10
ここ王都サン・オーヴァンの空にも、久しぶりに晴れ間がのぞいている。
大広間に続く廊下を歩んでいたレオンは、ふと視線の先、大勢の大人たちにまぎれてひとりの少年がいることに気がつく。彼は大広間の窓に両手をつき、陽光を反射して光る雪の庭園をのぞきこむように眺めていた。
王宮に戻ってから幾度かこの少年の姿を目にしていたが、彼はいつもノエル・ブレーズのそばにいた。けれどこの日はひとりきりのようだ。
そばへ寄ってもまったく気づく様子のない少年に、レオンはできるかぎりさりげなく声をかける。
「カミーユ・デュノア」
はっと振り返った少年は、あのジェルヴェーズの側近フィデールとよく似た青灰色の瞳を大きく見開いてこちらへ向けた。
「レオン殿下!」
途端に顔も声も輝かせて素直に喜ぶ反応に、レオンも口元をほころばせた。
「久しぶりだな」
「本当にお久しぶりですね! 王宮内で遠くから何度も見かけていたんです。でも話す機会がなくて」
馴れ馴れしいほどのカミーユの態度だが、屈託のない様子に、レオン付きの近衛であるシモンとクリストフは微妙な面持ちながらも沈黙していた。
「今日はノエルについてなくていいのか?」
「詳しくは知らないけど、重要な仕事があるみたいです」
「そうか」
「もうすぐディルクとリオネル様が来るんですよね!」
レオンもカミーユも国王派に属するが、カミーユはまったくそのようなことを意識する様子もなく、王弟派のディルクらとの来たるべき再会を無邪気に喜んでいる。
「そうだな、あと十日もしないうちに到着するのではないか」
「嬉しいですね」
こんなふうに素直に気持ちを表せるというのは、うらやましくもある。レオンは微笑した。
「そうだな」
ディルクのまえではけっしてこんなふうには答えられないが、この少年のまえなら素直に言える。
「おれも早く二人に会いたい」
「叔父上から聞いたんですが、リオネル様はベルリオーズ家の軍を率いてユスター軍を敗走させたとか。ディルクやレオン殿下もずっといっしょだったのでしょう?」
「噂は広まるものだな」
「本当なんですか?」
「……大きな声では言えないが、本当のことだ」
「すごいですね! 参加したかったです」
「気持ちはわかるが、子供が行くところではない」
実際、戦場は壮絶な状況だった。思い出してレオンが苦い気持ちになったが、カミーユはいたって無邪気だ。
「ディルクが王都へ来たら、すぐに会えますか?」
「王都へ着いても、すぐに王宮に来るわけではないだろうからな。おまえは王宮からは出られないのだろう?」
うなずくカミーユをまえに、レオンは顎に手を当てて考え込む。
「そうだな、ならば十二月の末ごろからは、毎晩のように王宮では晩餐会やら舞踏会やらが催される。そこで会えるのではないか?」
「ディルクやリオネル様も出席するでしょうか」
「着いたら早めに王宮に顔を出すよう、おれからディルクに伝えておこう」
「ありがとうございます!」
喜ぶカミーユをまえに、ふともうひとりの少年を思い出してレオンは尋ねた。
「そういえば、おまえはアベルには会ったことがあったか?」
するとカミーユは首を横に振る。
「まえに……五月祭の直前だったかな、王宮でその人に救われたんです。彼は私の代わりにジェルヴェーズ王子から怪我を負わされてしまって。直接は伝えられなかったのですが、手紙に感謝の気持ちを綴って渡してもらいました」
「ああ、そうか。そういえば、そうだったな。あのときはおれもアベルに助けられたのだ」
「レオン殿下は会ったことがあるんですか?」
「ああ、毎日のように会っていた」
「どんな人ですか?」
「不器用で頑固なところもあるが、まっすぐで優しい子だ」
「へえ……」
しばらくなにか思う顔つきになってから、うつむいてカミーユはぽつりと言った。
「……それだけ聞くと、なんだか少し姉に似ています」
興味を引かれてレオンはカミーユを見やる。
「シャンティ殿だったか? ディルクと婚約していた……」
「生き方も不器用なんだけど、手先まで不器用で、花冠も作れないような女の子で……」
ふとカミーユは自分の発した言葉に傷ついたような目をした。
「姉を〝女の子〟っておかしいですよね。でも、私が知る姉は十三歳のままです。今の私よりも幼くて――でも勇気があって、まっすぐで優しい人でした」
カミーユが、自分から姉シャンティの話をこれほどたくさんするのは珍しい。
「そうか……大切な姉だったのだな」
「世界で一番好きな人でした。私がお嫁さんにもらいたいと思っていたくらい」
ははは、とレオンが笑う。それからレオンは真剣な表情に戻ってカミーユに告げた。
「ディルクは、シャンティ殿からもらった手紙を肌身離さず持ち歩いていた。あいつなりに幸せにしたいと思っていたことは理解してやってくれ」
カミーユはうなずく。
「わかってます。もうディルクのことは赦したんです。――レオン殿下は、なんだかんだいって、ディルクのことが大好きですね」
「なっ……そんなことはない。従騎士時代からの、ただの腐れ縁だ」
「そんなふうに慌てるのも、ディルクを庇うのも、本当は大好きだからじゃないですか?」
にこにこ笑っているカミーユをまえに、レオンは頬を引きつらせる。子供かと思って接していれば、いつのまにか向こうのペースに巻き込まれている。いつも最終的にはカミーユに翻弄されている気がした。
「ああ、おれは用を思い出した。そろそろ行かなければ」
「そうなんですね。声をかけてくださって、ありがとうございました」
少し寂しそうに、けれど精一杯笑顔で礼を述べるカミーユは、どこまでも無邪気だ。子供なんだか、ませているのかわからない。
「また話そう」
一礼するカミーユを残して、レオンは大広間を歩み去っていった。
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もとは濃い色をしていただろう屋根が、今は雪に覆われ、白亜の壁と同色と化している。
庭園を囲む木々や、池に佇む彫刻さえ雪に染まる景色を、冬の青白い陽光が照り輝かせていた。
カルノー邸へ立ち寄ったのは、ベルリオーズ邸を出発して三日目のこと。
ノートル領の南方に位置するこの地をわざわざ経由したのは、カルノー伯爵に会いたいというリオネルの強い意志があったからだ。前カルノー伯爵がジェルヴェーズに惨殺され、それ以来リオネルはこの家の者を気にかけていた。
アベルがカルノー伯爵に会うのは初めてのことである。
けれど、実のところこの館についてまったく知らないわけではなかった。
五月祭の折りに、カルノー邸に立ち寄ったリオネルが伯爵の妹に命を狙われた現場を、アベルは見ている。
といっても、その場には居合わせたわけではなく、タマラの家に滞在中に、夢のなかで一部始終を見たのだ。
――遠い場所で起きている実際の出来事を、夢で見る。
そんなことが現実に起こりうるのだろうかと、今でも不思議に思う。けれど、信じられないことだとしても、少なくともこの件に関してはたしかに起きたことだった。
それは、過去や未来を見ることができるというタマラやミーシャのそばにいたからかもしれないとも思う。
ともかく、アベルはこのカルノー家に対しては少なからず複雑な思いを抱いていた。厳密に言えば、リオネルを殺そうとしたカルノー家の令嬢に対してだが。
門をくぐり館の敷地内に入ると、知らせを受けたカルノー家の者らが慌てて前庭へ出迎えに現れる。
「リオネル様!」
慌てて出てきたらしい若者は、息を切らしていた。
「ティエリー殿――いや、もうカルノー伯爵ですね。突然伺い、申しわけありません」
「いえ、とんでもない。我が館はいつでもリオネル様のお越しを歓迎いたします。どうぞ、伯爵などと堅苦しい称号ではなく、これまでどおり下の名で呼んでください」
まだ二十歳を超えたばかりと思しき若い伯爵は、馬から降り立ったリオネルと握手を交わす。
「ティエリー殿にはお変わりなく」
「リオネル様こそ……いろいろとお噂は聞いておりましが、お元気そうでなによりです」
ああ、とリオネルは相手の視線を追って左腕を見やる。
「ユスターとの戦いのおかげで、怪我も治りました」
冗談めかして言うリオネルに、ティエリーはすまなそうな表情になった。
「……大変な戦いの折り、カルノー家から援軍を向けることができず、申しわけございませんでした」
「そのようなことを気にする必要はありませんよ、ティエリー殿」
もともとカルノー領はごく小さな領地である。王都に近いため商業による安定的な税収は得られているが、戦場へ兵士を派遣するほどの軍事力は有していない。
「外套も羽織らず出てこられては、身体が冷えてしまいます。どうぞ先になかへ」
「では共に参りましょう。今回、ディルク殿はご一緒ではないのですね」
同行者の顔を見渡してからティエリーは尋ねた。
「ええ、彼とは王都の手前で落ち合う予定です。妹君はお元気ですか?」
館へ向かいながら今度はリオネルが尋ねる。
「ええ、ジャンヌはおかげさまで変わりなく過ごしております。リオネル様に救っていただいた命を大切にして生きると決めたようです」
「救うなど、私はなにもしていません。あの夜は、なにもなかったのですから。……そういうことにしておいていただけなければ、私は想う相手に向ける顔がありません」
ふとティエリーは不思議そうな面持ちになる。けれど腑に落ちぬ様子ながらも、生じた疑問を口にすることは遠慮したようだった。
館の玄関をくぐると、ティエリーは騎士らに外套を脱ぐよう促す。そこへ、大階段の裏から黒いドレスをまとった女性が現れた。
色が白く、赤味がかった薄茶の髪に、繊細で儚げな美しさをまとう娘。
彼女こそ、アベルが夢で見た――あの夢のなかでリオネルへ短剣を振り下ろした女性だ。本当に夢で見たままだったので、アベルは目を奪われた。
ベルリオーズ家の騎士らのまえまで歩み寄り、無言でドレスの裾をつまんで屈んだ彼女へ、リオネルは笑いかける。
「お久しぶりです、ジャンヌ殿。お変わりない姿に安心しました」
手の甲にリオネルから口づけを受けると、ジャンヌは切なげな面持ちになった。
「ずっと……お会いして、謝罪申しあげたいと思っておりました」
「ティエリー殿にも申し上げましたが、あの夜はなにも起きなかったのです。貴女が謝ることなどありませんよ」
「そういうわけにはまいりません。今となっては、なぜあのようなことをしたのか……、思い返すだけで恐ろしく、身体が震えるほどです。謝罪で済むことではございませんが……二度とあのような真似はいたしません」
「いいえ、ジャンヌ殿。私のために、本当になかったことにしてもらえませんか」
はっきりと告げられた言葉に、一瞬ぽかんとした顔になってから、ジャンヌは首を傾げる。
「それはどういう……」
「ああ、そうでした。お二人に紹介したい者がいます」
そう言ってリオネルは、ベルトランの後ろに控えていたアベルを手招きする。
「ここにいるのは、ベルトランの従騎士アベルです。前回は事情があって同行できませんでしたが、今度は連れてくることができました」
「初めてお目にかかります、従騎士のアベルです」
一礼すれば、もっと話したいことがあったらしいジャンヌは戸惑うような微笑を浮かべ、一方ティエリーから笑みが返ってくる。
「よろしく、アベル」
恐縮してアベルは再び頭を下げた。
「さあ、皆で昼食でもとりましょう」
促されてベルリオーズ邸から訪れた一同は食堂へ向かう。けれどアベルだけは、リオネルやティエリーに断りその輪から離れた。
気の置けない友人どうしとはいえ、貴族との食事の席となれば、ある程度は格式ばっている。普段ならともかく、旅の疲れもあってアベルは参加する元気がなかった。
心配そうな面持ちのリオネルへ、適当な場所で休んでいるから心配いらないと告げてアベルは館の外へ出る。空気は冷たいが、温かい陽射しが届いているので、苦にならない。
なぜ近頃こんなふうに疲れを感じるのか、わからなかった。
怪我が治りきっていないからだろうか。
それとも、しばらくベルリオーズ邸でのんびりする日々が続いていたせいだろうか。
そのどちらもあるのかもしれないけれど、こんなところでくたびれ果てているわけにはいかないと、アベルはひとり自分自身を叱咤した。
+
館内は人が多いので、アベルは館の周囲をゆっくりと散歩する。そうしていると、ふと先程のジャンヌの様子が思い出された。
彼女は、かつてリオネルに刃を向けたことを、心から悔いているようだった。
その様子に、アベルが抱いていた複雑な思いはすでに綺麗に消え去っている。
父親が虐殺されたのだ。気が動転して、思いも寄らぬ行動に出てしまうこともありうるだろう。そんなことをぼんやり考えていると、突然女性の声が耳に飛び込んできた。
「お待ちください」
と。
たしかにジャンヌの声だ。
呼ばれたのだと思って周囲を見回すが、姿は見えない。
どこから聞こえたのだろうか。
すると、再び声がした。
「どなたかお探しですか?」
探す……?
別にだれも探してはいないが。
というより、相手の姿が見えない。すると別の声がアベルの代わりに答えた。
「――ええ、アベルを」
アベルがどきりとしたのは、よく知る相手の声だったからだ。リオネルである。それも、アベルを探しているという。
いったい二人はどこにいるのだろう。もう一度見渡してみるが、やはり誰もいない。だが、声はすぐ近くから聞こえてくる。
「アベルさんは、いらっしゃらないのですか?」
もしや、と思って振り返れば、背後に建物の窓があった。
「ええ、ひとりで休むと言っていたのですが、やはり気になって」
「あの……もしお急ぎでなければ、ほんの少しだけよろしいですか」
やはり会話は少しばかり開いたガラス窓の向こう、建物のなかから聞こえてくる。アベルは立ち去ろうとしたが、今ここで歩けば、雪を踏みしめる音でリオネルに気配を悟られそうだ。
結局一歩も動けない。
「すみません、お忙しいのに」
「いえ、ジャンヌ殿。いかがいたしましたか」
リオネルの声は優しい。アベルの心臓は不思議なほど早鐘を打った。
「お食事を召しあがったら、またすぐに旅発ってしまわれるのでしょう?」
「ええ、皆様とゆっくり過ごせたらいいのですが」
しばしの沈黙が流れる。
意図したことではないとはいえ、二人の会話を盗み聞きしている状態であることに、アベルは大いに慌てる。
とりあえず目をつむって眠ってしまおうかと思ったが、立ったままではやはり寝付けない。いや、この状態で眠れたらある種の天才だ。
「……どうしてもお伝えしたいことがあったのです」
「あの日のことでしたら、先程も申しあげたとおり、なにも言う必要はありませんよ」
「違うのです。あ、その……謝罪の気持ちには変わりありませんが、もしあの日のことを……あのようなおそろしい言葉を口にしたわたしの罪もすべて忘れてくださるとおっしゃるなら、もう一度、まっさらなお気持ちで、わたしの話を聞いてくださらないでしょうか」
「なんのことでしょう」
「以前お会いし、リオネル様がここをお立ちになられたあと、わたしは気づきました。自分の気持ちが、わかったのです。かつては愚かな憎しみに満たされ、なにも見えず、なにもわかっておらず気づけませんでしたが、今ならはっきりとわかります。リオネル様に赦されたと知ったときから、わたしの世界は変わりました」
リオネルから深い沈黙があった。
「想いは告げずにいようと思っておりました。わたしは罪深い人間です。それに、リオネル様には愛する方がいることを存じておりましたから。けれど、ご婚約の話はなくなったとお聞きして迷う気持ちが生じ……そんな折りにリオネル様がこちらへお立ち寄りくださいました。ですから……」
ジャンヌは口ごもる。
アベルは卒倒しそうだった。
愛の告白、しかもリオネルへの告白を、こんな場所で盗み聞きすることになるとは。
聞いてはいけないし、聞きたいはずもないし、平静な気持ちで聞けそうにもない。
できれば走って逃げだしてしまいたい。
けれどアベルは金縛りにあったようになって、足は今更動きそうにもなかった。
「――お慕いしております、リオネル様」
…………。
聞いてしまった……。