18
「そう、ベルトラン」
呼ばれてベルトランは視線だけで答える。
「おまえの従騎士が、戦場でフランソワの命を救ってくれたと聞いた。その際に彼は深手を負ったとか。感謝と、そして謝罪をしたい」
生真面目な面持ちのシュザンをまえに、ベルトランはかすかに肩を揺らし、そして愛想のない声で言う。
「別におれの従騎士だからって、おれに言う必要はない」
「本人に会えないのだから、しかたないだろう。アベルといったか? 怪我の具合は?」
「順調に回復している。今回リオネルに従って王都へ来ているぞ」
わずかにシュザンが目を見開く。
「ベルリオーズから王都へ? 平気なのか」
「まあ、いろいろあってな。頑固だからしかたがない」
「頑固?」
「会うか?」
「もし彼が嫌でなければ」
ベルトランがちらとリオネルを見やる。少し考えてからリオネルは答えた。
「明日以降、催事に参加する合間に機会があれば、叔父上のもとへ彼を連れてきます」
「王宮に来たときには、おれが彼に会いにいくから声をかけてくれ」
「いえ、騎士館で会ったほうが安全でしょう」
リオネルの言葉にシュザンが不思議そうな面持ちになったのは一瞬のことで、すぐに思い至る様子になった。
「ジェルヴェーズ殿下、か」
無言でリオネルはうなずく。
「ジェルヴェーズ殿下に毒を飲まされたレオンのことを叔父上に知らせたのも、殿下の暴力からカミーユを助けたのも、殿下の陰謀から私を救ったのも、すべてアベルです。ジェルヴェーズ王子は、少なくとも後者の二つの事件については、犯人が彼だと疑っています」
「なるほど、慎重に行動する必要があるな」
これまで度々、王弟派に属する者たちをジェルヴェーズの手から救ってきたシュザンだからこそ、状況は的確に理解できるようだ。
それ以外にも、アベルをジェルヴェーズの目に触れさせたくない理由はあったが、あえてリオネルは口にしなかった。
「アベルは、機会をつくってここへ連れてくることにしよう。そういえば、エストラダがブルハノフを破ったことについては、なにか新たな話があったか?」
ベルトランが尋ねると、シュザンが少しばかり表情を固くする。
「もう耳に届いたか」
「公爵様に伝われば、こちらにも届く。もっとも、王宮ではかなり話題になっているようだが。ブルハノフは今どうなっているんだ?」
「ブルハノフの国王は王都の広場で処刑された。王子は拘束されているらしいが生死は不明、名だたる将軍らは拷問の末に次々と命を失っているらしい」
「容赦がないな」
ベルトランが顔を顰める。
「兵士らによる、市民の惨殺や暴行もひどいようだ」
「神の国というのは名ばかりだな」
「すでにエストラダが、クラビゾンに攻め入っていることは聞いているだろう? 戦いの事後処理も済んでいないはずなのに、余裕というべきか、行動が早いというべきか」
「彼の国の勢いは、すさまじいですね」
つぶやきつつ、リオネルはふと叔父に聞いてみようという気になる。
「神に力を与えられた者がいる、という噂は本当なのでしょうか」
シュザンがリオネルへ視線を向ける。ぴり、と走った緊張は、彼がなにか知っていることを意味している。
「迷信、だと信じたいが」
「ユスターの騎士が口走っていました。だれもあの国には勝てない、エストラダには神の加護があると」
「ユスターの者が?」
「ローブルグへユスターの使者として訪れていた者で、ザシャ・ベルネットという騎士がいます。彼とはユスター国境の戦場で相対しましたが、なにか知っているようでした。シャルムを攻め落とし、ユスターと優位な交渉に持ち込むのだと」
シュザンは考え込む面持ちになった。そしておもむろに口を開く。
「まだ、はっきりした情報は入ってきていない。だが、噂は広がっている」
「噂?」
「エストラダが侵略する国々において、要となる人物が病魔に侵されるという」
リオネルとベルトランは同時に眉をひそめた。
「彼らは皆、『気の病』にかかるのだという」
「気の病ですか」
「ブルハノフにおいては、兵士から絶大な支持を得ていた王弟ギールス大公が体調を崩し、統率者を欠いて戦力が弱まった」
「それが、エストラダの力によるものだと?」
「まったくわからない。が、不思議ではある」
「……方法はともかく、もしそれがエストラダの策略だとすれば、彼の国とぶつかる際には叔父上が気をつけなければならないのでは?」
「魔よけのお守りでも、ガイヤールに用意してもらうか」
冗談めかして言うシュザンへ、リオネルは微妙な表情を返す。
神に仕えるはずのガイヤールが、世俗の塵にまみれ、国王派の権力者に取り入って大神官の地位を得たということは、かつて王宮に住まっていたリオネルやベルトランもよく知っている。
「そんなクソ坊主に作らせるくらいなら、おれが作ったほうが、まだ効果があるかもしれないぞ」
ベルトランが冗談で返せば、シュザンが苦笑した。
「おまえがそこに居るだけで魔よけになりそうだ」
「たしかに」
「おい、同意するな、リオネル」
ひととおり懸案事項や近況について語りあうと、リオネルは遅くならないうちにと腰を上げる。別れの挨拶をしてシュザンの執務室から出ようとしたときだ。
「ああ、待ってくれリオネル」
呼び止められてリオネルは足を止めた。
「ディルクの忘れ物だ」
手渡してきたのは、小さな紙切れである。
真新しいものではないらしく、あちこちが茶色くなりかかっている。
「忘れ物?」
「ディルクが帰ったあと、部屋に落ちていたのを見つけた。気が引けたが、持ち主を確認するために開けさせてもらったんだ」
軽くシュザンが顎を上げる。その仕草に促され、リオネルはゆっくりと紙を開く。途端にリオネルは息を詰めた。
「大事なものだろう。届けてやってくれないか」
「…………」
「どうした?」
「なにかの、間違いでしょう」
おかしい、と思った。なにかがおかしい。だから、リオネルはそう言い切った。
「間違い?」
尋ねてから、シュザンはかすかに目を細める。
「似ているとは思ったが」
リオネルは言葉を発することができない。
「似ているだけではないのか」
シュザンはその筆跡を、五月祭の折に目にしている。
演武の最中に飛び来たった矢にくくりつけられていた手紙……レオンを助けるために届けられたその手紙は、むろんアベルが書いたものだった。
「間違いです。……でなければ」
自らに語りかけるようにリオネルは言葉をこぼす。
『まだお会いしたことのない、わたしの婚約者様へ
はじめて貴方に贈り物をします。
気に入っていただければうれしいです。
あなたのシャンティ』
短い文面。
間違いでなければ、なんだというのだ。
「……アベルが、ディルクのために書いたのだろうか」
低くつぶやく。
――アベルが、ディルクのために……?
まさか、そんなはずがなかった。
――なぜ、なんのために?
書く理由がない。
なによりこの紙は古い。茶色がかった色みも、滲んだ文字も、最近したためられたものではないことを物語っている。
手紙をのぞきこんだベルトランが、低くつぶやく。
「似ているな」
いや、似ているという次元ではない。
リオネルが彼女の筆跡を見間違うはずがないのだ。これはたしかに――たしかに、アベルの字。
手紙を持ったまま、目を閉じリオネルは深呼吸する。
落ちつけ、まずは落ちつくんだ。
言い聞かせるが、鼓動がうるさい。
どういうことだとうるさく叫び続ける音が、リオネルの心臓を破りそうだった。
「アベルは……」
低く発せられた声の続きが出てこない。
自分は何を言おうとしたのか。
うまく思考が繋がらない。これ以上考えたくない。けれど、止められない。断ち切っても、断ち切っても、流れていく。
嘘だ。
まさか。
あるはずない、そんなことが。
全力で否定しようとする自分がいる。けれど、目のまえに並ぶ事実は残酷だ。
出会ったのは、サン・オーヴァン。
三年前の冬。
彼女は痩せ細り、重い病を患い、イシャスを身ごもっていた。
野良猫のように警戒し、それでいてこの世界のすべてに絶望し、死を望んでいた少女。
シャンティ・デュノアが池に落ちて命を絶ったのは、三年前。
イシャスと似ていると思ったカミーユの面立ち。
はじめてディルクを紹介したときの、アベルの驚きよう。
五月祭の折りも、先日の夜会も、どうしてもカミーユに会おうとしなかったアベル。
これまでにだって、気づくきっかけはいくらでもあった。けれど、疑いさえ持たなかったのは、なぜ。
激しい鼓動の裏で、胸がしんと冷えていくような感覚がある。
自分は、いったい彼女の、なにを見ていたのだろう。
なにを知ったつもりになっていたのだろう。
全身全霊で否定する自分がいる。認めたくない。
三年前になにがあったかはわからない。けれどシャンティは生きている。こんなにもそばにいて、そして……。
――彼女は、ディルクに恋をしている。
――そしてディルクもまた、シャンティを愛している。
シャンティはあのような手紙を書くほどにディルクに焦がれ、ディルクもまた彼女を思い続けている。
リオネルという人間が、このまま同じ人間であり続けるためには、けっして踏みこんではならぬ場所。
自分を落ちつけようとすればするほど、眩暈を覚える。
止められない苦しさに、リオネルは目を細めた。おそらくベルトランもすでに気づいている。イシャスがカミーユに似ているとすぐに見破った彼なら。
「……手紙は、必ずディルクへ届けます」
低く言い置いてリオネルは踵を返す。
「おい」
呼び止めるシュザンの声に答えずに出ていくリオネルのあとを、慌ててベルトランが追いかけてきた。
「いったいどういうことだ、リオネル」
ベルトランの声は険しい。この状況の危うさを、彼はよくわかっている。
「気づいたのだろう、ベルトラン?」
まっすぐまえを向いて足早に歩みながら、リオネルは奥歯を噛みしめた。
「たしかに繋がった。だが、状況が理解できない」
「おれだって同じだ。理解できるわけがない」
理解はできない。けれど、うやむやにしてはならぬことだった。
「手紙を届けてどうする気だ」
「はっきりさせなければ」
「正気か」
「真実なら、このままではいけない」
「…………」
言葉を返さぬベルトランへ、リオネルは告げる。
「真実なら、アベルもディルクも……二人とも救われる」
――だから、はっきりさせなければならないのだ。
「おまえはそれでいいのか、リオネル」
「他の選択肢はない」
「アベルを手放すのか」
「手放すもなにも――」
リオネルは言葉に詰まる。
――手放すもなにも、はじめからアベルは自分のものではない。
「おれはこれ以上アベルを苦しめたくない」
ふたりは互いに想いあっていた。
「リオネル」
ベルトランの眉間の皺が深くなる。
「おれがあの子を苦しめていた。ひどく残酷な方法で」
すべてを捨てて新たな生き方をしたとしても、焦がれる相手の親友であり、〝主人〟という絶対的な存在である自分から想いを告げられ、彼女はどれほど悩み苦しんだことだろう。ベルリオーズ家の跡取りからの想いに、自らの母親の出自のことも考えたに違いない。
だからこそ、リオネルの告白を聞いた直後に、アベルは館を出ていった。
「どうして、もっと早くに気づかなかった――」
他でもない、自らの手でリオネルはアベルを苦しめ続けていたのだ。
騎士館の厩舎に繋いであった馬に飛び乗り、リオネルはなにかを振りきるように馬の腹を蹴った。
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ただ人が通るだけの廊下でさえ、金箔の文様と優美な彫刻に飾られた豪奢な王宮。
面倒くさい、とは思いつつもレオンが向かった先は、父親の私室である。
大晦日のこの日、気乗りしないながらも、レオンがディルクの言葉どおり調べてみる気になったのは、自分でも気になったからだった。
新年の神前試合に選ばれるリヴァルはだれなのか。
果たして本人にはすでに知らされているのか。
「本当にお供しなくともいいのですか」
心配そうなレオン付きの近衛兵シモンとクリストフには、父王に会いに行くのだから危険などないと告げて、レオンはひとり部屋を出てきた。彼らを残してきたのは、実のところ父王とふたりきりで話をしたかったからだ。
父エルネストが、異母弟クレティアンやその息子リオネルを疎ましく思っていることは承知のうえだが、実の息子であるレオンには真実を打ちあけてくれるのではないかと密かに期待した。いや、そう思いたかった。
ところが、だ。
さほど距離もないはずの父親の部屋へ到達する途中、いや、あとほんの少しのはずだったのだが、運の悪いことに兄ジェルヴェーズと遭遇した。
「裏切り者のレオン、どこへ行く気だ」
彼の左右には、鉄塔のように二人の近衛兵ジョスランとオディロンがそびえ立っている。
〝裏切り者〟というのは、近頃ジェルヴェーズがレオンと二人きりのときに、名前の頭に勝手につけられる枕詞だ。
「兄上、私はなにも裏切っていません」
毎度同じ言い訳することにもレオンは飽きてきていた。
「父上の部屋へ行くつもりか?」
完全にジェルヴェーズはレオンの発言を無視している。ならば、とこちらも答えずに通りすぎようとすれば、乱暴に腕を掴まれた。
「父上になんの用だ」
「兄上には関係ないでしょう」
「なにを探っている」
探る、という言葉自体に、なにか裏に陰謀が潜んでいる気配がある。
「探るとは?」
不機嫌に問い返せば、にやりとジェルヴェーズが笑った。嫌な笑い方だと思ったのは、底知れぬ冷たさと残忍さが垣間見えたからだ。
「放してもらえますか」
「父上の部屋へ行かないと言うなら」
「自分の父親と話してはいけない理由でも?」
先程は笑ませたはずの口元を、ジェルヴェーズは途端に軽く開いて、片方へ吊り上げた。
「ちょっと来い」
「私は父上と話がしたいのです」
「口を閉ざさなければ、痛い目に遭うぞ」
言い終えるや否や、忠実な部下であるジョスランとオディロンの目が光り、その棍棒のごとき手がレオンへと延びる。
ジェルヴェーズの命令なら、王族であるレオンへの配慮など一切捨ててもかまわぬかのような二人の態度だ。
左右から肩を掴まれ、レオンは暴れた。
「放せッ、なにす――」
叫ぶ声さえ、口を塞がれて奪われる。
「すぐに終わる」
――なにが。
頭のなかで問うのも、もはや愚かなことだろう。
周囲から隠すように体格のよいジョスランとオディロンに挟まれ、連れていかれたのは建物の外。
どこでなにをされるのかと思えば、辿りついたのは、木立に囲まれた人工池の隅だった。極寒の冬に、だれひとりとしてこのあたりをうろつく者はない。
「運が良ければまた会おう」
ジェルヴェーズがそう言った途端、池に張った氷のうえへレオンは突き落とされる。
あちこちに割れ目の入っていた氷は容易く割れ、途端にレオンは血も凍るような感覚に襲われた。真冬の池に落とされたのだから当然だ。
「な……ッ、おいっ」
必死に手を伸ばすが触れるのは冷たい氷ばかり。
冬用の分厚い服を着込んだままで、泳げるはずもない。
「あ、兄上ッ――」
もがき苦しむ弟に、ジェルヴェーズは軽く鼻で笑ってから踵を返した。
「ではな、レオン」
去っていく兄と、二人の近衛兵の姿を見送る余裕などない。
寒い。
いや、水は冷たすぎて、もはや痛い。内臓まで痺れるようだ。
寒がりのレオンには耐えがたい仕打ち。
体温が奪われ、意識が遠のく。
失われていく感覚の隅で、レオンは自らの親愛なる近衛兵らの声を聞いた気がした。
※しばらく重たい話が続くかもしれないので、もし苦手な読者様がいらっしゃいましたら、今後5~10話くらいまとめて読まれることをお勧めしますm(_ _)m
★いつも誤字脱字をご連絡いただき、ありがとうございます。とても助かっています。