59
扉は開け放たれていた。
アベルがおそるおそる扉から室内の様子をうかがったのは、以前食堂を訪れたときに、諸侯らが机に居並び議論を交わしていたからだ。あのとき一斉に視線を受けた居心地の悪さといったら……。
この日はそのようなことはなかったけれど、あまりに多くの人がいて気後れする。
リオネルやディルクはどこにいるのだろう。探そうとしたが、そのまえにこちらへ歩み寄る相手がいた。
視線を向ければ、岩のごとく大きく逞しい男だ。
「少年」
普通に歩いているだけだというのに、駆けてきたかのような速さで目の前まで到達した相手は、少年、と呼んだもののすぐに言いなおした。
「……アベル、という名だったな」
「フランソワ・サンティニ様」
アベルは頬に笑みを刻む。
「お久しぶりです」
最後に言葉を交わしたのは戦場だ。負傷した直後にフランソワはアベルを見舞っていたが、意識のなかったアベルはそのことを知らない。
「怪我はどうだ?」
「だいぶよくなりました」
「完全に塞がったわけではないだろう」
「大人しくしていれば平気です」
「熱は?」
「おかげさまで下がりました」
ひとしきり身体の具合を尋ねると、フランソワは片方の眉だけをわずかに下げた。
「ひどい目に遭わせてすまなかったな。共に突撃してくれと頼んだのは私だ。斬られるべきは私だった」
「そんなこと」
「いや、実際にユスター軍に突撃していったとき、私は死ぬ覚悟だった。けれどおまえに守られ、おまえだけを負傷させてしまったのだから情けない」
正騎士隊の勇将に情けないと言わせているこの状況に、アベルは困惑する。
「フランソワ様がユスター軍に突撃しなくとも、わたしは同じことをしていました」
「なるほど、リオネル殿の言っていたとおりだな」
「え?」
「私がおまえのことで謝罪したときに、たとえだれからも頼まれずともアベルはひとりで敵軍に突っ込んでいたはずだと、リオネル殿は言っていた」
――そこまで見抜かれているのか。
アベルは苦笑するしかない。
「無謀だが、勇敢だ」
「あのときはそうするしかなかったでしょう?」
問われるとフランソワは言い淀む。二人はしばし無言で視線を交わしてから、口元に小さく笑みをひらめかせた。
「結局、私たちは同じことをしていたかもしれないな」
「シャルム軍のことを思えば、答えはひとつしかありません」
「難しいものだ。リオネル殿やベルトラン殿の気持ちを思えばやりきれないが、おまえの気持ちはなにより理解できる」
「ありがとうございます」
アベルは笑った。
「そう、あらためて礼を言わなければならない」
礼とはなんのことだろう。軽くアベルは首を傾げる。
「おまえに命を救われた。あのとき四方を敵に囲まれていて、ザシャの攻撃を刎ね返すことができなかった。おまえがいなければ斬られていただろう。死ぬ覚悟だったとはいえ、生きてやるべきことはいくらでもある。私をこの世に繋ぎ止めてくれたこと、感謝する」
「サンティニ将軍にそう言っていただけただけで、怪我をした甲斐があります」
「怪我をした甲斐か……」
なにか思う様子で沈黙してから、ややあってフランソワは再び視線を上げた。
「それにしても、戦場にふらりと現れた少年が、リオネル殿の家臣だったとは驚いた」
「すみません」
含み笑いでアベルは謝罪する。
「あのときいただいた銀貨、助かりました」
「なぜ軍営に来なかった?」
「報賞目当てではありませんから」
「しかし、おまえは金に困っていた」
「最低限あればよいのです」
「欲がないのだな」
「わたしはリオネル様をお守りできれば、他にはなにもいらないのです」
そうか、としみじみフランソワはアベルを見つめる。
「リオネル殿はおまえを実に大事にしておられるようだが、おまえもリオネル殿をこのうえなく慕っているとみえる」
リオネルから大事にされている――と言われ、アベルはやや戸惑った。
気恥かしいような気がしたのは、リオネルからの告白のせいだと気づき、どういう顔をしたらいいか突如わからなくなる。
「先程から、リオネル殿がおまえを待っている。行ってさしあげなさい」
行ってあげるようにと言われアベルは心臓が跳ねた。今、このときに? と思って顔を上げれば、フランソワが髭に覆われた口元を笑ませる。
「リオネル殿より先にアベルと話してしまったからな。申しわけなかったと伝えてくれ」
去り際にぽんと肩を叩かれて、アベルは一歩前へ踏み出す。視線を向けたその先に、リオネルのすらりとした長身があって、ひどく戸惑った。
どうしてこんなふうに、どぎまぎするのかわからない。
ぼんやりしていると、リオネルの紫色の瞳と視線が合う。と、相手はかすかに笑ったようだ。いつもと代わらぬ笑顔なのに心臓が早鐘を打つ。
いつまでもひとりで立ちすくんでいるアベルを見かねたのか、リオネルがフェルナンらに断ってこちらへ歩んでくる。いや、歩いているというよりは、軽く駆け足だった。
「アベル」
呼ばれて、アベルは立ちつくしたまま主人を見上げる。
「どうしたんだ? フランソワ殿との話は終わったのだろう、こっちへおいで」
すでにフランソワの姿はない。
「……あ、はい」
「具合が悪いのか?」
心配そうな瞳に顔を覗きこまれ、アベルは首を大きく左右に振った。
「そうか、ならいいのだけれど。無理してはいけないよ」
「だ、大丈夫です」
「調子が悪ければ、いつでも部屋に戻っていいから」
リオネルは相変わらず心配症で、相変わらず優しい。以前となにも変わらない。
それなのに、彼から告げられた想いに、未だアベルはひとりで戸惑っている。あたふたしているのは自分だけなのだと思うと、落ち着かなければと焦った。
リオネルはもう二度と想いを伝えたりはしないと言っていた。二人の関係は、これまでどおり――そう、これから先も、永遠に変わらないのだ。
このように考えることで、自分を落ちつかせる。
「ご心配いただき、ありがとうございます」
「来たばかりですまないのだが、アベルさえよければ、叔父やルブロー家のエヴァリスト殿にきみを紹介したいんだ。いっしょに来てくれないか?」
叔父というのは、トゥールヴィル家当主フェルナンのことだろう。まえに食堂で少し会ったことがあるが、言葉は交わさなかった。
「もちろんです」
「ありがとう、アベル」
やや緊張しながら、リオネルと共にフェルナンらのもとへ行くと、好奇の視線が自分に集まるのを感じてアベルはさらに固くなる。やはり社交場に出るより、戦場で剣を振るっているほうがよほど性に合うことをアベルは再認識した。
淡い鳶色の髪と、紫がかった青色の瞳を持つ三十代と思しき騎士が、おそらくアンリエットの弟フェルナンだろう。リオネルには似ていないものの、男らしく端正な顔立ちだ。
「叔父上、エヴァリスト殿、ロランド殿。紹介します、私に仕えてくれている従騎士のアベルです」
紹介されると、アベルは皆に一礼した。
「先日食堂でお目にかかりましたが、皆様には改めてご挨拶させていただきます。ベルトラン様の従騎士アベルです。長いこと寝台に伏せており、ご迷惑をおかけいたしました。皆様のおかげでこのように回復できたこと、心より感謝いたします」
緊張していたものの、アベルは精一杯挨拶する。
「素晴らしく上品で秀麗な従騎士ですね」
エヴァリストが称える。褒め殺しは彼の得意技らしい。
「ロランドも美形とは思っていましたが、これほどまでとなると完敗です」
褒めちぎられて、途端にアベルは口ごもる。からかわれているのだとしても、このように高貴な相手から言われては返す言葉がない。
「あまりアベルを苛めないでください」
「そんなつもりはなかったのですが、すみません」
相変わらずエヴァリストはおっとりと謝罪する。一方、
「完敗だそうだぞ、ロランド」
揶揄するような口調でフェルナンは背後にいる側近へ視線をやった。
「別に競っていませんから」
と主人には冷淡に答えておいて、ロランドは弟へ視線をやる。
「それにしても、かわいらしい少年を従騎士にしたのだな、ベルトラン。おまえには不似合いなほどに」
皮肉めかして次兄から言われ、ベルトランは片眉を上げる。
「腕は確かです」
「そうみたいだね」
「怪我はもう平気なのか?」
尋ねてくるフェルナンに、アベルはうなずきを返した。
「痛みもなく、熱も下がり、こうして動くことができるようになりました。ご心配いただきありがとうございます」
「あれほどの怪我から回復するとは、実に運がいい。きみが斬られた直後に私は戦場に駆けつけたが、ひどい状態だった。あのときのリオネルの顔は一生忘れられないだろう。家臣が死んでいくことへの恐怖と、けっして死なせるまいとする相反する思いが、リオネルの蒼白な顔から見とれた」
「叔父上、やめてください」
憮然と言い放つリオネルに、フェルナンは口端を吊り上げる。
「彼が助かってよかったという話だ」
「ええ、アベルが死んでいたら、ユスター軍を全滅させても気が済まないところでした」
冗談には聞こえぬ口調に、アベルは驚いてリオネルを見やった。アベルの視線に気づいたリオネルはほほえみながら平然と告げる。
「ああ、本気だとも。きみを失ったら、けっして敵を赦しはしなかったよ。いっそ国ごと滅ぼそうとしていたかもしれない」
アベルがなにも答えられぬうちに、フェルナンが葡萄酒を口から離して「それは物騒だな」と顎をしゃくる。
「やはり、おまえはアンリエット姉上に似ている」
「普段は優しげなのに、怒らせると怖いのですね」
にこにこと笑いながら言ったのは、先程アベルを褒めちぎった騎士だ。これまでの様子から察するに、この人がルブロー家の嫡男だろうかと考えていると、ベルトランが口を開く。
「ああ、紹介するのが遅れたな」
ベルトランはおっとりとした騎士と、フェルナンの背後にいる美貌の若者へ視線を向けた。
「アベル、紹介する。温和そうでいて、実のところ食えないこの男がおれの長兄エヴァリスト――、そしてこっちの女顔のくせに口の悪い男がおれのもうひとりの兄ロランドだ。二人とも何度かベルリオーズ邸には来ているが、会ったことはなかっただろう?」
「はじめまして」
エヴァリストが声をかけてくる。が、ロランドは形のよい眉をひそめてベルトランを睨んでいた。美しいだけに、その表情には冷ややかな威圧感がある。
「女顔のくせに口が悪いとはなんだ、ベルトラン。それが兄を紹介する台詞か。兄上も、『温和そうでいて、食えない男』などと言われてヘラヘラ笑っていてはなりません。長兄としてベルトランを躾けてください」
「ああ、そうだったね。けれどロランド、一応紹介されたのだから、まずはアベルに挨拶しなければならないよ」
「…………」
我が道を、我が調子で突き進むらしいエヴァリストに、ロランドは片眉を吊り上げて沈黙した。
「アベル、きみはいくつだ?」
エヴァリストに問われて、アベルは一瞬自分が何歳だったかな、と考えてしまう。誕生日が来てもう三ヶ月も経つのに。
「じゅ、十六です」
「ああ、まだ本当に若いね。私の半分くらいしか生きていないのだから、こんなに無垢な瞳をしているのも当然だ」
「年齢とは関係ありません。アベルはおそらく何歳になってもこうですよ」
ベルトランが平らな声で言うと、エヴァリストは笑った。
「そうだね、私といっしょにしてはいけないね」
なにも言えないでいるアベルへ、エヴァリストは目を細める。
「ベルトランの鍛錬は容赦ないだろう?」
「厳しいですが、とてもためになります。素晴らしい師匠です」
「かわいがってはいるようだけれど、あまり厳しかったら私から叱っておくから、言いなさい」
困ってベルトランへ視線を向ければ、皮肉めいた淡い笑みが彼の口元に浮かんでいる。
「兄上がなんと言っても、稽古の方法は変えませんよ。ついてくることができないなら、それまでです」
「ああ、おれもベルトランから指南を受けるのは正直嫌だな」
苦い口調はロランドである。彼はアベルへ視線を投げかけた。
「が、そうは言いつつも、いざとなればこいつは加減できる男だ。安心して従えばいい」
そう言って微笑するロランドは、先程までの冷たげな美しさとはうって変わって優しげだ。美しい人というのは、表情によって随分と印象が代わるものなのだとアベルは驚く。女であるアベルでさえ息を呑むほどその微笑は魅惑的だ。
「はい」
しっかりとアベルはうなずく。
「ベルトラン様を尊敬しています。どこまでもついていくつもりです」
真剣に言ったはずなのに、ロランド、エヴァリスト、そしてフェルナンの口元に笑みが広がった。リオネルさえ笑っている。
一方ベルトランだけは、顔を背けて頭をかいていた。
「なぜ笑うのですか」
不満の声をロランドらに向けるわけにはいかないので、アベルはリオネルを軽く睨んだ。
「ああ、ごめん」
半ばとばっちりを受けたリオネルは、すぐに笑いを嚙み殺す。
「かわいい従騎士だな、ベルトラン。おまえにどこまでもついていくそうだ」
と言ったのはフェルナン。
「照れているのか、ベルトラン? おまえが照れているところなど初めて見た」
と言ったのはロランドで、
「いくつになっても、どんなに図体が大きくなっても、照れていても、弟というのはかわいいですね。弟の従騎士もまた、実にかわいい」
と言ったのはエヴァリストだ。
「私をからかうのはけっこうですが、アベルをからかわないでやってください」
視線を合わせぬまま、ややぶっきらぼうにベルトランが言う。
「ご馳走様、というべきかな。ベルリオーズ家の強固な結束力と、仲のよさは相変わらずのようだ」
フェルナンが笑った。
「お、そういえばアベラール家との結束も強いのだったな」
話しているところへ、ひょこっと顔を出したのはディルクである。むろんマチアスもいっしょだ。
「アベルをひとり占めとはいただけませんね、フェルナン殿。私もずっと彼の回復を待っていたのですよ」
「ああ、ディルク殿。これはすまなかった」
この夜、会がはじまってから初めて会話を交わす二人は握手を交わしあう。
「ディルク殿にはあらためて、リオネルのそばにいて支えてくれていること、心から感謝する。ディルク殿やベルトランがいるから、私は安心していられるというものだ」
「私もベルトランも、好きでそばにいるだけですよ。支えられているのは、むしろ私たちのほうです」
エヴァリストやロランドへ視線を移して、ディルクは彼らとも挨拶を交わした。それからしみじみと所見を述べる。
「戦いが終わり、あらためてこうして揃っている姿を見れば、実に似ていないルブロー家の三兄弟ですね」
はははは、とエヴァリストが声を立てて笑った。
「おそらく父母は同じなのですが」
「『おそらく』って、笑いながら言わないでください」
とディルクが苦笑すれば、
「笑わず真剣に言われても、それはそれで怖いが」
とベルトランが片頬を吊り上げる。
「またその話題ですか?」
うんざりしたように言ったのはロランドだ。
「ロランド殿も、相変わらず目が覚めるような美しさで」
「ディルク殿は相変わらず口が上手ですね」
褒められることには慣れているらしく、ロランドがさらりと返す。
「ベルトランは、相変わらず厳つい身体と顔つきで」
「毎日のように見ているだろうが」
ベルトランが仏頂面なのは、機嫌が悪いわけではなく、これが普段の顔なのだ。
「けれど、よく見ればとても優しげなんですよ」
アベルが言うと、ややあってディルクが吹き出す。気づけば、ベルトラン以外の者は懸命に笑いを嚙み殺していた。
「真剣に言っているのですが」
軽くアベルがディルクへ非難の目を向ければ、
「ああ、笑ってなどいない」
と言いながらディルクはまだ笑っている。アベルが憮然とすると、大きな手が伸びてきてくしゃくしゃと頭を撫でられる。
驚き視線を向ければ、柔らかな表情のベルトランが、無言でアベルの頭に手を置いていた。こちらへ向けられているのは温かい眼差しだ。
「本当にアベルはベルトランのことが大好きなのだな」
ロランドがおかしそうに言う。
「いや、ベルトランもアベルが大好きらしい」
エヴァリストが付け加えると、もう片方から声がする。
「私もですよ、ロランド殿。アベルのことが好きで好きでたまりません」
まだかすかに笑いを口元に残しながら言ったのはディルクだ。
嬉しいような、恥ずかしいような心地になってアベルがリオネルを振り返れば、わずかに細められた紫色の瞳がそっとこちらを見下ろしていた。
その様子を見ていたエヴァリストが、幾度も頷く。
「リオネル様にも、ディルク殿にも、ベルトランにもよくかわいがられているようですね。回復して本当によかった」
「いえ、もうひとりアベルを好きで好きでたまらない男がいるのですが……」
そう言いながらディルクは会場を見回す。
「どこにいるかな? そろそろ来ているはずですが」
と、部屋の片隅に彼の視線は止まった。ディルクの視線の先、所在無げに立っていたのはレオンだ。
「そうそうあの男です」
「レオン殿下ですか」
皆の視線の先で、レオンはちょうどローブルグからの援軍を率いてきたエーリヒ・ハイゼンにつかまるところだった。
と、突然ディルクが声を上げる。
「リオネル、ちょっとアベルを借りるぞ」
「え?」
リオネルとアベルが同時に声を発した。
「いいだろう、少しはアベルと話させてくれよ。それに、どうやらおもしろいものが見られそうだから」
そう言うと、ディルクはフェルナンらに軽く断りを入れてから、アベルとマチアスを連れてレオンのほうへ歩んでいった。