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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第七部 ~神前試合は、運命の歯車に導かれ~
389/513







 大歓声に迎えられたシャサーヌの街を通りぬけ、騎士団はベルリオーズ邸の門をくぐりぬける。と、まっさきに館のなかから転がるようにして出てきたのはエレンだ。


「アベル!」


 ベルトランの馬の前鞍に収まる小柄なアベルに、彼女は駆け寄ってきた。


「エレン……」

「もう、あなたって子は」


 エレンは、アベルがリオネルに仕えるようになったときから、ずっと二人を見守ってくれている女中メイドである。


 アベルがゆっくりと地面へ降り立つと、エレンにぎゅっと身体を抱きしめられた。


 ベルリオーズ邸の地面や木々、荘厳な建物に粉雪が舞い落ちる。

 うっすらと積もりはじめた雪は、明日の朝になれば厚みを増して、イシャスの格好の遊び道具になるだろう。


「ごめんなさい」


 泣きじゃくるエレンをアベルは抱きしめた。

 十歳近く年下のアベルに抱きしめられながら、エレンは小言をこぼす。


「本当に、どれだけ心配したと思っているの。突然館から出ていってもう戻らないなんて言うから……。あなたがいなくなって、わたしたちが、どれだけ哀しい気持ちでいたと思っているの? そうしたらリオネル様の手紙に、大怪我を負って生死の淵をさまよっているって。この身体をどれだけ傷つけたら気がすむのよ、アベル」


 ごめんなさい、と何度も言いながら、アベルはエレンを抱擁しつづける。その様子を、リオネルやベルトランは黙って見守っていた。


「まあ、エレン。アベルも謝っていることだし、許してやったらどうだ?」


 馬から降り、がらにもなく遠慮気味に声をかけてきたのは、中堅騎士ラザールである。

 アベルのことを気にかけているラザールだから、責められているかのような様子を見かねたのかもしれない。けれど。


「許す許さないの問題ではありません!」


 顔を上げて言い放つエレンの勢いに気圧され、ベルリオーズ家のなかでも無類の剣士であるラザールが一歩後ずさりする。


「本当にもう会えないんじゃないかと思ったんですから」


 頭をかくラザールに、「女心がわからないから、結婚できないんですよ」と後輩の騎士が茶化すように言ったものだから、「なんだと」とラザールが応じて、つまらぬ小競り合いが生じる。

 そんな光景を尻目に、リオネルがエレンへ静かに告げた。


「すまない、エレン。心配をかけた」


 エレンは少しうつむき、アベルのもとから離れると軽く一礼した。


「おかえりなさいませ、リオネル様」


 ベルリオーズ家に仕えるエレンは、きっちりと主に挨拶をする。エレンの泣き腫らした顔には、素直に主らの帰還を喜ぶ色が浮かんでいた。


 ディルクやレオンはすでに馬を降り、他の騎士たちと同様、出迎えた使用人らと共に荷物を運び、各々必要な雑事にとりかかりはじめている。


「おれがしっかりしていたら、アベルをこんな目に会わせずにすんだのに」


 エレンは首を横に振った。


「リオネル様のせいではありません、この子がお転婆すぎるのです。リオネル様は本当にアベルに甘いんですから」


 そうかな、と首を傾げて微笑してから、リオネルは尋ねる。


「イシャスはどうしてる?」

「元気です。アベルが戻るまで起きていると言い張って、昼寝もせずに待っていたのですが、ついさっき疲れて眠ってしまって」

「目が覚めたら、アベルといっしょに会いにいくよ」

「ええ、とても喜ぶと思います。……どうぞなかへお入りください。公爵様がお待ちです」


 エレンが目の端をぬぐいながら言ったとき、話が終わるのを待ちかまえていたように、控えていた男がリオネルのそばまできて深々と一礼した。


「無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます」

「ああ、オリヴィエ。元気そうでよかった」


 きっちりと燕尾服を着こなすこの初老の男は、ベルリオーズ家の執事である。


「リオネル様にも……」


 わずかに声を震わせてから、オリヴィエはこれ以上感情の揺れを見せまいとするように低い声で告げた。


「公爵様が、お部屋でお待ちです」

「父上の容体は?」

「ジルの返還を経て、戦勝の報及びリオネル様の腕のご回復をお聞きになってから、徐々に良くなっております」

「そうか」


 リオネルの声に安堵が滲む。

 ちらとこちらをリオネルが振り返ったので、アベルは大きくうなずいた。


 ――クレティアンの病状が回復に向かっている。


 歓迎されないだろう自分の立場はさておき、帰還して早々こんな嬉しい知らせはなかった。






+++






 部屋に入ったとき、ベルリオーズ公爵クレティアンは寝台ではなく、長椅子に腰かけて手紙を読んでいた。

 顔色は以前と比べて随分いいようだ。


 リオネルらが姿を現すと、クレティアンはすぐに手紙を小卓に置いて顔を上げる。


「ああ、リオネル」

「父上、ただいま戻りました」


 席を立とうとするクレティアンに、リオネルは駆け寄る。


「父上はどうぞそのままで」

「いや、平気だ。もう回復しているといってもいいくらいなのだが、オリヴィエが横になっているようにとうるさいのだ」


 そう言いながらしっかりと立ちあがり、ひとりずつ丁寧に挨拶するディルク、レオン、マチアス、クロード、そしてベルトランを、クレティアンはうなずきながら見回した。


「ああ、皆よく無事で戻ってきた」

「公爵様もお加減がよいとうかがい、なによりです」


 心から喜ぶ様子のクロードにクレティアンは目を細める。


「クロード、そなたもよく兵を率いてくれた。これほど嬉しいことはない。皆の力があってこそ、今回の勝利があったのだろう。リオネル、そなたの左腕も治ったとか」

「ええ、動かなかったことが嘘のようですよ」


 そう言って軽く左腕を上げて見せる。感情をさほど表に現すことのないクレティアンが、このときばかりはわずかに瞳を潤ませた。


「……言葉もない。ただただ神に感謝するばかりだ」

「本当に長らくご心配をおかけしました」


 リオネルの左腕は、蒼の森でアベルを助けようとした際に狼に肩を噛まれてから、動かなくなっていた。それが、今回の戦いの最中、奇跡的に回復したのだ。


「ああ、今夜は盛大な宴を催そう。いろいろ聞かせてくれ。どのような戦いだったのか、いかにしてリオネルの腕が動いたのか、集まった諸侯らのことや敵の姿、ユスターの敗走していく様子……」

「そんなに話していたら、明日の朝になってしまいますよ」


 と笑いながら言ったのはディルクだ。


「そうだな、それもいい。私もだいぶ調子がいいし、ジルの容体も回復している。こうして憂いなくおまえたちと酒の席を囲むことができるのだ。本当に久しぶりのことだと思わないか」


 ジルというのは、ベルリオーズ領ラクロワの統治を委任されているビューレル家の騎士である。彼はジェルヴェーズ王子がビューレル邸を訪れた際に、弟ナタン・ビューレルが王子に斬りかかった責任を問われ、囚われの身となっていた。


 そのようなジルだったが、リオネルがユスターとの戦いに赴くことを交換条件に、現在は解放されている。


「ジルは今どこに?」

「騎士館のほうで生活している。身体よりもナタンを殺された心の傷のほうが深い。少しこちらで仲間と過ごし、心を落ちつけるのがいいと考えている」

「……そうですね。その後、手紙を出した犯人などはわかりましたか?」

「いや――わかっていない。未だにナタンを陥れた者の正体は闇のなかだ」


 あるいはこのまま明らかにならないかもしれない、と皆の心に不安が過ぎるのは、証拠はなくとも犯人の目星は容易に想像がつくからだ。


「ラクロワでの事件以降、ローブルグへ交渉に行ったり、ユスターとの戦いに参加したり、本当に長かったように感じる」


 レオンの言葉にクレティアンはうなずいた。


「殿下にはリオネルを支えていただき、感謝しております」

「いや……私はなにも」


 伯父から礼を言われて慌てるレオンを、「照れるなよ」とディルクが肘でつつく。ひと通り挨拶を終えると、リオネルとベルトランを残して他の者は出ていった。



 息子や近しい者だけになると、クレティアンはリオネルの身体を軽く抱擁する。


「本当によく無事で戻ってきてくれた。天国のアンリエットも喜んでいるころだろう」

「父上も……お加減がよくなり、心から安堵しています」


 抱擁を解くと、クレティアンは自嘲するように小さく笑う。


「ああ、久しぶりに体調を崩した。歳かもしれないな」

「そのような。まだ四十五歳ではありませんか」

「四十四だ」

「知っていますよ。まだまだ若いということを、父上に認識していただきたかったのです」

「親をからかうものではない」

「申しわけありません」


 軽く笑ってからクレティアンは長椅子に腰をおろし、それからすぐに表情をあらためた。


「それで?」

「それで、とは」

「そなただけここに残ったのには、理由があるのではないのか?」


 クレティアンはリオネルの考えをすでに見透かしているようだった。部屋に残った理由についてさえもう勘付いているのだろう。

 現にクレティアンのほうからその名を口にした。


「アベルのことか」

「ええ、そうです。彼をここへ連れてくるまえに、父上に申し上げたいことがあります」

「おまえがこの部屋に残ったのは、やはり彼女・・の話をするためか?」

です」


 息子の言葉に、クレティアンは沈黙を返した。


「無断で館を出たことを、咎めないとお約束してくださいませんか」

「それは私が決めることだ」

「アベルが館を出ていったのは私のせいです」

「だれのせいだろうが、出ていく決断をしたのはアベル自身だ」

「お約束いただけないなら、彼を父上のもとへ挨拶に来させるわけにはいきません」

「そのようなことが、まかり通ると思っているのか」


 ベルリオーズ邸に帰還して、公爵に挨拶もなしというわけにはいかない。リオネルが良くとも、アベル自身はけっして良しとしないはずだ。


「アベルになにを言うおつもりですか」


 警戒心をあらわにするリオネルをまえに、クレティアンは小さく溜息をつく。そして、


「――案ずるな。厳しい処罰を下したりはしない」


 と静かに告げた。


「だが二人で話したい。そなたは席を外しなさい」

「…………」

「とにかく呼んできなさい」


 ベルトランがちらとリオネルを見やる。かすかに眉をひそめてベルトランを見返してから、リオネルは再び父公爵へ眼差しを戻した。


「けれど、アベルの傷はまだ癒えていません。身体だけではなく、心にも負担をかけてはなりませんし、万が一にでも再びここから出ていくような事態になれば、命の危険だってあるのですから、くれぐれも――」

「わかった、わかった」


 リオネルの言葉を遮って、クレティアンは呆れるのを通りこして、もはや笑っていた。


「そなたが案じる気持ちは充分に伝わっている。それで、いつになったらアベルを連れてくるのだ?」


 不承不承リオネルは部屋を出た。

 難しい顔つきのリオネルに、ベルトランが従う。


「お約束くださったのだから、厳しい処罰が下されることはないだろう」

「……父上は、アベルが女性であることも、おれがあの子に対して抱く気持ちにもおそらく気づいている。それが良いほうに振れるか、あるいは悪いほうに振れるかは未知だ」

「立ち合いたいところだがな」


 あの雰囲気ではとても無理だろうということは、容易に察せられる。

 視線をうつむけるリオネルへ、


「今は公爵様を信じてみてはどうだ」


 とベルトランは助言した。







 扉を叩いてみるものの、返事はない。


 何度か叩くが反応はなかった。嫌な予感がしたリオネルは、アベルの部屋の扉の取っ手に手をかける。鍵はかかっておらず、すんなりと扉は開いた。


 焦る足取りでリオネルは寝台へ駆け寄ったものの、少女は静かな寝息を立てていた。

 金糸の髪に縁取られた肌の白さは、窓の外に散る粉雪を思わせる。触れれば一瞬のうちに溶けてしまいそうだった。

 長い睫毛が時折揺れ、アベルは夢のなかにいるようだ。平和な寝顔にリオネルの口元がゆるむ。


「疲れていたんだね」

「なんでもないように振る舞っていたが、無理をしていたのだろう」


 寝ているところを起こすのはしのびない。だが公爵への挨拶が遅れるのは得策ではなかった。


 柔らかいアベルの髪に触れ、それからわずかに肌に指先が触れると、リオネルはすぐに手を離した。想いを告げた今、眠る彼女に触れることは、とても罪深いことのように感じられる。


「あいかわらず警戒心というものがまるでないな」


 つぶやいたのはベルトランだ。

 扉に鍵もかけず、すっかり眠りこんで、髪に触れられたことに気づきもしない。


「布団もかけずに寝ていたら、風邪をひいてしまうのに」


 起こすどころかリオネルはアベルの上へ布団をかける。ベルトランが不審げに眼差しを向けた。


「起こさないのか」

「……いや、やはり父上に事情を説明して、面会はあとにしてもらおう」

「リオネル」


 やや呆れたベルトランの声だった。


「負傷してまだ一ヶ月だ。途中で傷も開いている。それに加えて十五日間の長旅だった。今は休ませてやりたい」

「挨拶が遅れるほど、クレティアン様からの印象も悪くなるぞ」

「印象よりも、身体が優先だ」


 とリオネルが答えたところで、眠っていたはずのアベルの睫毛が震え、瞼が開いた。


「……アベル?」


 深い眠りに落ちていたのか、アベルはぼんやりとリオネルを見つめている。


「ごめん。うるさくて起こしてしまったかな」








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