12
ラトゥイ領アルクイユにある彼女たちの家も、すっぽりと雪に覆われている。
前日の昼過ぎから再び上空には雲が広がりはじめているが、まだ雪が降るには至っていない。
扉を叩いてみると、しばらくしてなかから声がした。
「どちらさま?」
懐かしい声は、ミーシャだ。
「アベルです」
短く答えるとすぐに扉が開く。アベルの顔を見た途端、ミーシャは瞳を大きく開き、両手で口もとを押さえた。
「……アベルさん、本当に?」
「王都へ行く途中なんです」
「わざわざ寄ってくださったの?」
二人は、手を取り合って再会を喜びあう。年も背丈も同じくらいだから、アベルが男装していても、二人は友達どうしに見えるだろう。
「おばあさま! アベルさんが来てくださったわ。早く降りてきて! ……さあ、アベルさんなかへ入ってください。少しくらいお話しをする時間はあるのでしょう?」
「それが、あまりないのです」
申しわけない思いでアベルは言った。
ちらとアベルが背後を見やると、つられてミーシャもそちらへ視線を向ける。少し離れたところに馬の手綱を持ったまま佇むリオネルとベルトランの姿があった。
大勢で騒がせては申しわけないので、護衛の騎士らは、森の入口付近で待たせている。
「秋から漬けているおいしい果実酒があるんですよ。よかったらお連れの方もご一緒に……といっても、とても高貴そうな方々だから、こんなボロ屋にはお入りにならないかしら」
「あまり無理強いをしてはいけないよ、ミーシャ」
二階から降りてきたタマラがミーシャをたしなめる。
「……だって、とても久しぶりなんだもの。少しくらいお話ししたいでしょ」
「この方は高貴な方に仕えているんだ。我々が引きとめていい相手ではないよ」
扉口で立ち話をするアベルの様子を見守っていたリオネルが、不意にこちらへ歩み寄ってきた。ミーシャはやや緊張した面持ちになったが、タマラはじっとリオネルを見つめている。
「少しくらい、なかで話していったら?」
そばへ寄ったリオネルが言った。
「でも……」
「かまわないよ、待っているから」
アベルは首を横に振る。
「このような雪のなかで、お二人や皆様を立たせておけるわけがありません」
リオネルにはそう告げると、まえへ向きなおり、用意してきた土産を取りだしてタマラとミーシャにそれぞれ手渡す。
「あの、これ――」
ミーシャが目をまたたかせている。
「シャサーヌで買ったお土産です。開けてみてください」
「わたしたちに? お土産?」
「気に入ってもらえるかわかりませんけれど」
いたずらっぽく笑えば、ミーシャが土産を包んでいた布をほどく。そして、目を輝かせた。
「わあ……」
赤や橙の硝子玉が、スミレを象った髪飾り。
「こんな高価なもの……いただけないです」
「そんなに高くないんです。ミーシャさんに似合うと思って買ったので、使ってくれたら嬉しいです」
どうしていいやらわからぬ様子のミーシャの手から髪飾りをとり、その髪に添える。
鮮やかな髪飾りが、銀糸の髪によく映えた。
「すごく似合っています」
「……本当?」
「ええ、思った以上にぴったり」
「よかったね、ミーシャ」
タマラが孫へ笑いかける。
「旅の方、わたしにまで土産を用意してもらって、ありがとう。素晴らしく綺麗なハンカチだ。こんな贈り物をされるのは何年ぶりだろう」
「喜んでいただけてよかったです」
なんとなく気恥ずかしくて、背後で見守ってくれているリオネルを振り返れば、優しい笑みが返ってくる。
「ゆっくりお話しできなくてごめんなさい。また必ず会いにきますから」
ミーシャが寂しそうな顔をすると、リオネルが言う。
「少し話していったら? 行かなければならない時間になったら呼びにいくから」
「騎士様方もなかへ入ったらいい。狭い家だが、あとお二人くらいなら座る場所もありますよ」
タマラの提案に、リオネルとベルトランが顔を見合わせる。それから、控えめながらも家に入ることを決めたのは、おそらくそうしなければアベルに気を使わせることを知っていたからだろう。
アベル、リオネル、ベルトランは、タマラの家で少しばかり休んでいくことになった。
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温かい果実酒の香りが立ち上り、アベルはほっとひと息つく。
冷えきった指先も、暖炉の火の温かさで溶けていくような気がした。
外で待っている騎士らは寒いだろう。長居はせずに帰るつもりだ。
「おいしいですね」
果実酒を口に運びながらアベルはしみじみと言った。
「そう、それは秋に手に入れた林檎と梨を蜂蜜といっしょに漬けた酒なんだ。お口に合ったかい?」
「ええ、とても」
「わたしはあんたのことが心配だよ。旅の方、どうもまた大変な目に遭ったようだね。いいのかい、そんな身体で旅をして」
まだなにも話していないのに、タマラがアベルの事情を知っているのは、おそらく彼女の不思議な力によるものだ。
リオネルとベルトランは訝る面持ちになった。
「平気です。もうすっかり治っていますから」
「あいかわらずだね」
「そんなに大変なことがあったのですか?」
ミーシャは不安げにアベルを見つめる。アベルは笑ってみせた。
「そんなことないですよ。……それより、お二人はずっと元気に過ごしていましたか?」
「わたしたちは、ずっと変わりません。見てのとおり貧しく、単調な暮らしです」
笑いながら冗談めかしてミーシャは言ったが、きっと実際にそのとおりなのだろう。
繰り返される、厳しくも単調な毎日。
それは、生まれ育った貴族の館から追放され、貧しい暮らしをしたことのあるアベルだからこそ、実感として理解できる。
「それこそが幸せなんだよ」
タマラは夕飯の鍋をかきまぜながらつぶやく。
「かつての生活をおまえはあまり覚えていないかもしれないが、今は平和な国で、住む家があって、寝る場所があって、食べるものがある。それ以上望むものはないさ」
「貴女がたは北方の出身なのか?」
尋ねたのは、これまで黙っていたリオネルだ。
「ああ、そうさ」
「……エストラダ?」
問われると、タマラは視線を上げ、ミーシャは身体を固くした。ややあってからタマラが答える。
「知ってどうするんだい」
「なぜアベルの身に起きたことを知っていたのかと思って」
「……ただ、そうじゃないかと感じただけさ」
リオネルは沈黙した。
エストラダはベルデュ大陸の北に位置する国々を征服し続けている。エストラダの出身であることを知られるのは、二人とも嫌なのかもしれない。
「そうか、話の腰を折ってすまなかった」
話の腰を折ったというほどのことではなかったが、リオネルが謝罪したのは、二人が身構えたからだろう。リオネルがなぜエストラダかと聞いたのかは、アベルにもわかった。
エストラダには不思議な力を持つ者が生まれるというのは、有名な話だ。それも、今回はエストラダの侵略と関係してくることなので、リオネルも無関心ではいられないはずだ。
一方、タマラとミーシャがこの話に敏感だということも、アベルは承知している。
「二人は王都へは行ったことがありますか?」
あえてアベルは話題を変えた。
「ないよ。とても華やかだと聞くね」
「わたしたちは、これから王都で新年の祝いに参加する予定なんです。どんなふうだったか、また今度お会いしたときにお話ししますね」
「そうかい、それはぜひ聞きたい。ミーシャもだろう?」
「ええ、アベルさん。無事にお戻りになって、またここへ寄ってくださいね。王都のお話を聞くのを楽しみにしていますから」
「もちろんです。できればいっしょに行きたいくらいですね」
「本当、いっしょにいけたら素敵」
ミーシャは目を輝かせる。
「お祭りなんて、行ったことないから」
「わたしたちの住むシャサーヌへもぜひ来てください。盛大なお祭りがあるんですよ」
「わあ……いいんですか?」
「もちろんです。ね、リオネル様」
視線を投げかければ、リオネルがほほえんだ。
「大歓迎だ。道中が不安なら、迎えの者をここまで来させるよ」
「本当に? ありがとうございます! ねえ、おばあさま、いつ行っていい?」
「もう少しおまえが大人になってからだね」
「もう充分に大人だわ。あんまり待つと、おばあさまがよぼよぼになっちゃうじゃない」
タマラが口をあけて笑うと、つられて皆も笑う。
約半年ぶりの再会のときは、またたくまに過ぎていった。
+++
ラトゥイの東部に位置する宿場街レグランは、大勢の者で賑わっている。
あと一日で国王の直轄領ラ・ヴァルバレルに着くというその夜、リオネルらは今回の旅ではじめて、貴族の館ではなく街で夜を過ごすことになった。
国王からの招待であるから、領主としては、リオネルが自領で犯罪や事件などに巻き込まれては大変なことである。そのため土地の領主らは自らの館に泊まるよう説得するのだが、今回だけはリオネルは謝絶してこの宿場町に泊まることを決めた。
彼自身も少し息抜きをしたかったのかもしれないし、毎夜、貴族の晩餐会に出席しているアベルや騎士たちの疲労を考慮したのかもしれない。
護衛の騎士らも今夜は自由時間を与えられ、それぞれのんびり過ごしていることだろう。
リオネルとベルトラン、そしてアベルは、こぢんまりとした食堂に入った。
店の表には〝小さな豆″と刻まれており、豆料理が得意のようだ。幾日も豪勢な肉料理が続いていたので、あえてこの店を選んだというわけだが。
「それにしても、インゲン豆のポタージュ、ひよこ豆のガレット、レンズ豆の煮込み、焼きグリーンピース……と、とことん豆だね」
壁に直接書かれたメニューを見て、リオネルが笑う。
「あっ、鶏肉のクリーム煮込みと、パン、それにお酒も何種類かありますよ」
別のところに書かれた豆以外の品書きをアベルは発見した。けれどリオネルにすぐに指摘される。
「よく見てごらん。鶏肉は豆といっしょに煮てあるし、パンは豆入りと、下に書いてある」
アベルは小さく吹きだした。
「こだわり、ありますね」
「豆の入った酒でなくてよかった。だが、肉料理は鶏だけか」
肉を食べないと精がつかないらしいベルトランが、低くぼやく。
「鶏でも立派なお肉ではありませんか」
あれこれ言いながら料理を頼み、三人で仲良く食事をとる。平和なひとときだ。
豆料理について皆でひと通り感想を言い終えると、リオネルはアベルへ視線を向けた。
「今日は、せっかくアベルが友達と久しぶりに会えたというのに、おれがつまらないことを尋ねてすまなかった」
「そんなこと気になさらないでください」
本心からアベルは言う。
「ミーシャさんが自分のことを話したがらなかったのは、異国人であることで辛い思いをしてきたからだと思います。それに――」
告げてもよいものか迷って言葉を切ると、リオネルが首を傾げた。
「――彼女たちは、おそらく警戒しているのだと思います」
迷った末に告げることにしたのは、互いに誤解したままではいけないと思ったからだ。
「警戒?」
「北方の人たちが皆そうなのかはわかりませんが、タマラさんとミーシャさんは、不思議な力を持っているのです。けれどそのせいで近所の人たちから魔女と呼ばれ、ときには暴力的な苛めまで受けていました」
彼女たちと出会ったときのいきさつを、アベルはリオネルとベルトランに語って聞かせた。顎に指をあててリオネルは考え込む面持ちになる。
「……過去が見える、か」
「そのときに言っていたんです。不思議な力は神様から与えられた恵みだと。けれど、神様のご意志がわからなくなるとも言っていました」
「それはどうして?」
「タマラさんの子供たちは、皆同じようになんらかの力を持っていたそうです」
自分は過去が見えるが、息子や娘――つまりミーシャの母親は、もっと多くのものが見えた。まるで奇跡のようだったと、かつてタマラは語っていた。
彼女は、子供たちが将来どれだけ世の役に立つのかと胸を躍らせていた。けれどその結末は残酷なものだった。
「〝欲に目のくらんだ人たち〟が、彼らの能力を欲しがったそうです。ミーシャさんの母親は、人を殺すための手助けはしたくないと拒否したそうですが、ミーシャさんが七歳のとき役人らに母親はさらわれてしまい、そのときにミーシャさんの父親は殺されたそうです」
「……ひどい話だ」
「それから一年も経たないうちに、ミーシャさんの母親が死んだと知らせがあったと言っていました。タマラさんは残されたミーシャさんを連れてできるだけ遠くへ逃げたそうです」
「行きついた先がシャルムというわけか」
「そんな過去があるからこそ、話したくなかったのではないでしょうか」
「相手の気持ちも考えずに、残酷な質問をしてしまったね」
リオネルが声を落とす。
「そんなことありません。リオネル様はなにも知らなかったのですから」
「〝知らない〟ということも、ときには罪になるんだよ」
今度のリオネルは淡々とした口調だ。
「知る術がないのですから、どうにもならないではありませんか」
「知らずに人は罪を犯すことがあるということだ」
「リオネル様はなにも悪くありません」
少し怒ったような口調で言うと、リオネルが笑う。
「ありがとう、アベルは優しいね」
優しいわけじゃない。思ったとおりのことを口にしただけだ。なにより、優しいのは他ならぬリオネルではないか。――と思ったが、口にはせずに視線を逸らす。
「エストラダは今や無敵だ。その圧倒的な強さの裏に、神から与えられた特殊な力を持つ人間がいるという噂を聞いた」
「それって――」
タマラの話を頭のなかで思い起こして、ぞっとする。
彼女は、軍隊に娘が連れ去られたと言っていた。娘は死んだが、息子のほうは……。
もしタマラがエストラダの出身であれば、まさに彼の国の勝利を支えているのは彼女の息子ということなのだろうか。けれど、まさか。
「あるいは、そのような能力を持つ者が多く存在するのかもしれないし」
「……タマラさんなら、なにか知っているかもしれません」
「痛みを抱いているなら、過去の傷には触れないほうがいい。自分から語るならいいが、他人から聞かれたくないこともあるだろう」
「いつかエストラダは、シャルムへ攻め入ってくるかもしれません」
「そのときには、助けを請うという形でおれが聞きにいくよ」
すると、すかさずベルトランが口を挟む。
「だが、エストラダが敵になったときには、場合によっては二人はシャルムの捕虜になる可能性もある。そうなれば、助け出す術もなければ、話を聞きだすこともできなくなる」
愕然とするような指摘だった。
「捕虜なんて……」
「そうさせないためにも、とにかくいざというときには慎重に先んじて行動しなければね」
否応なく、シャルムが戦いの渦に巻き込まれていく。
ひたひたと近づく戦いの足音に、アベルは背筋が寒くなった。
「なんだか怖いです」
リオネルが視線を向けてくる。
これまでのエストラダの侵略の勢いを見ていると、彼の国とシャルムが戦いになる日も遠くはなさそうだ。エストラダに勝利した国はない。シャルムがその初の国となれるのか、あるいは他国と同様に残虐な支配下に置かれるのか――そのときにはリオネルやディルク、そしてレオンはどうなってしまうのか。
先のことなど考えても仕方がないのに、想像してしまう。
これも少し疲れているせいだろうか。
リオネルのことは、なにがあっても自分が守ればいい。それはそうなのだが、果たしてあの大国をまえに、自分のような非力な存在がリオネルを守りきれるのか。
アベルはあれこれと不安を抱えているのに、あいかわらずリオネルは呑気だ。
「アベルの友達を救えるよう、手を尽くすから平気だよ」
――人の心配じゃなくて、自分の心配をしてください。
そう叫びたくなって、どうにか言葉を呑む。
リオネルの気持ちそれ自体はもちろんありがたい。
「こ、怖くなんてないですよ」
とりあえず言い直してみると、リオネルは不思議そうな顔になった。
「やっぱり、なにも怖くなんてありません。だから、心配なさらないでください」
リオネルが苦笑する。
「心配してはいけなかった?」
「……わたしのことなんて、心配しなくていいんです。自分でなんとかしますから」
「心配していたいんだけど」
「けっこうですから」
毅然として答えれば、再び苦笑しながらリオネルはうつむいた。
「なかなか厳しいね」
「……頑固だからな」
ベルトランがリオネルへぼそりとつぶやいた声は、しっかりアベルの耳にも届いている。
「ベルトランまでそのようなふうで、どうするのですか? リオネル様にわたしの心配をさせている場合ではありません」
「ああ、そうだったな」
従騎士の勢いに呑まれてベルトランが答える。
「ついにおれの味方がいなくなってしまったようだ」
笑いながらこぼしたリオネルに、背後から答える声がある。
「おれはいつだって味方だよ?」
三人が振り返った先には、二人の旅人の姿。けれど、
「ディルク様!」
と驚きの声をあげたのはアベルだけで、リオネルとベルトランは平然としていた。