62
「平気か?」
途中で声をかけてきたのはベルトランだ。
ユスター国境を発ってから三日目。前日まではトゥールヴィル家並びにルブロー家の隊と行動を共にしていたが、今朝からはベルリオーズ家とアベラール家だけになっていた。
「もちろん平気です。心配しなくて大丈夫ですよ」
「リオネルに聞いてくるよう言われたんだ」
「…………」
そう、帰還の旅が始まってから、一時間に一回はわざわざアベルのもとへ馬を寄せ、体調を尋ねてくるリオネルへ、
「なにかあったら自分から言うので、リオネル様は兵を率いることに集中してください」
とアベルは告げたのだ。
それが、今度はベルトランを代わりによこしたのだから、心配症もここまでくればアベルもなにかを諦めざるをえない気持ちになる。
「おれの馬に乗ったらどうだ? そうすればリオネルも安心するだろう」
「そうですね……」
当初リオネルからは、ベルトランか、あるいはラザールやダミアンの馬の前鞍に乗るようにと言われていたのだが、そこまでする必要はないとアベルが断ったのだ。リオネルの不安を解消してあげるためには、そうするのが一番良い方法なのかもしれない。
「……今更ですけれど」
すでに馬上の旅をはじめて三日目。
「まあ、たしかに今更だが。リオネルは心配なのだろう。なにかの拍子に馬から落ちたりでもすれば、傷が開くどころか新たな怪我を負いかねない」
「馬から落ちることなんてありませんけれど」
アベルの乗馬の腕前は、ベルリオーズ家の名だたる騎士らに寸分も劣るものではない。
「わかっている。だが、怪我を負った身ではなにが起こるかわからない。リオネルのためだと思って、おれの馬に乗ってやったらどうだ」
返す言葉を見つけられず、結局アベルはベルトランの馬に同乗することにした。
乗っていた馬の管理をジュストに任せて、アベルはベルトランの馬へと移る。
ベルトランの大きな身体に背中からすっぽり包まれていると、安定感はあるが、体格差をはっきりと自覚させられるため、アベルは少し情けなくなる。
身体は小さくとも――どんなに怪我を負っていようとも、騎士を目指す者として堂々とひとりで馬に跨っていたかった。
が、アベルがその意志を曲げたのは、大好きなリオネルのためである。彼の気持ちを知ったからこそ、それに正面から応えることはできなくとも、心配してくれる思いに対しては真摯に応えなければと思う。
「こうしておまえが戻ってきて、安心した」
すぐ背後から声が聞こえて、アベルは視線を伏せる。行くなと訴えるベルトランを振り切ってベルリオーズ邸を出ていった夜が思い出される。
あのときの、胸の痛みも。
「リオネルの気持ちに応えなくともいい、そばにいてやってくれ」
「…………」
「それは、おまえの望みでもあるはずだ」
しばらく無言で馬に揺られていたが、アベルはそっとベルトランを振り返った。気がついたベルトランが視線を下げる。どうした、とその目は問いかけている。
「〝ただそばにいる〟――それは、ベルトラン、あなたの望みでもあるでしょう?」
しっかりと声を発したつもりが、自分でも動揺するほど頼りない声になってしまう。
「どういう意味だ?」
怪訝な声音が降ってくる。なにか答えようと口を開き、けれどアベルはすぐにそれを諦める。
あらためて口を開いたときには、力のない言葉しか出てこなかった。
「いいえ……なんでもないのです」
今度はベルトランが黙る番だった。
急に哀しい気持ちに囚われて、アベルはうつむく。
哀しくなんてない。そんなはずない。
自分はリオネルのことを、異性として愛することはないのだから。
……けれど。
この感情の正体はなんだろう。
無意味な質問をしてしまったことを後悔する。ベルトランから答えが返ってこなくてよかったとアベルは思った。
沈黙が二人を支配する。規則的な馬蹄の音が無数に重なり合い、長閑な丘陵地帯に響いていた。
不意にベルトランが声を発する。
「はっきりと否定できなくて、すまない」
うつむいたまま、アベルはほんのわずかに瞳を開く。
「貴族の家に生まれ育った者として、葛藤がないとは言い切れない」
ベルトランの言いたいことを、アベルはよく理解できた。
貴族社会に生きてきた者にとって、そして主君に仕える騎士にとって、この状況には突き崩せない大きな壁がある。
「それでいいのです」
振り返らずに、アベルはほほえんだ。
「そうでなければ、ならないのです。だから――、それでいいのです。つまらないことを聞いてごめんなさい。忘れてください」
「違う」
やや強い口調で否定されたが、アベルはゆっくりと言葉を続けた。
「あなたはそう考えていなければならないし、わたし自身もそう思っているのです。もうこの話はやめましょう」
「その質問をおれにぶつけたからには、おまえには少しでもリオネルを慕う気持ちがあるんじゃないか?」
ずばりベルトランに核心を突かれ、瞬間、アベルは呼吸が止まる。
リオネルのことを、慕っている?
異性として?
主君として?
すでに、その境界線はあまりにも曖昧だった。
「……リオネル様のことを、わたしは心から尊敬しています」
背後の沈黙が、背中に重たい。どのような言葉が続くとベルトランが予想しているのか、アベルにはわかる気がした。
「リオネル様のことが大好きです。けれど、好きすぎて、なにがどう好きなのかわかりません――それがわたしの正直な気持ちです」
ふと、沈黙の重さがやわらぐ。ベルトランの愛馬ユリウスの艶やかな鬣を、アベルはそっと撫でた。ベルトラン以外には懐かぬユリウスだが、唯一アベルだけには触れることを許してくれる。
ユリウスの毛に触れながら、アベルはぼんやりとリオネルのことを思った。
自分自身で口にした言葉が、不思議と耳に残っている。
「……さっきは否定できないと言ったが」
ベルトランの声がする。いつもは声まで仏頂面のベルトランのはずが、この日はひどく優しく響いてくるのが不思議だ。
「だれがどのように言おうとも、おれだけは味方でありたいと思っている」
アベルは小さく、小さく息を吐き出した。
「あの夜、おまえを行かせたことを後悔している。……過去を知ったから追うのをやめたんじゃない。追うのをやめたのは、過去を打ち開けさせるまで追い詰めてしまったことに、気づいたからだ」
アベルがあまりにも辛そうだったから、それ以上追うことができなかった。そう告げるベルトランの気遣いが身に沁みる。
「……優しいんですね」
振り返らずにアベルは言った。
「ならばリオネル様にも、わたしの過去をすべて伝えてくださいませんか?」
背後の空気がやや張りつめるのを感じる。どういうことだと、その空気は問いかけている。
「知られたくないのだと、思っていましたか?」
「……違うのか」
「もちろん、そのとおりです」
アベルは眉を寄せる。
「だれにも知られたくありません。いっそわたし自身、忘れてしまえたらどれほどらくになれるでしょう」
「ならばなぜ」
「リオネル様が、想いを打ち明けてくださったからです。リオネル様には、すべてを知ったうえで、ご自身のお気持ちを定める権利があります」
「知ったらリオネルの気持ちが変わると?」
「……穢された女など、だれでも忌避するでしょう?」
無意識のうちに、アベルは深くうつむく。ベルトランの目を見るのが怖くてしかたがない。それなのに、ベルトランの指先が背後からアベルの顎を掴み、強引なまでの力で振り向かされた。
ベルトランの瞳と視線がぶつかる。
その瞳には、軽蔑でも嫌悪でもなく、思った以上に強い色が浮かんでいた。
「そんな顔をするな」
「……どんな顔をしていますか?」
「傷ついた瞳をしている。見ていられないほどに」
「…………」
「悪いが、すでにリオネルには伝えた」
「え――」
伝えてほしいと言ったのは自分自身だったはずなのに、すでに伝えたのだと知ってアベルのうちに動揺が走る。途端に、背筋を冷たいものが駆け抜け、指先が震える。
彼はいつから知っていたのだろう。
リオネルの態度を思い返してみても、普段と変わったところはなにひとつ思い出せなかった。
「〝そんなことがあっていいわけがない〟と、〝だれよりも優しいアベルがそんな目に遭っていいわけがない〟と、リオネルはそう言っていた。むろん衝撃は受けていたが、襲った相手を憎みこそすれ、アベルに対する想いの揺らぎは少しも感じられなかった」
アベルは言葉を失う。
代わりに、胸の奥になにかが広がり、目の奥が熱く疼く。
ベルトランの顔も、辺りの景色も歪んで見える。
「なにも心配するな。おまえはただリオネルのそばにいて、リオネルにすべてを委ねていればいい。もう哀しむ必要はない。怯えなくともいい。おまえは今、このうえなく温かい場所にいるのだから」
堪え切れなくなった涙が一粒こぼれ落ちるのと、アベルが両手で口元を押さえるのが同時だった。馬から手を放して不安定になった身体を、ベルトランがしっかりと抱きとめてくれる。
こんなところで泣いてはいけない――。
けれど、ぽろぽろと涙はこぼれて落ちた。
「安心しろ、アベル。リオネルがいつも言っているだろう、〝大丈夫だ〟と」
アベルは両手で口を押さえたままうなずく。
うなずくことしかできなかった。
ベルトランの言葉が心に沁み渡る。
大丈夫だ。
哀しむ必要はない。
怯えなくともいい。
わかっている。守られているのは、この心だ。
――この心に寄り添ってくれる人がいる。
これ以上の幸福が、この世界にあるだろうか。
胸が震える。
嬉しい、と同時にリオネルを失うことへの恐怖は底知れない。
幸福と同じくらいに、怖い、と思った。
そのときだ。
「ああ!」
突然声がして、アベルは虚を突かれる。馬を寄せてきたのはディルクだ。
「アベルを泣かせたな、ベルトラン」
ディルクの声に反応して、リオネルがこちらを振り返る。こちらもまたすかさず馬を寄せてきた。
「アベル? ベルトラン?」
驚く様子でリオネルが二人の名を呼ぶ。
「そんなにベルトランのところが嫌なら、おれの馬上へおいでよ、アベル」
そう言ったのは、むろんリオネルではなくディルクだ。
「ち、違うんです。嬉しくて、涙が」
「嬉しい? それはまた奇怪なことを言う。ベルトランと馬に乗るのがそんなに嬉しいのか?」
「奇怪で悪かったな」
ベルトランの声が不機嫌に響いた。
「気に障ったらごめんよ、悪気はなかったんだ」
人好きのする笑顔でディルクが言えば、ベルトランも口をつぐむ。
「そんなにいいことがあったのか?」
すぐ横に馬を並べたリオネルから問われ、アベルは慌てて頬に残る涙を手の甲で拭う。
「え……ええ、まあ」
「おれには言えないこと?」
こくこくとアベルは幾度もうなずく。するとリオネルが笑った。
「そうか」
「ご、ごめんなさい」
「いいよ、アベルが嬉しいなら、理由はなんだっていい」
そう言ってリオネルはハンカチを差し出す。戸惑ったが、結局アベルはそれを受けとった。上質なハンカチは、指先に触れる絹の感触が柔らかくて気持ちいい。頬に当てると、あたたかかった。
「おれは、そんなに嬉しいことがあったなら、ぜひ聞きたいけど」
顔をのぞきこんできたのはディルクだ。
「しつこいやつだな」
と言ったのは、いつのまにかそばに来ていたレオンだ。
「アベル、こういうしつこい種の人間は相手にしなくていいぞ」
「おまえは知りたくないのか、レオン」
「人には人の事情がある」
「妙に物わかりのいいふりをして、どうしたんだ?」
「〝ふり〟とはなんだ、おれは生まれながらにして物わかりがいいほうだ」
「へえ」
「気のない返事はなんだ」
二人がやいのやいのやっている脇で、リオネルがアベルへ視線を向ける。
「ベルトランの馬に乗ってくれたんだね」
「あ、ええと……、はい」
先程から曖昧な返事ばかりするアベルに、リオネルは微笑した。
「ありがとう」
どう答えてよいかわからず、結局アベルは小さくうつむく。
「まだ旅は長い。できればシャサーヌまでだれかの馬に乗っていてくれたら、おれは安心していられるのだけれど」
「そう、しようと思っています」
ぎこちないながらも返事をすれば、リオネルがわずかに目を見開く。それから目を細めて再び「ありがとう」と言った。
人に頼らない――頼れない性格であるはずのアベルが、どれほど妥協しているのかがリオネルにはわかるからだろう。
リオネルはしばらくアベルを乗せたベルトランの馬のそばに留まり、そこへディルク、マチアス、そしてレオンも加わって、一同は賑やかにベルリオーズ領シャサーヌを目指した。
誤字脱字をお知らせくださり、ありがとうございましたm(_ _)m yuuHi