67
西の空を焼き尽くした夕陽が、ローブルグの方角へ沈んでいく。
初冬の月が、冷ややかな表情で顔を出した。
ベルリオーズ軍も、アベラール軍も、その日はファヴィエール領セルドン付近の丘陵地帯に宿営したまま動かなかった。アベルの回復を待ってのことだ。
数日は移動がままならないかと思われたが、けれど実際のところ、アベルは夜になっても発熱せず、開いた傷も大事には至らなかったため、明朝からは再びシャサーヌへ向けて旅立つことが決まった。
夕食を終えると、明朝の出立に備えて騎士らは早々に各々の天幕へ入る。あたりは冷え込んでいた。
アベルもまた、すでに布団のなかにいた。アベルの場合、リオネルの指示で丸一日横になっていなければならなかったから、特別夜になったからというわけではなかったが。
「なにか温かいものでも飲むか」
就寝前にリオネルが尋ねてくる。
「ありがとうございます。でも、自分で取りにいけますよ」
幾度も主人に飲み物を取りにいかせるわけにはいかない。アベルはリオネルの申し出を謝絶した。
「アベルは休んでいたほうがいい。今日だけはおれが行くから」
「今日だけとおっしゃいますが、昨夜だってリオネル様に蜂蜜酒を持ってきていただきました」
「そうだったかな?」
「あまりわたしを甘やかさないでくださいね、怠け者になってしまいますから」
そう言ってアベルはゆっくりと立ちあがる。むしろ一日寝ていたせいで身体が痛い。ようやく動けるようになったことが嬉しかった。
「大丈夫か」
リオネルがアベルを支えようとする。
苦笑ながらにアベルは首を横に振った。
「明日から馬に乗って再び旅を続けるのです。自分で立てないでは、どうにもならないではありませんか」
少し寂しそうな顔をしてから、リオネルはほほえんだ。
「心配症ですまない。アベルのことになると、些細なことでも心配でたまらなくなるんだ」
面と向かって言われると、アベルはどうしていいかわからなくなる。わずかに頬を染めて視線を逸らした。
「――し、心配してくださるお気持ちは、う、嬉しいです」
すると。
「気をつけて行ってくるんだよ」
真剣な様子で言われて、思わずアベルは笑ってしまう。
「すぐそこではありませんか」
「そうだね。おれも少しずつ慣れていかなければならないと思っている。……ひとりで行っておいで」
リオネルの気遣いと優しさに少なからぬ負い目を感じながら、アベルは天幕を出た。
人はまばらだ。けれどまだ起きてうろうろしている者はいる。今が好機だ。いや、今しかない。昼は人目につく。けれど真夜中になれば警備の者が目を光らせている。
それに、ひとりで天幕を出ることができるのも、今夜はこれが最初で最後だろう。真夜中に起きあがれば、リオネルとベルトランが目を覚まさぬはずないのだから。
表でジュストが立っている天幕を見つけて、アベルは歩み寄った。
「ジュストさん」
なるべく自然に声をかける。
驚いた面持ちでジュストはアベルを見返した。
「アベル、どうしたんだ? もう動いてもいいのか?」
「ええ」
「でも傷が開いたのだろう?」
「もう塞がったのです」
へえ、とジュストは納得のいっておらぬらしい様子でアベルを見つめる。
「その……、なかにクロードさんはいますか?」
「いるけれど」
「リオネル様からのご指示で、アベラール家の宿営地に来るようにとのことです」
「アベラール軍の宿営地に?」
ジュストは不思議そうな顔をした。
「明日からのことで話し合うことがあるそうです」
「そうか」
ジュストがその旨を伝えるために天幕へ入る。その隙にアベルは天幕の影に隠れた。
すぐにジュストと入れ替わりにクロードが出てくる。そのままクロードがアベラール家の宿営地へ向かうのを見届けて、アベルは短剣を鞘ごと手に持った。
そっと天幕へ身体を滑り込ませる。
――と、驚くジュストと間近で目が合った。
「ごめんなさい、ジュストさん」
「な――」
言葉は最後まで紡がれなかった。ジュストの身体はその場にゆっくりと崩れる。鞘におさめられたままの短剣の柄で、アベルはジュストの鳩尾をついたのだ。
「アベル?」
驚き立ち上がったのは、天幕の奥にいたサミュエルだ。彼は拘束されていない。アベルはサミュエルのもとへ駆け寄った。
「逃げてください」
「え――」
「こっちです」
サミュエルの手を引く。安全なところまで、サミュエルを連れていって逃がすつもりだった。けれど、手を引いたはずがサミュエルは一歩も動かなかった。
振り返れば、サミュエルの苦い顔がある。
「どうしたのですか、早く」
「これ以上アベルに迷惑はかけられない」
アベルはサミュエルの腕を引っ張ったが、相手は四つも年上の男性だ。やはり、びくともしない。
「なにを言っているのですか。あなたはイレーヌのところへ帰るのです」
「おれを逃がしたら、今度はアベルが罪人になってしまう。罪人を逃がすのは大罪だ。おれはきみを罪人にしたくない」
「あとのことは、なんとかします」
「だめだ、せっかくご領主様に信頼されているのに、こんなことをしたら大変だ」
「死んではだめです。生きて、やることがあなたにはあるでしょう? 早く……」
「いいんだ」
懸命に腕を引こうとすれば、逆にその腕を引き寄せられる。アベルはサミュエルの胸に抱かれて、身動きができなくなった。
「サミュエル」
「おれのことを――おれたちのことを、こんなに思ってくれた人がいる」
穏やかなサミュエルからは想像できぬほど、強い力で抱きしめられる。
「何度裏切っても、赦してくれた。そんなアベルに出会えただけで、おれは生まれてきてよかったと思えるんだよ。ねえ、アベル。死ぬのは怖い。でも……悪くはないよ。イレーヌやアベル……大切な人に出会えた人生だったんだから」
「ならば生きてください」
「もうおれに選ばせないでくれ。二度とアベルを裏切りたくないんだ」
「裏切ったっていいではありませんか。生きてこそ、赦し合うことも、罪を償うこともできるのですから。逃げてください」
アベルは顔を上げてサミュエルを見上げる。サミュエルの顔が滲んで見えるのが、なぜなのかわからなかった。
「泣かないで、アベル」
言われて初めて自分は泣いているのだと気づく。滲んだ視界の向こうで、サミュエルはほほえんでいるようだった。
「イレーヌが元気でやっていて、アベルがこのまま優しいご主人様のもとで働けるなら、おれは幸せだよ」
「いっしょに春の梨の果樹園を見にいくと、約束したではありませんか。美しい春を導いてくれるなら、長い冬も悪くないって……辛いことの先に希望があると、あなたの、その言葉を頼りにわたしは生きてきました」
そうか、とサミュエルがうつむく。彼が笑っているのか、あるいは泣いているのか、わからなかった。
すると、不意に冷たい風が天幕のなかへ入りこむ。
はっとして出入り口を振り返れば、よく見知った姿があった。
「リオネル様……」
まさか、もう気づかれたのか。
リオネル、ベルトラン、クロード……ディルクやレオンまでいる。倒れていたはずのジュストまで、いつのまにか起きあがっていた。
これは、いったい――。
「違うんだ!」
サミュエルが叫ぶ。気がつけばアベルは、サミュエルの背中にかばわれていた。
「アベルはおれに会いにきてくれたんだ。それだけだ。すぐに戻るつもりだった。な、そうだろう、アベル?」
アベルはサミュエルの背中を見上げる。それから、視線をリオネルたちへ戻した。
涼やかなリオネルの紫色の双眸が、こちらをひたと見つめている。ひるみそうになる心を奮い立たせてアベルは静かに告げた。
「いいえ、わたしはサミュエルを逃がすためにここへ来ました」
沈黙が天幕を支配する。
それからリオネルがゆっくりと動き、右手で天幕の出入口を開いた。
その意味を解することができずに、アベルとサミュエルは身動きせぬまま、リオネルらの行動を見守る。
「行けばいい」
アベルは大きく瞳を見開いた。おそらくサミュエルも同様だっただろう。
「盗人は我々が眠っているあいだに、ひとりで脱走した。おれたちはなにも知らない」
皆の視線がサミュエルに集まる。けれどサミュエルは未だに状況が理解できぬらしく、微塵も動けずにいた。
「どうした、行かないのか」
リオネルの声は淡々としていたが、彼の優しさをアベルは理解した。
アベルがサミュエルを見上げると、サミュエルもまたアベルを見返す。アベルは笑ってみせようとして、涙が溢れた。
「サミュエル」
「どういう、こと……」
「イレーヌのところへ行ってあげてください」
サミュエルの手をとって、そのなかに戦場でフランソワからもらった銀貨の残りと、短剣を乗せる。
「少ないお金ですがコカールまでの旅費と、いざというときの武器です」
手に乗せられたものを、サミュエルは無言で見つめた。
「……サミュエル、行ってください」
顔を上げたサミュエルが、アベルを見て、それからリオネルへ視線を移す。
「アベルは……」
「大丈夫だ」
短くリオネルが答えれば、ディルクが付け加える。
「盗人はひとりで脱走したのだからな」
それでもサミュエルはリオネルから視線を離さない。するとリオネルが告げた。
「きみは最後にアベルを裏切らなかった。――行きなさい」
サミュエルがアベルを振り返る。アベルはうなずいた。
しっかりとした腕が伸びて、再び抱きしめられる。
「ありがとう、アベル。今度会ったときは、必ず梨の果樹園へ行こう。真白な、汚れのない――そう、アベルのような花を見せてあげるから」
「いつのまにか、そんなお世辞を言えるようになったのですか?」
アベルが笑うと、抱きしめる力がゆるんで解放される。
「……ありがとう」
「元気で」
「本当に――、本当にありがとう」
小さくアベルがうなずくと、サミュエルは名残惜しげに目を細める。それから警戒する様子で、ゆっくりと天幕の出入口へと向かいはじめた。
ベルリオーズ家とアベラール家の屈強な騎士らが居並ぶ合間を、サミュエルが通る。リオネルのまえを通過したときだ。
「アベルに救われた命、無駄にしたら許さない」
低く告げるリオネルの声にサミュエルが足を止める。
ちらとリオネルを見やると、小さく頭を下げてサミュエルは天幕のそとへ出た。アベルもまたそのあとを追う。
サミュエルが振り返る。
視線が絡み合う。
アベルはかすかにほほえんだ。
なにも言わずに顔を背けたサミュエルの頬は、たしかに濡れている。それからサミュエルは、一度も振り返らずに夜の闇へ駆けていった。
サミュエルの姿はすぐに見えなくなる。
静寂があたりを支配すると、アベルはおそるおそるリオネルらを振り返った。
「申しわけございませんでした――」
けれど、すぐに言葉を遮られる。
「謝らなくてもいい」
皆の表情を見つめて、アベルはあることに思い至る。
「もしかして、最初から気づいて……?」
「どれだけアベルのそばにいると思っているんだ? これくらいの行動なら予測できる」
「エーヴェルバインでは予測できなかったけどね」
さすがに煙突を使ってフリートヘルム王に会いにいくとは思わなかった――と笑ったのはディルクだ。
呆然とアベルはリオネルの横に立つ偉丈夫へ視線を移す。
「クロードさんも……?」
「ああ、知っていたよ」
あっさりとクロードが認める。まさかと思ってジュストを見やれば、苦笑が返ってきた。
「アベルに鳩尾を突かれたくらいで気を失う程度では、ベルリオーズ家の騎士として失格だろう」
「…………」
嵌めたはずが、嵌められたのはアベルだったというわけだ。
「ごめんなさい」
アベルは深々と腰を折ろうとして、リオネルに止められた。
「あまり身体を動かさないほうがいい」
「……本当に、申しわけありませんでした」
「きっと――」
リオネルが笑う。
「きっと、これでよかったんだ」
アベルはリオネルを見上げた。
「おれはアベルの命を一度でも救った者を、処刑台に送りたくない」
アベルは言葉を失う。
「おれもだよ」
こころなしか小さな声でディルクが言った。
「彼がアベルを救った経緯は、すべてリオネルから聞いた……悪かったな」
「いいえ、わたしこそ身の程もわきまえず、失礼なことを口にしました」
アベルが謝罪すると、ディルクは微妙な面持ちになる。すると。
「よかったな、ディルク」
レオンがディルクの肩を叩いた。
「これで安心して今夜は眠れるだろう」
複雑な面持ちでディルクはレオンを見返す。
「なんのことですか?」
「ああ、こいつは昼間アベルに言われたことを気に病み――」
レオンの台詞が途中で切れたのは、ディルクに口を塞がれていたからだ。
「みなまで言うな、レオン。これでもなけなしの矜持がある」
もごもごとレオンはなにか言い募ろうとしていたが、言葉が濁っていてアベルには聞きとれなかった。
「さあ、明日は早い。もう寝よう」
普段と変わらぬ笑みを向けられ、アベルはおずおずと口を開く。
「リオネル様、あの……」
「なんだ?」
「――ありがとうございました」
まっすぐにリオネルの目を見つめる。すると、深く温かい眼差しが返ってきた。
幾度でも、リオネルの優しさに心を打たれる。
この人はどこまでも深く優しい。
今も、出会ったころと少しも変わらぬ深さで、リオネルはアベルを包みこんでくれている。
「アベルの哀しむ顔は見たくない」
リオネルはほほえんだ。
「けれど、領主としておれは失格かもしれないね」
そんなことはない、とアベルは思う。
正義を貫くだけが正しいとはかぎらない。そもそも、正しいことと間違っていることの境界線など、だれが引けるというのだ。法に定められていることが、すべて正しいのだろうか。
いわゆる〝正しさ〟だけがこの世界を支配したらならば、そこには、無機質な空間だけが残るのではないか。
けれど、その思いをアベルはリオネルに伝えることができなかった。リオネルを弁護するようでいて、実のところ自分の正しさを主張しているような気がしたからだ。
けれど、伝えないではおれない。
「リオネル様は――世界で一番素敵なご領主様です」
アベルは真剣に訴えた。
「だれがなんと言おうとも、わたしはそう思います。わたしはリオネル様のことを心から尊敬しています」
わずかに驚く面持ちになってから、リオネルはかすかな笑みをたたえる。
「ありがとう、アベル。きみにそう言ってもらえることが、一番嬉しい」
「わたしだけではありません。ベルトラン、クロードさんも、ジュストさんだってそう思っているはずです。そうですよね」
巨漢二人がうなずく傍らで、「もちろんです」とジュストがリオネルに向けて生真面目に答える。
すると、いじけた調子の声が耳に飛び込んできて、アベルはぎくりとした。
「リオネルはいいなあ、おれは世界で一番素敵な領主にはなれなかったよ」
自らの言葉が、ディルクにどのように響いたのかということにアベルは気づく。
「もちろんディルク様も同じくらい素敵です」
「いいよ、付け足しみたいに言ってくれなくても。どうせおれは一方的な男だから」
「一方的な男……?」
よく意味がわからないが、とにかく誤解は早々に解いておかなければならない。
「本当にそう思っています。付け足す形にはなりましたが、リオネル様とディルク様はお二人揃っていてこそ、素敵なご領主様だと思います」
「おれもそう思うぞ」
アベルに加勢する形で発言したのはレオンだ。
「ああ、ディルクとリオネルはいい組み合わせだ。二人とも立派な領主になるだろうな」
二人に言われて、むしろディルクは照れくさそうな顔になった。普段は軽口ばかり叩きあっているレオンに言われたので、なおさら恥ずかしかったのかもしれない。
「今日は、貴方にとってもいい日になりましたね、ディルク様」
マチアスが主人へ笑顔を向ける。ディルクは短く「まあね」と言って、視線を明後日のほうへ向けた。
その様子に口元を緩めたリオネルが、アベルの耳元へささやく。
「サミュエルが妹に再会して、今度こそ幸福に暮らせるといいね」
リオネルを見上げ、そして大きくうなずいた。
「いつかまた二人に会えるでしょうか」
ややあってから、リオネルが答える。
「ああ、きっと」
気づけば空には幾千の星。
星たちは、コカールに向けて走るサミュエルを包みこんでくれているだろう。願わくは、サミュエルとイレーヌのうえに幸いがあらんことを。
次回、第六部最終話です。