13
「ああ、ディルク。もっと早くに合流するかと思っていたよ」
「そうそう、もっと早く合流するつもりだったんだけど、ついダラダラしちゃって」
「まったく本当ですよ。ディルク様がすぐに、お腹空いたとか、疲れたとか、お腹空いたとかおっしゃってあちこちで休憩するものですから、追いつかないかと心配になりました」
「お腹空いた」という言葉が二度入っていたのは気のせいだろうか。苛立った口調のマチアスを、リオネルは含み笑いでなだめる。
「まあまあ、マチアス。ここでこうして会えたのだから」
「二人きりの旅で、マチアスは相当な精神的負荷を負ったとみえるな」
ベルトランの分析に、ディルクが方眉を吊り上げた。
「どういう意味だ?」
「そうだ、それでディルクはいつもおれの味方をしてくれるのだったね? ありがとう」
すかさずリオネルが話題を逸らせば、
「あ、そうそう」
と、ディルクはころりと表情を変える。それから笑顔でアベルを見やった。
「おれは、リオネルといっしょにアベルのことを心配するよ。アベルは頑固で無鉄砲だからね」
「が、頑固で無鉄砲?」
はっきりとディルクに告げられたアベルは衝撃を受ける。
「って、自分でわかってなかったの?」
「……己を振り返ってみます」
小さくリオネルが笑った。
「そのままのアベルが好きだけど」
「あいかわらずだなあ」
ディルクは呆れた様子だ。
「そんなことをおっしゃいつつ、アベル殿に関してはディルク様も同じ思いなのでしょう?」
対抗意識を燃やしているらしいマチアスに、
「なにを張り合っているんだ?」
とディルクは曖昧な表情だ。
「違うのですか?」
「まあ、もちろんそうだけど」
「おまえたちも豆料理、食べるんだろう?」
会話を遮って二人に聞いたのはベルトランである。もはや話はあちこちに飛び、流れというものをまったく失っている。
けれどディルクはこの旅で脈絡のない会話には慣れたらしく、少しも戸惑うことなく答えた。
「え? おれたちはきみたちと違って毎晩豪勢な料理を食べてきたわけじゃないから、豆料理にしなくても平気なんだよ。ここの豆っぷりはすごいね。豆づくしもいいところだ」
「けっこうおいしいですよ」
レンズ豆のガレットに、ベルトランから少し分けてもらった豆と鶏肉の煮込み、そしてインゲン豆のポタージュを食べているアベルに、ディルクは苦笑を返した。
「よくそんなに豆ばっかり食べられるね」
「そう、食べてみるとけっこういける」
リオネルも食が進んでいるようだ。
「おまえらが全員、修道僧に見えてきたよ……あ、肉と酒ばっかり口に運んでるベルトランは別ね」
「どうせならいっしょに食べましょう」
そう言いながらマチアスはすでに隣の席に腰かけている。
「え、本気か?」
うろたえるディルクをよそに、アベルとマチアスは話を進めた。
「マチアスさん、ここに二つ椅子入りますよ」
「けれど狭くなってしまうのでは?」
「平気ですよ。同じテーブルを囲んだほうが楽しいですから」
「ああ、椅子は入りそうですね。では失礼します」
二人の様子をまえに、ディルクがげんなりとつぶやく。
「……豆づくしか」
「大丈夫、酒に豆は入っていないから」
笑って告げるリオネルに、あたりまえだ、とぶっきらぼうに答えながら、ディルクも腰をおろしたのだった。
+++
「エマ様……どこにいらっしゃいますか、エマ様」
探し回る若い女の声が、雪深いデュノア邸の庭に響く。
けれど探す相手は見つからなかったらしく、娘は静寂に包まれた白一色の景色をぐるりと見渡し、溜息をついた。
――まさか。
嫌な予感が脳裏をよぎったとき、背後から声をかけられる。
「カトリーヌ、エマ殿はいたか」
「あ、いいえ……」
かつてデュノア家の令嬢シャンティ付きの侍女をしていたカトリーヌだが、シャンティが亡くなってからは、すっかり精神的に参っているエマの身の周りの世話や、館の細々とした雑用をこなしていた。
そのエマが見当たらないのだ。
「どこにいったのだろうか」
「……すみません、いっしょに探していただいて」
「いや、それにしても心配だな」
十年以上門番をしていたが、二年ほど前から館内部の警備に移った兵士エリックである。
エマの姿が見えないことに気づき、探したがどこにも見つからないので、カトリーヌは友人であり、個人的に最も信頼できる彼に密かに助けを求めたのだ。
「人を増やして探してはどうだろうか」
「伯爵様のお耳に入れば、ご不興を被るかもしれません」
なるほど、と納得しつつも、エリックは厳しい表情だ。
「だが、万が一――ということはないだろうか」
「わたしも考えました……もしかしたら、池のほうへ行ったのかもしれません」
「この雪のなかを、あんな遠い場所へ?」
「もし、ご自身で運命を定められるなら、あそこへ向かうと思うのです」
はっとしたエリックが、ひとつうなずく。
「わかった。おれが行ってこよう」
「わたしも行きます」
「こんな雪のなかを歩けはしないだろう?」
「心配なんです。シャンティ様がいなくなってからのエマ様は、本当に見ていられないほどのご様子ですから」
相手の勢いに負けて、エリックはカトリーヌが共に来ることを承諾したようだった。
+
雪は二人の足首まである。
雨の日も雪の日もデュノア邸を守り続けてきたエリックと違い、慣れない場所を歩むカトリーヌは大きく足を踏みだして懸命に先へ進んでいた。
「なあ、カトリーヌ」
「……はい」
エリックが呼べば、足もとに気を取られながら、カトリーヌは返事をする。
「もし――、もしシャンティ様が、池で溺れていなかったらどうする?」
え、とカトリーヌは足を止め、顔を上げた。
「……どういう意味ですか?」
「もしもの話だ」
「もちろん生きていらっしゃったら嬉しいですが、そんな、もしもの話をしたって、しかたがないではありませんか」
少し怒った口調で言い放ったカトリーヌは、さらに大股で歩きはじめる。エリックは沈んだ調子で「そうだな」と答えた。
デュノア邸の門番をしていたエリックは、三年前、シャンティが館から追い出された現場を目撃している。話している内容はわからなかったものの、あのときの伯爵の冷酷な態度は、今でも忘れられない。
そして、その後シャンティは密かに館へ戻ることを許されたものの、ひとり池へ向かって身を投じた――そのように説明を受けてきた。
けれど。
本当にシャンティは戻ってきたのだろうか、とエリックは今でも疑問に思っている。
あの日は翌朝まで門の番をしていたが、シャンティの戻る姿を見かけなかった。たまたま休憩している時間に門をくぐったのだろうか。だが、休憩の時間に交代した同僚は、彼女の姿を見たとは言っていなかった。
長年務めた門番の職から館内の警備に移りたいと訴えたのは、門のまえに立っていると、あの日の出来事について繰り返し考えてしまうからだ。
いや、エリックの目に焼き付いているのは、三年前の出来事だけではない。
まるで既視感のごとく、もうひとつの光景が脳裡から離れなかった。
あれは、何年前のことだったか。
十年……いや、まだエリックがデュノア邸に勤めはじめて間もないころだから、十三、四年も昔になるだろうか。
頭から外套のフードを目深にかぶった女がどこからともなく現れ、門前に立ち、いくら声をかけても動こうとはせずに、デュノア伯爵の帰りを待っていた。
無理矢理にでも立ち退かせなかったのは、いくら諭しても彼女が頑として動こうとしなかったことと、その女の腹が膨らんでいるのが見えたからだ。
顔はフードのせいで確認できなかったが、彼女が身重だというのは明白だった。
伯爵が帰館すると、その馬車に駆け寄り、女は必死でなにか訴えていたが、返ってきたのは冷ややかな反応だけのようだった。すがりつく女を残して、馬車はデュノア邸のなかへと走り去っていった。
十数年前のその出来事は、すべて門前に繋がる馬車道の先で起きたことだから、エリックのいた場所からは離れていて何事か理解できなかった。けれど、そのとき突き放された女の姿が、三年前に伯爵の足もとにすがりついていたシャンティの姿と重なる。
このデュノア邸でなにが起こっているのか。
考えるのは、なぜだが無性に恐ろしかった。
「あっ、エリックさん、あそこ!」
カトリーヌが指差した先に、ふらふらと池の周囲を歩む女の姿がある。
やはりエマは池の近くにいた。いったいなんのために。
「エマ様!」
カトリーヌが懸命に雪のなかをエマのほうへ駆けていく。エリックも遅れじと走った。
「どうなさったのです、こんなところで」
エマのいるところまで辿りついたカトリーヌは、その身体を抱きしめる。
「心配したんですよ、もう。こんな格好で、お風邪を召してしまいます」
けれどエマの反応は、我に返るでも、心配をかけたことを詫びるわけでもなく、あるいは慌てたりする様子もなく、ひたすら淡々としたものだった。
「……花を、探していてね」
「花?」
唖然としてカトリーヌが聞き返す。
「花なんて、この季節は……」
「水色の花が見つからないんだよ。シャンティ様のお部屋に生けて差し上げなくては……」
「水色どころか、どんな花だってこんな雪のなかでは咲きません。エマ様、とりあえず戻りましょう。ここは寒いですから」
「だめだよ、カトリーヌ。花が見つかるまでは帰れない。だって、そうしなければシャンティ様のお部屋が空っぽになってしまう」
「大丈夫です、エマ様。シャンティ様は哀しまれたりしません。それより、こんなところでエマ様が凍えていることのほうが、よほど哀しまれると思います」
「いいや、お部屋に連れ戻してさしあげないと、シャンティ様は永遠にこの冷たい池のなかでお過ごしになられることになってしまうんだ」
「……そんなこと」
水色の花を、エマはシャンティと重ねているらしい。困りきった顔でカトリーヌは視線をエリックへ向けた。
エリックは、カトリーヌから助けを求められて、小さく息を吐く。
「水色の布で花を作ってみてはいかがかな」
はっとした表情でカトリーヌが顔を上げる。
「それがいいです! エマ様、戻っていっしょに布で花を作りましょう。そうすれば、ずっとシャンティ様が暖かいお部屋で花を見ていられます」
「ずっと……」
そうつぶやきながら、ふらふらとエマは池のほうへ歩んだ。
今にも氷の張った池に足を踏み入れそうなエマを、エリックは腕を掴んで引きとめる。
「あまりそちらへ近づかないほうがいい」
「離しておくれ、シャンティ様のところへ行きたいのさ」
「本当にそんなところにシャンティ様がおられるのか?」
「ああ、この冷たい氷のなかに、あの方は突き落とされたんだ……わたしのせいでね」
突き落とされた、という言葉に、すっとエリックの背筋を冷たいものが走る。
「なにおっしゃってるの、エマ様。突き落とされたなんて、滅多なこと――」
カトリーヌも顔色を変える。が、エマは止まらなかった。
「盥のなかで、シャンティ様は今でもわたしに救いを求めて泣いていらっしゃるんだよ。なんの罪もないのに、ああ、おかわいそうに……」
「盥?」
もうなにがなんだかさっぱり意味がわからない。
「エマ殿」
力強い声でエリックは名を呼んだ。
この人の心を救うためには、告げるしかない。真実がどこにあるのかはわからないが、これはこの三年間でエリックが出した結論だ。
大きな声で呼ばれたエマは、ゆっくり振り返った。
「シャンティ様は、ここにはおられない。花を探す必要はないんだ」
どういうこと、と表情に欠けるエマの顔に、わずかに意識の色が灯る。
エリックはひと息に告げた。
「私は三年前の事件の日、ずっと門の前に立っていたが、シャンティ様が敷地の外へ引きずり出されたあと、お戻りになるところを見ていない。長いこと私はこれについて疑問に思ってきたが、今から思えばやはりそうだったのだ。シャンティ様はお戻りになってはいなければ、この池で溺れてなどいない。事実、お身体は見つかっていないではないか」
「シャンティ様がここにはいらっしゃらない……?」
呆然とエマは繰り返した。
不安げなカトリーヌの眼差しが、エリックの横顔に突き刺さる。だが、エリックはエマから視線を外さない。
「信じてみないか、エマ殿。シャンティ様がこの館から出て、どこかで幸福に暮らしていることを」
大きく見開かれたエマの瞳が、どこか遠い世界を映したようだった。
声にならぬ声が、その口からは漏れる。
「……生きてる……シャンティ様が……シャンティ様が……」
「本当なんですか、エリックさん」
カトリーヌもまた泣き出しそうな顔でエリックを見ていた。
「……確証があるわけではない。だが、この池で死んでいない可能性を信じてみてもいいと思うのだ」
幼い主人が生きている可能性を知ると、カトリーヌは喉を詰まらせ、言葉を失う代わりに涙をあふれさせた。
「信じてみても、いいのでしょうか」
「館から出されたのは秋のことだった。三度目の冬を越せているかどうかはわからないが、少なくとも私には、この池にシャンティ様がおられるとは思えない。……だが、このことは、けっして伯爵様には告げないでくれ」
はっきりと告げられた言葉に、カトリーヌは大きくうなずく。
「もちろんです……もちろん伯爵様には言いません」
もはや三年前の事件の日以来、シャンティの最も近くに仕える侍女であったカトリーヌにとっては、婚約を破棄したディルク・アベラールだけではなく、シャンティを追い詰めたデュノア伯爵も憎き仇なのだった。
シャンティが生きている可能性があるなら、大切な主人を失った哀しみを、乗り越えることができる。その顔には、はっきりとそう書いてある。
カトリーヌは、未だに呆然としているエマの手をとった。
「エマ様、いっしょに信じてみましょう。シャンティ様がこの世界のどこかで生きていらっしゃることを」
「……そうか……シャンティ様が……」
ぼんやりとエマはつぶやくのを、エリックはなんともいえぬ思いで聞いていた。