3
アベルは最初、わけがわからなかった。
リオネルとベルトランがいる。
「どうして……」
どうして彼らがいるのだろう。
そもそもここはどこだっただろうか。ロルム公爵邸……ではなく、宿営の天幕でもなく……。
エレンの泣き顔が脳裏によみがえり、急速に記憶が蘇る。
あ……、とつぶやいてから、はじかれたようにアベルは半身を起こしたが、痛みに眉をひそめる羽目におちいった。
「ほら、急に動いてはいけないよ」
リオネルに叱られたが、今はそれどころではない。
いったい何時なのだろう。
「寝てしまって、公爵様にご挨拶を――」
「大丈夫だよ、ちょうど呼びにきたところだから」
「それなら、すぐに……」
「いいよ、慌てなくても」
立ちあがろうとするアベルを、リオネルがやんわりと制する。視線を上げれば、リオネルの手がアベルの髪に伸びるところだった。
「髪が解けている」
後ろでゆるく束ねてあった長い金糸の髪が、寝台で眠っていたせいで乱れている。
慌てて直そうとすれば、「動かないで」とリオネルに止められた。
「直してあげるから」
「そんなの自分でできます」
驚いてリオネルを見上げるが、いいから、と微笑が返ってくる。もう一度断ろうとするより先に、リオネルの指が紐をほどき、アベルの髪を指先で梳いていた。緩やかに波打つ柔らかなアベルの髪は、櫛を使わなくともまとまる。
それにしても、リオネルに髪を結ってもらうなんて。
もっと強く断ればよかったのかもしれない。けれど、リオネルの指先が髪に触れた瞬間から、アベルは身体が動かなくなっていた。
ひどく緊張するのはなぜだろう。
これまでだって、幾度も触れあったことはあったのに。
髪に感覚があるはずのないのに、身体中のすべての意識がリオネルに触れられている個所に集中するようだ。
鼓動が速くなる。
優しい手つき、指先の温度……。
リオネルがアベルの髪を結うのを、ベルトランは黙って見守っている。
「溶けてしまいそうだね」
ぽつりとリオネルが言う。
「え?」
溶ける……?
雪のことかと、アベルは視線を窓の外へ向けた。
闇に染まりはじめた空に、ベルリオーズ邸の篝火を反射した粉雪が、きらきらと星のように光りながら舞い落ちている。
「はい、できたよ」
指先が離れていくのを感じて、そっと髪に触れてみると、いつもアベルが自分で無造作に束ねているよりずっと丁寧に結わえてあった。
「あ、ありがとうございました……」
リオネルにやってもらったのだと思うと、落ちつかない気持ちになる。
「父上はアベルと二人で話がしたいみたいなんだ」
「…………」
「おれは別の場所で待っていることになるかもしれないけど、さっきも言ったとおり父上は事情を大方察しておられると思う。それでも咎めるようなことがあったら、約束どおりおれが受けて立つから」
受けて立つ、とは……。
だから、とアベルはもどかしく思う。
リオネルがアベルの存在のせいで周囲と不和になり孤立すること、それが最もアベルの恐れている事態だというのに。
けれどなにも言うことなく、そのままアベルは公爵の部屋へ向かった。アベル自身、最近の自分は、以前よりずっと従順で素直になったような気がする。
そう、それは疑う余地もなく、リオネルの想いを知ったからなのだ。
自分らしくない。けれど、こうするしかないような――これでいいような、気がした。
+++
シャルムの冬は日没が早い。
とうに陽も沈んだ夕刻。
アベルはひとりでベルリオーズ公爵のまえに立っていた。
一礼して帰還の挨拶をすると、長椅子に腰かけたままクレティアンは、目のまえの椅子に座るようアベルを促した。けれど座れるはずない。
アベルが謝絶するとクレティアンは次のように説得にかかった。
「そなたになにかあると、私がリオネルに叱られる。私のために座ってくれ」
そんなふうに言われると、座らないといけないかのような気がしてくる。
ちらと執事のオリヴィエを見やれば、軽いうなずきが返ってきたので、しかたなくアベルは向かいに腰かけた。
大所領を有するベルリオーズ家の当主であり、国王になるべきだったクレティアンと向かい合って座るなんて……。
落ち着かないことこのうえない。
さらに、無断で館を出ていったことをはじめとする諸々の負い目もあって、アベルはクレティアンのまえで、かたくなった。
「生死の境目を彷徨うほどの大怪我を負ったと聞くが、身体の具合はどうだ」
「おかげさまで良くなりました」
むろん一ヶ月で怪我が完治するはずないと知っているクレティアンは、しばし沈黙したのち、すぐにまた口を開いた。
「シャルム軍の危機を救ったうえ、フランソワ殿の命を助けたと聞いている。そなたがいなければ、我が国の被害は多大なものだったろう。そなたの働きに、心より感謝している」
「もったいないお言葉です。けれどわたしは――」
「そなたの言いたいことはわかっている」
ならば、話は早い。
アベルはまぶたを伏せた。
「……罰を免れようとは思いません。どのような処分も受ける覚悟です」
「処分を下すまえに聞きたい。なぜ黙って出ていった?」
「出ていく理由を、お伝えできなかったからです」
「リオネルに関することか」
「それも含めてお話しできません」
申しわけありません、と謝罪したが、頭の隅でアベルは確信した。
こうしてアベルに尋ねておきながら、やはりクレティアンはすべて察していると。
あの夜の出来事も、リオネルの気持ちも。
「なるほど、理由についてはひと言も説明しない代わりに、どのような咎めも受ける覚悟ということか」
「はい」
「リオネルが、フェリシエ殿との婚約を断ったことについては知っているか」
どきりとした。
婚約を完全に解消したことについては、周囲が話すのを耳にしている。それがおそらく自分のせいであるということも、いくら鈍いアベルでも気づかずにはおれない。
だからこそ、クレティアンの眼差しが痛い。
小さく「はい」と答えれば、次にクレティアンの口から発せられる言葉を予測できず、戸惑った。
「もし、そなたが戻ってきたあとにリオネルが婚約を断っていたとすれば、私はそなたを追い出していたかもしれぬ」
……胸が痛い。
「だが、違った。そなたが出ていき、もうそなたに二度と会えぬと知ってから、リオネルはすべて断ち切る決断を下した」
それは、どういう――。
「もはや私にできることなどあるはずがない」
クレティアンの言葉は謎だらけだった。
「だが、ひとつだけ確認しておかねばならぬことがある」
アベルは首を軽く傾げる。
「初めて会ったときから、私はそなたに見覚えがあるような気がしてならなかった。だが、どうしても思い出せない。――ローブルグから流れてきた騎士の家の者だということは偽りと言っていたが、我々に話せぬような出自なのか」
思いも寄らぬ言葉にアベルはしばし言葉を失う。鼓動がやけに早かった。
「あるいは、そなたは我らを欺いているのか」
「欺くなど――」
「この先リオネルを裏切るようなことはけっしてあるまいな」
「……そのようなことは断じてありません」
「リオネルからそなたを引き離すことはしない。だがもしリオネルの気持ちを踏みにじるようなことがあれば、私はそなたを赦さぬぞ」
見覚えがある、とクレティアンは言った。
それはおそらくクレティアンがアベルの両親――つまり、ブレーズ家出身の母ベアトリスか、デュノア伯爵のどちらかに会ったことがあるということだろう。あるいはその両方かもしれない。
アベルの身体に流れる、ベルリオーズ家の宿敵であるブレーズ家の血。
ディルクの婚約者であったという、以前の立場。
……これらはいずれも、リオネルを裏切っていることにはならないだろうか。
彼の気持ちを踏みにじることになりはしないだろうか。
「この先、家臣としてリオネルの意に従いなさい。リオネルの指示がないかぎり、勝手に行動することをかたく禁じる。この命令こそが、そなたに下す処罰だ」
家臣としてリオネルの意に必ず従う。
それが、無断で館を出たことへの処罰……。
けっして身体に負担をかけるものではない、けれどアベルにとっては厳しい罰だった。リオネルを守るためなら、なり振り構わず、彼の命令も忠告もすべて無視してきたから。
「……かしこまりました」
答えながらも、頭のなかを重苦しい感情が駆け巡る。
つまり、今回の処罰は、リオネルの指示以外で勝手な行動をとってはならないという戒めと同時に、リオネルをけっして〝裏切らぬ〟――傷つけてはならないという牽制なのである。
けれど、リオネルの想いを知ってなお自身の出生を隠していることこそ、彼への最大の裏切りなのではないか。リオネルだけではない。ディルクに対しても同様に。
どうしていいのか、わからなかった。
いっそすべて打ち明ければいいのか。けれどそんなことをすれば、これまで築き上げてきたものすべてが一瞬にして崩れ去る。
怖くて全身が泡立つ。リオネルやディルクから、取るに足りないひとりの人間としての〝アベル〟ではなく、まったく別の存在、つまりブレーズ家令嬢の血を引く令嬢〝シャンティ・デュノア〟として見られることは、死よりも恐ろしいことだった。
「まだ本調子ではないのだろう。夜の祝会まで休んでいなさい」
退室を促されたので、礼を述べてアベルは部屋を出た。
話が終わるのを見計らって廊下へ出てきたリオネルへ、アベルはほほえんでみせる。
「父上になにか言われたのか」
「はい……リオネル様の言うことをよく聞くように、と」
「それだけか?」
「それが無断で館を出たことへの処罰だそうです」
「……本当にそれだけか? 少し顔色が悪いようだ」
「少し疲れたみたいです」
そう答えれば、リオネルは小さくうなずき、アベルを寝室まで送ってくれた。
――アベルが出ていったあとのクレティアンの私室。
「アベルは顔色を変えましたね」
小さくつぶやいたのはオリヴィエだ。
「……いつどこで、あれに似た者を見たのか、やはり思い出したほうがいいのかもしれない」
「人は耐えきれぬほど辛い出来事があると、その前後に起きたことを忘れるといいます。もしや、アンリエット様がお亡くなりになったあたりのことでは?」
顎に手を当てて、クレティアンは考えこんだ。
+++
数え切れぬほどの燭台やシャンデリアに惜しげもなく火が灯され、暗く寒い十一月末の夜を幻想的に彩っている。
ハープの奏でる軽やかな旋律が、人々が会話する声の背後に流れていた。
祝会は、帰還したリオネルらにジル・ビューレルが挨拶をすることから始まった。
弟ナタンの犯した罪と、それを阻止できなかったこと、自らが囚われベルリオーズ家の枷となってしまったことなどへの謝罪を、腰を深々と折って述べるジルへ、リオネルは手を差し伸べた。
「謝ることなどなにもない。生きていてくれてよかった。私の思いはそれだけだ」
リオネルの言葉にジルはうつむき涙をにじませた。
あとから聞いた話だが、実際ジルは、ジェルヴェーズに解放された直後、すべての責任をとって自ら死を選ぼうとした。けれどそれを止めたのはクレティアンだった。
どのような言葉で彼に自殺を思いとどまらせたのか、アベルにはわからないが、想像することはできる。リオネルはジルを守るためにローブルグへ赴き同盟交渉を成立させた。リオネルに救われた命を大切にせよと、クレティアンは諭したのではないだろうか。
「これまで以上に、クレティアン様とリオネル様に忠義を捧げ、お仕えする所存です」
深い決意をジルが述べると、祝会の会場からは拍手と歓声が沸き起こった。
なぜベルリオーズ家の騎士らが、リオネルやクレティアンに揺るぎない忠誠を誓うのか、アベルはよくわかる気がした。
すでにアベラール家の騎士団は帰還の途中でセレイアックへ戻っているので、今日の出席者はディルクやその周辺を守る主だったアベラール家の騎士以外は、ベルリオーズ家の騎士たちとその家族だけだ。
興奮と一体感に包まれる会場は、いつになく熱気に満ちていた。
「それでアベル、大丈夫だったのか?」
「え?」
話声と笑い声が飛び交う席上。豪快に鹿肉に食らいついたばかりのラザールが、けれどすぐに食事の手を休めてアベルに尋ねてきた。
「公爵様にご挨拶にいったんだろう? 無断で館を出たことについては、お咎めなしですんだのか?」
どうやら心配していてくれたらしいラザールへ、アベルはぎこちなくうなずいてみせた。
「ええ、寛大なご処分でした」
「処分? なにか言われたのか?」
そう、アベルにとっては厳しい処分だったかもしれないが、おそらく客観的にみれば寛大な処分だったに違いない。
それなのに――アベルの気持ちは沈んだ。
今夜は喜ばしい席だというのに。
「リオネル様の言うことをよく聞くようにというのが、公爵様から下された処分です」
わずかに目を見開いてから、ラザールは笑う。
「それはたしかに寛大だ。さすがは公爵様であらせられる」
話を聞いていたダミアンも、笑顔でうなずいている。
「これからは、黙って館を出ていかないようにということですね。本当にリオネル様や家臣を思う公爵様らしい……」
そう、きっとアベルにやましいところがなければ、なんでもない、むしろごく当たり前の命令なのだ。主人の言うことを聞かない家臣がいることのほうが、おかしいのだから。
それなのに重苦しい気持ちから逃れられないのは、自分の生来の立場を思えばこそだ。
リオネルの気持ちを知った今、彼のために言いつけを守りたいとは思っている。けれど、それだけではクレティアンが意図するところの〝けっして裏切ってはならない〟という約束を守ることにならない。
ふう、とため息をついて、堂々巡りしそうになる考えを誤魔化す。
今は考えないでおこう。
……考えないでいたい。
いくら思い悩んだって、自分の出自を変えることはできないのだし、また、ここを出ていくという選択肢もないのだから。このまま黙ってリオネルのそばにいるしかない。
シャンティ・デュノアは死んだ。
自分は、アベルなのだ。
知らず、うつむいて食事の手を止めていると、蜂蜜酒の瓶を差し出される。
顔を上げれば、最年長の騎士ナタルが優しい眼差しをこちらへ向けていた。
「今夜は特上の蜂蜜酒だ。飲むか?」
「あ、はい」
自分で注ごうとするのを、ナタルがやんわりと首を振る。
「たまにはいいだろう。我々を勝利へ導いてくれた勇敢で無鉄砲な従騎士に、最年長の私から感謝の気持ちだ」
「……ナタルさん」
胸がじんとなったとき、ラザールにどんっと背中を叩かれる。
「本当だな! こんな小さな身体でシャルムを救ったんだから、おまえってやつは」
「ほら、怪我をしているんですから、叩いてはいけませんよ」
ダミアンに指摘され、慌ててラザールはアベルの背中をさする。
「す、すまん。そうだ、ほら、肉を食え、肉を。こんな華奢な身体でどうする。肉を食べ、身体を鍛えて、早くジュストぐらいにならなくてはな!」
いつもの台詞を口にするラザールに、皿へ溢れんばかりの肉を盛られて、アベルはげんなりした。
「こんなに食べられません……」
「そんなことを言っているから、大きくなれないんだぞ!」
酒に酔いはじめたラザールは楽しげだ。肉をまえに困り果てているアベルに、ダミアンが含み笑いで耳打ちする。
「あとで食べるのを手伝ってあげるから」
ありがとうございます、とアベルは笑い返しながら小声で答えた。
※S様、ご指摘いただきありがとうございます。修正させていただきました。読者様のほうがしっかりと物語を追ってくださっている…。とても助かりました。本当に感謝です。
※7/20にメッセージをくださった読者様へ。普段はお返事をしておりませんが、応援の気持ちをお届けできればと思い、書かせていただきました。よろしければ活動報告をご覧いただけましたら幸いです。