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今回で祝会場面は終了ですm(_ _)m
華やかな雰囲気に包まれる会場で、アベルは蜂蜜酒を片手に、壁際に立ちながら踊る男女を見守る。高貴な生まれの者たちの踊りは優雅で洗練されていた。
久々に訪れた平和な時間。
皆の笑顔に曇りはない。
夕刻にリオネルらの帰還を見届けたシャサーヌの市民も、今宵はお祭り騒ぎになっていることだろう。
ふと視線をすぐ隣へ向ければ、ジュストが腕を組んで突っ立っていた。
最近、気がつけば彼がそばにいる。ジュストはアベルを守ると宣言し、未だになにから守ってくれるつもりなのかよくわからないが、実際に彼はアベルの身辺に気を配ってくれているようだった。
アベルがベルリオーズ邸を出て、そして戻ってくるあいだにジュストは随分と変わった。
特にアベルへ対する態度は、以前と雲泥の差だ。まえはあれほど嫌われていたというのに、どういう心境の変化だろうか。
本人に聞いてみたい気もしたものの、未だに苦手意識がぬぐい切れないので、話しかけるのは躊躇われた。と、別のほうから声をかけられる。
「アベル」
振り向かずとも声でわかる。リオネルだ。
どきりとしながら声のほうを向いて一礼した。
今夜の主役が、アベルのところへ来たのだから落ちつかない。彼の背後にはむろん、影のように赤毛の用心棒が従っている。
「楽しんでる?」
「あ、はい、もちろんです」
「具合は平気?」
「ええ、平気です」
はっきりと返ってきた言葉に微笑でうなずいてから リオネルはアベルの手にある杯を見やって尋ねた。
「蜂蜜酒か」
「はい、今夜は格別においしいです」
「そうか、じゃあおれもいただこうかな」
「リオネル様が?」
「いけない?」
「甘いのはお好きではないかと……」
「たまにはいい」
そう言って、近くを通った給仕から、蜂蜜酒の杯を受けとる。それをゆっくり口に運ぶと、おいしいね、とリオネルはつぶやいた。アベルは笑う。
「本当に?」
「本当だよ。昔は大好きだった」
「今は葡萄酒ばかりですよね」
「シャルム人は、だいだいそうだろう」
この国シャルムの民は、こよなく葡萄酒を愛する。一方ローブルグでは麦酒が愛され、北方では酒精分の多い蒸留酒が人気だ。
「でも、アベルと同じお酒を飲めるのは、なんだか嬉しい」
これまでなら冗談と思えていた台詞も、今はこちらのほうが妙に意識してしまってアベルは反応に困る。
未だにリオネルが自分のことを恋愛対象として慕っているなど、到底信じられない。
彼にとって自分が大切な存在……なのかもしれない、と思うと心臓がはねて、同時にひどく居心地悪くなる。それがなぜだかわからない。
「こんな平和な時間が、永遠に続けばいいのにね」
リオネルが笑いかけてくるので、アベルは小さくうなずいた。
「でも、アベルがそばにいるかぎり、おれはいくらでも頑張れる。どんな敵にだって怖れを抱いたりはしないよ」
近々なにか起こる可能性があるのだろうかと、アベルは不安に思って顔を上げる。
するとリオネルが静かにこちらを見返した。
「エストラダがブルハノフを破り、クラビゾンと戦いを始めたようだ」
「え――」
大国ブルハノフが負けた……。
すでにエストラダはシャルムの目と鼻の先まで迫っている。
アベルは戦慄した。彼の国の強さと残虐さは、もはやベルデュ大陸の皆が知るところだ。
「いずれ激しい戦いになると思う」
「…………」
「必ず守るから」
顔を上げれば、リオネルがまっすぐにこちらを見ていた。
「わたしだって――」
思わずアベルは拳を握る。
「――わたしだって、リオネル様をお守りするために戦います。どんなに引きとめられても、そこだけは譲れませんから」
リオネルがうつむき、笑った。
「ありがとう」
いやに素直だ。
アベルは拍子抜けする。危険な真似は許さないとか、無茶をするなとか、口うるさく言われるかと思っていたのに。
けれどリオネルは幸福そうだった。まるでアベルの言葉が、自らの告白に対する答えのすべてであると受けとったかのように。
そう考えれば、アベルは自分がリオネルへ愛の告白でもしてしまったかのような気持ちになる。まあ、それに近いものがあるかもしれないけれど。
いや、あくまで自分の気持ちは、主従関係のあいだのものであって……、と自分に言い訳して、余計にひとりあたふたする。
「アベルがこの館を出ていって、きみを失って、はじめて気づいたよ。形なんてどうだっていい。アベルがそばにいれば、それだけでおれは世界一幸せなんだ」
相変わらず告白の続きをするようなリオネルの台詞に、アベルはあらためて戸惑う。
想いは伝えないという約束だったはずだったのに。
それともこれは、想いを伝えているわけではないのだろうか。
「昔、水の底で夢を見たことがある」
唐突な言葉にアベルは目をまたたかせた。
「水の底?」
「ずっと昔、ベルリオーズ邸の運河で溺れたディルクを助けるために、氷の張った水のなかに飛び込んだことがあったんだ」
そのようなことがあったとは知らず、アベルは息を呑む。氷の張った水の中など、ひとたまりもなく体温を奪われるだろう。
「その冷たい水の底でね、もう記憶は曖昧なのだけれど、おれは小さな女の子に会った気がするんだ」
「女の子?」
「あまりの水の冷たさに、意識が飛びかけて、夢を見たのだと思う」
「大丈夫だったのですか?」
「もちろん。……それで、その夢で見た女の子のことを、アベルが館を出ていってから急に思い出すようになった」
「なぜですか?」
「さあ……イシャスぐらいの年の、本当に小さな女の子だったんだけど、アベルに似ていたような気がして」
アベルは笑った。
「おかしなリオネル様」
つられたようにリオネルも笑う。
「そうかな」
「その子はなにをしていたのですか?」
少しばかりの間を置いてから、リオネルは首を横に振った。アベルがリオネルを見やれば、彼はかすかに眉根を寄せる。
「はっきり言えるのは、助けを求められたのに、おれは助けることができなかったということだけだ」
まるで、とても後悔しているようなリオネルの口ぶりだった。
「でも、夢なんでしょう?」
「そう。けれど長いこと忘れていたわりには、思い出したときの生々しさや、ぞっとする感覚は自分でも不思議なくらい現実的なんだ」
「…………」
「そのとき、おれは母上に夢の話をした。すると母上は必ずその子を助けると言った。夢のなかの女の子を、どうやって助けるのかおれにはさっぱりわからなかったけど」
アベルはうなずいた。たしかに不思議だ。
「あの子はアベルに似ていたから、母上がおられなくなった今度こそ、おれがきみを守らなくてはならないと思って」
「……わたしを?」
驚いて尋ねれば、うなずきが返ってくる。
「あのとき、おれはアベルに会っていたんじゃないかと思う」
アベルは笑った。
「本当に……不思議なリオネル様」
そうかな、とやはりリオネルも笑う。
少し離れた場所にいるジュストは、ほほえみあう二人をちらと見やってから、遠慮がちに視線を逸らす。
一方、二人のこういった雰囲気に比較的慣れているベルトランは、なんでもないように明後日の方向を見やって葡萄酒を傾けていた。
会場の外。
粉雪の舞い落ちる露台に、ひとりもたれかかる姿がある。
青年は窓から漏れる光を頼りに、一枚の手紙を眺めていた。
何度も読み返した短い言葉。
わずか十歳の許嫁からもらった、手紙。
丁寧で美しい筆記体が並んでいる。
『まだお会いしたことのない、わたしの婚約者様へ
はじめて貴方に贈り物をします。気に入っていただければうれしいです。
あなたのシャンティ』
たったの三行なのに、相手のまっすぐな愛情が感じられる。
ディルクは表情らしき表情もなく、その紙を見つめていた。
「それは婚約者殿からの手紙か?」
すぐ背後から声がしても、ディルクは振り返らなかった。
ただ、静かに手紙を畳んだだけだ。
「無視か?」
問われてもディルクは答えない。
レオンはディルクの横に並んで、バルコニーの手すりにもたれかかった。
「これは明日の朝までにけっこう積もりそうだな」
「……さっきの復讐でもしにきたのか?」
顔も向けぬまま、ようやくディルクは声を発する。
「いや――おまえが、がらにもなく泣いているのかと思って」
「泣いているわけないだろ」
「よかった」
「なにがよかったんだ?」
「泣いていたら、どう慰めていいかわからないからだ」
「…………」
「おまえの従者は優秀だな。この寒いなか、ひたすら黙ってバルコニーに立つ主人のそばに控えている」
「案外、おまえのようにどう言葉をかけていいか、わからないだけかもしれない」
冗談かと思いきや、真面目な口調でディルクが言ったので、レオンもまた真剣に返した。
「さあ、どうだろうな」
レオンが闇のなかへ差し出した手のひらに、粉雪が落ち、そしてすうっと溶けていく。
「人の命とは儚いものだな」
「別に感傷に浸っていたわけじゃない」
「ならば、なぜその手紙を見ていたのだ」
「正直、今回の戦いは厳しいと思っていた。命を失うことだってありえたし、実際に、あのときアベルとフランソワ殿が右翼を守らなければ――あるいは、フェルナン殿やローブルグの援軍がなければ、どうなっていたかわからなかった」
「ああ」
「セレイアックへ寄ったときに、手紙を持ち出した。万が一のときには、最期はシャンティといっしょにいようと思って」
「そうか……彼女が守ってくれたのかもしれないな」
実際、シャンティことアベルがシャルム軍を守ったのだが、二人はむろん事実を知る由もない。
「ずっと見守っていてくれた気がする」
「お守りみたいなものだな」
「そう呼ぶことが、おれに許されるならね」
「とっくに赦されている」
レオンの言葉に、ディルクはうつむき、小さく笑った。
「ありがとう、王子様」
「ああ、冷える。よくこんなところでずっと立っていられるな」
「レオン殿下におかれては、もう少し身体を鍛えて、丈夫になられたほうがいいんじゃないか?」
「うるさい、充分に丈夫だ」
「随分と寒がりのようだけど」
「それとこれとは関係ない」
「フリートヘルム陛下に温めてもらったらどうだ?」
レオンがこめかみに青筋を浮かべた。
「それが言いたかったのだろう、ディルク。しかし、ここでまたその話を持ち出すのか」
「童貞じゃなくなったときには、真っ先に教えてくれよ」
屈託ない笑顔でディルクが言えば、レオンはついに腰の長剣を抜き放った。
「望みどおり、シャンティ殿の手紙に見守られながら死なせてやる」
ぎゃー、と言いながら、レオンの剣に追い回されるディルクは楽しそうだ。
リオネルが言うように、こうして二人は交友を深めているのかもしれない。第二王子たるレオンを、懸命に背後から羽交い締めにしなければならなかったマチアスには、実に気の毒なことではあったが。
平和な時間はまたたくまに過ぎ、そして夜は更けていった。
祝会のシーンが長くなってしまったので、今週末は2回目更新しました。