22
新年祭を翌日に控えた王宮。
もうすぐで年が明けるという時刻。
深夜まで続いていた宴が幕を閉じ、静寂を取り戻した王宮の一角に、声をひそめて話す二人の男の姿があった。
「ついに明日ですな」
ジェルヴェーズの私室には、暖炉が明々と燃えている。
小卓を挟んで向かいあって座るのは、部屋の主とその伯父であるルスティーユ公爵だ。彼らの手のなかで揺れる赤紫色の液体が、蝋燭の炎を映しだしている。
「ああ、レオンに邪魔されそうになったが、なんとかなりそうだ」
「レオン殿下に、ですか?」
ルスティーユ公爵は眉をひそめた。
「あれはリオネル・ベルリオーズに傾倒している。リヴァルの件を嗅ぎつけたのかもしれないな。父上のもとへなにか探りにいこうとしていた」
「それで、いかがしたのです?」
「凍った池に突き落としてやった」
「殿下、レオン殿下を命の危険に晒すようなことは……」
ルスティーユ公爵にとっては、ジェルヴェーズだけではなくレオンも大切な甥である。池に突き落としたなどと聞いて顔を青くすると、ジェルヴェーズは笑った。
「安心しろ、風邪をひかせただけだ」
「そうですか……けれど、あまりグレースを心配させるようなことは、やってはなりませんぞ」
「わかっている」
少しばかり苛立ったようにジェルヴェーズは答えた。
「リオネル・ベルリオーズを殺してしまえば、もうレオンもくだらぬ行動に出ることもないだろう」
「ええ、明日でいよいよリオネル殿の命運も尽きます」
「すべて整っているのだろうな」
「心配には及びません。リオネル殿をリヴァルに立てることに陛下はご賛同なされておりますし、剣に塗りつける毒も用意してあります。あとは、明日の神前試合でリオネル殿がどこからかやってきた猛者によって殺されるのを傍観するのみ」
「できるなら充分に苦しませてから殺したいが」
「さようですね」
「まあ、この際贅沢は言うまい。リオネル・ベルリオーズを殺めることになる挑戦者はどのような男なのだ?」
「そこはすべてガイヤールに任せております」
「わからないのか」
「掠り傷でも、毒がまわれば致命傷になります。九人もの猛者と戦えば、いくらリオネル殿といえども掠り傷くらい負うことになるでしょう」
ふん、とジェルヴェーズは鼻で笑った。
従兄弟であり宿敵であるリオネルが、容易に殺されるような相手ではないことを、ジェルヴェーズは知っている。知っていながら、それを認めたくないという思いがその様子からは見て取れた。
「父上はこの計画に躊躇う様子はなかったか」
「いえ、少なくとも私には、そのような様子は見受けられませんでした」
「父上はリオネル・ベルリオーズに甘いところがある。いざというときに、リオネルではない者をリヴァルに立てられれば、つまらぬ結果に終わる」
「その心配はないでしょう」
「甥というのはかわいいものか」
「私にとっては、むろんそうですが、陛下のお心は私などには測り知れません」
そう答えたのは、ルスティーユ公爵は薄々気づいていたからだ。エルネストがリオネルを心から憎めない理由――それが、血縁関係とは離れたところにあることを。
公爵は、気づきたくないが気づいてしまった。
それは二十年も昔のこと。妹グレースが、腹にジェルヴェーズを宿しているころ、ふと寂しげな表情を見せたことがあった。
『陛下は私のお腹に、手を触れてくださらないのです』
と。
不憫に思い、エルネストのことを配下の者に調べさせたところ、どうも彼がひとりの女性に執心しているらしいということがわかった。
ルスティーユ公爵も見知った相手だ。
公爵家令嬢アンリエット・トゥールヴィル。
ルスティーユ公爵もまた、幾度も夜会で顔を合わせており、話をしたこともあった。
もし相手がアンリエットでなかったら、王を惑わす女を迷わず殺していただろう。けれど、アンリエット・トゥールヴィルは手を出せる相手ではなかった。
情に厚いほうではなかったルスティーユ公爵でさえ、彼女の不思議な魅力にはあらがえなかった。花がほころぶように無邪気で、それでいて芯が強く優しげなアンリエットの笑みは、余人のみならずルスティーユ公爵までも会うたびに魅了した。
トゥールヴィル家など滅べばいいとは内心で思っていたが、アンリエットのことだけはどうしても憎めない。加えて、トゥールヴィル家の守りは固く、その令嬢ともなれば易々と殺せるはずもない。むしろそれを言い訳にして、ルスティーユ公爵は端から彼女を殺めようとはしなかった。
おそらくそのころからだろう。
哀れな妹とその腹の子のためなら、苦労を厭わないと決意するようになった。それは、彼らを救ってやれなかった罪滅ぼしだったかもしれない。
そうしてジェルヴェーズは生まれ、しばらくしてアンリエットは嫁いだ先でリオネルを生んだ。アンリエットを殺さなかったばかりに、ジェルヴェーズの最大の宿敵であるリオネルを誕生させてしまったわけである。
ルスティーユ公爵は自分自身を責めた。そして、必ずリオネルを殺すことを決意した。
グレースとその子供たちのため。
そして、自らの罪の意識のため。
けれど、未だにアンリエットの亡霊はルスティーユ公爵らの周囲を漂っている。エルネストはリオネルに対し、最後の最後で甘いところがある――それは、彼のアンリエットへの未練がそうさせているに違いなかった。
忌まわしい過去。
死してなお存在感を消そうとしないアンリエットの面影。
リオネル・ベルリオーズをこの世から抹殺しなければ、ルスティーユ公爵の義理は果たされない。
「明日ですべてが終わるといい」
そうつぶやいたルスティーユ公爵の声が聞えたかどうか、ジェルヴェーズは黙って杯を傾けていた。
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意識を取り戻すまで、アベルは夢を見ていた。
ひとり、アベルはどこまでも続く道を歩いている。
砂ぼこりの舞う、石ころだらけの地面。
孤独な道。
長閑な田園風景を過ぎれば、城砦都市のなかへ。
活気ある広場を抜けて、今度は森のなかへ入る。
森から出れば、どこまでも連なるような丘。
さらに歩き続ければ、今度は木組みの建物が並ぶ大都市へ入る。
陽が昇り、陽が沈む。
辺りの風景はめまぐるしく変化していくのに、この道だけは終わらない。
道の途中ですれ違うのは、見知った人たちだ。
父であるデュノア伯爵、母ベアトリス、カミーユ、侍女のカトリーヌ、エマ、トゥーサン、サミュエル、ジェレミー、ラザールにダミアン、ナタル、ベルリオーズ公爵、イシャスとエレン……。
けれど、だれひとりとしてアベルへ視線を向けることなく、また振り返ることもなく、無言で通りすぎていく。
足を止めて、彼らに声をかけたいのに、声は出ない。
歩みを止めることができない。
孤独に歩き続けるしかないのだ、この果てしない道を。
ディルク、マチアス、ベルトラン、レオンでさえ向こうから来て、そして、なにも告げることなくすれ違い、こちらへ背を向け去っていく。
切なさに胸をえぐられる。
最後はリオネルだった。
こちらを見ようともしないリオネルの瞳は、まっすぐまえを見据えている。
振り返って、こっちを見てほしい。深い紫色の瞳で、この姿をとらえてほしい。強く抱きしめてほしい。声を聞かせてほしい。
けれど、無言でリオネルは通りすぎていく。
胸が押しつぶされるような心地がして、息がつけない。
失った。
すべてを、失った。
失ってはじめてわかる。
これほどまでに、この人を想っている。
なにもかも失っても、この人だけは失いたくない。
『おれのいるところが、きみの帰る場所だよ。だから――……帰っておいで』
かつて死を選ぼうとしたアベルにそう言ってくれたのはリオネルだった。
ああ、きっとそうだ。
あのとき、この言葉をかけられたときから、アベルは心を彼に預けてしまっている。
どうして気づかなかったのだろう。
もうずっとまえから、この人を――。
主人としてとか、友人や恋人としてとか、どんな形にあてはめてもかまわない。どれも真実だ。すべての意味において、リオネルを慕っているのだから。
けれど振り返ればもうその姿は見えない。
大切な者たちの姿も、ひとり残らず。
アベルの瞳から涙がこぼれた。
歩むごとに、失っていく。
なにも掴めない。
この手は、なにも掴めない。
失うだけの人生を、まだ歩み続けなければならないのか。
――この果てない道を、歩み続けなければならないのか。
ならば、いっそ。
腰に下げた短剣に手を伸ばす。
生きることに意味なんてない。
冷たい刃を喉元に押しあてたそのとき、人の指がこめかみに触れる生々しい感覚にアベルは意識を引きもどされた。
「…………」
うっすらと開いた瞼のあいだから見えたのは、微笑をたたえた瞳。
この笑みを、アベルはどこかで見たことがあると思った。
「ああ、よかった。意識が戻ったのですね」
聞き覚えのある声。それなのに、いつどこで会ったのだったか思い出せない。彼の指先は雫に濡れていた。
「驚きました、馬車から窓をのぞいたら、雪のなかで倒れている方が見えたのですから」
――倒れていた……?
雪道をひとりで歩いていた記憶は、たしかにある。その直前の出来事も。
リオネルに告げられた言葉。
崩れ落ちた幸せ。
夢だったらよかったのに。
すべて悪い夢だったなら。
「それが貴方だったのですからなおさらです、アベル殿」
名を呼ばれてアベルはようやく思い出す。
数日前の王宮の夜会。
控室で休んでいるときに会った大神官。
――間違いない、彼だ。
「ガイヤール様……?」
「ええ、覚えていてくださり光栄です。貴方は雪道に倒れていたのですが、そのことは覚えておられますか」
なぜ倒れたのかわからない。
「おそらく寒さのあまりでしょう。この気温で、外套も羽織らずにいたのですから当然です」
「ごめんなさい……わたしは、とんだご迷惑を」
ゆっくりと起きあがるアベルに、ガイヤールはほほえむ。
「幸運だったのは、おそらく倒れてさほど時間が経たぬうちに見つけられたことです。意識さえ戻れば、もう心配はありませんね」
いっそ、そのまま死ねたら幸せだったのに、と瞼を伏せながらアベルは密かに思う。
ほどけて肩に落ちかかった髪は、濃い茶色のままだ。
小麦色の肌の小姓。
あの日、出会ったときの姿とまったく同じだから、ガイヤールはアベルを認識したのだろう。
「どこか辛いところはありませんか?」
アベルは首を横に振る。
「私はどれくらいここに?」
「ほんの数時間程度ですよ」
数時間……とは、それなりに長いではないか。
「なにかあたたかい飲み物でも持ってきましょう」
そう言って立ち上がろうとするガイヤールの背中に、アベルは気遣いが不要であることを告げる。
落ちついた色調ながらも豪奢なこの部屋。ここがどこだかわからないが、知る必要もなかった。
「……申しわけありませんでした」
ぼんやりとそう告げ、アベルは出ていくつもりで寝台から降りる。
その様子を見守っていたガイヤールが、不意に尋ねてきた。
「死ににいくのですか」
思わずアベルは振り返る。
ガイヤールは微笑を消し去り、なにもかもを見透かす眼差しで、アベルをひたと見つめていた。
「その澄んだ瞳に書いてありますよ。――苦しみも、哀しみも、すべて終りにしたいのだと」
「……気のせいではありませんか」
小さな声でアベルは答える。少なくとも、澄んだ瞳というのは気のせいだ。
「あのような夜道を、外套もなしにひとりで歩いている者が、死を恐れているとは思えません」
「だとすれば、なんだというのです?」
「貴方の腰の剣は立派なものです。さぞや腕が立つのでしょう」
またその話かとアベルは思う。よほどこの剣がお気に入りらしい。
「お望みなら、この剣はあなたに差し上げます」
ガイヤールは笑みを深くした。
「いいえ、相応しい者が握ってこそ、素晴らしさの発揮される剣です」
なにが言いたいのだろうか。
「辿りつく先を探しているなら、いいところがあります」
はじめてアベルは興味を引かれて、正面から大神官を見つめた。
「命をかけて神のために戦うことのできる、素晴らしい場所です。若く腕の立つ貴方こそ、まさにそれにふさわしい」
「…………」
けっして威圧的ではない。
むしろ、その台詞には甘美な響きがある。
「終焉に焦がれるなら、その剣に命運をかけてみてはいかがでしょう」
人の心を読むことに長けたガイヤールは、すでにアベルの内心をしっかりと見透かしていた。