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――レオンが会場へ降りてきたのは、さすがに祝勝会に一度も顔を出さないのはまずいだろうと思ったからだ。
しかし会場に足を踏み入れてみれば、リオネルやディルクはトゥールヴィル家やルブロー家の者らと、和気藹々と話している。自分から王弟派諸侯らのあいだに入っていくのも億劫なので、レオンは会場の壁にもたれかかって葡萄酒をちびちびとやっていた。
そこへすっと現れたのは、異国――さらにいうなら宿敵として長年対立していたローブルグの騎士隊長だった。
「レオン殿下であらせられますね」
軍人らしい、無機質なほど淡々とした口調で相手が確認してくる。
でかい図体だな、と思いながら、レオンも愛想なく答えた。
「そうだが」
レオンがこの男を胡散臭そうに見たのは、なにか嫌な予感がしたからだ。だが、相手もまた胡散臭そうにレオンを見ていた。
「私はエーリヒ・ハイゼンと申します」
形ばかり長身を折り曲げると、エーリヒは一冊の本をレオンへ差し出す。
「陛下よりお預かりした物です」
本の表紙には、小難しい題名とベネデットの名が記されていた。途端にレオンは瞳を輝かせる。
「これは……!」
「レオン殿下に差し上げるとの仰せです」
「いいのか? これはベネデットの著作のなかでも、滅多に写本が手に入らない一冊だ。いや……もしかすると、これは原本か? ベネデットその人が書いた、直筆の本か!」
「私にはよくわかりませんが、とにかく受けとっていただかなければ困ります」
「ああ、触ってもいいものか、ためらわれる。おまえはよく平気で触れるな」
「…………」
エーリヒの動かぬ表情のなかにも、わずかな戸惑いが走る。
おそるおそる手を伸ばしたレオンは、『現象学的還元と意識作用についての考案』と表題の記された分厚い本に触れた。エーリヒの手から本を受けとったその手は、細かく震えている。
「なんて素晴らしい――今日は人生で一番嬉しい日だ」
と言った瞬間。
はらりと本から落ちるものがあった。
二人の視線がそれを追う。
拾いあげようとレオンが屈むが、不意に影が過ぎったと見てとるうちに、先に紙を拾う指先があった。
「ん? 『我がレオン王子へ……貴方のような方こそ、この本を持つに相応しい。どうぞ受けとってください……愛を込めて、貴方のフリートヘルムより』?」
拾いあげながら紙に書かれた文字を読み上げたのは、癖のある淡い茶髪の青年ディルクだ。
「わーやめろ!」
ぱっとディルクの手から紙を取りあげたレオンは、あたふたと手紙を本に挟みなおした。
「勝手に拾うな、勝手に見るな、勝手に声に出して読み上げるな!」
「熱いねえ」
にやにやとディルクはレオンを横目で見やる。
「いいかげんにしろッ」
「お礼の手紙は書かないのか?」
「書くわけ……」
レオンが言いかけてやめたのは、エーリヒ・ハイゼンの手前、ローブルグ王に礼を欠く発言は控えねばならないからだ。
「……感謝の言葉ぐらいは書き送るつもりだが」
咳払いしてから、小さな声でレオンが言いなおせば、エーリヒは冷やかな視線をレオンへ向けた。
「陛下は気まぐれです。いずれ飽きられるでしょう」
冷然と告げてから、軽く一礼して二人のもとから去る。その態度はいかにも非友好的だ。
「なんだあの態度は」
ディルクが不機嫌に言い捨てる。
「そんなにシャルム人が嫌いなのか? これから同盟を組むというのに、いつまでも過去を根に持つとは潔くないやつだな。おれの曾祖父だって、かつてローブルグとの戦いで負傷してから左脚を引きずって歩いていたぞ」
ぶつぶつ言っている脇で、けれどレオンはいやに嬉しそうだった。
「そうか、ローブルグ王は、気まぐれですぐ飽きるのか。それはよかった」
「いやいや、あれは運命の相手に巡り合えたという様子だったぞ」
「おまえはエーリヒ・ハイゼンについてぶつくさ言っていればいいのだ。おれにかまうな」
「照れるなよ」
苛立ちに眉をひそめて、レオンはディルクの周囲を見回す。
「このようなときにマチアスはどこにいるのだ。ディルクの暴言を諌められるのは彼しかいないというのに」
「あれ?」
ディルクもまた不思議そうな顔になった。
「アベルとマチアスも、いっしょにここまで来たはずなんだけど……いないねえ」
はたと周囲に注意を向ければ。会話の声や、会場の方々で湧き起こる笑い声が、二人を包みこんだ。
やや強引にディルクに連れていかれたものの、レオンのもとへ歩く途中、呼び止められてアベルは足を止めた。
いや、正確にいえば、呼び止められたのはもうひとりのほうだ。
「マチアス」
見慣れぬ騎士が、アベルのすぐ横を歩く青年に声をかけたのだ。
騎士はがっしりとした身体つきだが、頭髪に白いものが混ざりはじめているところからすると、五十歳はいっているのだろうか。
足を止め、振り返ったマチアスの顔に、表情らしい表情は浮かんでいなかった。
「ヴェルナ侯爵様」
マチアスが軽く腰を折ったので、アベルもつられて一礼した。ヴェルナ領といえば、シャルムの侯爵家のなかでも比較的広い所領を有していたはずだ。
「少し話をしてもいいか?」
そう言いながらヴェルナ侯爵はちらとアベルを見やる。
ディルクは侯爵に気づかずレオンのところへ行ってしまったが――というより、おそらくヴェルナ侯爵はそのタイミングを狙っていたのだろうが、アベルだけどうしたらいいかわからず留まっていたからだ。
「失礼しました」
再び一礼して立ち去ろうとするのを、マチアスが止める。
「いいえ、親しい友人なのです。お話しがあるなら、彼のいるところでお願いします」
普段と変わらず丁寧な言葉遣いながら、侯爵に対する態度にやや突き放すところがあるような気がして、アベルはマチアスを見上げる。
すると、マチアスがほほえみを返してくる。なんでもありませんよ、と伝えているかのようだ。
「そちらは?」
「ベルリオーズ家のご家臣で、ベルトラン殿の従騎士アベル殿です」
「そうか」
ややあってから、ヴェルナ侯爵はうなずいた。
「そなたがそう言うなら、かまわない」
「なにかご用でもございましたか?」
「なかなかゆっくり話せなかったが、共に過ごし、共に戦うことができて嬉しかった。そのことを伝えたかったのだ」
「参戦いただき、心より感謝申し上げます」
二人の会話に違和感を覚えて、アベルは顔をマチアスと侯爵を交互に見上げる。
ヴェルナ侯爵のほうはやけにマチアスに親しみを覚えているようだが、マチアスのほうはまったく儀礼的だ。
「今回、アルフレッドではなく私自身が戦いに参加したのは、そなたに会うためだ」
アルフレッドというのはヴェルナ家嫡男の名である。マチアスにしては珍しく返す言葉を見つけられなかったらしく沈黙した。
「こうしていっしょに過ごしてみたかった。あまり顔を合わせることはなかったが、同じ戦場で戦えたことに意味があったと思っている」
「…………」
「ヴェルナ領には、そなたの異母兄姉がいる。いずれ会いにきてほしい」
大きく目を見開いてアベルはマチアスを見上げる。
――異母兄姉、その言葉が意味することは。
けれどマチアスは当初と変わらず、表情らしきものはなく、普段の控えめな雰囲気だけを漂わせていた。
「ディルク様がヴェルナ領へ伺う際には、お供させていただきます。私はいかなるときも主人と離れることはありませんので」
「答えを性急に出す必要はない。ゆっくり考えなさい」
最後にそう言い置くと、ヴェルナ侯爵は二人のまえから立ち去った。初めから長く話すつもりはなかったようだ。
立ち去る侯爵の後ろ姿へ、マチアスは律儀に一礼している。実にマチアスらしい。
マチアスの横顔をまじまじと見つめていると、不意に相手が振り向く。マチアスは軽くほほえんでいた。
「マチアスさんは、ヴェルナ侯爵様の……」
「いいえ、アベル殿」
アベルの言葉をマチアスは静かに遮る。
「血の繋がりなど関係ありません。私はマチアス・クレール。ディルク様に仕えるただの従者です」
どのような事情があるのかわからないが、マチアスの心は定まっているようだった。
「さあ、行きましょう。ディルク様がレオン殿下に失礼なことをしているかもしれませんから」
歩きだそうとするマチアスへ、アベルは声をかけた。
「わたしも同じです」
マチアスが前へ進むのをやめて振り返る。
「私も、リオネル様にお仕えする、ただの従騎士アベルです。血筋や、生まれなんてとっくに捨てました」
小さくマチアスが笑む。その笑顔にわずかな陰りがあるようにも見えたが、その正体はアベルにはわからない。
「私たちは似たところがありますね」
「本当ですね」
顔を合わせて笑っていると、横から聞き慣れた声がした。
「なに楽しそうにしているんだ?」
やや不機嫌な声はディルクだ。
「せっかくおもしろい現場を押さえたのに、おまえたちがいなければ楽しさも半減じゃないか」
「おもしろい現場?」
なんのことだろうと首を傾げるアベルをまえに、レオンが慌てて、
「なんでもない、ただの戯言だ。気にしなくともいい」
とディルクが発言するのを遮り、さらに話題を変える。
「ところで、なにを二人は楽しそうに話していたのだ?」
アベルはマチアスを見やる。それから、視線を二人へ戻してほほえんだ。
「秘密です。ね、マチアスさん」
「そのとおりです」
マチアスも笑顔で答える。
「そうか、秘密か」
元々あまり興味はなかったらしく、レオンはそれ以上聞いてこなかったが、ディルクのほうは納得したふうではない。
「さっきヴェルナ侯爵がいたみたいだが、なにか関係があるのか?」
「それも秘密です、ディルク様」
さらりと答える従者をディルクは仏頂面で眺めやってから、アベルの両肩に手を置いて、顔を近づけてくる。急にディルクの瞳が間近になったので、アベルは緊張した。
「なあ、アベル。これは大切なことなんだ。あのヴェルナ侯爵ってやつは、マチアスをおれから引き離して自分のところへ連れて行こうとしている。おれは心配でならないんだ。なにを話していたのか、おれに教えてくれないか」
やたらに真剣な様子なので、アベルはつい驚いてディルクを見返してしまう。
淡い茶色の瞳が、まっすぐにこちらへ向けられていた。ふとこの人が、デュノア邸を追い出されるまで長いこと憧れていた相手だということを思い出し、アベルは赤面する。
と、声がする。
「なにをしているんだ?」
冷ややかにも聞こえる声は、よく知る青年の……。
「ちょっと待て、リオネル。今、大事なところなんだ」
「大事なところ?」
ますますリオネルの声が低くなる。
「アベル、さっきヴェルナ侯爵はマチアスになにを言っていた?」
赤面したままディルクの瞳を見返し、アベルは混乱する頭で懸命に思いだそうとする。ヴェルナ侯爵はなんといっていたのだったか。
「アルフレッド……」
思い浮かんだ言葉を口にする。
「アルフレッド? そいつがどうした」
「代わりに戦いに参加して……」
「どういう意味だ?」
侯爵の言葉がはっきりと脳裏によみがえりつつあったが、そのままディルクには伝えないほうがいいようにアベルには思えた。だからこそ、断片的な言葉だけを伝える。
「顔を合わせなかったけれど……」
「意味不明だな」
目のまえの顔が怪訝な表情になった途端、妙案がひらめきアベルは声を上げた。
「あ!」
「なんだ?」
事態をややこしくせず、ディルクを納得させるためには――。
「『私はいかなるときも主人と離れることはありません。私はマチアス・クレール。ディルク様に仕えるただの従者です』」
「…………」
「マチアスさんがそう言っていました。これが思いだせるかぎりの会話ですよ」
沈黙するディルクに、レオンが「なるほどな」と笑う。
「素晴らしい従者に恵まれたな、ディルク」
「なんでもいいが、もうアベルから離れたらどうだ?」
いつになく不機嫌にリオネルが言った。
すると、すっとディルクはアベルの肩を放し、姿勢を正す。
「アベル、ありがとう」
「わたしはなにも」
「マチアス、飲むぞ」
「は?」
マチアスが目を丸くする。
「今夜は祝勝会だ。美味い酒が飲める」
そう言ってディルクは振り返りもせず、すたすたと歩き出す。
「なんだあれは? へんなやつだな」
レオンが怪訝そうに片眉を上げる。するとリオネルが小さく笑った。
「ディルクなりの照れ隠しだろう。マチアスの言葉が嬉しかったのだと思うよ」
「かわいいところもありますね」
マチアスがつぶやけば、
「かわいいか?」
とレオンが怪訝な表情で首をひねる。
かわいいですよ、と笑ってから、マチアスはディルクの後を追った。
「よくわからないが、おれも今夜は飲むとするか」
レオンが二人の後を追って、酒の並べられた窓際へ歩いていく。
リオネルと二人きり――むろん影のようなベルトランはいるが――、になると、アベルは傍らの主人を見上げた。
「わたしもです」
「ん?」
深い紫色の瞳がアベルを見返す。
「わたしも、ずっとリオネル様といたいです。わたしはリオネル様に仕える、取るに足りない従騎士ですから」
リオネルの唇に、微笑がかすめる。それは嬉しそうでありながら、どこか寂しげで。
「ありがとう、アベル」
「どうかしましたか?」
「どうもしないよ。おれたちも飲みにいこうか」
束の間、アベルはリオネルの瞳を覗き込んだが、すぐに穏やかな声音に遮られる。
「おいしい蜂蜜酒があると聞いたよ」
「本当ですか?」
アベルは瞳を輝かせた。
「飲みたいです。ベルトランも行きましょう」
おれのことは気にするなと言いたげな視線をベルトランから受けたが、アベルはそれを笑顔で受け流す。
「皆がそろっていてこそ楽しいんです」
「本当にそうだね」
うなずいたのはリオネルだ。
酒を取りにいった先で、六人はロルム公爵やテュリー侯爵につかまり、そこへフェルナンやエヴァリストらも加わって大人数となる。
さらにそのまま皆で城の外にいる騎士らのもとへ行ったので、アベルたちは、長い、長い夜を過ごすこととなった。