第一章 戦場からの帰館と、新年祭への招待 1
舞いはじめた雪が、視界を白く染める。
アベルは小さく身震いして身をすくめた。
「寒い?」
いつの間にかすぐ横に来ていたリオネルに問われ、アベルは心臓が跳ねる。
「あ、いえ、大丈夫です」
外套はすでに羽織っていた。剣の師匠であるベルトランの馬に乗せてもらい、彼の両腕に包まれているのだから、寒いといってもこれ以上暖かくなれる方法があるわけでもない。
すると、それは承知のうえだったらしいリオネルが提案してくる。
「身体が冷えるようだったら、一度休憩して温まろう」
二人乗りをするこちらへ、自らの馬を寄せながらリオネルは心配そうな眼差しを向けてきた。
「あの、本当に平気ですから」
行軍を止めるわけにはいかない。壮絶な戦いとなったユスター国境の戦地から、リオネル率いるベルリオーズ家の騎士団は帰還する途中だ。もうあと少しでベルリオーズ領最大の都市シャサーヌに入る。
「アベル、少し緊張してる?」
ずばり言いあてられて、アベルは思わずリオネルを見返す。顔が強張っていただろうかと、冷えた指先で自分の頬に触れてみた。
「……父上のことか?」
「えっ」
リオネルの父とは、他でもないベルリオーズ領を治める公爵のこと。
――察しが良すぎる。
「あ……いえ、その…………違っ……そ、そう、です」
なにもかもリオネルには見透かされていることを知り、観念してアベルは白状した。
「……わたしは許可も得ず、挨拶もせず、無断で館を出ていったのですから」
ユスターとの戦いが始まる直前、ベルリオーズ邸で傍若無人に振る舞っていたジェルヴェーズ王子をなだめるため、アベルは踊り子の姿で彼のまえへ出た。ジェルヴェーズに見初められてアベルは寝台に引き込まれかけたものの、彼に盛った薬によってなんとか危機を脱した。
リオネルから想いを告げられたのはその直後のことだ。リオネルの立場やベルリオーズ家の未来を考え、アベルは無断で館を出ていったのだった。
「大丈夫だよ。すべて皆のためにしたことだと、父上は理解している」
すべて理解している?
どういうことだろう、とアベルは思った。もしや、ベルリオーズ公爵はアベルが踊り子に扮していたことを知っているのだろうか。
「あの夜の出来事を、公爵様は……」
「察しているだろう」
「――――」
ベルリオーズ家に仕える従騎士が、踊り子などに扮してジェルヴェーズ王子のまえに出たなどと、そんな恥知らずな行動を公爵に知られているとは。
アベルは愕然とした。
「……少し用事を思い出しました。しばらくお暇をいただきます」
そう言いながらおもむろに馬を降りようとすると、たちまちベルトランの逞しい腕に阻まれる。
「馬が駆けているのに降りるバカがいるか」
「わ、わたしはベルリオーズ家の騎士として、あるまじき行いをしました。そのうえ無断で館を出たのですから、公爵様に合わす顔などありません。それに――」
言いかけてやめる。
思っても、口にしてはならないことのような気がしたからだ。
「父上を含め、だれもがアベルに感謝しているよ。フランソワ殿を救い、今回の戦いを勝利に導いた功績もある。無断で館を出たことは咎めさせない」
「と、咎められてもいいんです。ただ……」
言葉が続かない。
〝ただ〟なんなのだろう、と自分自身で思う。
いっそ咎められてもいい。
でも、そう……、怖いのだ。
リオネルの気持ちを知った今、けっして結ばれぬ――結ばれてはならぬ関係にありながら、すべての真実を隠して彼のそばにいることは、ベルリオーズ家に対して不誠実なことをしていることになる。
だからこそリオネルから告白された直後、黙って館を出たのだが、ユスターとの壮絶な戦いの末にこうして再びリオネルや仲間のもとへ戻ってくることになった。
家を守り、繁栄へと導かねばならぬベルリオーズ公爵に対しては、負い目を感じずにはおれない。
それに――。
だれかにとって大切な存在であることは、アベルをひどく不安にした。
自分は宝石にはなれない。
それなのに。
「アベルはなにも悪いことをしていない。堂々としていればいいんだ。もしきみを責める者がいるなら、おれが受けて立つよ」
「…………」
その、リオネルの〝受けて立つ〟というのが一番怖い。
「これからずっとアベルといっしょにいられるのだから、おれは言葉では言い表せないほど幸せなんだ。きみを守るためならどんな苦労も厭わないよ」
――もう想いは伝えない。
この言葉は、そばにいてほしいとアベルに懇願したとき、リオネルが自らに課した条件だが、今となってはリオネルの言葉はすべて愛の告白に聞こえる。
そう、これまでだってリオネルは幾度もこんなふうにして、婉曲に――いや、わりと率直に想いを伝えてくれていたのだ。
ただアベルが鈍感過ぎて、それを家臣思いのリオネルの言動だと思いこんできただけのことである。
そう、今ならこれまで向けられていた深い愛情も、過保護すぎるほどの態度も、すべて彼の想いからくるものなのだとわかる。
無性に気恥かしい気持ちになって、アベルは口を閉ざした。と、すぐに別の声がする。
「こんな寒いのに、なにを惚気てるんだ?」
馬を寄せてきたのは相変わらず冴えた地獄耳の持ち主ディルクだ。誤魔化すかと思いきや、リオネルは平然と答える。
「寒いと惚気てはいけないのか?」
「完全に開き直ってるな」
「ベルリオーズ邸を出立したころのことを思い出したんだ。あのときはアベルが出ていった直後で、果ての見えない海の底にいるような気分だったから。今はそばにアベルがいる、ただそれだけのことが本当に嬉しい。あらためて大切な存在だと気づかされたよ」
てらいもなくリオネルが言うので、アベルは顔から火が出るのではないかと思った。そんな言い方をしたら、ディルクに気づかれるではないか。
へんに勘違いされて、ローブルグ王の〝大変態王〟のように、リオネルがおかしな目で見られてしまったらどうしようとアベルは気が気ではない。
「ああ、さっきまで空腹だったのに、今のリオネルのひと言でもうお腹がいっぱいだよ。今日の夕飯は食べられそうにないな。どうもご馳走様。本当、呆れるほど仲がいいね」
実際、ディルクは呆れた面持ちだ。
「そんなことを言って、夕飯はベルリオーズ邸の馳走をたらふく食べるつもりだろう、ディルク」
横やりを入れるのは、シャルム第二王子レオンである。
「おまえ、さっきのリオネルの台詞を聞いたのか?」
「いや、おまえの無駄に大きな声しか聞こえなかった」
「無駄に大きくて悪かったな。……聞こえていたら、レオンだって満腹になっていたと思うけど。ま、でも、リオネルの気持ちはぼくにもわかるからね。アベルがいるとおれも嬉しいからね」
「も、もうこの話はやめにしましょう」
褒められるくらいなら、いっそけなされるほうがまだましだ。それくらいアベルはどうしていいかわからない。
「かわいいなあ、アベルは」
元婚約者であるディルクに言われて、アベルは顔をうつむけた。
ディルクのほうは、アベルがかつて婚約していたデュノア家の娘シャンティであることを知らない。だからこそ、こんなふうに他愛もなく褒め言葉を口にしてくるが、こちらは複雑な思いにとらわれる。
リオネルの想いを知った今なら、なおさら。
「かわいくて、まっすぐで、そのうえ頑張り屋だから、リオネルがすっかり手放せなくなるのもわかるよ。マチアスとは大違いだなあ」
「どのあたりが大違いですか?」
「おっ、マチアス。いつのまに」
驚いて飛び退くディルクへ、後方からマチアスが涼しい眼差しを向けていた。
「おまえのほうがよほど地獄耳じゃないか」
「ディルク様の大きな声はよく聞こえますから」
レオンと同じことを言う従者を、ディルクは引きつった顔で見やった。
「どいつもこいつも好き勝手言いやがって。おれよりベルトランのほうがよほど声が大きいと思うけど」
「ベルトラン様は、あなたのようにぺらぺらと話しませんから」
「まあ……たしかにそうだな」
そこはディルクも素直に納得したようだった。
一方、声が大きいと言われたベルトランは、生来の仏頂面で彼らの身辺を黙々と守っている。なにも言わないのが、むしろ怖い。
「だが、そんなことを言っていながら、おまえこそ絶対にマチアスを手放すつもりがないだろう」
レオンに指摘されて、ディルクはややバツの悪い面持ちになる。けれど否定はしない。
「それがどうした」
「おまえのヴェルナ侯爵の毛嫌いようは半端ないからな」
「ああ、大嫌いだとも」
「リオネルもディルクも家臣に首っ丈であることには、さほど差がないということだな」
沈黙したディルクに、「大変光栄です」とマチアスが笑みを向けたものだから、若い主人は照れるような、あるいは気まずそうな複雑な顔をした。
「しかし、あれだな。皆でこうしてベルリオーズ邸に戻ることができてよかった」
話題が変わったことを喜ぶディルクは、しみじみとつぶやくレオンに大きくうなずく。
「アベルは戻ってきたし、ユスターを撃退できたし、リオネルの左腕も動かせるようになったし、ジルも取り戻したし、ジェルヴェーズ王子はもうベルリオーズ邸にはいないし」
「本当だね。あとはアベルの怪我が完全に癒えれば言うことないよ」
リオネルが付け加えた。
「もう平気ですから」
はいはい、と皆がアベルの言葉を聞き流す。だれもアベルが言うところの「平気、大丈夫」という言葉を真に受けていないようだった。さらに、次のディルクの言葉にアベルはどきりとする。
「戻ったら、とりあえずアベルは少なくとも一週間は自室で過ごさなくちゃな」
「え……っ」
さらにレオンが言った。
「寝台で寝ていたほうがいいだろう」
「食事はおれが運ぶから、寝台から一歩も出てはいけないよ」
極めつけのリオネルの言葉に、アベルはあたふたした。
「ちょ…、皆様、そんな――」
「嘘だよ」
おかしそうにリオネルが笑う。アベルは呆気に取られた。
「え、嘘なのか?」
ディルクがわざと驚いたふりをする。
「そんなことをしたら、アベルは逆に体調を崩すと思うよ」
「ははは、確かに」
「どういう意味ですか」
からかわれたと気づいて声を尖らせれば、
「跳ねっ返りということだ」
と、耳元でつぶやいたのはベルトランで、アベルは返す言葉を失う。
跳ねっ返り。
皆にそんなふうに思われていたのだろうか。
「まあ、激しい動きはさせない程度に、自由にさせてあげるってところか」
ディルクの案にマチアスが同意する。
「それしかありませんね」
「監視するリオネルも大変だな」
とレオン。
…………。
やはり皆にそう思われていたらしいと知って、アベルは愕然とした。いつのまに、そんな印象を抱かれていたのだろう。けれど自らの行動を振り返ってみれば、ふと納得しないまでもない。
「まあさ、リオネルが大人しく過ごしていれば、アベルもゆっくり休めるよ。これまでアベルが無茶をしてきたのは、すべてリオネルを守るためだからね」
今度はリオネルが黙る番だった。ディルクが笑う。
「本当におもしろいね、きみたち二人は」
話している皆の視界に、大都市シャサーヌの雪に白んだ景色が映りこむ。
「ああ、戻ってきたな」
ベルトランの声が、灰色の空に吸い込まれていった。