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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
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第六部最終回 68








 雲ひとつない空には、冬の到来を予感させる淡く黄色がかった太陽。


 よく晴れた昼下がり。

 肌寒いものの、今が一日で最も気温が高く、また陽射しの強い時間帯だ。


 シャンサック領内で休憩したベルリオーズ家とアベラール家の騎士らは、そばに小川が流れていたため、この機を逃すまいと上着を脱ぎ、水に飛び込む。

 湯浴みができぬ行軍の途中に、絶好の水浴び場を発見したのだから、これを逃す手はないだろう。


 いっせいに皆が服を脱ぎ出したので、右を見ても、左を見ても、上半身裸体の男たちだ。

 アベルはどこを見ていればいいのかわからなくなって、視線を泳がせた。


 落ち着かずにいるところへ、外套やヴェストはおろか、シャツや長靴ちょうかまで脱ぎさらって、ズボンだけという姿のラザールがそばへ寄る。これから入ろうというところらしい。

 アベルは全身毛むくじゃらのラザールから視線を逸らした。


「おっ、アベル。おまえは入らないのか?」

「え、その、ちょっと寒いので」

「傷口を綺麗な水で注いだほうがいいんじゃないか?」

「大丈夫です。おかまいなく」


 ふうん、とラザールは不思議そうにこちらを見やったようだが、


「アベルにはアベルの事情があるのだ。さあ、行こう」


 と老騎士ナタルに促されて川のほうへ歩いていく。すでにディルクやレオンはキラキラと輝く水のなかで、鍛え上げられ引き締まった身体を惜しげもなく晒していた。目のやり場に困る。


 顔を背ければ、優しく名を呼ばれた。

 服をまとったままのリオネルだ。アベルはその姿に安堵する。


「リオネル様」

「こういうときは困るね」


 微笑を向けられて、アベルは小さくうなずく。

 騎士らは皆、とてもいい体格をしている。おそらく、妙齢の貴婦人なら見惚れるほどなのだろうが、アベルにはどうも落ち着かない。


「向こうに休めそうなところがあったから、いっしょに行かないか」

「ですが、リオネル様は?」


 リオネルは水浴びをしないのだろうか。


「おれはあとでさっと入ってくるよ。それより、木立のなかに開けた場所があった。そこならアベルもゆっくりできると思うんだ」


 誘われてアベルはリオネルと共に木立の奥へ入る。

 十数える間もなくリオネルは足を止めた。なるほど、ここなら皆の居る場所からほとんど離れておらず、それでいて水浴びする騎士らの姿を視界に入れずにすむ。

 リオネルの気遣いに、アベルの胸はじんと温かくなる。


 すでにアカシアやプラタナスなどの木々の葉の多くは落ちており、天幕が二つほど張れそうなほどの広さには、埋もれそうなほどの落ち葉が積もっていた。


「ありがとうございます、リオネル様」

「さっきここを見つけてね、アベルといっしょに来たかったんだ」

「ふわふわですね」


 落ち葉のうえを歩きながら、アベルはリオネルへ笑いかける。


「この上で眠ったら気持ちよさそうです」

「寝ていていいよ、起こしてあげるから」


 真面目な返事は、冗談とも本気ともつかない。


「さすがに、ひとりここで寝ていたらおかしいですよ」


 アベルは笑った。


「じゃあ、おれが横になろうかな」


 止めるまもなく、リオネルは落ち葉のうえに身を横たえる。控えていたベルトランが、わずかに周囲を警戒したようだった。このようなところで寝ていては、敵に襲われたときひとたまりもない。


「リオネル様」


 やや呆れながら名を呼べば、手を伸ばされる。


「おいで、とても気持ちがいいから」


 含み笑いでその手を握り返せば、ゆっくりと落ち葉のうえに横たえられた。背中から柔らかく沈み込む落ち葉の感覚は、極上の寝台だ。


「……気持ちいいです」


 思わず、ため息を洩らす。


「眠くなるね」


 つぶやくリオネルをちらと見やれば、実際に目を閉じている。アベルは思わず顔を上げてベルトランの姿を探した。すると、すぐそばの木にもたれかかっている赤毛の用心棒と目が合う。

 ベルトランが無言でうなずいた。自分が見張っているから心配しなくともいい、という意味だろう。

 アベルは安堵したが、それにしてもリオネルの緊張感のなさといったら。

 このようなときに自然体で寛いでいられるリオネルは、やはり大物なのかもしれない。


 落ち葉のうえに十九歳の若者と十六歳の少女が寝転がっている。それは、傍から見たらおかしな光景に違いないが、アベルにとっても不思議な経験だった。

 普段から同じ部屋で眠ることが多いが、それとはまた違う感覚だ。


「幸せだ」


 寝転がりながら発せられたリオネルの声が、アベルの耳へ届いた。


「え?」

「こうしてアベルといっしょにいられて、おれは幸せだと思って」

「…………」

「アベルと同じ場所にいて、同じ空気を吸って、同じ出来事を共有できる……おれにとってこれ以上の幸福はない」


 アベルは寝転んだままリオネルへ視線を向ける。

 するとリオネルの紫色の瞳がこちらを見返す。

 思ったより相手の顔が近かったので、アベルの心臓は跳ねた。


 こちらはどぎまぎしているというのに、リオネルはかすかな笑みさえ頬にたたえている。

 なんだかずるい――と思いながらも、アベルは告げる。


「……わたしも、リオネル様のおそばにいることができて幸せです」


 素直な、気持ちだった。


「本当に?」

「今更、確認するまでもないでしょう?」


 リオネルに対してアベルが抱く尊敬や親しみは、だれよりも彼自身がわかっているはずだ。


「不安になるんだ」

「不安、ですか?」


〝不安〟という言葉はリオネルには似合わない。


「ああ、アベルのことになると、おれはいつだってどうしようもないほど不安で心配症だ。おれのそばにいてアベルは幸せなのだろうか、このままでいいのだろうか――と」


 紫色の瞳をまっすぐに見返す。

 この人は、そんなことを考えているのか。

 そんな――考える余地もないことを。


「幸せに決まっているではありませんか」


 まっすぐに瞳を見つめて言えば、リオネルがしばし沈黙する。それから、そっとアベルの手を握った。


「ありがとう」

「お礼を言われることなんて、なにもありません」

「――ずっと、いっしょにいたい」


 さりげなく向けられたリオネルの言葉に、わずかな胸の痛みを覚えながら、アベルはうなずく。

 もちろん、いっしょにいたい。

 死ぬまでいっしょにいたい。

 死んだあとだって、離れたくない。

 ……もしそれが許されるのなら。


 世間は、貴族社会は、クレティアンは、騎士らは……許してくれるだろうか。

 ――自分自身で、それを許せるだろうか。


「こんな時間が、永遠に続けばいい」

「ずっとこんなふうに寝ていたら、風邪を引きます」


 冗談に変えてごまかせば、リオネルは小さく笑ってから、「そうだね」と言った。


「そういえば、アベル」


 真面目な口調で切り出されて、アベルはわずかに戸惑う。


「はい」

「かつて、セレイアックの大聖堂で、きみの姿を見た気がしたのだが」


 思いも寄らぬ話題だったので、アベルは返事をしそこねる。


「鐘楼にアベルがいたような気がして、急いで階段を駆け上ったが、途中で気配が消えてしまった。けれど鐘楼の上まで辿りついたとき、たしかにきみの香りが残っていたんだ」


 香り……。

 リオネルには、香りでアベルの居場所までわかってしまうのか。まるで野生の動物のようだ。


「……わたしです」


 今更隠す必要もなかった。

 寝転んだまま、リオネルがこちらを見つめる。


「本当に? 見間違いじゃなかったのか」

「ええ」

「なぜ、あんな場所に?」

「それは――」


 どう答えたものかと迷ったときだ、目前が突如暗くなって何者かの影に視界を遮られた。アベルは剣の柄に手を添えて跳ね起きようとする。

 けれど、すぐにリオネルに腕を掴まれ、止められる。同時に、呑気な声が降ってきた。


「アベルは鐘楼にいたのか?」


 あらためて見れば、よく知る相手だ。


「ディルク様!」


 隣でリオネルが苦い面持ちになる。


「あまり驚かせないでやってくれ。傷が開いたら、どうするんだ」

「驚いたのはこっちだよ」


 おかしそうにディルクは二人を見下ろす。

 ディルクは、ズボンに白いシャツ一枚と言う軽装で、厚手の布を被った淡い茶色の髪からは、まだぽたぽたと雫が滴っている。


「なんでこんなところで寝てるんだ?」

「気持ちがいいからだよ、それ以外にあるか?」


 淡々とリオネルが答える。


「はあ、そうですか。それにしても、アベルは本当に鐘楼にいたのか」


 話を聞かれていたらしい。なんといっても地獄耳のディルクだ。


「アベルに会いたいあまりに見た、リオネルの錯覚じゃなかったのか?」

「…………」


 アベルは沈黙した。


「そんなふうに聞かれたら、答えにくいだろう」


 横から声がする。姿は見えないが、声からすぐに相手は察せられる。

 アベルは片肘をついて起き上がった。ほぼ同時にリオネルも身体を起こす。

 声の主――レオンは、ディルクと同じように髪から雫を滴らせているが、服はすでにきっちり着ていた。


「ああ、寒い」


 髪を拭きながら、レオンは身震いする。


「話をするまえに、ディルク、そのままの格好では風邪をひくぞ」


 すかさず優秀な従者が、無言で着替えを手渡す。それを受けとり、袖を通しながら、ディルクは質問を続けた。


「なんでアベルは鐘楼なんかにいたんだ?」

「……セレイアックに滞在していたのです」

「セレイアックに?」


 皆の視線がアベルに集まる。アベルは居心地が悪くなって、その場に座りなおした。


「なぜ、おれの領地へ?」

「……セレイアックにいれば、リオネル様の動向がわかると思ったからです」

「なぜリオネルの動向を?」


 アベルは返答に窮する。

 むろんリオネルになにかあれば、即座に駆けつけ、力になりたいと思ったからだ。けれど、照れくさくてそのようなことは言えない。


「わかりきっているではありませんか」


 見かねた様子でディルクに告げたのはマチアスだ。


「ベルリオーズ邸を去っても、アベル殿はいざというときはリオネル様のために動こうとしたのですよ。鐘楼のうえにいたのも、リオネル様やディルク様の姿をご自分の目で確認するためでしょう」

「そうなのか?」


 問われて、アベルはうつむき、小さくうなずいた。

 ディルクがアベルの肩に手を置いて、眉尻を下げる。


「ああ、そうなのか。アベルは離れた所からでも、リオネルを守ろうとしたのか」

「けれど、どうやって鐘楼の上から消えたのだ?」


 尋ねたのはレオンだ。

 リオネルの視線を真横から感じる。


「飛び……降りました」

「鐘楼の天辺から?」


 驚く気配がアベルの周囲を包んだ。リオネルが言葉もないという様子で頭を抱える。


「嘘だろう? あの鐘楼から飛び降りた? 向こう見ずにもほどがある」


 ディルクでさえ呆れ返るようだ。


「そんなにリオネルに会いたくなかったのか?」

「……黙って出てきて、会えるはずないではありませんか」

「怪我を負っただろう」


 案じる様子でレオンが問う。


「牛の小屋に落ちたので、擦り傷ですみました」

「それは牛たちも驚いただろう。大聖堂で飼われていたら、空から人が降ってきたのだから」

「ええ、牛たちはとても迷惑そうでしたよ」

「本当にかすり傷だったのか」


 ようやくリオネルがアベルのほうを向いて尋ねる。


「藁の上に落ちましたから。それに、小さな傷は、大聖堂の司祭様が手当てしてくださいました」

「本当にアベルは無茶ばかりする」


 リオネルは〝呆れ〟を通りこして、疲れた声音だ。アベルの無鉄砲な行動を耳にしているだけで、どうやら疲れ果てるらしい。


「ああ、これでリオネルは今日一日、立ち直れないだろうな」


 やや同情する口調でディルクが言った。


「司祭とは、ビザリア様ですか」


 マチアスに問われて、アベルは軽く首を傾げる。


「名前は存じあげませんが、四十歳くらいの長身の方でした」

「それはビザリアだろうな。そうか、彼から手当てを受けたのか」


 ディルクは納得する様子だ。


「とても親切にしていただきました」

「今度、領地へ戻ったら礼を言っておくよ。やあ、しかしそれにしても、煙突掃除夫に扮して王宮に忍び込んだり、単独でローブルグ王に会いに行ったり、鐘楼から飛び降りたり、敵の大軍にたったの二騎で突っ込んでいったり……アベルには、語り尽くせない武勇伝があるね」

「なんだかリオネルが気の毒に思えてきたぞ」


 ぼそりとつぶやくレオンへ、アベルがちらと視線をやる。それから瞼を伏せた。

 今ならレオンの言葉の意味がわかる。

 これまで、いかにリオネルに心配をかけてきたか……。


 けれどこれまでのことがあったからこそ、今がある。そのどれかひとつでもアベルが実行していなければ、こうして落ち葉の上で、のんびりと皆で話をしていなかったかもしれない。

 そう考えれば、少しも後悔はない。

 後悔はないけれど、申しわけないとは思った。


「すみません……」


 小さな声で、だれにともなく謝る。

 すると、頭に手が置かれた。視線を上げれば、リオネルがかすかに笑んでいる。


「幾度もおれはアベルに救われているんだね」

「むしろ、ご迷惑をおかけしている気もしますが……」

「心配はかけさせられているが、迷惑ではないよ」


 ……あまり慰めになっていないような気もする。


「ありがとう、アベル。おれはきみに感謝しなければならないね」

「感謝なんて」

「でも、これからは自分のことを大切にしてくれ。そうでなければ、ベルリオーズ邸に戻ったらまた書庫の整理を……」

「大切にします、絶対に大切にします、自分のことが大切です」


 リオネルの台詞を遮り慌てて言うと、皆が笑った。


「よほどアベルは書庫の整理が嫌いなんだね。このまえはマチアスといっしょにやったんだろう? それなら楽勝だったんじゃないか?」

「…………」


 黙りこんだのはアベルだけではなく、マチアスも同様だった。


「ん? どうしたんだ、マチアスまで」

「家臣として少しでも私を認めてくださるなら、なにも聞かないでください、ディルク様」

「どういう意味だ?」

「書庫の整理は順調に進んでいたようだったが、なにか問題があったのか」


 惨状の現場に居合わせたはずのレオンがこのように発言したのは、本を読み耽っていたために、周囲の状況をまったく把握していなかったからだ。


「もしかして、書庫はあのままなの状態なのでしょうか?」


 おそるおそるマチアスが尋ねると、リオネルが答える。


「あのあとすぐにローブルグへ行き、戻ってからはジェルヴェーズ王子の滞在や、今回の戦いがあったからね。バタバタしていてだれも片付けてないと思うけど」


 マチアスは無言になった。


「いったい書庫はどんな状態なんだ?」


 不審げにディルクがつぶやく。すると、


「どんなふうでもかまわない」


 とリオネルは落ち葉のうえに再び寝転がった。


「……どんなふうでもいいけれど、この場所は本当に気持ちがいい」

「へえ、おれもやってみようかな」


 倒れこむようにして、ディルクが落ち葉のうえに寝転がる。その勢いで、辺りの葉が宙に舞った。


「ああ、たしかに最高だね――どんな高級な寝台よりも快適だ」

「本当ですね」


 アベルがうなずく。


「レオンも来いよ」

「おれはいい」

「気取るなよ」

「気取ってなどいない。寒いのだ」

「落ち葉の布団は暖かいから」


 そう言いながら、ディルクがレオンの手をとって強引に引き寄せる。レオンは顔から落ち葉のなかへ突っ込んだ。


 こうして、アベル、リオネル、ディルク、レオンの四人が落ち葉に埋もれるようにして寝転がることになった。

 呆れた様子ながらも、ベルトランとマチアスが彼らの姿を見守る。


 強引に落ち葉に寝かされたレオンだが、仰向けになりながら、


「ああ、これはいいな」


 と吐息した。


 皆が、目をつむって大きく深呼吸する。

 落ち葉の香りが身体中に沁みわたる。

 懐かしいようなその香りのなかに、刻々と近づく冬の匂いが混じっていた。


「こういうのを、幸せって言うのかもしれないなあ」


 ディルクが言う。


「ここでベネデットの本が読めたら、なお幸福だが」


 とレオン。


「このままだと、わたしは寝てしまいそうです」


 あたたかい落ち葉に包まれて、アベルは実際に意識が飛びそうになった。緊張感がないのは、リオネルではなく、他でもない自分自身かもしれないとアベルは思う。


「皆でひと眠りしていこうか」


 やはり冗談とも本気ともつかぬリオネルの言葉。


 北風には、北方から刻々と近づく戦いの嵐の匂いも、かすかに混ざっているようだ。

 憂うべきことは数え切れない。けれど、それでもこうして皆で共に過ごす時間は平穏で、温かく、そして優しさに満ちていた。









〈第六部 終〉

























第六部これにて完結です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。


次の第七部では、ついに(ようやく?)アベルの正体がリオネルやディルクたちに知られてしまいます。

第七部スタートまで少しお時間いただくかと思いますが、引き続きアベルたちの物語にお付き合いいただけましたら嬉しいです。


いつもありがとうございますm(_ _)m yuuHi



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