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王宮から到着した使者は、ベルリオーズ邸において一泊もすることなく、再び王都へ戻っていった。
けれど使者が去った後も、彼にもたらされた報によって、ベルリオーズ邸には静かな動揺が走っていた。
使者がもたらした報とはむろん、新年の祝いの席への招待である。
またか、というのが、ベルリオーズ邸の人々の正直な感想だった。
「すっぽかしてもいいんじゃないか」
ディルクは揚げ菓子を頬張りながら言う。
「もう少し緊張感を持って発言できないのか」
レオンは呆れた様子だ。
「だって、まえと同じやり方じゃないか。どうせ質の悪い罠が待ちかまえているだけだ」
もっともなことを言うディルクへ、マチアスが苦い声音を向ける。
「けれど国王からの招待とあっては容易に断れません」
「罠とわかっていてむざむざ王都へ行く必要はないだろう」
「たしかにそうですが、揚げ菓子を食べながら、こともなげに言うほど簡単ではないということです」
「ここでベーニェは関係ないだろう」
「そうでしょうか」
あれこれ言い合うところへ、リオネルが告げる。
「ロルム家も国王名で招待されているそうだ」
「だが、あちらはそれどころではないはずだ」
ユスターとの戦いで疲弊しきっているロルム家は、とても王都へ赴けるような状態ではない。
レオンにうなずきを返しながら、リオネルは説明した。
「おそらく、それを承知のうえでの招待だ」
「承知のうえというのは……」
「戦いに参加した者の代表として、我々が出席する。その代わりに、ロルム家の欠席をお許しいただく――という形にもっていかざるをえない状況に、追い込むつもりだろう」
己の父親ながら、あまりの姑息さにレオンは閉口する。
「あいかわらず狡猾だな」
ベルトランが低くつぶやいた。
「すまない、リオネル……」
「レオンが謝る必要はないよ」
「王宮へは行かざるをえないようだな」
結論付けたベルトランをまえに、リオネルは瞼を伏せた。
「父上も状況は理解しておられる」
「リオネルも大変だけど、公爵様も苦労が絶えないね」
ディルクはため息をつく。
「そうだね。父上には申しわけないと思ってる」
「しかたがないさ。……アベルにはまた書庫の整理でも命じるつもりか?」
五月祭のために王都へ赴いたときには、負傷した直後の身体を案じてリオネルはアベルに書庫の整理を申しつけ、彼女をベルリオーズ邸に置いていこうとした。ところが、リオネルのことが心配のあまりにアベルは館を出て、リオネルらのあとを追って王都までやってきてしまったのだ。
煙突掃除夫に扮して王宮に忍び込んだアベルは、リオネルの命をジェルヴェーズらの卑劣な謀略から救ったものの、自身はひどい目にあった。
「いや、今回は初めから連れていくよ」
「あの怪我で?」
ディルクが目を丸くする。
「順調に怪我は治ってきているし、なにより勝手に行動されるほうが怖い」
「ああ、おとなしく待っているとは思えないからな」
連れていくというリオネルに納得する様子なのはレオンだ。
「リオネル、おまえも苦労症だな」
「幸せな苦労だよ」
「……なんだかおまえは変わったな」
「そうかな」
「まえよりも幸せそうだ」
「そう、アベルが戻ってきたからね」
押し黙ったレオンの代わりに、ディルクが呆れた声で言う。
「はいはい、ご馳走様でした。アベルが戻ってきてからのおまえの惚気発言に、おれは食傷気味だよ」
「揚げ菓子の食べすぎではありませんか」
真面目な口調で揶揄するマチアスを完全に無視して、ディルクはリオネルへ尋ねた。
「アベルはどこにいるんだ?」
「午前中はイシャスと会い、午後は馬の世話をすると言っていた。仕事を終えたら、ここへ来るはずだけど……」
すると、ちょうど扉をノックする音が響く。
「噂をすれば」
マチアスの開いた扉の向こうに、慌てた面持ちのアベルが立っている。軽く一礼すると挨拶も省いて、開口一番にアベルは言った。
「リオネル様、新年の祝いに招待されたと聞きました」
「もう伝わったのか。早いね」
涼しげな笑顔でリオネルは答える。
「本当の話ですか?」
「ああ、そうなんだ」
「……王宮へ行かれるおつもりですか?」
不安そうに尋ねてくるアベルに、リオネルは椅子へ座るよううながした。
「今ちょうど、話し合っていたところだよ」
アベルは、リオネルが座る長椅子の隅に遠慮がちに腰を下ろす。そのアベルへ、リオネルは静かに告げた。
「やはり結論としては、行くことになりそうだ。もちろんきみもいっしょに」
アベルは耳を疑った。
それから、ゆっくりと目を見開く。このような怪我を負った直後では、絶対にリオネルは連れていってはくれないと思っていたからだ。
「わたしを連れていってくださるのですか?」
「また煙突から忍び込むような危険な真似をされては困るからね」
アベルが複雑な表情になると、リオネルが笑う。
「って、これは冗談だよ」
――いや、本気だ。と、アベルは思った。
「アベルについてきてもらうというのは本当だよ。いっしょに来てくれるか?」
「もちろんです!」
自ずと返事に熱が入る。リオネルは微笑していた。
「まだ少なくとも半月はここにいられるから、それまでにイシャスと遊ぶ時間はたくさんある」
うなずくアベルを見やりながら、ディルクは肩を落とすようにして浅くため息をつく。
「ああ、おれもそれまでにいったんセレイアックに戻らなければな。あまり空けると、また父上がうるさいから」
「おまえはいいではないか、半日でリオネルに会いに行けるのだから。おれはひと足先に、ひとりで王宮に戻らねばならない」
「ぎりぎりまでここにいれば?」
「さすがにそういうわけにもいかないだろう」
長いあいだ時間を共有し、共に力を合わせて敵国と戦った彼らは、いったん別れ、新年の祝いに先駆け十一月後半に再び集まることになりそうだった。
+++
踏まれて泥まみれになった地面に、新たな雪が舞う。
正騎士隊専用の裏門から王宮へ入ったのは、ユスター国境から帰還したフランソワ率いる正騎士隊の一隊である。彼らが王宮に戻ったときには、すでにジェルヴェーズとフィデールは先に戻っており、王宮内には緊張感が戻っていた。
「フランソワ、よくやってくれた」
戻った騎士らを騎士館のまえで出迎えたシュザンは、部下であるフランソワを労い、そして彼に従った騎士らにも同様に声をかけた。
「皆もよく頑張った。おまえたちのおかげでユスターの国境は守られた」
恐縮する体で頭を下げる一同の顔には、疲労の色が滲む。
「追加の隊を派遣するよう陛下を説得できなかったのは、私の力不足だ。おまえたちだけを激しい戦いに投じる結果となったこと、本当にすまなかった」
「各所へ援軍を依頼したのは隊長ではありませんか。トゥールヴィル家、ルブロー家、及びローブルグ……これらの援軍がなければ、戦いは長引き、勝敗もわかりませんでした」
フランソワが淡々とした口調で言うと、シュザンはかすかに目を細めただけで、この件についてはそれ以上触れなかった。
「さあ皆、早く着替えて休みなさい。心と身体が癒えるまで、鍛錬などはせずに当分休んでいてかまわない」
「お心遣い感謝いたします。けれどおそらく、休んでいるより身体を動かしているほうが性に合っている者ばかりですよ」
「無理強いはしない。休むのも動くのも好きにすればいい」
「ありがとうございます」
騎士らを解散させ、服を着替えてから、フランソワはあらためて騎士館のシュザンの部屋を訪れた。そこで副隊長シメオンも交え、ユスターとの戦いや、集まった諸侯らのこと、そしてシュザンの甥であるリオネルやその家臣の活躍について語る。
フランソワの話のなかで特にシュザンが驚いたのは、以前にもその名を聞いた、ベルトランの従騎士アベルのことだった。
「立場を隠して戦いに参加していたということか」
「ええ、小柄かつ細腕の少年で、とても従騎士には見えず、はじめは報奨金目当ての子供かと思っていたくらいです」
かつてシュザンがアベルという従騎士の名を聞いたのは、五月祭でリオネルが王都を訪れたときのこと。ジェルヴェーズに盛られた毒で苦しんでいたレオンを救ったのも、あらぬ容疑をかけられて窮地に陥りかけたリオネルを救ったのも彼だった。
「優れた従騎士なのだな」
「ええ、腕も確かですし、なによりリオネル様に対し揺るがぬ忠誠心を抱いています」
「彼がおまえの命を救ったのか」
「ええ、アベルがいなければ私の命はなかったでしょう」
はっきり告げるフランソワに、シュザンは眉を寄せて険しい面持ちになった。
「フランソワが死んでいたらと思うとぞっとする。おれは後悔してもしきれなかった」
「そのようなお言葉、もったいないかぎりです。けれど、私のために彼は深手を負いました。責任を重く感じています」
「無事なのか」
「一命は取り留めました」
「ぜひとも会って礼を述べたい」
本件に加えて、レオンやリオネルを救ってくれたこと、シャルム軍を勝利に導くきっかけを作ってくれたことについても、感謝してもしきれぬ思いがシュザンにはあった。
「そうですね。けれど、隊長から礼を言われると恐縮すると思いますよ。彼はそういう人間です」
「……そうか」
「むろん私も、隊長と気持ちは同じです」
「ならばリオネルを通して伝えたほうがいいかもしれないな」
笑いながらシュザンは言い、それからも尽きぬ話を続けた。
+
一方、騎士館から離れた王宮の本邸内は、これまでになく静かだった。
ほぼ四カ月ぶりに戻ったジェルヴェーズの存在に皆が緊張している。久しぶりに王宮に張りつめた空気が流れていた。
「交渉の成立、おめでとうございます」
貴族らから向けられる称賛の声に対し、皮肉めいた笑みを返しながら、ジェルヴェーズは豪華絢爛な廊下を目的の部屋へ向けて大股で歩いていた。
「私は部屋のまえで失礼しようと思います」
そう言うフィデールへ、ジェルヴェーズは冷めた眼差しを向ける。
「なぜだ」
「私がいると、ルスティーユ公爵は殿下と話しにくいかもしれませんから」
ジェルヴェーズが片眉を上げる。
「どういう意味だ」
「私が口うるさいということです」
「なるほど」
わからないでもないと、ジェルヴェーズは口元を歪ませる。他ならぬジェルヴェーズ自身が、フィデールの父親であるブレーズ公爵を苦手としていた。
やがて部屋のまえまでくると、事前に言っていたとおりフィデールは一礼して辞した。
一方、部屋で待ちかまえていたルスティーユ公爵は、妹グレースの長子を歓迎する。
「殿下、お久しぶりです」
「伯父上もお変わりなく」
まだジェルヴェーズが幼いころから、リオネルを陥れる――あるいは命を奪うための計略を練り続けていたルスティーユ公爵だから、今回もよからぬ算段であることは明白だ。
「今朝方、王宮に到着されたとか」
ジェルヴェーズを椅子へうながし、侍従に葡萄酒を注がせながらルスティーユ公爵は言った。
「ああ、四ヶ月ぶりだ。ここを発ったのは夏の終わりだったが、もはやすっかり冬になってしまった」
酒の用意ができると、公爵は侍従を部屋から下がらせる。
「もう陛下とグレースには挨拶を?」
「むろん」
「お二人も安堵されたことでしょう。ブレーズ邸はいかがでしたか?」
「なかなか居心地のいい場所だった。それにベルリオーズ邸にも行ってきたぞ」
ほう、とルスティーユ公爵は興味を引かれる面持ちになる。
「また、いかなる理由で」
「ちょっとからかってやろうと思ったのだが」
「からかう?」
「逆にからかわれて戻ってきた」
「それはいったい……」
「リオネル・ベルリオーズではない。女に、だ。まだ年端もいかぬ踊り子に、どうやら私は弄ばれたようだ」
はじめは驚きの色を浮かべていた顔を、またたくまにルスティーユ公爵は曇らせた。
「むろん、その場で首を切り落としてきたのでしょうな?」
まさか、とジェルヴェーズは笑う。
「娘は行方をくらませたが、見つけても殺しはしない。そうだな。愛妾……いや、いっそ正妃に迎えてもいい」
「は?」
あんぐりとルスティーユ公爵は口を開けた。
「殿下……どうか冷静になられますよう」
ジェルヴェーズの妻となるのは、国内屈指の名門貴族の令嬢か、あるいは他国の姫以外にはありえない。それが、どこの馬の骨ともわからぬ踊り子などを妻にするなど到底許されることではない。
「むろん冗談だ。だが一方で、私は冷静でもある」
「……それほどお気に召されたのですか」
「伯父上、おそらく私は、手に入らないものがほしいのだ。けっして私のものにならぬものを、私のものにしたい」
歪んだその思いをルスティーユ公爵はどう受け止めたのか、あるいは理解しきれなかったのか、ひとつ咳払いをしてこう言った。
「殿下のものにならないものなど、ありません」
「そうかな」
「むろんです。まずは揺るぎない玉座を殿下に」
「それで? 今回はそのことで話があったのだろう。リオネル・ベルリオーズを新年の祝いの席に呼ぶよう、父上に進言したそうだが、今度はなにを考えている?」
「おもしろい余興ですよ」
「やつを殺すのか」
「ええ、巧みに命を奪う方法を思いつきました。それも多くの者が見ているまえで」
興味をそそられる面持ちで、ジェルヴェーズが伯父を見やる。
「その余興とは」
「神前試合です」
ジェルヴェーズは目を細める。
「リオネル殿にリヴァルを務めていただこうと思いまして」
「やつにリヴァルを?」
「大勢が見守るなかで、どこから流れてきたとも知れぬ挑戦者にリオネル殿が殺されれば、小うるさい王弟派連中も文句は言えないでしょう」
「なるほど、悪くない余興だ。だが、リオネル・ベルリオーズは腕が立つ。リヴァルをやらせたところでむざむざ殺されはしまい。左腕が動かせぬならまだしも、治った今となっては、かえって猛者を倒し、名声を高めることになるのではないか?」
「挑戦者の剣に、密かに毒を塗っておこうと考えております」
はっとした面持ちになってから、ジェルヴェーズは声を立てて笑った。
「なるほど……言われてみれば、簡単なことだな」
「どうしてこれまで思いつかなかったのか、我ながら不思議です」
「素晴らしい計画だ。だが、それほどうまくいくものだろうか」
「うまくいくように事を運びます」
「ひとつ気になる点がある」
「それは?」
「神前試合でリヴァルが倒されたとあっては、支配階級の権威に傷がつく」
「大きなものを得るためには、小さなことを諦めることもときには必要です。今年はひとまず挑戦者の勝利としてもいいでしょう。しかし剣に毒が塗ってあったということは必ず明らかになります。むろん挑戦者が自ら塗ったということにいたします。そうなれば、卑劣な手を使って相手を倒した者として挑戦者の勝利は剥奪され、王侯貴族の権威は回復します」
「考えたな」
喉の奥でジェルヴェーズは笑った。
「すべての用意は整いつつあります。あとは当日に王命でリオネル殿をリヴァルに抜擢するだけ。最高の余興が実現します」
「神聖な試合で、剣に毒を塗ったとあっては、ガイヤールが腹を立てるのではないか?」
「それは、大司祭に対する皮肉と受け止めてよろしいのでしょうか」
あの男がそんなことにこだわるはずがないと、ルスティーユ公爵の顔には書いてある。ジェルヴェーズは小さく笑っただけで、返事はせずに葡萄酒を口に運ぶ。
卑劣な計画を練る二人の部屋の外を、音もなく白い雪が舞い落ちていた。