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広い青空に、厚みを感じさせる濃色の雲が浮かんでいる。
ときに強い風が吹けば、木の葉が落ち、舞い上がり、雲は流れ、あたりは突然暗くなる。
けれどまたしばらくすれば雲は流れ、十一月のやわらかい日差しがベルリオーズ邸の庭に降りそそいだ。
あちこちへ転がる木の葉を追いかけるイシャスは、あたりが明るくなったり、暗くなったりするたびに、足を止めては空を見上げる。
「ほら、こっちにたくさんあるぞ」
長身を屈め、両手で木の葉を掴み上げたのはクレティアンだ。空を見上げていたイシャスは顔をもとの位置に戻して、クレティアンのほうまで笑顔で駆け寄ってくる。
「コウシャサマ、ありがと」
クレティアンの足もとまでくると、イシャスは膝まで落ち葉に埋もれさせながら、はしゃいで歩きまわる。
「はっぱのおふろ、はっぱのおふろ」
「そうか、そなたの目にはそう見えるか」
穏やかにほほえむクレティアンは、以前よりだいぶ顔色がいい。
「どうだイシャス。風呂に入って身体は綺麗になったか?」
問われてイシャスは自分の身体を見下ろす。膝から下は見えないが、服も、小さな外套も、落ち葉だらけだ。綺麗になったどころか、ひどく汚れている。
けれどイシャスは満足げにうなずく。
「うん、コウシャサマ、きれいにないました」
たどたどしいながらも、イシャスは時折、大人の真似をしてクレティアンに対し敬語を使うようになっていた。が、「なりました」のあたりが、まだ上手く言えない。
クレティアンが首を傾げる。
「そうか?」
「はっぱのようふく、きれいでしょ」
イシャスが両手を広げて見せれば、周囲からくすくすと笑い声が上がる。笑ったのはイシャスの世話係りであるエレンや、護衛の騎士らである。
オリヴィエは普段どおりの執事らしい鉄面皮だったが、皆から一拍遅れてクレティアンも口元を笑ませた。
「なるほど、ああ、言われるまで気づかなかったがたしかに綺麗だ」
「コウシャサマも、はいっ」
イシャスが、両手に抱えた落ち葉をクレティアンに向けて放り投げる。
「ああ!」
だれかが叫んだが、すでに落ち葉はしゃがんでいたクレティアンの上方から盛大に舞い落ちていた。
クレティアンの髪に、手に、服に、靴に、落ち葉が張り付く。
「まあ、イシャス。なんてことを」
蒼白な顔でイシャスに駆け寄るエレンに、「よいのだ」とクレティアンは片手を上げた。
「申しわけございません……」
深くエレンが腰を折るのを、イシャスは不思議そうに見ている。
「よいと言っているだろう」
相手がジェルヴェーズであったら斬られていたかもしれないが、落ち葉をかぶったのはクレティアンだ。
「落ち葉に飾られた服も悪くない。宝石や絹で飾り立てられた礼服よりも私は好きだ」
恐縮した様子でエレンが下がるのを、じっとイシャスは見つめていた。
「イシャスは賢い」
ぽんとクレティアンは大きな手を、小さなイシャスの頭の上に置く。
「この子は、エレンが慌てていることを、しっかりと感じとっている。なにがいけなかったのか、なぜエレンが困っているのか、今、懸命に考えているのだろう」
だれもなにも答えなかったが、イシャスはエレンに向けていた瞳をクレティアンへ移した。
「ああ、リオネルがそうだったからわかるのだ。周りの様子や、人の気持ちに敏感な子で、あまりに多くのことがわかりすぎていたのだろう。はしゃぐところがなく、イシャスのように無邪気に遊んでいたのも幼いうちだけだった」
澄んだ青灰色の瞳が、クレティアンをまっすぐに見つめる。
「気にすることはない、イシャス。もっと私に落ち葉をかけてくれ。そなたよりも洒落た服になりたいから」
クレティアンがそう言えば、まだしばらく考える顔つきだったものの、ややあってイシャスが破顔する。
「はあい、どうぞ!」
先程よりも大きな落ち葉の束を抱えあげ、イシャスは躊躇なくクレティアンへ投げる。落ち葉まみれになったクレティアンがにやと笑った。
「よし、そなたにもかけてやろう」
長身のクレティアンが抱えれば、イシャスよりもよほど多くの落ち葉が持ち上がる。それを頭からかぶせてやれば、きゃあきゃあとイシャスは喜んで駆けまわった。
その様子を、クレティアンは目を細めて見つめる。
――ユスター軍との戦いの勝利、リオネルの左腕が動くようになったこと、そしてアベルが怪我から回復したとの報は、すべて数日前にベルリオーズ邸へ届いていた。
その日から徐々に、クレティアンの容体は回復へ向かっている。
病は気からとはよくいったものである。心と身体は切っても切り離せぬ関係にあるようだった。
とはいえまだ完治したわけではない。クレティアンは時折、咳き込んでは、深呼吸を繰り返している。まだイシャスの相手をするには早いのでは、と周囲は心配したが、それでもクレティアンは久しぶりにイシャスに会いたいと、こうして前庭の木立で遊ぶこととなったのだ。
舞い上がった枯れ葉がすべて地面へ落ちると、イシャスがクレティアンのほうへ駆け寄ってくる。
「コウシャサマ、はっぱ、もっともっと」
そばへ寄ってきたイシャスの前髪に、薄茶色の落ち葉が一枚引っかかっている。アベルによく似たやわらかな金糸の髪に手を伸ばして、クレティアンはそれを取ってやった。
「イシャス、よかったな。アベルは元気になったそうだ」
うん、と大きくイシャスはうなずく。
「いつもどるの」
「そうだな、あと半月のうちには戻るだろう」
「ハンツキ?」
「そなたが十五回寝たら、だ」
十五回、と聞くとイシャスは目をまたたいてクレティアンを見つめる。それからぱっとエレンのほうへ駆けていき、エレンのお仕着せのドレスの裾を掴んで言った。
「ねる」
「えっ?」
もう一度、同じ言葉を繰り返して、イシャスはエレンの服を引っぱった。
「ちょっと待って。今から寝るの?」
「じゅうごかい、ねるの。アベルかえってくるから」
呆気にとられているエレンをよそに、周囲には温かな笑みが広がった。クレティアンがイシャスの頭を撫でる。
「言い方が悪かったな。ならば、十五回ほど夜が来て、同じ数だけ朝になれば、アベルやリオネルらは戻ってくるだろう――それなら、わかるか」
ややうつむき加減に考えこんでから、イシャスは顔を上げた。それからクレティアンを見返し、こくんとうなずく。まだしばらく会えぬと知っても弱さを見せぬその様子が、アベルにとてもよく似ている。
「そうか、やはりそなたは賢いな」
孫をまえにしているかのごとくクレティアンは目尻を下げた。
「ではもう一度、枯れ葉をかけてあげよう。どっちがたくさん持てるか競争だ」
両手を広げながらイシャスは落ち葉のなかへ走りこむ。と、両手で掴もうとした瞬間、不意に吹き抜けた冷たい風にさらわれ、茶色い葉は音を立てて流れていく。
「公爵様、寒くなってきました。そろそろなかへ戻られては」
オリヴィエが控えめに進言したが、クレティアンは静かに首を振った。
「もう少しこうしていたい」
そう言って、逃げようとする葉を素早く両腕に抱え、はしゃぐイシャスの頭上へ降らせてやる。ベルリオーズ邸の秋空に、楽しげな笑い声が響いた。
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祝勝会を終えた翌日から、徐々に諸侯らは戦地を引き揚げ、自領に戻りはじめた。真っ先に帰還したのは、ヒュッターの名代としてローブルグから駆けつけたエーリヒ・ハイゼン率いる一隊である。
「ローブルグ王に、恋文の返事は書いたのか?」
にやにやしながら尋ねるディルクを、レオンは完全に無視したが、旅立つエーリヒ・ハイゼンが自ら携えている少量の荷物のなかには、実のところ一通の手紙が入っていた。
むろんレオンがローブルグ王フリートヘルムに宛てた書状だ。
それには、ベネデットの本の礼以外にも、今回の戦いにおいてシャルム側に加勢すると決断してくれたことへの謝意が記され、さらに、自分は「貴方の」レオンではないと、さりげなく付け加えられていた。
その手紙は、エーリヒ自身は不本意だったかもしれないが、曲がりなりにも一国の王子から自国の王に宛てられたものであるため、家臣には委ねず彼自身が大切に、そして慎重に持って帰るつもりのようだった。
ロルム公爵やリオネルらの感謝の言葉に、淡々と一礼して、エーリヒ・ハイゼンの軍はユスター国境を去った。
続いてエルヴィユ家、ヴェルナ家、ギニー家、ムーリエ家と、多くの諸侯らが離れていくなか、トゥールヴィル家、ルブロー家、そしてベルリオーズ家とアベラール家もまた戦地を発つ日が来た。
「この地が守られたのは、皆様方のご助力の賜物です」
ロルム公爵は馬上の諸侯らに向けて言う。
「いいえ、だれよりも勇敢に戦ったのは、ユスター軍の侵攻当初から戦わねばならなかったロルム家やフランソワ殿率いる騎士らです。シャルムの国境を守ってくださったこと、私たちのほうこそ感謝いたします」
リオネルの言葉に、ロルム公爵は目を細めた。
「ありがとうございます。そのお言葉で苦労が報われた気がいたします」
ロルム家は多くの家臣を失い、また、未だ多くの負傷者が苦しんでいる。
「一刻も早く負傷された方々が回復することを祈っています」
「お心遣い感謝いたします。リオネル様には真っ先に駆けつけていただいたうえに、心身ともに多大に助けられました。このご恩は生涯忘れません」
それからリオネルの隣に並ぶ騎士へ、ロルム公爵は視線を向けた。
「トゥールヴィル公爵におかれましても、遠方より参戦いただき、そのうえ最後までご家臣をお貸しいただき誠にありがとうございます」
国境周辺の警備のため、フェルナンは自らの兵士を数十名この地に残しておくことにしたのだ。
「いいえ、お役に立てれば光栄です。また落ちついたら晩餐会でも開きましょう」
「楽しみにしています」
諸侯らが別れの挨拶を交わす一方、アベルのもとへはフランソワが声をかけてきた。
「少年、具合はどうだ」
責任を重く感じているらしいフランソワは、相変わらずアベルの体調を気にかけていた。
「すっかり元通りです」
笑顔で答えるアベルに、フランソワはじっと眼差しを注ぐ。それから軍人らしい淡々とした喋り方のなかにも、優しさと配慮を織り混ぜた声音で言った。
「あれほどの怪我を負って半月で完治するわけがない。身体を大事にしなさい」
はい、とアベルが素直にうなずいたその直後、前面にいるロルム家の兵士らのなかからひとりの痩せた男がこちらへ駆け寄ってくるのに気づく。
その顔に、アベルは見覚えがあった。
「あなたは――」
目前で足を止めた男は、いつかフルティエールの食堂で会った若者だ。
「無事だったんですね、ブリュノさん」
彼は今、無傷でアベルのまえに立っていた。
「覚えてくれていたのか」
ブリュノはおずおずと声を発する。
「……まさか、あんたがベルリオーズ家の騎士だったなんて」
「まだ従騎士です」
「どっちでもいい、驚いたよ」
「驚かせてすみません」
笑顔を添えてアベルが謝ると、ブリュノは微妙な面持ちになった。
「……あのとき、あんたに誘われていなかったら、おれはずっとあの街から出ることができなかった。あのままだったら、戦いが終わったことを知っても、おれはどこへも帰れなかった。まったく違う人生を歩むことになっていただろう。だから……感謝してる」
「きっと――」
周りの音にかき消されて、アベルの声が聞こえなかったらしい。
「え?」
とブリュノが顔を傾ぐ。心持ち大きな声で、アベルは言いなおした。
「――きっと、わたしが声をかけなくても、あなたは戦場へ戻っていましたよ」
途端にブリュノが瞳を大きくする。それからすぐに、もとの自信のなさそうな顔つきに戻った。
「おれは……」
「わたしはきっかけを作っただけです。翌朝、待ちあわせの場所に現れたのは――戦場へ戻ると決断したのは、あなた自身ではありませんか」
「…………」
「無事でよかったです」
話していると、横から名を呼ばれてアベルは振り返る。行くぞ、とベルトランが目で合図していた。
ブリュノやフランソワに別れを告げ、アベルは馬に跨る。
たったひとりで来た道を、これからは皆で戻るのだ。
――ベルリオーズ邸へ。
イシャスやエレンが待つ……、リオネルの生まれ育った場所であり、今やアベルの故郷ともいえるあの場所へ。
ロルム領を去っていく騎士団の馬蹄の音が、あたりに響きわたる。
ロルム領の真東に隣接するリシェ領を通過したあたりで、北上して左翼へ戻るベルリオーズ家とアベラール家の騎士団は、東へ直進して右翼へと向かうトゥールヴィル家及びルブロー家の騎士団と別れたのだった。
いつもお読みくださりありがとうございます。
あと6~7回ほどで第六部終了予定です。凱旋中にもう一波乱あります。
よろしければ最後までお付き合いいただけましたら幸いですm(_ _)m yuuHi