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デュノア伯爵領の北東、アベラール侯爵領を隔ててベルリオーズ公領はある。
シャルム王国の直轄領とほぼ同域の広さを持つのは、ここベルリオーズと、さらに東方に位置するトゥーユヴィーユ公爵領、そして南にあるブレーズ公爵領だけだった。
竜が東を向いて翼を広げたような形をしているシャルム王国は、西翼の中心にベルリオーズ、東翼の中心にトゥーヴィーユ、腹部にブレーズ、そして心臓部分に直轄領があった。
シャルム王国屈指の貴族であるこのベルリオーズの地で、一人の男の血が雨水とともに土に吸い込まれていった。男の名も、歳も、身元も、わかるものはなにもない。男は口を閉ざしたまま、瞳から光を失っていった。
「すまない、いつもこんな役回りをさせて」
男の骸のすぐかたわら、雨外套をかぶった二人の影が、降りしきる豪雨の中に佇んでいる。
聞こえてきた男の声は若い――まだ十代だろう。
長身の影の人物の手には、剣が握られており、付着した鮮血はまたたく間に雨に流されていった。
「いや、これがおれの仕事だ」
剣を鞘におさめながら、長身の男は答える。その言葉を聞いていた青年の表情は、雨と暗さの中ではっきりしなかった。
「あとで遺体は片付けさせる。さあ、雨がひどい。中へ入ろう、リオネル」
返事はせずに、リオネルと呼ばれた青年は玄関へと歩き出した。
ベルリオール公爵家の外門と玄関をつなぐ道の途中である。賊は雨の中、生垣の隅にでも隠れていたのだろう。突然斬りかかってきた賊を、リオネルが剣を抜くより先に、一刀で切り捨てたのは、長身の男の方だ。
なにが目的なのか、だれに依頼されたのか、そんなことは今までの賊が一度たりとて口を割ったことがないため、生かしておく必要はなかった。
御者は馬屋のほうへ行っており、だれも怪我などをしなかったことだけは幸いである。
雨のカーテンをくぐって、階段を上り、玄関にたどり着くと、長身の男が扉をたたく。一言二言の受け答えのあと、重い扉がきしむ音も立てずに開いた。中からの明るい光と乾いた空気が、にわかに重く湿った外気と交わる。
「おかえりなさいませ、リオネル様、ベルトラン様」
玄関のすぐ内側で扉を守っていた騎士が一礼した。同時に、館内から女中や使用人が集まってくる。執事のオリヴィエが出てこないということは、おそらく公爵のもとにいるのだろう。
背後で扉が閉まった。
「今日はなぜ玄関前に警備兵がいない」
頭をさげて出迎える館内の者たちを見渡し、ベルトランが厳しい口調で尋ねる。すると恐縮した様子で騎士が応じた。
「申し訳ございません、ちょうど交代の時間で、次の者が手間どっておりました」
「たった今、リオネルが賊に狙われた」
驚く騎士の周囲で使用人たちがざわめく。
「クロードはどこにいる」
「馬屋ではないかと……」
クロードは、ここのベルリオーズ家の私兵約五千人を統括する責任者である。
ここにいないと知って、ベルトランは小さく舌打ちをした。
「外の警備を手薄にしているのではないか」
ベルトランはたたみかけるように言ったが、これはクロードに話を通さなければならないことだった。
深々と頭を下げて謝罪する騎士をまえに、リオネルは微笑してベルトランを向く。
「おれはこのとおり元気だ。だれも咎める必要はない」
「……恒例行事のように襲ってくる雑魚が、いつか手練に代わってみろ。人数までそろえられたら、おれひとりでは守りきれないぞ」
「そのときには、おれももう少し腕を上げているよ」
リオネルはベルトランから視線を外して笑顔で言うと、雨外套を女中に預けて「父上は息災か」と聞いた。リオネルの父とは、ほかならぬベルリオーズ家の当主である。恐縮した様子で頷く女中の様子を確認してから、
「おれは部屋で休む。父上には後で挨拶に行くから、到着したことだけ伝えておいてくれ」
と告げ、リオネルは大階段の方へ歩む。ベルトランがそれに続いた。
大階段を上り、迷路のような回廊と部屋のあいだを奥へ進んでいく。きしむ板張りの廊下には分厚い絨毯が敷かれており、ところどころに灯された燭台の光が、二人が通り過ぎるとともに揺れた。窓の外へ目をやれば、雨はやむ気配なく降りつづいている。
自室にたどり着くと、扉の前でひとりの少年が一礼した。
「お出迎えもせずに失礼たしました。おかえりなさいませ、リオネル様」
ベルリオーズ邸において、リオネルの従者をするジュストだった。リオネルより二つ年下の十四歳だったが、そつがなく、真面目で、しっかりしている。彼はもうすぐ、クロードつきの従騎士になる予定だった。
「あたたかいお飲物をご用意しておりました。ベルトラン様もお召し上がりくださいませ」
そう言って二人に扉を開く。
「ジュスト、久しぶりだ。元気そうだね」
リオネルが笑顔を返して、室内に入る。すると、蜂蜜の甘い香りがした。ジュストはあたたかい蜂蜜酒を用意していたのだ。
見慣れたこの部屋にいるときが、リオネルは一番落ち着くことができた。
華美すぎない装飾が施された壁には大きな窓が二つ、今は流れる雨水を映しているだけだが、昼間になればベルリオーズ邸の広大で優美な庭を一望することができる。
十六歳の青年には少し大きすぎる天蓋つきの寝台や、小ぶりな書きもの机、細やかな彫り物がほどこされた暖炉など、そのどれもがリオネルにはしっくりきた。
リオネルは十四歳になるまで、この館で生活していた。二年ほど前から、王都に移り住んでいるのは、正式に騎士になるためだった。
王都には、リオネルの母方の叔父であり、王宮における騎士団の、さらに正騎士隊の隊長を務めるシュザンがいる。シャルム王国一の剣の使い手と謳われる彼に、従騎士として仕えているのである。
シュザンには、リオネルの他にも多くの従騎士がついている。
ちょうど彼と同時期についた仲間が、隣接するアベラール侯爵家の嫡男であり、幼いころからの幼馴染みでもあるディルク、そして、シャルム王国第二王子のレオンだった。
普段は王宮に住まうリオネルが、ここベルリオーズに戻るのは年明けにたった一度きり。
しかし、今は夏。
今年二度目の帰省を果たしたのは、母の死後ちょうど十年にあたる年だったからだ。
肌寒い晩夏の日暮れ時、ベルリオーズ公爵夫人は静かに息を引きとった。
死んだ当時、リオネルはまだ六歳だった。泣こうが、叫ぼうが、もう二度とその瞳を開くことのない、白く美しい母の死に顔を、リオネルは未だトラウマのように鮮明に覚えている。
テキパキと働くジュストに身の回りのことは任せて、リオネルは肘掛椅子に腰かけた。銀杯にそそがれた蜂蜜酒を一度は手にしたが、口に運ぶことなくまた円卓に戻すと、ベルトランに言った。
「最近ご無沙汰だったと思ったら、この機会に現れたな」
円卓を囲って斜め横に座るベルトランは、うなずいた。
「さすがに王宮ではやりづらいのだろう。どこのだれがさし向けているのか知らないが、迷惑な話だ」
だれがさし向けているか分からない、とは言ったものの、彼らの目的についてはほぼ疑いなく分かっていた。
「おまえがいなくなれば現王家は安泰か……やつらがここまで危機感を覚えているなら、いっそのこと王の座を奪い返してやったらどうだ、リオネル」
ベルトランの提案に、十六歳の青年は微笑して、そうしてみるか、と返した。
二人の物騒な会話は聞こえていないのか、ジュストは使用人たちが運んできたリオネルの荷物を淡々とほどいて片付けている。
「王権を主張しても、しなくても、どのみちやつらは命を狙ってくる。せっかく先方から事を荒立てようっていうんだから、黙っているのも失礼だろう」
おまえが戦うというなら喜んで従う、と言うベルトランは、半ば本気のようにも見えた。その返事はせずに、リオネルは冷静な声音で言った。
「父上が王権を放棄しても、安心できないものなのだろうか」
ベルトランは短い赤毛に片手をやって、リオネルを見た。燭台の光に照らされるその顔は、まだ少し幼さを残しており、母親に似て、白皙の美青年だった。
もし、四十年前、あのようなことが起きなければ、この青年がシャルムの正式な王子であり、それに異論を唱えることができるものはこの国には存在し得なかった。
「不当な方法で他人からものを奪うと、人はつねにそれを守ろうと怯えるものだ」
「なるほど」
五歳年長のベルトランの言葉に、リオネルはなんとなく納得した。
「では、その限りにおいては、おれの生活に平穏はないのか……」
リオネルはゆっくり息を吐き出しながら、疲れたように言った。リオネルだけではない、今後、いずれ迎えるだろう妻や、子供にも危害が及ぶ可能性も考えられた。
「おまえの伯父上殿も、くだらないことをしてくれたものだな」
リオネルの伯父、つまり、リオネルの父の兄であり、現国王のことを、あえて、ベルトランは「王」とは言わなかった。
かつて、シャルム国王には、正妃の間に一人、愛人の間に一人、子供がいた。多くの国の慣習がそうであるように、この国でも王位継承権は正妃の子にある。
しかし、シャルム国王が享年五十一歳で崩御したときには、正妃の子はまだ九歳であった。
幼い者が王位に就くことは、国が乱れる所以となる。摂政政治や、他国からの干渉、貴族たちの力が大きくなる引き金になるなど、いくらでも起こりうる弊害をさけるため、騎士に叙任される十七歳になるまで代わりの者が王座に就くことになった。そして周囲を見渡せば、二十一歳になった王と愛人の子以上に、その立場に適任と思われる者はなかった。
こうして代理の王位についた愛人の子だが、四年後に前王の正妃が死ぬと、その子共を王宮から追い出し、自らが正式な王として戴冠した。正統な王位継承者であるはずの当時十三歳の少年は、母の実家であるベルリオーズ家でかくまわれ、その爵位を継ぐこととなった。
王位を奪った愛人との子とは、今この国を治める国王、エルネスト。王座を奪われた正妃との子とは、現在のベルリオーズ公爵――まさにリオネルの父、クレティアンであった。
「しかし、この状況では、父上がなんのために王権を放棄したのか分からないな」
全てが無駄になったのではないか、とリオネルは思わずにはいられなかった。
「結局、クレティアン様が自ら身を引いたところで、周囲の者が納得してなかったということだろうな」
エルネストが王位を簒奪した際、王宮内や貴族たち、国民までもが騒然とし、同時に憤慨した。亡きシャルム王の愛人はもともと、王のお手つきにあったというだけの平民出身の女中だった。
それに比べて、正妃は伝統ある大貴族ベルリオーズ家の令嬢である。正妃の子が王位継承権をもつのは当然のことであるうえに、同じ王の子とは言え、二人は格が違いすぎた。多くの者が、意義を唱え、エルネストを弾劾した。
そこでついに、エルネストはそうした反抗分子の粛正に乗り出した。
官職者であろうが、貴族、聖職者であろうが、民であろうが、地位や立場にかかわらず、自らを王と認めない者は拷問の末、断罪とし、首を王宮の城門に掲げると宣言した。数千人がそうして非業の死を遂げたのち、エルネストを王として認めると高らかに宣言した者いた。それが、正式な王位継承者であったはずのクレティアンである。
クレティアンは、この一連の事件によって、シャルム王国が二分し、シャルムの国民同士が殺しあう事態を避けようとした。
「しかし、周囲の者が納得しないことを、伯父上は分かっていたのではないか? だとすれば、あのとき、なぜ伯父上は父上を殺さなかったのだろうか」
考えたくもないが、クレティアンが存在しなければ、エルネストは安心して王でいられたはずだった。
「そう単純な話でもない。あのときクレティアン様が殺されていたら、国中の反対者が武器を手に王宮に攻め入っただろう。もちろん、クレティアン様が逆に王位を奪い返そうとしていたら、彼らは同じように共に武器を持ってエルネスト殿に対抗しただろうが……」
「父上は、伯父上を支持した」
「そう。そうしたことで、おまえの伯父上殿はクレティアン様を支持する者たちを、労少なくして抑え込むことができた。だから、もちろん、ベルリオール家も平和に続くことができた」
「そういう意味では、父上の判断は正しかったのか……」
「そういう意味では、な。だが、シャルム王国の多くの命は守ったが――」
ベルトランは、そこまで言ってから、リオネルの深い紫の瞳を見据えた。
「自分の子共の命は危険にさらしている」
リオネルは、ベルトランの視線を受け止めて、肩をすくめた。
「現王を支持したクレティアン様が、万が一亡くなられたときには、現王家とその支持者である国王派にとって、おまえの存在は脅威だ」
「おれが再び、お従兄弟殿の王位を支持すれば事は収まるのかな?」
と、リオネルは聞いてみたが、その答えは自らが知っていた。国王派の者たちの狙いは、王位の奪取以来、この四十年間続いていた潜在的な脅威を、ジェルヴェーズが王位に就く前にひそかに取り除くことであった。
それは、リオネルの暗殺である。クレティアンの一人息子であるリオネルが死ねば、もはや現王家を脅かす存在はなかった。その後は、クレティアンに流れる血統による王位奪回を望む者たちの一斉粛正が行われて、シャルム王国は、王家の歴史に傷を残して再び平定されるだろう。
こうした状況のなか、前王の死後四十年経った今、再びクレティアンの血統の王位奪回を望む声が大きくなっている。それは、四十年という長い年月に溜まった、現王の治世に対する不満、そして、エルネスト、クレティアン、この異母兄弟の子供たちの成長が人々の心を動かしていた。
エルネストの子、ジェルヴェーズが王位を継承する前に、正当な王位をクレティアンの子、リオネルに返還すべし、と考える者が増えているのである。
シャルム王国は、こうして今、大きく二分されようとしていた。
リオネルも、これまで以上に平穏な日々からは遠ざかりつつあった。
「……おまえは、現王家を支持するのか?」
投げかけた問いに、逆にベルトランから質問で返されて、リオネルは肘掛においた手に頬を預け、少し考えた。
考えてはみたが、言葉は出てこなかった。言葉が出てこなかったのは、出ることのない答えだったからだ。それを察したようにベルトランのほうから口を開く。
「支持しても、支持しなくても、結果は同じ……か」
結局、ジェルヴェーズの王位継承を望む国王派の者たちは、クレティアンから続く血筋をこの際根絶やしにしたいのだ。支持する、しないは、ここでは議論しても仕方のないことだった。
だからといって、この先、国王派に対抗して、クレティアンの血筋を支持する王弟派――王弟と言うと現王を認めることにはなったが、シャルムの国内ではそう呼ばれていた――を結集して、戦って王位を奪回するということまでは、今のリオネルには考えられなかった。
そもそも、リオネル自身が、王位を望んでいるわけではない。王権を放棄した父の意向を軽んじたくはなかった。
しかし、周囲はそうは思っていないようだった。
命を狙われることは度々だし、逆に、リオネルに王権を主張するようけしかける者もいた。
「どうしたものかな……」
リオネルは心の底からため息をついた。
そのとき、横合いからジュストが、お話し中に申しわけありません、と声をかけた。二人に視線を向けられて、ジュストは軽く一礼した。
「公爵様がお会いになりたいそうです」
「そうか」
二人はうなずいて、席を立った。