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ひたひたと近づく冬は、王都にも冷ややかな風を吹かせている。
暮色に包まれたサン・オーヴァン。
広大な王宮もまた、真紅に染めあげられていた。
「トゥールヴィル家とルブロー家が参戦したのは意外でしたね」
西日が斜めから差し込む一室に集まっているのは、国王エルネスト、ブレーズ公爵、ルスティーユ公爵、そして大神官ガイヤールだ。
夕陽の当たる場所は燃えるように明るいが、影の差した場所は対照的に濃い闇が漂っている。
「そうでもありませんよ、ルスティーユ公爵。トゥールヴィル家の現公爵フェルナン殿は、リオネル殿の叔父君。さらに、リオネル殿の側近である赤毛の騎士はルブロー家の出身です。両家とも、ベルリオーズ家とは切っても切れぬ仲です」
丁寧に説明したのはブレーズ公爵である。
「しかし、右翼からわざわざ駆けつけるとは」
ルスティーユ公爵が眉をひそめる。
「それも、あのシャルム貴族一頑なで強硬なフェルナン殿ですぞ。正騎士隊が動いていないなかでは、けっして自軍を動かすまいと思っていましたが」
「そこが、ベルリオーズ家とトゥールヴィル家の結束でしょう」
ブレーズ公爵が静かに告げると、ルスティーユ公爵は「ふうむ」とうなる。
「あるいは」
無機質なほど平らな声を発したのは、真白な衣服をまとった男だ。痩せた長身は糸杉を思わせる。
「だれかが裏で手を引いたのかも知れません」
「ベルリオーズ家かロルム家あたりが、援軍を要請したと?」
ルスティーユ公爵が怪訝な面持ちになる。たしかに両公爵家が助けを求めればフェルナンは動くかもしれないが、右翼に位置するトゥールヴィル家に対し、両家が安易に声をかけるとも思えない。
「それにしてはトゥールヴィル家が動くのは早かったと思われるが」
「おおせのとおりです。トゥールヴィル家とルブロー家が動くのは早かった」
「では、いったいだれが」
「両家の者よりもさらにトゥールヴィル家に近い人間で、だれよりも早くに情報を得たにも関わらず、現地に駆けつけることのできなかった御仁がいるではありませんか」
ルスティーユ公爵はよくわからないという顔をしたが、ブレーズ公爵は無言で眼差しをガイヤールへ向ける。
「陛下の御前ですよ」
静かに諌めたブレーズ公爵もまた、あるいは初めからガイヤールの言いたいことはわかっていたのかもしれない。
「これは申しわけございません」
すぐにガイヤールは引き下がったが、「謝る必要はない」と声を発したのは意外な人物だった。
「陛下」
「ガイヤール、そなたは正騎士隊隊長がトゥールヴィル家に援軍の要請をしたと、そう考えているのだろう」
「……おおせのとおりです」
ようやくルスティーユ公爵は意味がわかったという顔になる。
「なるほど、そうかもしれぬ」
国王エルネストは冷静にうなずいた。
「だとすれば、シュザンは懸命な策を講じたと言えよう。ユスター国境が破られていては、大変な事態であった。こうしてユスター軍の侵攻を食い止めることができたのならば、これ以上のことはない」
「しかし、それが事実ならば、シュザン・トゥールヴィル殿が余計なことをしたせいで、王弟派諸侯らは力をさほど弱めずに戦いに勝利したということになります。うまくいけば、リオネル殿の命だって――」
「ルスティーユ公爵、そなたの言うことも理解できる。だからこそブレーズ公爵も、シュザンの名を出さなかったのだろう」
ちらと視線を向けられて、ブレーズ公爵は軽く目だけで答える。
「だが、ものは考えようだ。王弟派諸侯らが総倒れになり、リオネルが命を失ったとすればそれはそれでいいが、ユスター軍が国境を超えてシャルムに侵入してきては、それこそ面倒なことになる。今回はこれでよかったのだ」
あくまでエルネストはシュザンをかばう姿勢だった。エルネストは結局のところ、かつて愛した女性の弟であり、彼女の面影を思わせるシュザンに甘い。同様に、アンリエットの遺児であるリオネルに対し強硬な姿勢をとれないのも事実だ。
舌打ちしたいのを堪える表情で、ルスティーユ公爵は軽く頭を下げる。
「ローブルグの参戦についてはどうだ」
エルネストに聞かれ、まずはブレーズ公爵が事実だけを述べる。
「ヒュッターという人物が、個人的に兵を動かしたとか」
「ヒュッター? 何者ですか」
聞いたこともない名に、ルスティーユ公爵は眉をひそめる。ブレーズ公爵が笑顔の鉄面皮のままルスティーユ公爵を見やった。
「今、配下の者に調べさせていますが、まだ詳細はわかっていません。ただ貴族でも軍人でもないようです」
「貴族でも軍人でもない男が、なぜわざわざシャルムに援軍を?」
「簡単なことです。正規軍を動かさぬ我が国を憚ったのでしょう」
「なるほど」
「――と同時に、今回参加した諸侯らの立場を守ったのです。ローブルグ国と親密だと思われぬように」
「ブレーズ公爵も、お人が悪い。そちらが相手国の本音だとお考えなのでしょう」
さあ、とブレーズ公爵は首をひねった。
「参戦の目的はなんであれ、ローブルグからの援軍がシャルムの勝利を決定づけたのはたしかです」
「なぜローブルグは動いたのでしょうな」
そう言いながら、ルスティーユ公爵はガイヤールを一瞥する。ガイヤールはゆっくりと首を横に振った。
「さて、ローブルグへ援軍を要請した者については、私も見当がつきません」
いささか含みのある言い方は、目星がついていることを現している。
「まさか、シュザ――」
「いいえ、公爵様」
ルスティーユ公爵の言葉を、ガイヤールはやや強引に遮った。
「検討がつかないと申しあげたではありませんか」
感情のこもらぬ声で言われれば、ルスティーユ公爵も口を閉ざす。
「そもシャルム国王の許しなく他国の王へ援軍を要請するなど大罪。そのような罪を犯す者の名を私は存じあげません」
ここでシュザンの名を挙げることは、エルネストの意に沿うことではない。シュザンが大罪を犯した者だなどと発言すれば、エルネストの不興を買うだろう。そのことを、ガイヤールも、そしてブレーズ公爵もよくわかっていた。
「もうよい」
エルネストが話を打ち切る。
「ともあれ、今回はこれでよかったのだ。正騎士隊の本隊は無傷でユスター軍を追い散らすことができたうえに、ロルム家やテュリー家は少なからぬ被害を受けたと聞く」
「さようでございますね」
無機質な声音でガイヤールが賛同した。が、あくまで納得のいかぬ様子なのはルスティーユ公爵である。
「リオネル殿の左腕が回復したのは誤算でしたが」
ブレーズ公爵は、笑顔の鉄面皮でルスティーユ公爵の台詞を受け流した。
「フィデール殿とジェルヴェーズ殿下はいつ西方からお戻りになるのでしょう?」
ブレーズ公爵に尋ねたのはガイヤールだ。
「戦いが終わったので、そろそろ我が領地から引き揚げてくると思いますよ」
「王妃様がお喜びになられますね」
今度の言葉は、ガイヤールがルスティーユ公爵へ向けたものだった。王妃グレースは、ルスティーユ公爵の妹にあたる。
「あれは心配症ですから。戦争に参加したレオン殿下のことも案じているでしょう」
「レオンは無事だと聞いている。王妃にはすでに伝えた」
エルネストが言った。
「ありがとうございます」
ルスティーユ公爵は頭を下げ、それから言葉を続けた。
「ところで今回も、山賊討伐の折りのように、戦いに勝利した諸侯らを王宮へ呼び寄せ、陛下自ら恩賞をお与えになるのですか?」
「そうだな、形は考えてはいないが、なにかせねばなるまい」
「ならば今度は、新年の祝いの席に呼び寄せ、恩賞を与えるというのはいかがでしょう」
「なにか考えがあるのか」
「いろいろとおもしろい余興を、ジェルヴェーズ殿下と共に考えたく存じます」
無言でルスティーユ公爵を見やってから、薄闇に染まっていく夕空へエルネストは眼差しを向けた。
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考えれば考えるほどに、迷宮に彷徨いこむ。
リオネルの想いについて考えるほど、アベルは出口の見えない思考回路へ陥った。自分の考えも、これから先どうしたらいいのかということも、アベルには定めることができない。
考えたところで答えなど出そうになかった。
けれどひとつわかること――それは、けっして結ばれることはないということ。
ベルリオーズ家の嫡男であるリオネル。
身分も家族も失い、男として生きると決めたアベル。
二人の先に、世間でいうような幸福な結末は待っていない。
ならば――。
凛として、リオネルに仕えること以外の生き方などアベルにはない。今は、そう考えるしかないのだった。
「寒くないか?」
宿営の天幕のなかで、アベルに声をかけてきたのはリオネルだ。
「ええ、大丈夫です」
戦地を発ってから十日。山間を縫うようにして険しいアンオウェルやルエルの山脈地帯を超え、ファヴィエール領に入ったころにはすでに十一月も後半に差しかかっていた。
厳しい冬が近づいている。
アンオウェルやルエルの山頂には雪が積もり、銀色に彩られていた。
大丈夫、と答えたものの、身体の芯から冷えるような寒さは厚い緞帳を張って作られた天幕のなかにも入り込んでくる。不意にリオネルがアベルの手に触れた。
「指先が冷たい」
リオネルの手は温かかった。その温もりに安堵する。
「夕飯を食べた直後には身体が温まっていたのですが」
……寝るころになると、すでに体温は下がっている。
「少し待ってて」
そう言って天幕を出ていったリオネルは、しばらくして戻ってくると木杯を携えていた。
はい、とそれを差し出されてアベルは首を傾げる。
「これは?」
「蜂蜜酒を温めてもらってきた」
湯気の立つそれを、アベルは両手で受けとる。甘い、優しい香りが立ち上った。
「……わたしのために?」
「温かいうちに飲むといいよ」
そっと、心のうちに、甘い蜂蜜酒の香りとリオネルの気遣いが沁みる。
「ありがとうございます」
アベルは両手で木杯を握りしめ、ひとくち含んだ。
「今夜はよく眠れる気がします」
「よかった」
こちらが気恥かしくなるほどリオネルは嬉しそうに見つめてくる。アベルは自分の顔が赤らむのを自覚して、うつむいた。
ちなみに、こういうときベルトランは普段よりさらに気配を消しており、完全に影のような存在と化している。もう少し存在感を出してくれたほうが、アベルは助かるのだが。
「きっとイシャスやエレンが、首を長くしてきみの戻りを待っているよ」
指の先がじんわりと温まるのを感じながら、アベルはうなずいた。
「早く会いたいです」
「風邪なんか引いていられないね」
「本当ですね。イシャスに移したらかわいそうですから」
「飲んだらすぐに寝るといいよ」
はい、とアベルは再び蜂蜜酒を口に含んだ。
あたりは静かだ。時折、警備の騎士らが低く話す声が聞こえるが、それ意外はなにもない。
ここはかつてアベルが夜盗に襲われたセルドンにほど近い場所である。おそらくシャルム国内でも屈指の治安の悪い場所だ。
かつてここを通過したときはひとりきりだったが、今回はベルリオーズ家及びアベラール家の騎士団と共にいる。深い安堵のなかで、身体も温まったアベルは眠気に襲われた。
――サミュエルは無事に借金を返して、盗賊業から足を洗うことができただろうか。
もうイレーヌとは再会できただろうか。
サミュエルが帰ってきたら、きっとイレーヌは跳び上がって驚き、喜ぶだろうな……、とそんなことを考えているうちに、かくん、と身体から力が抜ける。
木杯を落としそうになって、慌てて意識を覚醒させた。怪我を負った身体での長旅は、アベル自身も気づかぬうちに疲労と負担を強いていたのだ。
もう一度木杯を口に運ぶが、すぐにまた意識が朦朧とする。リオネルがアベルの手からそっと木杯を引き取った。
ありがとうございます、と言おうとしてうまく言えない。
するとすぐに、身体がふわりと宙に浮く。
背中にまわされた腕が、力強い。
その力強さに身体を委ねれば、次の瞬間には布団の上にそっと横たえられていた。
「おやすみ、アベル」
穏やかで、心地よい声が間近。
けれど意識が遠のきかけたとき――。
「――火だっ、アベラール軍の宿営地から、火が上がっているぞッ!」
騎士の叫ぶ声が聞こえた。