6
アベルがイシャスに会いにいったのは、祝会の翌朝のこと。帰還した当日は、イシャスが一度も目覚めなかったからだ。
途中で祝会を抜け、早めに休んだアベルは、翌朝珍しく自ら起き出して身支度を整えると、いそいそと部屋を出た。イシャスに会いにいくために。
と、扉を出たところで、長身の二人と鉢合わせる。あ、とアベルは足を止めた。
相手も意外だったようで、驚きと親しみの混ざった微笑を向けられる。
「もう起きたのか?」
ちょうど隣の寝室から出てきたのはリオネルとベルトランだ。アベルは従騎士という立場にありながら、リオネルの配慮によって、彼の寝室の隣に個室を与えられていた。
きっちりと服をまとった二人からは、疲労の色が感じられない。
「疲れていただろう? もっと寝ていたらよかったのに」
「リオネル様こそ、昨夜は遅くまで起きておられたのでは?」
「そうでもないよ」
嘘だ、とアベルは思う。
昨夜リオネルはとても遅くまで皆と話していたはずだ。
けれど、眠そうなリオネルというものを、アベルはこの三年間で一度も見たことがない。短い睡眠でも足りる体質なのだろうか。
「イシャスに会いにいくの?」
言いあてられてアベルはうなずいた。
「朝一番に会いにいきたくて」
「アベルが起きたらおれも行こうと思っていたんだ。もしよければ、いっしょに会いにいってもいいか?」
「もちろんです」
よかった、と笑うリオネルは嬉しそうだ。
アベルはその笑顔に、今更ながらうろたえる。
きっとリオネルは心からイシャスのことを愛してくれている。そのことにあらためて気づかされるとき、これまでとはまったく違う視点からこの状況をとらえてしまう自分がいる。
動揺している自分に気づき、さらに狼狽する。
「行きましょう」
視線をリオネルから逸らして、アベルはイシャスの部屋へ向かった。
「昨夜はよく眠れた?」
部屋へ向かう途中、リオネルに問われる。
「はい、おかげさまで」
「長旅で疲れているうえに、きみは怪我をしているのだから、もっと休むべきだと思うけど」
言い募るリオネルを、アベルはちらと仰ぎ見た。
「イシャスに会いたかったのです」
「それなら、会ったあとにしばらく休んでいたらいい」
「従騎士としての仕事もありますから」
「皆、アベルの身体の状態は理解している。きみが休んでいたって、だれも文句を言ってきたりはしないよ」
「本当にリオネル様は心配症なんですね」
沈黙したリオネルへアベルは笑いかけた。
「では、もしお許しをいただけるなら、午前中はイシャスと部屋でゆっくり過ごしてもいいですか?」
リオネルは笑みを広げた。
「もちろん、かまわないよ。いや、そうしてくれると……」
なにを言いかけたのかわからないが、珍しく途中で言葉を切る。とにかくリオネルは嬉しそうだった。
くすぐったいような、けれど同時に――いや、それ以上に、落ちつかない思いに駆られる。
どれほど自分が大切にされているのか、今なら気づける。
この、けっして予期していなかった事態に戸惑うばかりだ。無意識のうちにリオネルの想いを意識しないようにしようとしている。でなければ、普段どおりになんてとても振る舞えない。
宝石になった自分なんて、自分じゃない。
デュノア邸を追い出されたときから、〝アベル〟という人間は、石ころを川へ投げ入れるごとく命を捨てられるような、そんな取るに足りない存在でなければならなかった。それは、リオネルのため、ディルクのため、大切な者たちのため……そして、なによりアベル自身のために。
そうしなければ、〝アベル〟を貫いている芯のようなものが、折れてしまう気がした。
地上階の、使用人らの寝室が並ぶ廊下。
目当ての寝室の扉をノックすれば、扉を開いたのはエレンだ。
「来ると思っていたわ」
笑顔でアベルに告げた直後、背後にリオネルがいることに気づき、エレンは含み笑いになる。
「おはようございます、リオネル様」
「おはよう、エレン」
「アベル! リオネルサマ!」
イシャスが両手を広げて走ってくる。
飛びついてくるイシャスを、アベルはしっかりと抱きとめた。
目をつむってイシャスの温度を感じる。
小さな身体は、柔らかくて、少し甘い香りがして、とても温かかった。
どうして子供の身体はこんなに頼りないのだろう。
身体を離してあらためて顔を見つめれば、金糸の髪こそアベル譲りだが、それ以外はますますカミーユや母ベアトリスに似てきたようだ。もう二度と会うことのない家族のことが思い出されて、無性に懐かしくなる。
そして、同時に不安になった。
家族だからこそ似ていると感じられるだけならよいが、万が一他人が――特にカミーユと親しいディルクあたりが見たら、気づかれてしまうのではないか。
「たったの二ヶ月なのに、一段と大きくなった気がするね」
イシャスのやわらかい髪を撫でながらリオネルが言う。
「髪がいい感じだね。だれに切ってもらったんだ?」
たしかに、癖っ毛のイシャスの髪はいつも切るのに手こずるのに、短すぎず長すぎず、きれいに整えられている。
「コウシャサマ」
え、とリオネルが目を見開く。当然、エレンか他の女中が切ったものと思っていたからだろう。
むろんアベルも固まった。エレンを見やれば、困ったような苦笑が返ってくる。
「少し伸びてきて、そろそろ切ろうと思っていたら、公爵様がご自身でやるとおっしゃられて」
「…………」
言葉が出ない。けれど、隣ではリオネルが笑いをかみ殺していた。
「父上は手先が器用だからね」
「……よかったのでしょうか」
「イシャスがかわいいのだろう」
もちろん可愛がってもらうことは嬉しいが、ベルリオーズ公爵にイシャスの髪を切ってもらうなど恐縮せずにおれない。
「父上が好きか?」
抱っこされながら問われたイシャスは、大きくひとつうなずいた。
「コウシャサマ――じーじ、大好き」
「……じーじ」
唖然とするアベルとは違い、もはや噛み殺せなくなったらしいリオネルは、声を立てて笑っている。
「じーじか……そうか」
ベルリオーズ公爵をつかまえて「じーじ」とは。そもそもクレティアンはまだ四十代半ばである。
それに、公爵が「じーじ」なら、その息子であるリオネルは、イシャスにとっていったいどんな存在なのか。
けれど小難しい話を理解できる年齢ではないので、イシャスは無邪気にリオネルに抱っこされて、いつもよりずっと高い視界に大喜びではしゃいでいる。
「おれたちがいないあいだ、イシャスが父上を励ましてくれていたんだね」
リオネルの言葉に、アベルは唇を引き結んで目を細めた。
「そう言っていただけると救われます」
「気遣っているわけじゃない。本当にそう思ったんだ」
胸がじんとなるのを感じていると、扉を叩くせわしい音が鳴った。ベルトランが扉を開けにいけば、家臣のひとりが一礼する。
「至急のご報告です」
「どうした」
イシャスを抱き上げたままリオネルが振り返る。
「王宮から使者が参りました」
リオネルは眉をひそめた。
「わかった。すぐにいく」
戻って早々、王宮から使者とは。
いったいなんの用件だろうか。
これまで、王宮の使者からもたらされた知らせに、ろくなものはなかった。だからこそ今回も嫌な予感がする。
地面に下ろされるとイシャスは不服そうな顔になった。
「抱っこ、もっと」
「ごめん、イシャス。また遊びにくるから。大丈夫、アベルはここにいられるよ」
期待の目をイシャスから向けられ、王宮から訪れた使者のことに気を取られながらも、アベルはうなずいた。
不安の色が混ざるアベルの視線へ、
「心配しないでいいから」
と告げてリオネルは部屋を出ていく。
ユスターとの戦いで疲労した騎士やリオネルらを、追いこむような知らせではなければよいのだが。
アベルは心からそう願った。
+++
重苦しい灰色の空に、王宮の尖塔は鋭く突き刺さるようだ。
ベルリオーズ領シャサーヌより先に、王都サン・オーヴァンに降りはじめた雪が、すでにいくらか積もって王宮を白く染めている。
灰色の空のもと、純白の景色は降り落ちる雪を静かに受け止めていた。
「新年祭にリオネル殿を招待、ですか」
王宮の敷地内にある騎士館で、怪訝そうに声を発したのは、シャルム正騎士隊副隊長シメオン・バシュレである。
「そうらしい」
短く答えた隊長シュザン・トゥールヴィルは機嫌のよい様子ではなかった。
それもそのはず、山賊討伐のあとに呼ばれた五月祭では、リオネルをジェルヴェーズ暗殺の犯人に仕立て上げるという壮大にして卑劣な陰謀が廻らされていた。幸運にも、この姦計はベルリオーズ家の従騎士の活躍で事なきをえたが……。
「今度は、新年の祝いの席か」
ユスターを打ち負かして、安堵したばかりだというのに。
毎年、新年の祝いの席には、王都近郊の諸侯らが中心となって集められ、王都サン・オーヴァンの市民も巻き込んでのお祭り騒ぎになる。
近衛騎士隊による演武や、異国から呼び寄せた楽団による演奏、踊り子たちによる見世物、さらには神前試合などが催されるが、むろんシャルムの一月というこの寒く雪深い時期だから、市民はともかく地方に領地を持つ貴族はさほど多くはない。
例に漏れず西方に位置するベルリオーズ家も、毎年新年の祝いには出席していなかったが、今回はユスター軍を撃退した功績をたたえるためという理由で呼び出されると聞く。
山賊討伐直後の五月祭の折りと同じだ。
王の判断なら従わざるをえないし、祝いの席に招待することへ反対する明確な理由もないのだが、当然不安はぬぐえない。
「そういえば、ガイヤール大司祭が、全国から集まった猛者から挑戦者を選びはじめているようでしたが、今年はだれがリヴァルになるのでしょうな」
「今年は当日に発表されるそうだ」
「当日? ということは、我々正騎士隊の者がリヴァルになるわけではないのですか」
昨年は、正騎士隊の勇将フランソワだった。その前年もやはり正騎士隊の者で、さらにその前の年は近衛騎士隊から選出された。
むろん、正騎士隊や近衛隊以外に、腕に覚えのある諸侯や騎士であることもある。
それを定めるのは国王と大司祭ガイヤールだ。
……と、シュザンの脳裏にふと嫌な予感が過ぎった。
まさか。
いや、いくらなんでも乱暴だろうと、シュザンは過ぎった考えを振り払う。
「あと数日のうちにフランソワの隊も戻る。正騎士隊からリヴァルが出ないなら、こちらとしてはゆっくり構えていられる。フランソワらには重い役目を負わせてしまったから、帰還後にはしばしの休息を与えたい」
ユスター国境を守っていたフランソワたちは、戦いを終えて王都への帰途にあった。
ベルリオーズ領より王都はユスター国境から離れているため、当然ながらリオネルらより戻るのに時間がかかる。
「フランソワが、おとなしく休んでいるとは思えませんが」
ぼそりとシメオンが言えば、シュザンは小さく笑った。それから、表情を引き締めて続ける。
「ブレーズ領に留まられていたジェルヴェーズ殿下とフィデール殿も、そろそろ到着なさるはずだ」
「王宮に日常が戻りますね」
新年の祝いの席には、玉座に近い場所にいる若者二人と、その側近たちが再びこの王宮に集うことになるかもしれない。
苦労症で頭痛持ちのシュザンの口から、重いため息がこぼれた。
と、そのとき、外から剣を激しく交える音が響いてくる。窓辺に寄って鍛錬場を見やったシメオンは、目を細めた。
「新しい従騎士ですな」
「ロルム公爵殿のご子息、コンスタン殿だ」
コンスタンは、先輩従騎士の懐へ練習用の長剣を叩きこんでは、幾度撃ち返されても全力で再び立ち向かっている。
「威勢が良いようで」
シメオンのつぶやきに、シュザンは微笑した。
「ユスターの一件があったから、余計に鍛錬にも熱が入るのだろう。筋もいいし、きっと優秀な剣士になる」
「次期ロルム公爵は、将来が楽しみですな」
「教え子は皆かわいいものだ」
言いながら、同じ教え子であり、今は遠くベルリオーズ領にいる甥リオネルや、ディルク、そしてレオンのことを案じて、シュザンは遥か西方へ思いを馳せた。