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毎週土曜日でしたが、今回は金曜日で…
もしかしたら金曜日の日も増えるかもしれませんm(_ _)m
十一月の夜風は、冷たく肌を刺す。
縄で縛られたひとりの若者が、地面に胡坐をかいて座らされていた。
天幕のそばに集まっていたのは、リオネル、ベルトラン、クロード、それからディルク、マチアス、そしてレオンだった。
クロードはちょうど報告へ来たところである。
「我らの宿営地を荒らした賊は三十名ほどいたようです。そのうち大半は切り捨てましたが、数名はアンオウェルの山の方角へ逃走したため、とり逃がしました」
軽く頭を下げるクロードに、「よくやってくれた」とリオネルは言葉をかけた。
リオネルらの天幕だけではなく、夜盗は騎士たちの天幕にも侵入してなかを物色していた。アベラール軍の宿営地へ火が放たれたのは、ベルリオーズ軍の宿営地を空にするためだったのだ。
「火を放った者も、おそらく逃げているでしょう」
「しかたがない。放たれたときには、火を消すことで精一杯だったのだから」
「この者が生き残りですか」
手足を縛られ地面に座す若者を、クロードは見下ろした。リオネルも同じようにサミュエルを見下ろす。
なにか感じるものがあったのかサミュエルもまた顔を上げたので、双方の紫色の瞳がぶつかりあった。サミュエルもまたリオネルと同様に深い紫色の瞳をしている。
けれどすぐに視線を外し、サミュエルはうつむいた。
「怪我をしているのですか?」
クロードが尋ねたのは、サミュエルの衣服に血が付着していたためだ。
「いや、アベルの血だ」
回答を聞くと、多弁なはずのクロードが押し黙る。
「アベルは大丈夫だろうか」
心配そうにつぶやくディルクのかたわらでは、マチアスもまた険しい表情だ。サミュエルの服を染める血は少なくない。
「アベルはあの身体で戦おうとしたのだろうか」
ぽつりとレオンが疑問を口にする。現場にいたのはサミュエルだけだが、彼は沈黙を貫いていた。
「そうなんだろうね。アベルなら、そうするだろう。しかし頭にくるな。怪我人を連れ去って売りとばそうだなんて。なんでこいつを助けたんだ?」
ディルクが胡散臭そうにサミュエルを見やる。
「アベルに言われたからだ」
リオネルは静かに答えた。
「アベルが? なぜ」
むろんその答えは当事者しか知らない。しばしの沈黙を置いて、リオネルはサミュエルを再び見やる。けれどサミュエルはリオネルへ顔を向けなかった。
「サミュエルと呼ばれていたな」
「…………」
「三年前、病を患っていたアベルを助けたというのは本当なのか」
リオネルから問われても、サミュエルは答えずにうつむいている。
「答えないか」
クロードから厳しい声音を向けられたが、サミュエルはやはり沈黙していた。
「なんなら、縄をほどいてやるから、おれと素手で勝負するか? おれの軍の宿営地へ火を放った怒りは、それくらいでは収まらないけど」
ディルクからもまた怒りのにじむ声を向けられると、サミュエルの肩がわずかに揺れる。けれどやはり反応はそこまでで、彼の声が発せられることはない。
皆が沈黙した。
静寂のなかで、だれかが深い溜息をつく。
今、天幕のなかでは医師がアベルの治療に当たっていた。リオネルたちは、ただそとで治療が終わるのを待つしかない。
ひどく長く感じられる沈黙は、けれど、不意に破られる。
「――アベルが言っていたことは嘘だ」
突然発せられた声は、捕らわれた夜盗のものだった。はじめてサミュエルが口を開いたのだ。
皆が視線をサミュエルへ向ける。サミュエルは顔をうつむけたままだった。
「嘘とは?」
「三年前、おれはアベルを助けたんじゃない。おれはアベルを人買いに売ったんだ」
その場の空気が凍りついたのは言うまでもない。
「なんだと」
低い声を発したのはレオンだった。サミュエルは視線を逸らした。
「どういうことだ」
「……コカールで八百屋をやっていたおれのところへ、アベルは毎日、梨を買いにきた。まだ子供みたいなのに、いつもひとりで、寂しそうだったから声をかけたんだ」
「それで?」
話を促したのはディルクである。
「仲良くなった。でも、うちには借金があって、どうしてもそれを返すことができなかった。だからアベルを売って借金を返そうとしたんだ。そうしなければ、おれの妹を売らなければならなかったから」
気づけば、リオネルは両目を瞑ってこめかみを押さえており、ディルクはというと握った拳を震わせている。
「そうか、アベルを人買いに売ろうとしたのか。よくわかった」
縄をほどいてよいかとリオネルに問うディルクを、ベルトランが短く制する。
「やめておけ」
「止めるなよ、ベルトラン。一発殴らないと納得できない」
拘束された相手を殴るつもりのないディルクは、互いに同じ条件でやりあおうとしているのだ。
「こんなやつとまともに勝負したところで、時間の無駄だ」
ベルトランが目をすがめてサミュエルを見下ろすと、囚人の喉から、
「殴ってくれよ」
とひとこと声が発せられた。
「おれを殴れよ、縄はほどかなくていい」
サミュエルがはじめて自分からディルクへ視線を向ける。
「殴ってくれ、おれは最低な人間だ」
「…………」
眉根を寄せたまま沈黙するディルクに代わって、この人にしては珍しく、怒りをにじませた重たい口調で声を発したのはレオンだ。
「殴るのは今でなくともいい。我々はアベルの話を聞いていないのだから、あの子の話を聞いてなお殴りたいと思えば、そのときはそうさせてもらう」
レオンの言うことはもっともである。ゆるく息を吐き出すと、ディルクは拳から力を抜く。と、ほぼ同時に天幕の入口が揺れて、医師が姿を現した。
皆の視線がそちらへ集まる。真っ先に駆け寄ったのはリオネルだ。
「アベルは」
医師は小さく頷いた。
「止血はできました。このまま熱が出なければ回復は早いでしょう。けれど、もし発熱すれば長引きます。少なくとも明日一日は安静にして、様子をみたほうがいいでしょう」
「血は完全に止まったのか」
「ええ、幸いなことに」
「そうか」
リオネルが短く息を吐き出す。
「なかへ入っても?」
「大丈夫ですが、今は眠っています。静かに休むことができるようにしてあげてください」
「わかった、ご苦労だった。すまないが、今夜はそばで控えていてくれないか」
「むろんです」
リオネルはベルトランと視線を交わす。それからディルクのほうへ視線を移した。
「……ということだから、おれたちは二、三日ここに留まることになるかもしれない。アベラール軍は先に領地へ戻っていてくれ」
「水臭いな」
ディルクは眉を寄せる。
「こんな状況で、呑気に領地に戻れるわけないだろう」
「しかし騎士らは早く戻りたいはずだ。それに食糧の問題がある」
そう、ベルリオーズ家とアベラール家の騎士らをここで数日留まらせれば、領地に到着するまえに食糧が尽きる可能性がある。
「騎士だけ帰らせることもできる。アベルのことが心配だ」
「…………」
リオネルはちらとマチアスを見やった。マチアスは小さくうなずく。マチアスもまた、仲間を残して旅を続けたくはないようだった。
リオネルは視線を伏せる。
「ならば、このことはまたあとで話しあおう。とりあえず今は皆でアベルのところへ」
「この者はいかがいたしますか?」
クロードに問われて、リオネルは縛られている若者へ視線を向けた。
「暴れないようだったら、縄をほどいてやってくれ」
周囲に驚く気配が広がる。
「よろしいのですか」
「むろん逃がしてはならない。けれどおそらく、この者は逃げようとはしないだろう」
話は聞こえているはずだが、サミュエルはそのままの姿勢で沈黙していた。
そのサミュエルへ、リオネルの声が直接向けられる。
「アベルの回復を待って、あらためて話を聞かせてもらう」
「…………」
「クロード、彼に食事と温かい飲み物を与えてやってくれ」
「――かしこまりました」
甘いなあ、とディルクがつぶやいたが、リオネルはそれを聞こえぬふりで天幕のなかへ入っていく。ベルトランらがそれに続いた。
+++
とても長いこと、意識を失っていた感覚がある。
アベルが目覚めたのは、翌日になってから――それも昼過ぎのことだ。
寝過ぎた、と思って飛び起きようとして、けれど身体の痛みで動くことができない。痛みのわけを思い出そうとして、記憶が鮮明によみがえる。
ああ、そうだ。アベラール軍の宿営地に火の手が上がり、リオネルらが出ていったあとに天幕に夜盗が侵入してきたのだ。戦おうとして痛みが走り……。
そのあとは、本の頁をめくるように断片的な記憶しか思い出せない。
――サミュエルは。
はっとして再び起きあがろうとしたとき、耳に声が届いた。
「アベル」
わずかに諌める調子の声はリオネルだ。半身を起こして天幕のなかへ視線を向ければ、リオネルがかすかに眉を寄せてこちらへ歩み寄ってくるところだった。
「気がついたのか。――まだ動いてはいけないよ」
「リオネル様、サミュエルは」
「彼は無事だ。今は近くの天幕にいる」
……サミュエルは無事だった。
肩を撫で下ろすと、リオネルの腕が伸びてきてもとの姿勢に戻される。再び布団に横たわると、アベルは軽い抗議の視線をリオネルへ向けた。
「怪我を甘くみれば、あとで大変なことになる。今は彼のことより自分のことを心配するんだ」
返す言葉を探しているうちに、リオネルは手をアベルのひたいへ添えた。
「熱は……ないようだね」
安堵の色がリオネルの顔に広がる。
「気分は?」
「……痛みもだるさも感じません」
少しばかり強がってアベルがそう答えれば、リオネルが小さく笑った。
「思ったよりも元気そうでよかった。けれど、少なくとも今日一日は大人しく寝ていなければならないよ」
「昨夜、アベラール家に被害はありませんでしたか?」
「ああ、大丈夫だ。こちらの宿営地を空にするための騒ぎだった。まんまとはめられたわけだ」
リオネルは苦い表情だ。
「きみをひとりにして、本当にすまなかったと思っている」
「いいえ、わたしこそあのような者たちを相手に追い返せず、申しわけございませんでした」
「アベルが謝る必要はない。そんな身体で戦えるはずはなかったのだから。けれど、ひとつきみに言っておかなければならないことがある」
急にリオネルが真顔になったので、アベルは身構える。言っておかねばならぬこととやらに、アベルは思い当たるものがあった。
「昨夜、おれが剣を振り下ろそうとしたところへ飛び出しただろう」
――やはり。
あのときは考えるより先に身体が動いたのだが、リオネルは冷やりとしたはずだ。
「もう少しでおれはアベルを傷つけるところだったんだ。――だれよりも大切な相手を、この手で。どれほど驚いたか、アベルにわかるか。驚いたどころじゃない。もしきみを斬っていたら、おれはどうなっていたかわからない。もう二度とあんなことをしないでほしい」
一気に言葉を向けられてアベルは瞼を伏せた。
「ごめんなさい」
浅くリオネルが溜息をつく。
「……そんなに彼を救いたかったのか?」
アベルはうなずいた。
「サミュエルと話しをさせていただけませんか」
願い出れば、リオネルが表情を曇らせる。
「今すぐではなくともいいだろう」
「少しでいいので――お願いです」
しばしリオネルはアベルを見つめ、それから斜めに振り返ってベルトランと視線を交わす。ベルトランが右肩を上げた。
視線をもとに戻したリオネルは、ため息交じりに言う。
「あまり伝えたくはなかったのだけれど」
なにを言いだすのか、アベルは再び身構える。
「彼は、三年前アベルを助けたのではなく、人買いに売ろうとしたのだとおれたちに語った。もしそれが本当なら、おれは正直なところ、彼をきみに会わせたくない」
アベルは困惑した。事実とはいえ、なぜサミュエルはリオネルにそのようなことを告げたのだろう。自らが置かれている立場を考えれば、不利な発言以外のなにものでもないのに。
「本当のことなのか?」
再度問われて、アベルはゆっくりとうなずく。
「ならば会わせることはできない」
表情を変えずにリオネルが言う。
「そのような男を、ここへ連れてくるわけにはいかないよ」
「けれど、それだけではありません。わたしはコカールの街で病に侵され、宿の寝台に横たわって、ひとり死を待つだけの身体になっていました。そのとき、わたしの居場所を探し出し、食べ物を持ってきてくれたのがサミュエルです。彼がいなければ、わたしは死んでいました」
「そのあとなのか、彼がきみを人買いに売ったというのは」
「……はい」
沈黙が横たわる。静寂を埋めようとするように、アベルは言葉を探した。
「けれど、サミュエルは妹のイレーヌを売るように脅されていたのです。だから仕方なくわたしを……」
「妹を助けるためなら、アベルを売ってもいいのか?」
「そうではなく……実際のところ、わたしは人買いの手から逃げることができましたから」
「それは結果論だ。もしアベルが人買いの手に渡ったら、どんな目に遭わされていたか」
「サミュエルだって、喜んでわたしを売ろうとしたわけではないはずです」
「きみは――」
なにか言おうとして、リオネルが言葉を止める。続かなかった言葉の代わりに、リオネルは右手で髪をかき上げ、溜息をついた。
「どうしても話したいのか?」
うなずきを返せば、リオネルが短く息を吐く。
「わかった。ただし、我々の立ち会いのもとでだ」
え、とアベルは顔を上げる。
「立ち合いですか」
「これだけは譲れない。アベルを盗賊と二人きりで話させるわけにはいかない」
「盗賊ではありません。八百屋のサミュエルです」
「だが、今は盗賊だ」
「父親の借金があって、脅され、しかたなくやっていたのです」
「事情はともかく、だ」
有無を言わせぬ態度に、アベルは押し黙る。
「どうする?」
皆の立ち会いのもとでサミュエルに会うか、それともまったく会わないか――選択肢はその二つしかないようだった。
「……会います」
小さな声で答えれば、リオネルがベルトランを振り返り、無言でうなずいたベルトランが天幕を出ていった。