38
さわやかな風が、夏の匂いを含んでいる。
青い空には、薄い雲が白いヴェールのようにかぶさり、全体的に淡い水色に見えた。
緑の匂いが立ちこめる濃い木々のあいだを駆け抜け、青年二人は王宮からベルリオーズ家別邸に到着した。館の前庭で馬から降りた貴公子然とした青年らは、シャルム王国の王子レオンと、リオネルの幼馴染みディルクである。
あらかじめ来訪を知らされていたジェルマンが、玄関の階段を降りたところで、女中や使用人らと共に丁重に頭を下げた。
「レオン王子殿下、ディルク様、ようこそおいでくださいました」
レオンは軽く手を上げて応え、ディルクは笑顔を返す。
「ジェルマン、久しぶりだね。きみの主人がなかなかおれをこの館に呼んでくれないから、こんなに間が空いてしまったよ」
「ディルク様、お元気そうでなによりです。お会いするのは一年ぶりでしょうか」
「最後にここに来たのは……そうだね、去年の夏前だったね。春節祭のときだったかな?」
ディルクと気軽に言葉を交わしてから、ジェルマンはレオンに向きなおり、少し緊張した面持ちで再び腰を折った。
「レオン王子殿下におかれましては、初めてお目にかかります。私は、王都におけるベルリオーズ家別邸の執事を務めるジェルマンと申します。なにか御用などがございましたら、なんなりとお申しつけくださいませ」
かしこまるジェルマンの肩に、ディルクが手を置く。
「ジェルマン、そんなに硬くならなくて大丈夫だよ。気さくなお方だから」
最後にちらりと視線を向けてきたディルクを、レオンは微妙な面持ちで見返した。
恐縮するジェルマンに案内されて、二人は館の正面扉をくぐる。
「主は庭のほうにおります。どうぞこちらへ」
大理石の豪華な大広間を突きぬけ、庭園に続くバルコニーへ出ると、その階段を降りたところに、リオネルと若い女中が一人立っていた。
ディルクはリオネルに声をかけようとしたが、その腕のなかにあるものを目にして、言葉を呑み込む。
二人は、ジェルマンがリオネルを呼ぶまで無言のままだった。
「リオネル様、お客様がご到着されました」
この日は、月に一度の稽古が休みの日。
振り返ったリオネルの腕には、小さな赤ん坊が白い布にくるまれ、大きな瞳を開いていた。女中も振り返り、二人に深々と頭を下げる。
「レオン、ディルク。早かったね」
笑顔のリオネルに、二人はもの言いたげな顔を向けた。
「リオネル……」
戸惑いを滲ませた声音でディルクは言った。
「おれは、おまえとは長いつきあいだけど……まさか、隠し子がいたとは……」
レオンも片手で頭を押さえる。
「おまえは見かけによらず、手が早いのだな。兄上でさえ、まだ子はいないのに」
「真面目そうに見えるやつほど、意外な面があったりするのかも」
「リオネルはその部類だったのか」
「しかし……あまり、リオネルに似ていないな」
「この子がベルリオーズ家の跡取りになるのか」
「天下のリオネル・ベルリオーズ様の寵愛を受けた女性はだれなんだ?」
口々に勝手なことを言う二人に、隣にいたエレンはあたふたしはじめたが、リオネルは慌てる様子もなく、どこか憂いを含んだ笑みを見せた。
「この子は、おれの子ではないよ」
当然二人は、赤ん坊がリオネルの子供だと本気で思っていたわけではない。
「それで? だれの赤ん坊なんだ? まさか、拾ってきた猫の子ではないだろう」
「……ベルトランの騎士見習いになった子の、弟だよ」
リオネルは笑顔を消して、庭の白い砂利道で剣を打ち合わせる二人へ視線を向けた。
さきほどから絶え間なく剣を打ちあう音が庭園に響いている。
花壇や池の周囲を囲う広い通路で、見慣れた長身の男と、華奢な金髪の少年が長剣を振るっていた。
レオンは珍しそうに赤ん坊をのぞきこむ。
「弟を連れた騎士見習いか」
「かわいいだろう」
リオネルは、赤ん坊の頬に人差し指を触れて言った。
「……赤ん坊なんて、ほとんど見たことがない」
「天使みたいだよね」
目尻を下げた顔で赤ん坊を抱くリオネルをまえに、二人は複雑な面持ちになった。さっきは冗談で〝隠し子〟と言ったが、リオネルの様子は、まるで本当に我が子に接しているようだ。
「リオネル、おまえ……」
「なに?」
「本当にその子の父親ではないのか」
レオンの冗談とも、真面目ともつかぬ質問に、リオネルはかすかにほほえんで言った。
「……残念ながら」
近くで会話を聞いていたエレンが、ひとつ咳払いをする。
「この子はイシャスというんだ。イシャス、ほら、こっちがレオン、そしてこれがディルクだよ。二人ともおれの友人だ」
赤ん坊に紹介され、レオンは笑おうとして、なんとも言えない表情になったが、ディルクは明るい笑顔をつくった。
「よろしくイシャス。これから、きみのお兄さんに挨拶してくるよ」
「ディルク、そのまえに話しておきたいことがあるのだけれど」
そう言いながら、リオネルは赤ん坊をそっとエレンの手に預ける。
「なに?」
「実はこの冬、二人が路頭に迷っているのを、おれが助けたんだ」
ディルクとレオンは、目を丸くした。
「路頭に迷っていた? 二人は貴族の子ではないのか?」
リオネルほどの身分の者に仕えるのだから、当然貴族の、しかもベルトランのように遠縁から連れてこられた者だと二人は思っていた。
「おれは、二人の出自を知らない」
「…………」
レオンとディルクはそろって口をつぐむ。身元のわからない者を、高貴な者が騎士見習いにつけ、そばに置くというのは通常考えられないことだ。リオネルたちはともかく、一般的に貴族社会では貴族の血を引かない者は人間扱いされないといっても過言ではない。
「どうしてこの子たちを引き取って、しかもおまえの身辺警護にって思ったの?」
「それは……」
リオネルは、どう答えていいかわからなかった。
二人を自分の手で守りたいから、というのが本音だったが、この返答では、理屈が逆になってしまう。少なくとも対外的には、リオネルは守る立場ではなく、守られる立場にあるはずだった。
それに、なぜ守りたいのかと問われたら、さらに返答に窮することになるだろう。
「……会えば、わかるよ」
リオネルはようやくそう答えた。
エレンにはイシャスを連れて室内へ戻るように命じ、リオネルは友人らを庭園内に案内する。
三人の青年が近づくと、稽古をしていたベルトランとアベルは、寸時に剣を下ろして一礼した。二人とも今まで立ちまわっていたにも関わらず、さほど息が切れていない。
レオンとディルクは、今しがた目にした少年の技量と、その疲労を感じさせない姿に驚かされた。
「練習中にすまない」
よく通るリオネルの心地よい声が、静かな庭園に響いた。
リオネルはアベルの背に軽く手を当てて一歩前へと進ませる。
「ベルトランの騎士見習いになったアベルだ」
紹介されて、アベルはあらためて青年二人に向かって頭を下げた。
「こちらは、おれの従騎士仲間で、シャルム王国の第二王子であるレオン殿下」
アベルは、目を見開く。
「王子殿下……」
国境周辺の伯爵家の娘であったアベルが、この国の王族を目にする機会などあるはずない。生まれて初めて目にする王子と、こんなに近くで会話を交わすことになるなど、夢にも思っていなかった。
「お目にかかれて光栄です、殿下」
アベルは丁寧に頭を下げる。
「よろしく」
レオンは、短く答えた。
「別に緊張することないよ。ほら、王子といっても普通の人間だし」
アベルに気さくに声をかけてきたのは、その隣にいた、やわらかい薄茶色の髪と同じ色の瞳の青年。アベルがそちらに顔を向けると、リオネルが続いて紹介した。
「こちらが、おれの幼馴染みで、同じく従騎士仲間のディルク・アベラールだ」
リオネルの声音はいつもと変わらないのに、この瞬間、息ができなくなるほどの衝撃がアベルの全身を駆け抜けた。
大きく見開かれた水色の瞳は揺れて、初夏の陽の光を映しきらめく。
全身は強張り、髪の毛一本さえ揺らすことができない。
ディルク・アベラール。
たしかにリオネルは、そう言った。
まさか、こんな場所で、こんな形で出会うなんて――。
その名は、アベルにとってなによりも特別なものだった。
かつて自分は十年以上ものあいだ、ディルク・アベラールの婚約者だった。
物心ついたころから、想いつづけてきた相手。この人の妻になることが、幼いシャンティにとっては、将来の夢であり、人生の全てだった。
けれど嵐の日に事件は起こり、因果は不明だが婚約は破棄された。
全ては脆く、たやすく崩れ去っていった。絶望の淵にあって、かつてシャンティが見た夢も、いつしか、どこかに置き去りになっていた。
けれど今、アベルの目の前に彼はいる。
この人と自分は結ばれるはずだったのだと思うと、胸の奥がひりひりする。
ディルク・アベラールは、アベルが想像していた以上に、優しげで美しい青年だった。
それに引き換え、今の自分は男装し、本来の名を捨て、〝アベル〟として対面している。
こんなふうに、出会いたくなかった。
美しいドレスを身にまとったシャンティ・デュノアが、婚約者としてディルクのまえにいるはずだった。それが、シャンティがかつて夢見た瞬間。
「綺麗な金色の髪だなあ」
思いがけない褒め言葉に、心が揺れる。感情が溢れそうになるのを、人差し指に親指の爪を立てることで耐えた。
ディルクからの褒め言葉は、嬉しいはずなのに、とても哀しく響いた。
もし、婚約者として会っていたら、同じことを言ってくれただろうか。
ふと、心のなかに疑問がわく。
なぜ――なぜ、ディルクは婚約を解消したのか。
シャンティの身に起こったことと、関係があるのだろうか。
本人は目の前にいるが、投げかけることができるはずもない質問だった。
「瞳は水宝玉みたいだ」
ディルクは一言も発せられないでいるアベルの目をのぞきこむ。
「リオネルでさえ完敗だね。これほどの美少年を見たことがないよ」
高鳴る心臓をどうにか抑えようと、アベルは両手を強く握った。ディルクの言葉に、頬が紅潮していくのが自分でもわかる。
アベルの変化に気がついて、リオネルがその顔を見つめた。
「……はじめまして……ディルク様」
うつむいたまま、ようやく小声で挨拶したアベルに、ディルクは優しげな笑顔を向けた。
「はじめまして、アベル。よろしくね」
そしてリオネルに向き直って言う。
「会えばわかるって言った意味が、理解できたよ。こんな子だったら、おまえの周りにいても、だれも文句を言えないだろうね」
レオンが腕を組みながら、うなずく。
「ベルトランとあれだけ撃ち合えるなら、たいしたものだろうな。容姿に似合わず、手強い用心棒になりそうだ」
リオネルを守る精鋭が増えたと知ったら、兄のジェルヴェーズはどんな顔をするだろうと、レオンは内心で小さくため息をついていた。
リオネルはアベルの様子を気にしながら言う。
「ディルクとレオンがあまり褒めるから、戸惑っているようだけど」
「そんなことは……」
アベルは顔を上げられないまま、首を小さく横に振った。
「リオネルはアベルの身元を知らないと言っていたが、なぜなのだ?」
レオンに問われて、アベルの頭は真っ白になる。うつむいて沈黙しているアベルの代わりに、リオネルが口を開いた。
「いいんだ……どこの、だれでも」
レオンはそれ以上聞いてこない。リオネルの声音には、聞く者になにか感じさせるものがあったからだ。
「稽古を中断させてしまって、すまなかった」
リオネルはアベルに微笑を向けてから、ベルトランには目配せをして、友人らを館のほうへうながした。
ディルクが残念そうに言う。
「せっかく騎士見習い殿とお話しできたのに、もう終わりかい?」
「稽古中だから」
「…………」
さっさと歩きだすリオネルのあとを追いかけながら、レオンはディルクを振り返る。
「しつこくすると、もう二度と呼んでもらえないぞ」
「……それもそうだね」
ディルクは肩をすくめた。
「またね、アベル。あとで休憩の時間があれば部屋においでよ」
アベルは未だ心臓の早鐘を抑えられないまま、館のほうへ戻っていく三人の後ろ姿にぎこちなく一礼する。
「アベル、続けるぞ」
ぼんやりしているアベルの背中に、ベルトランの声が投げかけられた。
「……はい、ベルトラン様」
「まえから気になっていたが、呼び方は〝ベルトラン〟でいい」
「えっ、そういうわけには――」
「おまえはおれと同じ立場になるのだから、敬称をつけるのはおかしいだろう」
「今はあなたの騎士見習いです」
「あいかわらず頑固だな。今後、おれの名に〝様〟をつけたら、稽古をつけないぞ」
ベルトランは、リオネルでも言い負かすことのできないアベルとまともに言い争う気になれず、やや強引な物言いをした。
アベルは一瞬面食らったが、寸秒後にはふふと笑みを零す。この瞬間、ようやくアベルのなかでレオンやディルクと対面した緊張が解きほぐれはじめた。
「わかりました、ベルトラン。どうか、わたしに稽古をつけてください」
「……ちゃんと言えるじゃないか」
かすかに口角を上げてベルトランは剣を抜き払う。
リオネルの目配せの意味を察したベルトランの稽古は、その日の夕方まで続いた。
休憩は館のなかには戻らず、その場で腰を下ろすのみ。こうして、アベルに再び会うことなく、ディルクとレオンは騎士館に戻っていった。