているから。
シュザンに彼の面影を見て、戸惑う。
「……放してくださいませんか」
「貴女を女性とは知らず、私はひどいことをした。赦してほしい」
「わたしが勝手にやったことです。こちらこそご無礼をお赦しください」
そう、シュザンが悪くないことはわかりきっている。戦いはじめるときにシュザンは〝傷つけたくない〟とまで言ってくれたのだ。彼が謝る必要など少しもない。
「手を放してくださいませんか」
シュザンの手は、けっして痛みを与えぬように、けれどしっかりとアベルの手首を掴んで放さない。
「女性に剣を向けたのも、傷つけたのも、生まれて初めてのことだ」
少なからず責任を感じているらしいシュザンに、アベルは申しわけなく思う。
「シュザン様のせいではありません……悪いのはわたしです。ごめんなさい」
男装などしているほうが悪いのだ。そんなことは明白ではないか。
「せめて傷が癒えるまで、世話をさせてくれ。貴女を傷つけた罪を償いたい」
「シュザン様が償うべきことなど、なにもないのですから……お願いです、帰らせてください」
「どこへ帰るんだ? 戻る安全な場所があるなら、私が送っていく」
この声、この眼差し、この台詞。
すべてがリオネルを思い起こさせて苦しい。
シュザンはあまりにもあの人に似ている。
「……自分で帰れますので」
「貴女は試合のあいだ、まるで命を投げ捨てるように戦っていた」
「地位とお金が欲しかっただけです」
手首を掴まれたまま、アベルは視線をうつむけた。
「そんなふうには見えなかった」
「人のことなんておわかりにならないでしょう?」
「帰りたいなら、家まで送ろう。馬で送り届けるから」
アベルはうつむいたまま沈黙した。
帰る場所なんてない。
すべて見透かしたように、シュザンはなだめる声で言う。
「とにかく、傷がすべて癒えるまでここに居てくれないか」
「……ごめんなさい」
騎士館にはリオネルやディルクたちもしばしば訪れるし、フランソワ・サンティニも生活しているはずだ。
「ガイヤール様のもとへ、突き返していただいてもかまいません。ともかく、ここから出していただきたいのです」
「なにを言っているんだ」
戸惑う様子でシュザンが眉をひそめたとき、扉を叩く音がする。
すっと目を細めたシュザンは、緊張感をまとった。
「貴女はけっして声を出さないで。わかったね」
アベルが返事をするより先に、シュザンは扉越しに問いかけている。
「なにか用か」
「……近衛隊副隊長のノエル・ブレーズ殿がお越しになっています。連れ帰った挑戦者と面会したいとおおせですが」
アベルはどきりとした。ノエルは母ベアトリスの異母弟、つまりアベルの叔父にあたる。なぜ彼が自分に会いにきたのか。
試合の最中にカミーユと視線が絡んだことを思い出す。それと関係があるのか。
即座にシュザンは配下の騎士に告げた。
「挑戦者は、今しがた死んだと伝えてくれ」
アベルが生きていると知られれば、死の祈りをさせられるとわかっているからこそ、シュザンは皆に嘘をつき、守ってくれている。それがわかるだけに、アベルは心苦しくなった。
「シュザン様、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません。わたしは――」
小声でシュザンの背中に語りかければ途中で、
「貴女は黙っていて」
と、穏やかだが有無を言わさぬ強さで言われる。
シュザンの家臣が戸惑っている様子が、扉越しに伝わってきた。
「……どのような状態でも会いたいと、ノエル殿はおおせでして」
相手がブレーズ家の者で、なおかつ近衛隊の副隊長だから、一介の騎士としてはやりづらいのは当然のことだ。
「わかった、私が伝えにいこう」
そう言ってシュザンが開けたその扉のまえ。
すでにノエル・ブレーズが立っていた。
「ノエル殿……」
「挑戦者の少年に会わせていただきたい」
「お引き取り下さい」
この日二度目の押し問答を繰り拡げるシュザンの脇を、だれかがするりとすり抜けて部屋へ入ってくる。
寝台の後ろへ隠れかけていたアベルは、はっとして振り返ってしまった。
青みがかった灰色の瞳が大きく見開かれ、こちらを凝視している。
アベルもまた、部屋に入ってきた青年をまえに、指先ひとつ動かせない。
呆然と立ち尽くし、見つめあう二人を、シュザンとノエルが振り返った。
「……姉、さん……」
呼ばれた瞬間に我を取りもどして視線を伏せるが、もう遅い。
「姉さん!」
今度こそはっきりと名を呼び、駆け寄ってこようとする相手へ、ぱっと顔を上げてアベルはできるだけ冷ややかな眼差しを返した。
「違います」
警戒するように一歩後ずさりすれば、カミーユはひどく傷ついた顔をした。
「……なんで」
「わたしはあなたの姉ではありません」
「なんで、そんなこと言うんだよ。せっかく会えたのに」
カミーユは泣きだしそうだ。その顔を見ていられなくて、顔を背ける。
「ずっと、ずっと、姉さんのことを考えてた。思い出さなかった日なんか一日もないよ。会いたかった。どうしているか心配で、生きているかどうかさえわからなくて、毎日苦しくて……」
ためらう足取りながらも、カミーユが一歩ずつ近づいてくる気配があった。
「……近づかないでください」
ぐっと口を引き結び、それでも歩み寄ってくるカミーユは、ついにアベルのすぐまえ。こちらへ伸ばされた長い両腕が、アベルを抱きしめる。
三年前とは違う、すでにアベルよりも背の高いカミーユに抱きしめられて、アベルはもはやそれを突き放すだけの強さを保つことができなかった。
「姉さん……」
泣いているのだろう。震える声でつぶやく声に、アベルの目からも堪え切れなくなった雫がこぼれた。
会いたいと願っていた気持ちは同じだ。
声が聞きたかった、話したかった、抱きしめたかった。
もう二度と叶わぬと思っていた願いが、今、ここに――。
宙を彷徨うアベルの指先は、抱きしめ返していいものか迷った末に、そっとカミーユの背中に触れる。一度触れてしまえば、あとはきつくその服にしがみつくようにして嗚咽を押し殺すようにして泣くだけだった。
カミーユとこうして再会できた。
死ぬまで会えぬと思っていたカミーユに……大好きなカミーユに。
二人の姿を見守っていたシュザンが、ちらとノエルを振り返る。
「試合の最中に、飾りを投げたのは貴方ですね、ノエル殿」
ええ、とノエルは素直にうなずいた。
「あのようなことをしたせいで、シュザン殿には危険な目に遭わせてしまい、申しわけありませんでした」
飾りが右手に当たったために隙が生じ、あわやシュザンは致命傷を負うところだった。
けれど、すでにシュザンは気づいている。
「あれは、この女性を傷つけぬようにという合図だったのですね」
「カミーユが気づいて私に訴えたからです。神前試合で戦っているのは、自分の姉なのだと」
少女を抱きしめる青年を見やり、シュザンは軽く目を細める。
「この者は?」
「姉の子で、私にとっては甥であり従騎士でもあります」
シュザンは怪訝な顔になった。
「ということは、デュノア家の……」
「ええ」
「シャンティ殿は亡くなられたのでは」
すぐにその名が出てきたのは、ディルクの婚約者として度々シュザンも耳にしたことがあったからだ。
「私にも事情はわかりません。ですが、こうして生きていたようです」
「…………」
シュザンは言葉を見つけられぬ様子で、抱きしめあうカミーユとアベルを見つめる。
もう二度と放すまいとするように、長いこと少しも力を弱めぬカミーユの腕のなかで、アベルは身じろぎした。
いつのまにかこんなに力が強くなったのか。
身体もこれだけ大きくなれば当然のことだが、とにかくアベルは少し苦しかったし傷も痛んだ。
「あ、ごめんっ」
ようやく気づいたカミーユが、腕の力を弱める。
けれど、アベルが逃げ出さないようにでもするかのように、解放しようとはしない。
「……放してください」
「いつまでそんな話し方をするの? もう父上の命令なんていいよ。姉さんはどうしてこんな目に遭ってまで、あの人の言うことに従うんだ?」
両腕を突っ張り、カミーユの腕から逃れようとする。
「姉さん!」
揺れる声で叫ぶカミーユを、アベルはすがるように見上げた。
「あなたは未来ある人です。わたしなどに関わってはいけません……ここで、ここで会えただけで……それで、もうわたしは充分です」
最後まで腕に絡みつくカミーユの手を振り切って、アベルは逃げるように扉口へ駆ける。
さすがにそれにはシュザンとノエルも驚いたようだった。
「そんな身体でどこへ行く」
引き止めようとするシュザンにも答えず、アベルが扉の取手に手をかけたとき。
いやに扉が軽いと思えば、向こうで取手を引く者がいた。
その相手をみとめてアベルは我が目を疑う。
――嘘だ。
どうして。
立ちつくすアベルのまえで、リオネルは顔を歪めた。
「アベル――」
明けましておめでとうございます。
今年が、皆さまにとって素晴らしい一年になりますように。
本年もどうぞよろしくお願いします。yuuHi
※いつも誤字脱字報告をいただき、ありがとうございます。
大変助かっていますm(_ _)m