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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第七部 ~神前試合は、運命の歯車に導かれ~
407/513

20









「違います……」


 やっとのことで絞り出した声は震えている。


「わたしはアベルです……リオネル様に仕える、従騎士の、アベルです」


 重い沈黙の末、リオネルが言う。


「きみは――、きみはアベルであり、シャンティ殿でもある」


 残酷な言葉だった。

 いや、だれよりもこの事実に傷ついているのはリオネルだろう。三年ものあいだ、アベルはその事実を隠しつづけ、リオネルを裏切りつづけていたのだから。

 アベルのことを愛してくれていたなら、なおさら。

 その事実に気づいたとき、アベルは我に返って声を発する。


「シャンティではありません、なんの肩書きも持たないアベルです」

「けれど、ディルクは今でも貴女あなたを想っている。そして、おそらく貴女も――」


 貴女――という呼び方に胸を潰されそうになる。


〝きみ〟でいい。

 ただのアベルでいい。

 それなのに。


「……婚約はとっくに解消されました」

「シャンティ殿を守るためだったんだ」


 そんなことを今更言って、なんになるというのだろう。

 過去のことは、すべて過ぎ去ってしまったことだ。今の自分には恋焦がれた婚約者も、帰る家も、約束された未来もない。

 けれど、これまでのリオネルの言葉からは、アベルに対して今度どう振る舞うかということが暗に示されていた。


 つまり、もう彼にとって自分はアベルであると同時に、いやそれ以上に、シャンティ・デュノアなのだ。

 ベルリオーズ家の、一介の従騎士にはもう戻れない。


 その事実に気づいたとき、愕然として息がつまりそうになる。息が吸えない。もう、自分がリオネルの家臣ではないなんて。――アベルが、アベルではないなんて。

〝アベル〟は死んだも同然だ。


「わたしは……何者でもなく、ただのアベルです」


 最後のあがきだった。


「たとえおそばでリオネル様に仕えることができなくとも、心はベルリオーズ家の家臣です」


 祈るように訴える。

 何度も彼のもとを離れようとしたが、いつだって根底にある気持ちに変わりはない。

 叶うならば、許されるならば、シャンティではなくアベルでありたい。

 そばにいられなくとも、〝アベル〟としてリオネルの家臣でありたい。


 けれど、沈痛な面持ちのリオネルは、苦しげな眼差しでアベルを見つめるだけでなにも言ってはくれない。

 ……きっともう、二度と「アベル」と親しげに呼んでくれることはない。


「これからどうするか、少しいっしょに考えよう」


 アベルは目を閉ざした。

 胸が冷えていく思いがする。

 泣きたいのに、涙は出ない。

 自分は、シャンティではない。アベルでしかないのだと、もう一度あがいてみようにも、もう声が出ない。


「なにも知らず、一方的な気持ちを押しつけて困らせてしまった」


 リオネルはうつむいている。

 握った彼の拳には、どれほどの力が込められているのだろうか。

 リオネルもまた、苦しんでいるのだ。深く傷つき、憔悴している。


 ――これほどまでに彼を傷つけたのは、アベルだ。


「貴女がどうしたら今後安全かつ幸福に暮らせるか、考える時間を少しだけもらえないか」


 アベルはうつむいた。

 幸福に暮らせる方法を考える、なんて。


 彼は少しばかり思い違いをしている。

 だって、わかりきっている。

 リオネルのそばにいる以外の幸福なんてない。

 彼に仕える、取るに足りない従騎士――リオネルの告白にすこしばかりうぬぼれて、生まれつきの頑固と無鉄砲を必死で抑えようとする、ちっぽけなアベルという人間でいる以外の幸福なんて……。


 これ以上の言葉が、リオネルを余計に傷つけることを、アベルは知っていた。

 けれど、言葉は止められず、口からこぼれ出た。


「ずっとそばにいてもいいと……おっしゃってくださったではありませんか。わたしたちが白髪になるまで……」


 アベルも、リオネルも、共にぼろぼろだ。

 すがるような思いで言葉をぶつけたはずが、頼りなくかすれた声が出ただけだった。


「……ああ、そう願っていた」


 目を細めたリオネルが、苦しげな表情になる。


「きっと願いつづけていた……死の、その瞬間まで」


 底知れぬ寂しさと哀しさが、その言葉には滲んでいるような気がした。


 そう、わかっていたのだ。だから、アベルは黙っていた。

 リオネルが、親友の婚約者をそばにおいておけるわけがない。それを知っていて、自らの立場を隠してリオネルのそばに居続けたのだから。

 裏切ったのは自分。

 三年ものあいだ、リオネルを裏切り続けた。

 生まれについては一切触れないという姑息な条件を提示することによって、この状況に甘んじてきた。


 そうだったのかと、アベルは思い至る。

 ――自分には、彼のそばにいる資格はない。


 リオネルから外れた視線を、ゆっくりと床へと下ろした。

 廊下に灯る、わずかな燭台の明りだけが、部屋にぼんやりとした色彩を与えている。


 二人の会話をまえにして、ベルトランはひと言も発しない。ひときわ暗い場所に立つ彼の、その表情さえアベルの場所からは確認できなかった。


「いろいろと、すまない」


 消え入るように低い声でリオネルが謝罪する。


「部屋で休んでいてほしい。すぐになにか決まるわけじゃないから、それまではここに……」


 アベルはうなずいた。

 もう反論する気も失せている。いや、言い募る資格など持ち合わせていない。


 部屋を出て、アベルはあらためて思い知らされる。

 なにもかもを失ったのだと。


 この手は、なにも掴めない。

 三年前も、今も、これから先も……。

 部屋に戻って、どうなるというのだろう。いくらリオネルが考え抜いたところで、他に幸福に暮らせる場所なんて見つかるはずないのに。


 自室を通り過ぎ、向かったのは館のそと。


 闇に染まった空からは、白い大粒の雪。

 馬には跨らず、使用人らが使う小さな裏門から、人知れずアベルは館の敷地のそとへ出た。


 消えてしまいたい。すべての人の記憶から忘れ去られたい。

 ……そう思った。


 アベルであることを認められずして、生きていけるはずがない。

 リオネルを裏切り続けた罰が下った。当然の報い。それでも、彼から突き放されて、このまま息を吸えるはずもない。

 世界中どこを探しても、リオネルを守る以外にアベルの生き方はないのだ。


 これから、ひとりでどこへ行けばいいのだろう。


 舞い落ちる雪が視界を染める。

 くるぶしまで埋まるほど積もった雪。


 新年を翌朝に控えたこの日。あと何時間で、年は明けるのだろう。

 気温はかなり低いはずだ。

 外套を羽織っていないが、寒さは感じなかった。


 行くあてもなく、彷徨いつづける。

 なにを求めているのか、自分自身にもわからない。


 そして、ぼんやりと雪の夜道を歩きながら、ふと意識が途切れるのを感じた。それでも機械的に数歩先まで進んだが、ついに膝から崩れ落ちる。

 頬に触れる雪の冷たさに安堵する。

 浮遊感と共に、アベルは意識を失った。









 アベルが出ていった居間。

 リオネルが握ったままの火打石を近くの卓に置いた。


 暖炉に火は入らぬまま。

 支配する静寂が重い。


「……本当にこれでいいのか」


 はじめてベルトランが声を発した。けれどリオネルは沈黙している。


「こんな形でいいのか」


 押し殺した声で、ベルトランは再び同じ問いを投げかけた。


「これ以外の道があるのか?」


 聞き返すリオネルの声は、静かだ。


「あのように伝えなければ――おれはけっして許されぬことをしてしまいそうだった」

「許されぬこと?」


 室内にいっさいの灯りがない部屋は暗く、冷え切っている。


「アベルをシャンティ殿と知ったうえで、それでもなおそばにいてほしいと――、手放したくないと願ってしまいそうだった」

「――だから、その名で呼んだのか」

「おれが触れてはならない相手。そうだろう?」


 やや考え込んでから、ベルトランは「わからない」と答えた。


「難しすぎて、おれにはわからない」


 暗闇のなか、長椅子の隅に腰かけたリオネルは、両手に顔をうずめる。


「ひとりになりたい」

「そばにいてはだめか」


 この男にしては珍しく気づかう様子で、ベルトランが言う。けれどリオネルは両手に顔をうずめたまま。


「苦しいんだ」


 ――息もつけないくらいに。


 そうつぶやいたきり、是とも非とも答えない。

 かける言葉を見つけられるはずもないベルトランは、黙って主人の傍らに立っていた。






+++






 はーっくしょん……

 盛大なくしゃみの直後に、レオンは寝ぼけたまま叫んだ。


「……寒い、痛いッ」

「殿下っ、お目覚めですか!」


 ――目覚め?

 はっとして起きあがろうとすれば、寒気と関節の痛みに呻く。


「うぅ」

「起きてはなりません」


 慌てて駆け寄ってきたのは、忠実な近衛兵のひとり、シモンだ。


「寒い、痛い……」


 同じ言葉を繰り返しながら、レオンは身震いして自分自身を抱きしめる。


「ここは外ではないな……?」


 まだ氷のなかにいる気分だが、どうもそうではないようだ。


「ええ、殿下のお部屋です」


 冷静に答えたのはいまひとりの近衛兵クリストフ。


「……おれは兄上にそとへ引っぱりだされ、たしか凍った池のなかへ……」


 頭が割れそうに痛い。氷のなかにいるような悪寒に、身体の震えが止まらなかった。


「部屋の外から殿下のお声がしたような気がして出てみたら、遠くにジェルヴェーズ殿下と近衛の姿が見えたので駆けつけたのです。そうしたら、あのような……」


 悔しげにクリストフが説明する。


「そうか……、おまえたちが助けてくれたのか」


 それにしてもだるい。


「いいえ、助けたなどとおっしゃらないでください。殿下はひどいお風邪を召されてしまいました。もっと早くお助けしていれば、このようなことには」

「風邪……?」

「想像を絶する熱が出ております」


 想像を絶する熱とはどんなだ、と内心で疑問に思いつつ、かなり具合が悪いことは自分でもわかる。レオンはつぶやいた。


「……ああ、頭が痛い。五月祭にも似たようなことが起きた気がするが、思い過ごしか?」


 まるで既視感デジャブだ。


「いえ、レオン殿下」


 シモンが眉を寄せて、拳を握る。


「五月祭の折りと同じです」


 あのときは毒を呑まされたのだ。こんな出来事が多すぎて、もはやどんな経緯だったかも思い出せないが。


「今度という今度は、もう許せません。レオン殿下に対するジェルヴェーズ殿下の非道な振舞いを、国王に直訴しましょう」

「殿下、おそれながら私も同じ意見です」


 冷静なクリストフまでもが同調する。

 レオンは慌てて、厚手の布団から熱で震える手を伸ばした。


「……やめろ、シモン。直訴して兄上が父上から叱りを受けるようなことになれば、おまえたち二人が危ない。……いや、確実に殺される」

「しかし――」

「……おれは、大事な家臣を失いたくない」

「我々とて、レオン殿下を失うのではないかと、いつも気が気でないのです」


 そうではないのだ、と熱に浮かされながらもレオンは必死で二人をなだめる。


「直訴する必要はない。いつだって兄上は私に逃げ道を用意している。おそらく今回だっておまえたちが駆けつけることをわかっていたはずだ」

「とてもそのようには見えませんでした。私たちは心配でならないのです」

「……心配するな、兄上は私を本気で殺そうなどと考えてはいない」

「どうして言い切れるのです」


 ついむきになってレオンへ言い返してしまったクリストフは、すぐにはっとして頭を下げる。


「無礼な発言を、お許しください」


 少しはこの態度をディルクも見習ってほしいものだと内心で思いつつ、レオンは首を横に振った。


「無礼ではない。おまえたちが心から案じていてくれる気持ちは伝わった」

「殿下……」


 話を聞いていたシモンが、難しい顔でぐっと唇を引き結ぶ。


「だが、おれは兄上を信じている。兄上が本気でやろうと思えば、おれなどいつでも殺すことができるはずだ。だが、そうしないのは、肉親の情が残っているからではないだろうか。事あるごとに手が出るのも、容赦のない態度も、すべて気を許した兄弟だからだとは思わないか?」

「けれどそれではあまりにも――」

「兄上の背負っているものの大きさ、苦しみを、おれは分かちあうことができなかった。おれは、兄上ではなく従兄弟であるリオネルを選んだのだ。これくらいの痛みは受け入れようではないか」


 二人の近衛兵は深く沈黙した。


「おまえたちには、苦労ばかりかけてすまない……っくしょん!」

「あまりお話しをされると、お身体に障ります」


 だれのせいだ、と思いつつもレオンは大人しく口をつぐむ。いや、つぐまなければ、関節の痛みと、寒気と、頭痛とに、もはや耐えられそうになかった。


「ああ……苦しい……」


 このとき、アベルやリオネルたちとはまったく異なる理由で、レオンもまた苦しんでいたのだった。






















なんか色々とすみません……。


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