16
「大神官ガイヤール様ではありませんか?」
マチアスの問いに、ひょろりとした司祭は、薄い唇に微笑を浮かべる。その笑みは、マチアスの問いを肯定していた。
アベルは驚く。この司祭が、シャルムじゅうの司祭の頂点に立つ大神官だったとは。
「貴方は?」
「ガイヤール様の御前で名乗るほどの身分ではありません。連れもまた同様に」
今宵は身分の低い者でも参加できる会である。マチアスの回答は不自然なものではない。
けれど大神官ガイヤールは次のように答えた。
「神々のまえでは、身分の差などないのですよ。貴方がたは、ひとりの人間として尊重されています。神の恵みに預かる者としてのひとりひとりの名を、私は知りたいのです」
うまく言ったものだ。マチアスがあえて名乗ろうとしなかったことを、すっかり見通していたようである。
けれども対するこちらも、ディルクの従者マチアスだ。易々と言いくるめられるはずがない。
「では大神官様におかれましては、私どものような幸運に預かった者の名を知る代わりに、サン・オーヴァンの片隅で、だれにも名を呼ばれずに死んでいく者たちの名をひとりでも多くお覚えになっていただけませんでしょうか。それは、私たちの願いであると同時に、神のご意志でもあると存じます」
これまで薄い笑みを張り付いていた口元が、はじめて真に愉快そうに歪んだ。
「なかなか深いお考えをお持ちと見受けられました。けれど、心配には及びません。神には限りがございません。この世界のすべての者の名を神はすでにご存じなのですから、あなたがたお二人の名を聞いたところで、他の名を覚えられぬわけはございませんから」
「神は、たしかにそうでしょう。けれど貴方は人間です」
細く吊りあがった瞳を、ガイヤールはさらに細めた。
「私は神を代理する者です」
「ええ、存じております。存在の代理であって、その能力の代理ではないと伝え聞いておりますが」
ここまで議論を突き詰めてまで、名前を聞きだしたい――あるいは名乗りたがらない両者は、一歩も譲らない。終わりの見えぬ議論がさらに続きそうになったとき、アベルはすかさず口を開いた。
「こちらの方はマチアスさん、そしてわたしの名はアベルです」
大神官ガイヤールとマチアスの視線がこちらへ集まる。
「神のまえではだれもが平等なら、どこの家に仕える者だとか、どのような身分であるかなどは言わなくともいいのでしょう?」
ガイヤールの顔に再び薄い笑みが広がる。
「賢い方ですね。神に愛されている方――貴方の名を覚えておきましょう」
そう言ってガイヤールは去っていった。
マチアスは無言でその後ろ姿を見送ったが、彼の瞳には少なからぬ警戒心が宿っている。
「あの方とは、なにかお話しされていたのですか?」
「とくには……」
「あちらから話しかけてきたのでしょう?」
「鍛冶屋の出身だとかで、わたしの携えている剣に興味を持ったみたいです」
「鍛冶屋?」
「ご本人がそうおっしゃっていました」
マチアスは無言でガイヤールの消えたほうを見つめていた。
一方、少し時間は遡り、騎士の間ではカミーユとディルクが再会を喜び合っていた。
「少し見ないうちにまた立派になったな、カミーユ」
さわやかな笑顔のディルクに負けぬほど、カミーユが顔を輝かせる。
「本当? おれも早くディルクみたいになりたいよ」
会うたびにカミーユはディルクを称賛する、こうもてらいなく言われるとさすがに照れるらしく、ディルクは頭をかいた。二人の様子を見やって、レオンが苦笑する。
「すっかりカミーユ・デュノアはディルクの信奉者だな。子供とは騙されやすいものだ」
じろりとディルクに睨まれ、レオンは咳払いした。
そんな些細なやりとりは気にせず、カミーユは少し寂しげに言う。
「外見だけじゃなくて、全部ディルクはかっこいいよ。姉さんとディルクは、きっと仲のいい恋人になれたと思うのに」
今更、塗り替えることのできぬ現実に、ディルクはかすかに眉を下げた。
「ねえ、ディルクはロルム領のユスター国境で戦ってきたんだろう?」
気持ちを切り替えるようにカミーユが話題を変える。
「ああ、そう、ここにいるリオネルや、レオン、それに多くの諸侯もいっしょにね」
「すごいなあ! 少数でユスター軍を追い返したって。もしおれが騎士になっていたら、真っ先に駆けつけたよ」
「それは心強いね、リオネル」
ディルクから視線を受けたリオネルが、微笑してうなずく。
「そのときはいっしょに戦おう」
「今回はデュノア家が参戦しなくて、ごめんなさい」
表情を引き締めてカミーユは頭を下げる。
ユスターとの戦いではデュノア家にも援軍を要請したが、結局は少しばかりの傭兵が送られてきたのみだった。その対応は、ブレーズ家とまったく同様である。
ブレーズ家の影響が強いデュノア家だが、カミーユが当主になった暁にはなにかが変わるだろうか。国王派と王弟派の狭間で、カミーユは難しい立場に立たされることになるに違いないが、そこを乗り越え、確固たる姿勢を保てるかどうかは、彼自身の信念の強さ次第だ。
「きみが気にすることはない」
リオネルは十四歳の少年にほほえみかける。
と、ふとリオネルは目を細め、カミーユをまじまじと見つめた。カミーユが不思議そうにリオネルを見返す。
「どうかした?」
ディルクに尋ねられると、リオネル自身がやや腑に落ちぬ面持ちになった。
「いや……少し似ている気がして」
「似ている? だれに」
「もしかして、フィデール様? よく似てると言われるよ」
「ああ、たしかに似ているな」
どこか白けた口調で答えたのはレオンだ。けれど、リオネルの反応は違った。
「いや……気のせいかもしれない」
「だれに似ていると思ったんだ?」
ディルクに問われてもリオネルがなおも答えずにいると、ベルトランが低くつぶやいた。
「イシャスか」
束の間の沈黙が降り落ちる。
「ああ、たしかに」
と、すぐに反応したのはレオンだ。
「言われてみれば似ているな。目の色とか、顔の雰囲気とか」
ディルクはまだよくわからないらしく、じっとカミーユの顔を見つめ、イシャスと似ているところを探そうとしているようだ。
「そうかな?」
「おまえはあまりイシャスと遊んでやってないから、わからないのではないか?」
「ずいぶん偉そうに言ってるけど、レオンだってそうじゃないか」
「イシャスって?」
カミーユが尋ねる。
「アベルの弟だ」
答えたのはレオンだ。
「そういえば、アベルとマチアスはどこへ行ったのだろう?」
一同は会場を見渡す。が、二人の姿は見当たらない。少し考える面持ちになってから、リオネルが口を開いた。
「いつでも休んでいてもかまわないと言っておいたから、控室にいるのかもしれない」
「具合が悪いのですか?」
尋ねるカミーユへ、リオネルはわずかに声の調子を落として答えた。
「アベルは今回の戦いで、死の淵をさまようほどの大怪我を負ったんだ。今もまだ完全に癒えたわけじゃない」
「そうだったんですか……」
「会いにいく?」
ディルクに問われてカミーユは首を横に振る。
「休んでいるところを邪魔するのも申しわけないし」
「まあ、そうだね。きっとあとでまた戻ってくるよ」
「五月祭のとき助けてもらったお礼を、今度こそ直接言わないと」
力の入るカミーユへ、リオネルは静かに告げる。
「あまり気負う必要はないよ。手紙は届けたのだし、アベルだってそれで充分だと思っているはずだ。いや、きっと手紙がなくても、きみが助かったというだけで満足している」
少し悩む様子のカミーユの頭に、ぽんとディルクが手を置く。
「リオネルの言うとおり、機会があればでかまわないんじゃないか? ともかく今日はこうして再会できてよかった。今回の戦いは厳しかったからね。もしかしたら、と思っていたけれど、幸いにも首はつながってるし」
「おれは、絶対にディルクは勝つって、ディルクは死なないって、いつも信じているよ!」
「そうか」
カミーユの頭に置いた手で、ディルクはそのまま彼の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「ねえ、戦いのことを聞かせてよ。どんなふうにユスター軍を追い返したのか」
ディルクはリオネルやレオンと顔を見合わせ、そしてうなずいた。
「かまわないけど、長くなるよ?」
「いくらだって聞くよ! ああ、ちょっと待って。コンスタンといっしょに聞きたいんだ」
「コンスタン?」
ディルクに問われて、カミーユは活き活きと答えた。
「コンスタンはロルム家の嫡男で、おれの友達なんだよ。彼もリオネル様やディルクとすごく話したがっていたから」
「へえ」
意外な関係に、ディルクは軽く目を見開く。
ブレーズ家の血を引くにも関わらず、カミーユには王弟派の友人が多いようだった。彼の両親がそのことについて受け入れているかどうかは、甚だ怪しいが。
「今夜は彼もここに来ているから、すぐに連れてくるね」
言葉通り、ほとんど待たせぬうちにカミーユが連れてきたのは、父親に似てやや小柄だが、意思の強そうな顔つきの少年。
「わ、私はコンスタン・ロルム――正騎士隊のシュザン・トゥールヴィル隊長に師事しています。り……リオネル様や、他の方々に置かれましては、我が父を助け、ロルム領を救っていただきありがとうございました」
ひどく緊張した様子で挨拶するコンスタンへ、リオネルは手を差し出す。
「リオネル・ベルリオーズです。お父上には大変世話になっています」
「い、いえ。こちらこそ!」
かちこちになりながらも、コンスタンがリオネルの手を握り返す。
「コンスタン殿は、叔父シュザン・トゥールヴィルの従騎士でおられるとか。私たちも皆、叔父上に師事していたのですよ」
「お、畏れ多いです……」
互いに公爵家の跡取りという同じ立場だが、王弟派寄りであるコンスタンにとっては、リオネルは天上の人であるようだ。それに加えて、自領を救ってもらった恩が彼を固くさせている。
「さあ、ユスターとの戦いについては、なにから話そうか」
ディルクが不敵に笑う。国王に挨拶へいかねばならない時間まで、二人の従騎士は目を輝かせてユスター軍との戦いの話に聞き入っていた。
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「ああ、アベル。やっと会えた」
安堵した面持ちのリオネルと合流したのは、彼らが帰途に着くころ。
馬車のまえでリオネルらの帰りを待っていたアベルは、頭を下げる。
「長いことおそばを離れ、すみませんでした」
「少し疲れていたようなので、私が休んでいるよう勧めたのです。申しわけありません」
すかさずマチアスがアベルを庇った。
「いや、二人とも謝る必要はない。むしろ休んでいてもらってよかったし、マチアスがそばにいると知っていたから、安心していた」
そうはいっても、やはり気がかりだったらしいリオネルの様子だ。長時間姿を現さず、最終的には先に馬車で待っていたのだから当然のことかもしれない。
「アベル、具合は平気なのか」
「あ、はい……休んでいたらすっかりよくなりました。ご心配をおかけしました」
「そうか、それならいいのだけれど」
「リオネル様こそ、国王陛下との面会は無事に?」
「ああ、つつがなく終わったよ」
なんでもないようにリオネルは言うが、緊張などしなかったのだろうかとアベルは不思議に思う。まるでお茶でも飲んできたかのような風情だ。
と、遅れて玄関から出てきたディルクが駆け寄ってきた。
「ごめん、ちょっとカミーユと話してたんだ。あっ、マチアス、このやろう、ようやく見つけた」
従者を咎めるディルクへ、ざっと事情を説明したのはリオネルだ。
「……そうか、そういうことなら仕方がないね」
「マチアスには感謝してる。従者殿を貸してくれてありがとう、ディルク」
「いや、かまわないよ。アベルのためなら、いつだって使ってくれ」
「さあ、そろそろ帰るぞ。ゆっくり話していて、だれかに見つかるとまずい」
ベルトランに促されて、アベルはリオネルと共にさっと馬車に乗り込む。
「おやすみなさい、ディルク様、マチアスさん」
見送りにきた二人に別れを告げると、馬車は動きだした。