19
「ああ、驚いた。リオネルか」
アベラール家別邸の玄関で出迎えたのは、ディルクだった。珍しくそばにマチアスの姿はない。
「マチアスは?」
「昨日の夜、もらいもののエスカルゴを食べて、体調を崩している」
「…………」
「克服したかったみたいだけど、だめだったようだよ。いいかげん諦めればいいのにな。それで? マチアスに用事?」
「違う」
きっぱりとリオネルは告げた。
「おまえ、今日、なんか顔が怖い?」
「話がある。少しいいか」
「もちろんいいけど……」
ディルクはちらとベルトランを見やったが、いつもながら赤毛の用心棒は沈黙を返しただけだ。ディルクは小さく首をかしげる。
客室に通されたリオネルは、肘掛け椅子に浅く腰かけた。
「どうした? なにか起きたのか」
片眉を寄せてディルクがリオネルの表情をうかがう。
どこから話をするべきか、迷ったのは一瞬のこと。迷っていては、ひと言も発せられなくなる気がして、リオネルは強引に言葉を引きずりだす。
「唐突な話かもしれない。でも大事なことなんだ」
「あ、ああ」
「アベルのことだ」
「アベル? どうかしたのか」
途端にディルクが心配そうな声をもらした。
「三年前、おれはこの街でアベルと出会った。フェリぺ殿の手からアベルを助け、館に連れ帰った」
「その話なら聞いたことがあるけど」
「少年と思って連れ帰ってきたが、実はそうじゃなかった。――女の子だったんだ」
「…………」
「アベルは男じゃない。十六歳の女性だ」
ディルクがリオネルから視線を外し、ちらと窓の外をみやる。それから、少し困ったように頭をかいてから、再びリオネルへ視線を戻した。
「……悪い、知ってた」
衝撃的な事実を告げたはずが、逆にリオネルのほうが驚かされる。
「知っていた?」
「ああ」
三人のあいだに沈黙が降り落ちる。
少し長く感じられるその沈黙のあと、おもむろにリオネルは口を開いた。
「いつから」
「いつからだろうなあ……いや、はっきり確信していたわけじゃない。そうと聞かされて今〝やっぱり〟と思った。だってさ、アベルが女の子じゃなかったら、おまえはローブルグの国王に並ぶ男色家だとおれは思ってたよ。おまえにその手の趣味がないことは知っていたからね。だとすれば、アベルは女の子と考えるしかないだろう?」
「……それほど態度に出ていたか」
「小さいころから、これだけそばにいるからね。レオンのような鈍感や、騎士たちのように距離のある者たちはともかく、幼馴染みのおれがわからないはずないだろう」
「なぜ今まで言わなかったんだ?」
「きみたちが、揃いも揃って口裏を合わせて秘密にしていたようだから、おれも知らないふりをするのが親切だと思ったんだよ。どうせマチアスも知っていたんだろう?」
リオネルとベルトランは黙りこむしかない。
「それで? 今更そんなことを言いに、血相変えてここへ来たのか?」
いや、とリオネルは調子を落とす。
「そもそも、どうして急にその話をおれにする気になったんだ?」
「騎士館で、叔父上からこれを預かったんだ。落ちていたと言っていた」
ディルクへ差し出したのは、シャンティからの手紙だ。
少し驚いた面持ちになってから、ディルクは懐を探る。それを所持していないと気づくと、ディルクは大きく息を吐いて手紙を受けとった。
「ああ、ありがとう。落としたことに気づかなかったよ。大事なものなんだ。失くしたのがシュザンのところでよかった」
「すまないが、なかを見てしまった」
「……そう。かまわないよ」
「おれの知っている人の字だった」
ディルクは意味がわからないという顔になる。
「なんのことだ?」
「アベルと同じ筆跡だったんだ」
もはや婉曲に告げることに意味はない。ひと息に告げれば、ディルクは沈黙した。
リオネルは視線を床に落とす。親友の顔を見るのが辛かった。
「おれはアベルの字は見たことないけど、まあ、似ているんだろ」
「違う……、似ているんじゃない」
「だって、同じっておかしいだろ」
「アベルの字はこれまでに何度も見てきている――見間違えるはずない」
再びディルクが押し黙る。なんと言っていいかわからないようだった。あるいは懸命に状況を整理しようとしているようでもある。
「シャンティ殿が亡くなったと聞かされたのは三年前。ちょうど、おれがアベルと出会ったころだ」
「いや、まさか。だって……」
そんなことがあるはずない、と続けたかったのかもしれないが、ディルクは次の言葉を発しない。
「アベルは、カミーユを命懸けでジェルヴェーズ王子から救った。けれど、彼女はけっしてカミーユ本人とは会おうとしない」
「……アベルがシャンティだって?」
ディルクの問いに、一拍置いてからリオネルは無言でうなずく。
「冗談だろ」
力なくリオネルは視線を伏せた。嘘や冗談ですませられたら、どれほどよかっただろう。けれど。
「そんなことがありうるのか? シャンティは生きていたと――」
「おそらく……そういうことなのだろう」
「アベルが、シャンティ……」
「三年前、シャンティ殿は、死んでいなかったのではないだろうか。デュノア邸を出て、ひとりで生き抜いてきた……男として」
「それじゃあ、イシャスは」
怪訝な声音で尋ねるディルクへ、リオネルは眉を寄せる。婚約者であったディルクに伝えるには、あまりに重い事実だった。
けれど隠し通すわけにはいかない。
「――彼女の子だ。見知らぬ相手に襲われたらしい」
苦い口調で伝えれば、ディルクが両手でひたいを押さえる。そのまま大きく天を仰ぎ、
「なんてことだ」
とつぶやいた。
「なんてことだ……」
繰り返される言葉が虚しく室内に響く。
「頭がどうにかなりそうだ」
リオネルとて、まだ到底信じることができそうにない。
けれど冷静になれば、やはりこれまで気づかなかったことのほうが、むしろ不思議なくらいなのだ。
気づくための鍵はいくらでもあった。
言葉遣いや立ち居振る舞いの美しさ、教養、乗馬や剣の経験……その他にも、貴族の令嬢だと感じさせる部分はいくつもあった。容姿からローブルグ系の貴族かと疑ったこともあったが、なるほど、ローブルグとの国境に位置するデュノア家なら納得がいく。
――ブレーズ家令嬢ベアトリスの血を引く少女。
そしてディルクの婚約者。
それが、アベルの正体――。
「彼女の身に起きたことは想像に余りある過酷な運命だったが、悪いことばかりじゃない。シャンティ殿は生きている。無事な姿でディルクやカミーユ殿のそばにいる。それは、我々が心から願っていたことだ」
言い終えると、リオネルは立ちあがった。ディルクは考えを整理できぬ様子で、手で顔を覆ったまま微動だにしない。
客人らが席を離れて扉を開けるときになって、ようやくディルクはリオネルへ顔を向けた。
「どこに行くんだ?」
「館に戻る」
「リオネル……?」
「またすぐに連絡する」
外套を羽織りなおすと、リオネルは再び雪のなかへ飛び出していった。
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リオネルが居間の小卓に置いていったのは、かつて名もない剣士が、王宮の神前試合に臨んだという逸話を綴った一冊だった。
『さっき書庫でアベルの好きそうな本を見つけたんだ』
そう言っていたリオネルの言葉を思い出してアベルは小さく笑ってしまった。神前試合を見物してみたいというアベルの言葉を、覚えていてくれたのだ。
ペラペラめくってみると、激しい戦いの場面が多く、とても女性が読むようなものではない。アベルの好みだろうと選んでくれたのか、ある意味ではからかわれているような……。
けれど読みはじめてみれば、それはアベルの心を揺さぶった。
主人公は若き青年。地位も名誉も財産もないその青年は、ただ己の生きる意味を探し求めて旅へ出た。その孤独な放浪の末に、神前試合に臨むことを決意する。
命をも失いかねないその戦いで、青年はなにを求めたのか。
あるいは、死を求めているかのようにさえみえるその戦い方に、アベルは息を詰めながら読みすすめた。
結末が予測できない。
もしかしたら、本当にこの青年は死んでしまうのではないか。
それが、彼の求めた生き方だったのだろうか。
そんな不安にも似た気持ちで読みふけっていたとき、突如、居間の扉が開いた。
冷やかな外気と共に姿を現したのは、おそらく戻ってきたばかりのリオネルとベルトランだ。気がつけば、窓のそとには闇が落ちている。
「すみません、気がつかなくて」
夢中で本を読みふけっていて、時間の経過に気づかなかったようだ。慌てて本を閉じてアベルは立ちあがる。リオネルらの帰館にさえ、まったく気づかなかった。
「おかえりなさい、リオネル様、ベルトラン」
笑顔で二人を迎えたが、返ってきた反応は意外なものだった。
いつものリオネルの柔らかな表情ではない。かといって、慌てているわけでも、困っているわけでもない。そこに浮かぶのは、形容しがたい、どこか苦しげな色だった。
「なにかありましたか?」
恐る恐る尋ねれば、リオネルがわずかに顔を背ける。
アベルは胸をえぐられるような気がした。
瞬間、胸に過ぎったのは恐怖だ。なにかを悟り、後ずさりしたい気持ちに駆られる。
「暖炉をつけずに寒かっただろう」
そう言ってリオネルが暖炉に火を入れにいく。
「あ――」
弾かれたようにアベルはリオネルを遮る。
「わたしが」
「いや、だいじょうぶだよ」
少し硬いリオネルの声にアベルは気づかぬふりをして、リオネルの手から火打石を引き受けようとする。けれど、すぐにその動きはリオネルの言葉にぴたりと止まった。
「アベル……話があるんだ」
苦しそうで、それでいて、少しばかり距離を置くようなリオネルの語調。アベルはなにも答えられないでいる。
「ひとまず椅子に座らないか」
「……いえ、お話ならここで」
小さな声でアベルは答えた。早く終わらせてしまいたい。そして、〝話〟とやらが終わったら、これまでと変わらぬ時間がきっと戻るのだ。
そう信じなければ、なにかが無性に怖くて、恐ろしくて、声は震えだしそうだった。
椅子へ向かおうとしないアベルへ、リオネルは諦めたようにその場で告げる。
「……今日、偶然に、ディルクの婚約者が綴った手紙を見た」
リオネルの口から紡ぎだされた言葉に、ガツンと頭を殴られたような衝撃を覚える。アベルは重い眩暈に襲われた。
「……きみの字だった」
続いて、リオネルは信じられぬ名を口にした。
少しかすれていたけれど、たしかにそれはアベルの耳に届く。耳には届いたが、意識までは届かない。
届くはずない。
――信じられるはずがなかった。
その名を彼がアベルに向けて口にするなんて。
シャンティ・デュノア殿――。
そうリオネルは言った。
言葉を失い、立ちつくす。
紫色の瞳が怖くて、けれど目を離すことができない。
そうしていると、再びリオネルは同じ名を口にした。
「シャンティ・デュノア殿なんだね」
「なんの……話ですか?」
はぐらかす以外に、アベルがこの場所に立っていられる方法はない。けれど、それもすぐに脆く崩れ去っていく。
足もとが揺らぐ。暖炉に火は入れられぬまま、火打石はリオネルの手のなか。
「はじめ、信じられなかった。けれど見間違えるはずない。あれはアベルの字だ」
「――――」
「なぜ……、三年前、なにがあったんだ?」
眩暈がして、世界が回って見えた。この三年間で築き上げてきたものの全てが、崩れ落ちていく。その無情な音が聞こえてくるような気がする。
「話したくないなら、無理にとは言わない。――けれど」
なんだろう、この距離は。
手を伸ばせば触れられる場所にいるのに、リオネルは数時間まえの彼と同じ人間のはずなのに、今アベルの目にはまったくの別人のように映る。
触れられない。
遠い――、リオネルが、遠い。
リオネルの表情が歪んでいく。
「アベル……なぜ」
なぜ……?
わかるはずない。アベル自身が聞きたかった。
――なぜ。
「……きみはディルクと婚約していた。そして、心からディルクに焦がれていた。それなのにおれは想いを告げ、アベルを追い込んだ。きみは、ずっと苦しんでいたはずだ」
なにか言わなければ。
アベルは心のなかで足搔いた。
ここでなにか言わなければ、なにもかもが取り返しのつかないことになる。
脆い土台に高く高く築き上げてきた幸せが、今、残酷な音を鳴り響かせて崩れようとしている。
いや、もうすでに取り返しのつかぬところまで来ているのかもしれなかった。