21
冷え切った深夜。
雪の積もった夜は静かだ。静寂のなか、音もなく雪は降り続けている。
休む準備は整っていたが、とても眠れそうになく、リオネルは窓辺に腰かけていた。
あれ以来アベルとは顔を合わせていない。
考えておく、と告げたものの、思考は呆然としたまま、なにも考えられずにいる。ただ、アベルの声が耳に残っていた。
『わたしは……何者でもなく、ただのアベルです』
幾度も駆け巡って離れようとしないその声。
『ずっとそばにいていいと、おっしゃっていたではありませんか。わたしたちが白髪になるまで……』
ベルリオーズ家の家臣でありたいと訴えるアベルに再び会ってしまえば、決意が揺らぐような気がした。
アベルの内にあるのは、リオネルへの忠誠心だ。
その忠誠心を利用して、細い身体をきつく両腕に閉じこめ、倫理や立場から離れ、ディルクとの友情さえ捨てて、アベルといっしょに生きたいのだと伝えてしまいそうな――、そんな侵してならない領域に踏み込んでしまいそうだった。
アベルがシャンティだったとしても、想いが変わるはずない。この想いを消せるわけがない。すでにディルクの婚約者であった少女を心から愛してしまっている。
だからこそ、曖昧な態度では自身を抑えることができそうになかった。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
もっと早くに気づけていれば――、そう思いかけてから心のなかで、違う、とつぶやく。
早くに気づけていれば……どうだったというのだろう。
彼女を愛していなかった?
いや、きっと惹かれていた。
どこで、どのように出会おうとも、きっとアベルを愛していたと思う。そう思えば、自分の罪深さにリオネルは慄然とする。
もしディルクが彼女と婚約を解消せずに、結婚していたら――。
それでもアベルに惹かれていたかもしれないと思う自分に、嫌気がさす。
「明日は新年祭だ。寝ないともたないぞ」
ベルトランに声をかけられても、リオネルは窓辺から動けない。
篝火に照らされた庭に、音もなく降り積もる雪だけが、今のリオネルの意識に届くすべてだ。
「……アベルは、ちゃんと食事をとっただろうか」
かくいうリオネル自身が、ひとくちも食事を口にしていなかった。一歩も自室から出ようとしないリオネルに付き合って、ベルトランも今夜は食事を抜いている。
「心配なら、会いにいったらどうだ」
「行けるはずない」
「なにを恐れている」
ベルトランの問いにも、リオネルは答えなかった。
「会いにいかないなら、早く寝ろ」
床に敷いた布団に潜り込もうとするベルトランへ、リオネルはようやく視線を向けた。
「おれの代わりに、会いにいってくれないか」
ベルトランが動きを止める。
「様子を見てきてほしい」
ゆっくりと振り返るベルトランに、リオネルは懇願するかのように目を細め、頭を下げた。
「……頼む」
ベルトランが嘆息する。
「おれなんぞに頭を下げるな」
ぶっきらぼうに言い置き、ベルトランは布団から出て部屋を出ていく。
けれどひとりきりになった途端、突如、これまでになかった不安が、リオネルのうちに沸き上がった。
他でもなく、自分の目でアベルの姿を確認したい衝動に駆られ、ベルトランに頼んだにもかかわらず、窓辺から離れて早足で部屋から飛び出す。
ちょうどベルトランが、アベルの部屋をノックしているところだった。
「応えないのか」
幾度か扉を叩いたが返事がないらしく、ベルトランは肩をすくめる。リオネルは取手に手をかけ、アベルの部屋を開いた。
室内がまったくの闇ではなかったのは、外の篝火を雪が反射して、開け放されたままのカーテンのあいだから、その薄暗い光が室内に映しだされていたからだ。
火の入れられた形跡のない暖炉。
冷え切った部屋。
空っぽの寝台。
壁にかけられたままの外套。
……アベルのいた形跡はなかった。
さっと血の気が引く。
踵を返して廊下を走り抜け、階下へ降りる。血相を変えて、居間や、食堂、書庫……とあらゆる部屋の扉を開けて確認していると、執事のジェルマンが肩にガウンを羽織った姿で現れた。
「このような時分に、いかがなされましたか、リオネル様」
「アベルは」
短く尋ねる声に、ジェルマンは目を見開く。
「本日は、昼過ぎから長いこと見かけておりませんが」
「夕食は」
「食堂へはいらっしゃいませんでした。リオネル様もおいでにならなかったので、てっきりごいっしょなのかと」
落ちつけ、と自分自身に言い聞かせる。
アベルの外套は部屋に残されていた。ということは、まだ館のなかにいるかもしれない。
けれど、この館のいったいどこに……。
めぼしい場所はすべて確認した。彼女がひとりでこんな時間まで過ごす部屋など他にあるだろうか。あるいは――。
「どこへ行く、リオネル!」
答えずにリオネルは玄関へ向かう。
「おいッ」
さすがにこの雪の中を飛び出していくのは無謀だと思ったベルトランが、リオネルの肩を強く引いた。
「リオネル!」
「――アベラール家別邸だ」
ベルトランの瞳が見開かれる。
「もしかしたら、ディルクのところへ行ったかもしれない」
わずかにベルトランの表情が曇る。それから、不機嫌な声で告げた。
「外へ行くなら外套くらい羽織れ。凍え死ぬぞ」
慌てて取りにいったジェルマンから外套を受けとり、馬に跨ると、リオネルとベルトランは夜の雪道を駆けだした。
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深夜の訪問者を、怪訝な面持ちで出迎えたのは夜警の兵士だったが、リオネルの顔を見ると慌てて主を呼びにいった。
応接間へ通されたものの、リオネルは焦る気持ちが抑えられず、立ったまま室内を幾度か往復する。ベルトランは、そんなリオネルをまえになにも語らず、やはり立ったままディルクの来るのを待った。
待つ時間は長く感じられたが、ディルクが現れるまで、実際はさほどかからなかっただろう。
夜着にも着替えておらぬディルクは、眠ろうとしていた気配さえ感じられない。けれど、思いのほか平然とした様子でリオネルとベルトランを出迎えた。
「……ああ、二人とも。さっきは嵐のように来て去っていったと思ったら、こんな遅くにどうしたんだ」
「アベルは来ていないか」
シャンティと知っても、アベルと呼んでしまうあたりに、リオネルの慌てぶりが現れている。切羽詰まった様子で尋ねるリオネルをまえに、ディルクは怪訝な面持ちになった。
「アベル……? 来てないけど、そっちにいるはずじゃないのか」
答えを聞いて、リオネルから再び血の気が引いていく。
ここへは来ていない。ならば、どこへ行ったというのだ。
この雪のなか、最も冷えるこの時間帯に、外套も羽織らず外にいるとすれば自殺行為だ。
「真夜中にすまなかった」
それだけ言って再び出ていこうとするリオネルを、ディルクが呼び止めた。
「待てよ、アベルがいないのか」
問われれば、リオネルのうちに苦い思いが込み上げる。無言で振り返れば、ディルクは意味がわからないという顔をした。
「いったいどうして」
「今は急いでいるんだ、早く見つけ出さないと――」
「おれもいっしょに探す。だがそのまえに聞かせてくれ。別邸に戻ってから、なにがあったんだ」
軽く唇を噛んで焦りをいったん押さえてから、リオネルはアベルと交わした会話と、館にいないと気づくまでの経緯をざっと説明する。外へ飛び出し、探しにいきたい衝動を抑えてまで説明に時間を裂いたのは、ディルクには聞く権利があると思ったからだ。
「つまりは、今後のアベルの身の振り方を考えると、そう言ったのか」
「ああ」
「どうしてそんなことを」
「聞く必要もないだろう。アベルはディルクの……」
「おれのなんだ? 元婚約者か? だからなんだっていうんだ」
リオネルは眉根を寄せる。
「本気で言っているのか、ディルク」
「ああ、本気だとも。おれの元婚約者だったから、どうだっていうんだ」
「アベルは――シャンティ殿は、ディルクを慕っていた。それはあの手紙を読めばわかる。そして、ディルクも彼女のことを……」
「馬鹿か、おまえは。本当に馬鹿か? アベルがどれだけおまえのことを頼って生きているか、わかっているのか。アベルにはおまえしかいない。おまえがいなければ生きていけない」
「おれの気持ちを知ったうえで気をつかっているなら、その必要はない」
「同じ台詞を返してやるよ。アベルの気持ちに加えて、おれの気持ちにまで気を回してくれているようだけど、おそらくアベルがおれに対して抱いているのは、かつての婚約者だったという親しみと憧れだけだ。うぬぼれていいなら、それ以上にこの三年間で芽生えた友情のほうが大きいと思う。恋愛感情なんかないのは、他でもないおれがはっきりわかる。でもおまえに対しては――」
「彼女の気持ちが最優先ではあるけれど、それだけじゃない」
ディルクの台詞を遮ってリオネルは声を発した。
「どういうことだって言うんだよ」
「……ディルクも、シャンティ殿を今でも愛しているのだろう?」
沈黙が降り落ちる。
不思議なほど静かな夜。
降り積もった雪が、この世界の複雑な音も、人々の感情も――、すべて受け止めているかのようだ。
「おまえは本当に気を回しすぎだ」
ディルクの声が静寂のなかに響く。
「おれは、シャンティ殿と会ったことがなかった。愛するもなにも、そんな感情を抱くきっかけもない」
「だが、想いつづけている」
「そんなことを気にしていたのか? おまえは本当に……」
ディルクが頭に手を置いて、天を仰ぐ。
「おれにとっては大きいことだ」
「ああ、そうだな。彼女に心底惚れているおまえにとっては、大きいことだった。悪い、そこの部分を考えなければいけないことを、すっかり忘れていたよ。じゃあ、ここではっきりと言っておく」
どういうことだと、リオネルは目を細める。
「アベルがシャンティかもしれないと聞いて、おれは言葉に表せないほど驚いた。でも、ひとりで頭を冷やして冷静になってみたとき、はっきりと自覚した思いがある。それがどんなものか、おまえにわかるか?」
無言でリオネルは親友を見返した。
「ひとつには、彼女が生きているという事実が、それはもう、心の底から喜びが湧きあがるように嬉しかった。なにがあったかはわからないが、シャンティが生きている。ただそれだけで、おれは飛びあがるくらいに嬉しい。それはもうサン・オーヴァンの中心で叫び出したいくらいに。そして、それがアベルだったんだから、なおさらだ」
ディルクの前半の台詞は、よく理解できる。ディルクが、シャンティの死をだれよりも悼み、自らを責め続けていたことを、リオネルはよく知っていたからだ。
だが、最後の言葉の意味が、わからない。
なぜ、シャンティがアベルだったことが、なおさら嬉しいのか。状況は、これほどまで複雑で、残酷だというのに。
ディルクがリオネルの表情を見て少しだけ笑う。
「シャンティがアベルだったと知って、どうして嬉しかったと思う?」
――わからない。わかるはずない。
今、アベルがシャンティだったと気づき、リオネルを取り囲む世界は底知れぬ絶望に包まれている。
「おまえが、彼女を愛しているからだよ、リオネル。おまえに愛され、守られる女性は、きっとこの世で最も幸福だ。おれはそのことをよく知ってる」
「…………」
「おれはシャンティのことを、長く婚約していた女性として大事に思っていた。それは家族に対する感情にも似ている。だが、おれは彼女を幸せにしてやれないどころか、ひどく辛い目に遭わせた」
開け放たれた応接間の入口には、いつのまにかマチアスの姿。
「家族と同じくらい大切な相手を、おれはひどい目に遭わせてしまったんだ。でも、シャンティは生きていてくれた。そして、おまえの庇護のもとにあった。奇跡のようなことだと思うよ」
リオネルは形の良い眉を寄せて、ディルクを見つめる。
「アベルはこの三年間ずっと近くにいて、おれにとっても大切な存在になった。なくてはならない存在になったと言っても過言じゃない。もちろん、ひとりの人間として、そして友人として、だ。そのアベルが、あのシャンティだったんだ。こんな巡りあわせが――こんな奇跡が他にあるか? あの子がおまえのそばにいて、それで幸せであれば、おれにとってそれ以上嬉しいことはないよ」
立ち尽くすリオネルの眼前へ、ディルクは歩み寄る。
「なあ、リオネル。彼女を愛しているんだろう?」
紫色の瞳と、ディルクの薄茶の瞳が間近でぶつかりあった。
「だったら、最後までその手を離すな。アベルがシャンティなら、なおさらあの子を傷つけたら赦さないぞ」
「……ディルク」
「この大馬鹿野郎」
ディルクはリオネルの頭に手を置き、その髪をくしゃくしゃにする。
「探しにいきたくて、居ても立ってもいられないんだろ? ほら行くぞ」
扉口へ向かったディルクへ、マチアスが外套を差し出した。
「おお、マチアス。いつのまにいたんだ」
「私もアベル殿を探しにいきます」
「エスカルゴで具合が悪いんだろ」
「もう平気です」
外套を羽織るディルクとマチアスへ、リオネルは短く声をかける。
「すまない、二人とも」
雪降る真夜中へ、四人を乗せた馬は駆けだした。