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遅い、と思いはじめてしばらく経っていた。
ジュストが執務室を訪れたのは、リオネルが不安を募らせていたころ。ジュストの帰館を知ってリオネルは内心で安堵した。
「戻ったのか」
「遅くなって申しわけございません」
「なにかあったのか」
土産を買って帰るにはあまりに遅い。
アベルを監視するつもりはないが、けれどひとりで街へ行かせるのはあまりに不安だ。
そのために護衛の騎士をひとりつけた。ダミアンだろうがジュストだろうが、信頼できる者ならリオネルにとってはどちらでもかまわなかった。
「ジークベルトという男と会いました」
ジュストの報告に、リオネルはわずかに目を開く。ベルトランでさえ顔を上げた。
「ジークベルト?」
「ええ、金髪碧眼の、ローブルグ人らしき騎士で、馴れ馴れしくアベルに話しかけていました」
「それで?」
かすかにリオネルの表情が曇る。それをみとめたジュストはやや声を低めた。
「もう街から出ていくから、そのまえにアベルと二人で話したいと言うので、許可しました」
宿に連れ込むふりをしたことを口にしなかったのは、これを伝えればリオネルが心を乱すことになると思ったからだ。
その背景には、ジュストなりに、ジークベルトが最初の印象ほど悪い人間ではないという信頼感もあった。
「二人きりで?」
それでも気にする様子のリオネルに、ジュストはうなずく。
「といっても、私はそばで見守っていましたが」
「……なるほど」
「やはり引き離したほうがよかったでしょうか」
「いや、彼はアベルの友人だ。かまわない」
そう言いながら、自分の友人だと言わないあたりに、リオネルの言葉には含みがある。友人どうしというには、二人はあまりに微妙な立場にあった。
「アベルはどうしてる?」
「騎士館のほうへ向かいました」
「今日はもう仕事をしなくていいと伝えてくれ」
あいかわらずアベルには甘すぎるリオネルだが、今となってはジュストも反発する気は少しも起きなかった。
「それがいいですね。すぐに伝えにいきます」
「今日はありがとう。時間をとらせてすまなかった」
自らの業務に戻ってかまわないと告げるリオネルへ、言いにくそうにジュストが口を開く。
「あの……」
机に向かいかけていたリオネルは、クロードの従騎士を振り返った。
「どうした?」
「あ、いえ――」
リオネルはジュストを見つめる。
「気になることでもあるのか?」
「なんでもありません」
失礼します、とジュストは部屋を退室した。
ジュストが去ると、小さくリオネルはため息をこぼす。すると、ベルトランが首をひねった。
「ジークベルトはアベルを探していたのだろうか」
「……おそらく、そうだと思う。戦いの噂を聞きつけたのかもしれない」
「アベルの身を案じていたというわけか」
のらりくらりとしているジークベルトだが、アベルに対して真剣であることは、リオネルもベルトランもとっくに気づいている。
フリートヘルムは、すでにジークベルトの妻には地位や立場は一切関係ないと宣言しているから、まかり間違えばアベルがローブルグ王妃ということもありえぬ話ではない。
「恋敵が多いな、リオネル。――今のところ、最大の敵か?」
「言わないでくれ、不安になるから」
「不安?」
「アベルに関しては、なにもかもが不安だ」
「奪われてからでは遅いぞ。アベルが館を出ていったときのような、あんなおまえを見るのはもう懲り懲りだ」
ごめん、とかつて心配をかけたことに小さく詫びてから、リオネルは続ける。
「けれど、もう二度と想いを告げることもできない。恋人同士になることはないし、結ばれることもない。もどかしいけれど、アベルを引きとめておくためにおれができることは、想いつづけること以外なにもない。そして、アベルがいなくなったときのことを思えば、それでもおれはこのうえなく幸福なんだ」
「アベルにとって、おまえは生きる意味そのものだ。あの子の気持ちがおまえから離れることはない。大きく構えていればいい。心配すべきは、強引に奪われることだけだ」
リオネルはうなずいた。
「ありがとう。心に留めておくよ」
「ローブルグ王妃になったら、奪い返せないぞ」
「彼はそこまでやるだろうか」
「リオネル、おまえも大概お人好しだな」
そうかな、と苦笑してからリオネルはうつむく。
「アベルのことが好きで、どうしようもないほど大切で……だからこそ心配でたまらず、あれこれ考えはじめてしまえば、怖くて夜も眠れなくなる」
「なるほど、あまり不安を煽るとおまえを安眠から遠ざけることになるわけだ。このへんでやめておこう」
小さく笑いながら、リオネルは視線を窓の外へ向けた。
「出立は二日後か」
「またディルクやレオン、マチアスに会えるだろう」
「アベルもきっと喜ぶ」
「そういう意味では、今回の王都行きも悪くないな」
「少なくともレオンには、王宮に行かなければ会えないからね」
王都では、再び罠が待ちかまえているかもしれない。それでも行かぬわけにはいかないのだ。
危険は後を絶たないが、皆で集まれる機会ととらえれば、けっして悪くはない。
「それまでに政務をある程度処理しておかなくてはね」
リオネルは、机に積まれた紙の束に再び向きなおる。窓の外では、粉雪が舞い始めていた。
+++
王都へ出立する日の朝、シャルムの冬にしてはめずらしく青空が広がっていた。
柔らかな陽射しが、純白の雪景色に降りそそいでいる。
少数の護衛のみを伴って王都へ向かうリオネルを、淡々とした表情の裏に不安と心配を押し隠したベルリオーズ公爵が見送りに出ていた。
同じくエレン、イシャス、館に残るクロードやジュスト、ラザール、ナタル、ダミアン、そしてその他大勢の騎士らもまた前庭に居並ぶ。
「リオネル、王都への道中、そして王都についてからも充分に気をつけるのだぞ」
「わかっています」
心配を隠しきれぬ父公爵へ、リオネルは穏やかに笑ってみせた。
「父上におかれましてはご心配なさらず、館でゆったりとお過ごしください。寒い季節なので、お身体を大切に……ご病気を再発されることのないように」
「私のほうが心配をされているようだな。ならば、そなたに気苦労をかけぬよう、私は何も考えずにのんびりと新年を迎えることにしよう」
笑いながらクレティアンは、視線を息子の隣で馬を並べる赤毛の騎士へ向けた。
「ベルトラン、リオネルを頼む」
「むろんです」
軽く頭を下げながら応えるベルトランは、用心棒の名にふさわしい堂々たる佇まいだ。
「そなたがいるから、私はいつもリオネルを送りだすことができる」
「多分なお言葉……」
ベルトランへ向けて軽くほほえむと、クレティアンは次に傍らの従騎士へ視線を移した。
「アベル、そなたには幾度もリオネルの危機を救ってもらっている。感謝して余りあるが、今回はまだ傷が癒えぬ身だ。無茶をしてはならないぞ」
「はい」
「そなたはリオネルの大切な臣下であると同時に、イシャスの唯一の肉親なのだから」
温かい言葉に、アベルは恐縮して頭を下げた。
クレティアンが自分に抱いている思いは複雑なものに違いない。それなのにこうして声をかけてくれることに、アベルは感動した。
共に道中を旅する十名にも満たぬ護衛の騎士らにも、クレティアンはひとりずつ声をかけていく。
その間、エレンがイシャスを連れてアベルに話しかけてきた。
「気をつけてね、アベル」
「アベルどこいくの」
エレンに抱っこされたイシャスは、アベルへと手を伸ばしてくる。その小さな手を握り返し、もう片方の手では柔らかな金糸の髪を撫でながらアベルは答えた。
「少し出かけるけど、すぐに戻ってくるから」
「いっしょがいい」
切ない気分に駆られたところ、横から腕が伸びて、小さなイシャスをクレティアンの長い腕がひょいと抱え上げた。
「そうか、そなたは寂しいのか。私もだ。寂しい者どうし、共にいようではないか」
「うん!」
クレティアンの頬を両手でべたべたと触りながら、イシャスは嬉しそうに言う。畏れ多いことだが、すっかり彼はクレティアンに懐いているようだ。
「もうアベルとの別れの挨拶はいいか?」
「……うん」
まだイシャスは未練があるようだったが、クレティアンは気にしなかった。
「では、私と共に他の騎士らに挨拶に来なさい」
そう言ってイシャスを抱えたまま、クレティアンは騎士らのもとへ行く。その様子を、アベルとエレンは呆気にとられながら、リオネルは笑いながら見送る。
「二人は仲良しだね」
「よろしいのでしょうか」
イシャスを抱きながら騎士らに声をかける公爵の姿に、だれもが戸惑っている。
「いいんだよ。父上もイシャスも嬉しそうだ。なにせ〝じーじ〟だからな」
はからずもアベルは小さく吹いてしまう。
ベルリオーズ公爵が、〝じーじ〟なのだから……。
そもそもクレティアンはまだ四十四歳であるし、身体も顔つきも実年齢より若く秀麗な顔立ちなのだが。それこそ再婚しようと思えば、いくらでも相手はいるだろうというほどに。それを、〝じーじ″とは。
「アベル、また怪我でも負ってきたら今度こそ許さないぞ」
いつのまにそばに来ていたラザールの脅しに、アベルは苦い笑みをこぼす。
「気をつけます」
「ああ、ちくしょう。おれもお供したかった。護衛の騎士らは、アベルといっしょに王都へリオネル様のお供ができて、うらやましいかぎりだ」
「ラザール、おまえには公爵様をお守りするという重大な任務があるだろう」
ベルトランに言われてラザールは胸を張った。
「むろん、公爵様のことは命に変えてもお守りするつもりだ」
「頼もしいな。よろしく頼む」
リオネルに声をかけられると、ラザールは深々と一礼した。
かくして、それぞれの挨拶も終わり、アベルたちはベルリオーズ邸の門をくぐって旅立ったのだった。
+
白い陽光を弾き返す雪景色は、シャルムじゅうの宝石箱をひっくり返したように、眩く虹色に輝いている。
幻想的な景色をまえに、アベルの胸には王都へ向かう緊張感と、今しがたの別れの寂しさが混ざりあっていた。
「寂しい?」
戦場からの帰途は、怪我のためベルトランの馬に乗せてもらってきたアベルだが、さすがに今回は自分の馬に乗ることを許されている。
馬上で問われ、アベルはかすかに首を横に振った。
「わたしはリオネル様のおそばにいられますから」
想像と異なる答えだったのか、それとも他の理由からか、リオネルは沈黙して不思議そうにアベルを見返した。アベルはそっと笑う。
「皆としばらく別れるのは辛いですが、リオネル様といっしょなら、わたしは寂しくありません」
やはりしばしの沈黙を挟んでリオネルは言った。
「おれも同じ気持ちだ」
二人が顔を見合わせて笑いあうと、そばで馬を駆けていたベルトランが晴れ渡った空を仰ぎ見た。
「それに、王都へ行けばディルク様やマチアスさん、それにレオン殿下にも会えます」
「そうだね。ただ、アベル。今回おれはひとつだけ不安がある」
アベルは首を傾げて、隣で馬を駆けるリオネルを見やった。
「ジェルヴェーズ王子のことだ」
「……もうあんな格好で、まえに出たりはしませんから」
「あたりまえだ」
少し怒ったようなリオネルの口調だった。
「けれど、殿下はアベルの顔を間近で見ている。あんな格好をしなくとも、その水色の瞳は特徴的だ。あるいは、きみだと気づくかもしれない」
「――ジェルヴェーズ殿下がいる場所では、なるべくリオネル様から離れていること、殿下に近づかないこと、他の騎士たちに紛れていること、目立つ行動はしないこと、発言を控えること、危険なことがあればすぐに大声で助けを呼ぶこと、そして……なんでしたっけ?」
「金色の髪を染めること、だ」
「そうでした」
「橙色ではない色にだよ」
「わかっています」
素直にうなずくアベルに、リオネルはたたみかける。
「本当に気をつけてほしい。殿下はあの夜の踊り子を殊のほか気に入っていた。きみがいないと知ったら、館中の部屋という部屋を探し回ったくらいだ。もし正体が知れたら、どんな目に遭わされるかわからない。その意味は、わかっているね?」
「…………」
「脅すようですまない。だが、もしアベルになにかあれば、おれはベルリオーズ家の全軍を率いて王宮に攻め入り、助け出すだろう」
「そんな――」
「そうならないためにも、充分警戒してほしい」
痛いほどリオネルの気持ちが伝わってきて、アベルは胸がきゅっと締め付けられる。
これほどまでに、リオネルはアベルを大切に思ってくれている。そう思えば、苦しさを感じると同時に、不思議と胸の奥が熱くなった。
リオネルの思いに応えたいと、素直に思う。
この人のそばにいたい。
強く優しいこの人を感じていたい。
リオネルの心配する顔ではなく、笑った顔を見ていたい。
そう思うのは、リオネルの気持ちを知るから――ただそれだけだろうか。それとも、いきすぎた忠誠心のせいだろうか。
こんな想いを、人はなんと呼ぶのだろう。
自分自身の感情に戸惑いつつも、しっかりアベルがうなずけば、リオネルは小さく息を吐く。
「いろいろとうるさいことを言ってすまない。けれど……」
まっすぐこちらを向いてリオネルは言った。
「たとえどんなことがあっても、おれは持てる力のかぎりを尽くしてアベルを守るから」
不思議と速まる鼓動に、アベルは慌てて胸を押さえる。顔が熱いのは、きっとまっすぐに見つめられたからだ。そう、他の理由なんてない。
赤く染まった顔を隠すように――そしてリオネルの視線から逃れるようにうつむき、アベルは小さくうなずいた。