表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
384/513

66






 天幕の出入口が開く。


 サミュエルを連れてきたのはクロードだった。むろんベルトランも共にいる。

 手足が拘束されていないのを見て、アベルは安堵した。懐の深いベルリオーズ家とはいえ、罪人に対しては容赦なく厳しい。ところがリオネルの計らいだろうか、サミュエルは悪い扱いを受けていなかったようだ。


 天幕に足を踏み入れ、アベルの姿を見とめると、サミュエルは瞳を大きくした。彼はアベルのもとへ駆け寄ろうとしたが、すぐに勢いが削がれる。アベルのすぐそばにいるリオネルを警戒したようだ。


 ちらとリオネルを一瞥してから、ゆっくりとアベルのそばへ寄る。半身を起こしたアベルの傍らまできて、サミュエルはしゃがみ込んだ。


「ああ――、無事だったんだね」


 心から安堵した様子のサミュエルは、紫色の瞳にうっすらと涙を浮かべていた。


「まえに負った傷だったのです。少し開いただけで、今は平気です」

「……死んでしまうと思った」

「そんなに簡単には死にませんよ」


 アベルは笑って見せる。周囲に人がいるので話しにくいが、それでもサミュエルの無事な姿を確認することができて安堵した。


「昨夜は、本当に死んでしまうと思ったよ……」


 よほど心配してくれたようで、サミュエルは同じ言葉を繰り返す。両手でアベルの手をとり、項垂れた。


「……ごめん」

「心配してくれていたんですね、ありがとうございます」

「三年前、きみを裏切っておいて、勝手な話だよね」

「昨夜は助けてくれようとしたではありませんか」


 アベルを連れ去ろうとする盗賊の仲間に対し、「連れ帰っても死んでしまう、ここへ残していったほうがいい」とサミュエルは必死に説得してくれた。


「イレーヌのことを持ちだされて、おれはまたきみを見捨てようとした」


 話していると、天幕の出入口が揺れる。姿を現したのはディルク、マチアス、そしてレオンだ。アベルがサミュエルと話している姿に驚いたようだったが、リオネルが唇に人差し指を立てたので、だれもなにも言わなかった。

 彼らの入室に気づいていたが、アベルはサミュエルとの会話を続ける。


「立場が違えば、わたしも同じことをしていたと思います。わたしにも、何者にも代えがたいほど大切な人がいます。その人を守るためなら、だれかを犠牲にすることも厭わないでしょう」


 アベルがそう言うと、サミュエルは首を横に振る。


「きみは、そんなことはしない。おれにはわかるよ。アベルは絶対におれと同じことはしない」


 思いつめた面持ちでサミュエルは瞼を伏せていた。

 そんなサミュエルへアベルは声をかける。


「――ひとつ聞きたいことがあります」


 サミュエルはうつむいたままだ。なにを聞かれるかわかっているかのようでもあった。


「なぜ、渡したお金で借金を返して、犯罪から手を引かなかったのですか?」


 お金を渡す代わりに、もう二度と人買いや盗賊には関わらないと――必ずコカールへ戻りイレーヌを守ると、そう約束したはずだった。

 力なくサミュエルは首を振った。


「……借金が増えてた。あのときは金貨五枚と言っただろう? 違ったんだ。きみからもらった金を渡したら、金貨八枚だと言われた。足りなかったんだ」


 アベルは呆気にとられる。


「なぜ?」

「利子だとか言っていたけれど、結局やつらはおれを解放する気なんてなかったんだろうと思う。ずっと、死ぬまで働かせるつもりだったんだよ。せっかくきみからもらったお金は、すべてとられてそれきりだった」


 言葉を失う。あまりにひどい。


「……ごめん。あんなに大金をもらったのに、なんにもならなかった」


 肩を落とすサミュエルを、アベルは無言で見つめる。もし借金を返し、盗賊らと手を切ってコカールへ戻っていれば、サミュエルはここで捕らえられることもなかったのに。

 慰めの言葉を探して、アベルはゆっくりと口を開く。


「お金のことは、もういいんです。それに、今回のことであなたの悪い仲間の多くは死んだのですから、借金のことはこれでおしまいになるはずです」

「けれど、おれは捕まった。人攫い、人身売買、盗み……なんでもやってきた。コカールの街の広場で首を吊るされるのが、おれの末路だ」


 そう言うサミュエルは、口元にかすかな笑みさえ浮かべている。運命を受け入れる、儚い笑みだ。


 救ってやりたいが、今やサミュエルは罪人。むろんアベルは彼を憲兵につきだしたりはしないが、領主たる立場のリオネルやディルクが、罪人であるサミュエルを解放できるはずがない。


 沈痛な気持ちで黙りこんでいると、今度はサミュエルが顔を上げて明るい声を発した。


「それにしても驚いたな。アベルが、こんな大貴族に仕える家臣だったなんて。いったいなにが起こったんだ? アベルは騎士の生まれなのか?」


 サミュエルの変化に戸惑いながらも、


「いいえ」


 と、アベルは首を横に振る。


「コカールを離れたあと、サン・オーヴァンで彷徨っていたところ、ベルリオーズ家の方に救われたのです。それからおそばに仕えることを許されました」

「そんなことが、この世のなかで起きうるのか」

「わたしにも未だに信じられません」

「とても運がよかったんだね」

「本当ですね、私は幸せ者です」


 かすかにサミュエルが目を細める。


「――よかったね、アベル」

「だから、あなたにも幸せになってほしいのです」

「アベルのような心の綺麗な人だから、神様がちゃんと見ていて、幸運を授けてくれたんだよ。おれのような卑怯なやつには、それにふさわしい運命がある」

「あなたは優しい人です。わたしも――イレーヌもよく知っています」

「ちょっとくらい優しくたって罪人は罪人だ。そうだろう、騎士様?」


 サミュエルがちらと視線をリオネルへ向ける。リオネルは無言だったが、代わりに「それはそうだろう」と低く答えたのはベルトランだ。

 複雑な思いで、アベルはリオネルへ視線を移す。


「サミュエルはどうなるのですか?」


 紫色の瞳がこちらへ向けられた。サミュエルと同じ紫の瞳だが、リオネルはさらに深く濃い色をしていた。


「エマ領のご領主に引き渡すのが道理だろう」

「引き渡されたら?」

「裁判の結果次第だ」

「…………」


 なんとかすることはできないか。そんな言葉が出かかって、アベルはどうにか呑みこむ。

 リオネルはベルリオーズ家の領主だ。正しく、揺るぎのない姿勢を守らねばならない。

 罪人を見逃すよう説得すれば、彼は苦しむだろう。いや、けっしてそのようなことをしてはならないのだ。

 うつむくと、サミュエルの声がした。


「心配してくれてありがとう。でも、もういいんだ」


 アベルは顔を上げる。


「もちろん処罰を受けるのは怖いけど……こうして捕まって、もうこれ以上犯罪に手を染めなくてすむというだけで、おれは嬉しい。盗賊らが死んで、もう妹が危ない目に遭わないというだけで、充分に嬉しい。すべてアベルのおかげだよ」


 言葉が出なかった。

 深く長い沈黙が天幕のうちを支配すると、リオネルがそっとアベルの肩に手を添える。


「……そろそろ休んだほうがいい」


 話を切り上げる頃合いだということだ。

 アベルはサミュエルを見つめる。サミュエルは小さく笑った。


「コカールまではいっしょだろう? 話そうと思えばまた話せるよ」


 本当にそうだろうかと、アベルがリオネルへ視線を向ければ、ややあって答えが返ってきた。


「きみが望むなら」


 と。

 言葉は発せられぬまま、サミュエルはクロードによって、再び天幕のそとへ連れていかれた。




 天幕からサミュエルの姿がなくなると、入れ代わりに、片隅で立っていたディルクらがこちらへ歩み寄る。


「見舞いに来たら、起きて話しているから驚いたよ。傷は大丈夫なのか?」

「ええ、平気です」


 アベルは小さく笑ってみせた。


「ご心配をおかけしてすみません」

「あの男は昔の知り合いなのか?」


 問われてアベルはディルクを見返す。ディルクをはじめ皆はサミュエルに対して、よい印象を抱いていないはずだからだ。


「三年ほど前、エマ領のコカールでお世話になりました」

「アベルを売ろうとしたんだろう?」

「……命を助けてくれたんです。売られそうになったのは、どうしようもない事情があったからです」

「どうしようもない事情、ね」


 含みのある言い方に、アベルはどうしても、もやもやとした気持ちになる。


「貧しい者たちは日々生きていくだけで精一杯です。庶民の暮らしを実際にしてみなければ理解することは難しいかもしれませんが、家族を守るため、望まないことをしなければならないことだってあります。……一方的に彼を責められないと思うのです」

「…………」


 思いもよらない言葉だったのか、ディルクは沈黙した。

 リオネルが静かに尋ねる。


「彼にお金を渡したのか」


 どう答えたものか束の間迷ってから、結局アベルは無言でうなずいた。


「きみがお金を所持していなかったのは、彼にほとんど渡したからだったのか」

「借金のために罪を犯さなければならないサミュエルを、救いたかったのです」


 リオネルが黙ると、珍しくレオンが口を開く。


「まあ、アベルの気持ちはわからなくもないが」


 アベルは顔を上げた。まさか王子であるレオンから、その言葉を聞くとは思っていなかったからだ。


「彼は最初にアベルを助けたのだろう? なんの関係もない相手を助けるなど、そうそうできることではない。それも彼自身だって余裕のある暮らしをしているわけではなく、ましてや借金まであったんだ。それでも助けてもらったのだとすれば、今度はその何倍も恩返しをしたいと思うのが人の情というものだ」


 アベルはこくこくとうなずく。


「しかし、リオネルやディルクの気持ちもわかる。そうはいっても、盗人を解放するわけにはいかない……違うか?」


 そう言ってレオンがリオネルとディルクを見やる。

 やはり、解放してやるわけにはいかないのだろうか。

 藁をもすがる思いでアベルも二人へ視線をやるが、ディルクはなぜなのか肩を落として消沈した様子で、リオネルはというと、腕を組んでレオンとアベルを見返した。


「二人はどう思う」


 質問には直接答えず、逆に二人へ尋ねる。

 答えは明白だ。

 解放できるわけがない。

 これまで犯してきた罪に加え、アベラール家の陣地に火を放ち、ベルリオーズ軍の天幕へ侵入して盗みを働こうとした。その罪は決して軽くはない。


「つまらないことを聞いたな」


 レオンが答えると、リオネルは軽くうつむいた。

 沈黙のうちにアベルは思う。

 ……それでも、と。


 サミュエルを、コカールの処刑場で死なせたくない。

 彼を待っている人がいる。


 刺されて川に落ちた。それなのに生きていた――それだけでも奇跡だ。せっかく生きていたというのに、家族が共に暮らせないなんて。


 サミュエルが生きていることで、救われる人がいる。

 ならば。




 密かにアベルが心を定めるころ、とぼとぼと天幕の外へ出て、従者に肩を叩かれる青年がいた。


「ディルク様、そんなに落ちこまなくても。らしくありませんよ」

「いや……、今度、庶民の暮らしを体験してみようと思う」

「ディルク様が?」


 マチアスが目を丸くする。


「なにをやっているのだ?」


 続いて天幕が開き、なかから出てきたのはレオンである。


「もしかして、しょげているのか?」


 しっ、とマチアスが唇に指を立てる。


「……アベル殿から言われた言葉が、思いのほか応えているのですよ」


 小声で伝えるマチアスに、ああ、とレオンは納得いったようだ。


「ああ、あの指摘は、おれでも落ちこむだろう」

「らしくありませんけれど」

「そもそもディルクが、サミュエルとかいう者を一方的に責める口調だったから」

「ディルク様なりに、アベラール家に火を放たれたことや、アベル殿に対してされたことをお怒りになっていたのでしょう」

「まあ、その気持ちはわかるが、それぞれ事情は複雑そうだしな」


 二人がこそこそと話していると、突然ディルクが振り返る。


「全部、聞こえているぞ」


 はっとしてレオンとマチアスは口をつぐむ。ディルクが地獄耳だということを、迂闊にも忘れていたのだ。


「もういい。どうせおれは一方的だ。一方的に婚約も破棄したしな。おれは一方的な男だ」

「ディルク様……」


 そこへ、さらにリオネルが天幕から出てくる。


「皆、こんなところで突っ立って、どうしたんだ?」

「ディルクが自棄やけになっているのだ」


 答えたのはレオンだ。


「どうして?」

「金持ちには庶民の事情などわからないと、アベルから言われたからだ」


 レオンの説明に、ああ、とリオネルもまた納得の顔になった。


「アベルは大変な生活をしていたからね」

「そんなに?」

「……詳しくは聞いていないが、出会ったときはひどい状態だった。肺炎をこじらせて、瘦せ細っていたよ。お金も、住む場所もなく、食事さえできずに家畜小屋で過ごした夜も少なくなかったようだ」

「それは……」


 呆気にとられるレオンの代わりに、マチアスが言葉を引き継ぐ。


「たしかに私たちには想像できない苦労が、人々にはあるのでしょう」

「ならばサミュエルとやらは解放するのか?」


 レオンがリオネルに視線を向ける。


「いや……」


 サミュエルがいる天幕を見据え、リオネルはつぶやくように言った。


「彼を、試してみようと思う」


 皆の視線がリオネルに集まった。











評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ