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一方、城の大広間へ向かったリオネルは、途中でエルヴィユ家嫡男シャルルとすれ違う。
シャルルはリオネルをみとめると、即座に立ち止まり一礼した。
「シャルル殿」
リオネルが相手の名を呼ぶとシャルルは顔を上げる。リオネルのそばにベルトラン以外の者がいないことを見てとると、シャルルは尋ねた。
「お二人だけで、どちらへ向かわれるのですか?」
「大広間へ行くところです。負傷者の見舞いに」
リオネルが答えれば、やはりというふうにシャルルはうなずく。
「ちょうど私も行ってきたところです」
「様子はどうでしたか?」
「この数日、深手を負った者のなかで死亡した者はいないそうです。勝利の報が届いてから、皆活き活きとしています。明るい雰囲気のなかで、生きる活力を取りもどしているようですよ」
「そうですか」
ほっとしてリオネルは肩を撫で下ろした。けれどすぐに表情を引き締め、シャルルをまっすぐに見つめる。
「話は変わりますが、先日きちんと話す時間が取れなかったので、少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「フェリシエのことですね」
すぐにシャルルは返した。
「ええ、そのとおりです」
最初に二言三言、この件について話したきり、戦いの最中は落ちついて話す機会がなかった。こうして勝利を収め、リオネルはこの話題についてシャルルと話せる機会を得たのだ。
「リオネル様がお気になさることは、なにもありません」
「フェリシエ殿を妻として迎えられなかったことを、お赦しください」
「……ひとつ、うかがってもよろしいですか?」
返事の代わりにリオネルはシャルルへ眼差しを注ぐ。
「本来なら、このようなことは問うべきことではないのかもしれません。けれど、どうしてもフェリシエが事情を知りたいと申しまして」
「…………」
「リオネル様のご判断の理由をお聞かせいただきたいのです」
沈黙したリオネルに、シャルルが申し訳なさそうに言葉を続けた。
「すみません。愛せないものは、愛せない。理由などなく、ただそれだけだということは充分にわかっています。ただ、リオネル様には他に想いを寄せる女性がいるのだとフェリシエが言っていました。それが、妹を納得させるために使った方便なのか、あるいは真実なのかということだけでも、教えてはいただけないでしょうか」
リオネルは視線をシャルルから外した。縁談を断られた理由をはっきりとさせたいと思うのも、当事者の親兄弟ならば当然のことだろう。
静かに眼差しをシャルルへ戻して、リオネルは告げる。
「真実です」
わずかにシャルルの瞳が見開かれた。
「相手の名を口にすることはできませんが、フェリシエ殿に申しあげたことは真実です」
「さよう、ですか……」
力が抜けたようにシャルルはつぶやく。
「申しわけありません」
リオネルが軽く頭を下げると、シャルルは笑った。
「ああ、おかしいですね。なんだか急に身体に力が入らなくなりました。リオネル様に好いた相手さえいなければ、フェリシエにもまだ望みはあるなどと、心のどこかで思っていたのかもしれません」
「もっと早くにお伝えするべきでした」
「フェリシエには、ずっとまえから伝えてくださっていたのしょう?」
「――そうですね」
「あれにはきちんと諦めるよう伝えます」
無言でリオネルは視線を伏せた。
「それにしても、リオネル様の心を奪った女性とは、どのような方なのか気になってしかたありません。類まれな魅力をそなえたご令嬢なのでしょうね」
曖昧にほほえんでリオネルは返答を避ける。
「いずれご結婚なさるときに、お会いできることを楽しみにしています」
「……フェリシエ殿には、どうかよろしくお伝えください」
「むろんですよ」
そうして彼らは別れて、廊下を別々の方向へ歩き出す。
わずかに伏せられたリオネルの瞳。
うつむきながらひとり廊下を歩くシャルルの表情は硬く、唇からは深く長い溜息が洩れた。
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十一月も半ばになると、陽が沈むのが早い。
その日、あたりが暗くなると、まだ夕刻と呼ぶべき時刻よりまえに戦いの勝利を祝う会が開催された。
舞踏会のごとき煌びやかさとはいかないものの、各々自領から急ぎ取り寄せた酒や馳走に加え、周辺諸侯からの祝いの品も集まり、軍営地でありながらも充分に豪華な食事会となった。
城の外、兵士らの軍営からは、肉の焼ける香ばしい匂いと勝利を祝う歌声が、かすかに蒼さを残した空に舞い昇る。時間が経つにつれ、兵士らの笑い声があちらこちらから響いてきた。
その声は、古城のなかへも届く。
城内に集まるのは、高位の騎士と諸侯らである。普段の夜会ならば、着飾った女性らが出席して華やかな様相だが、この日は出席者が全員男。
けれど、それはそれで気張らずに過ごせるのが良いようで、皆、寛いだ様子で酒杯片手に会話を楽しんでいた。
「それにしても、リオネルは立派になったな」
姉の忘れ形見をまえに、しみじみとフェルナンが言う。
「少し会わないうちに随分と大人びた」
「本当に、落ち着きや統率力、決断力、剣の腕……どれをとっても素晴らしいですね」
エヴァリストが賛同して、おっとりとリオネルを褒める。
「それにお母君に似て実に魅力的な顔立ちをしておられます。シャルム貴族のなかでも指折りの美男でしょうね」
「ありがとうございます」
笑顔でリオネルは応じた。
「そういうのを褒め殺しと言うのですよ」
照れるでも動じるでもなく冷静に切り返すあたり、リオネルの大物ぶりがうかがえる。
今、リオネルに従っているのはベルトランだけで、アベルはまだ寝室で休んでいる。レオンも顔を出しておらず、ディルクはロルム公爵と話しこんでいるので、リオネルは叔父フェルナンとその用心棒ロランド、さらにルブロー家のエヴァリストという、近しく、そして癖のある面々に囲まれていた。
「それは失礼しました。しかし、そのように眉目秀麗で文武両道でおられると、年頃のご令嬢たちがさぞ心をざわつかせることでしょう」
うまくリオネルに切り返されても、懲りないのがエヴァリストだ。
「リオネル様の妻となられる方は幸せでしょうね」
「兄上、それくらいでいいでしょう」
兄を諌めたのはベルトランだ。エヴァリストは含みのある笑顔で口を閉ざしたが、代わりにフェルナンが続きを引きとる。皆、この手の話においては相手を逃すまいとするらしい。
「そういえば、リオネルには縁談があったのではなかったか? たしかシャルル殿の妹君でエルヴィユ家の……」
「いえ、叔父上」
エルヴィユ家令嬢の名を思い出そうとしているフェルナンを、リオネルは遮る。
「縁談は断りました」
「それは知らなかった」
フェルナンが瞳を大きくした。
「なぜだ? 美しい令嬢と聞いたが」
「……事情がありまして」
「他に想いを寄せる相手でもいるのか?」
リオネルの沈黙を肯定と受けとったらしく、フェルナンは口端を吊り上げた。
「そうか、そうなのか。おまえでも片想いをするのか」
「その話はやめましょう」
ここにアベルがいなくてよかったと、リオネルは心底思った。
「どこの娘だ? おまえほどの男に振り向かないとは、どのような女性か気になるではないか。年は? 何色の瞳だ?」
「やめてください」
迷惑そうにリオネルが言うと、フェルナンが笑う。
「すまん、つい。リオネルが恋に落ちたと知れば、あの世で姉上もさぞや喜ばれるだろう」
「…………」
懲りないのはフェルナンも同様らしい。沈黙するリオネルに、エヴァリストが笑いかける。
「リオネル様は実にアンリエット様に似ておられます。アンリエット様のお姿は、今でもこの目に焼き付いていますよ」
話題を逸らしてくれたらしいとわかって、リオネルは軽く笑みを返した。
「そうでしょうか」
母に似ているとは、アンリエットを知る者にはよく言われることだ。
「ああ、そうだな。外見も中身もよく似ている」
うなずいたのはフェルナンだ。
「二人とも穏やかそうでいて、実のところ内面に鋭利なものを秘めている。怒らせると、実に恐ろしい」
するとエヴァリストが首を傾げた。
「雰囲気はわからないでもないですが、けれど実際にアンリエット様が怒ったところは見たことがありません」
エヴァリストがアンリエットを見知っているのは、ルブロー家とトゥールヴィル家が隣り合っていると同時に、切っても切れぬ家同士だからである。
ゆえにアンリエットが二十歳でクレティアンのもとへ嫁ぐまで――つまりエヴァリストが十三歳のときまで、そばでアンリエットの姿を見ていた。
ちなみにそのときロランドは八歳、ベルトランは四歳だったので、ロランドはともかくベルトランはほとんど記憶に残っていない。
「姉上は本音を見せない方だったからな。それに実際、とことん呑気な一面もあった」
「呑気?」
ロランドが尋ねる。
「エルネストにしつこく言い寄られても、まるで危機感がない。贈り物をすべてシュザンの玩具にさせて、静かに笑っていた」
国王の名を呼び捨てにするのは、フェルナンが彼を軽蔑しているからである。
「ある意味、魔性ですね」
美貌の騎士ロランドが苦笑する。
「贈り物とはどのような?」
「見たこともないほど大きな宝石がついた指輪やら、ドゥランの絹を使った衣装だとか、象牙の木箱やら、ヴォワナル産の絨毯やら、最高級の葡萄酒やら……」
「それを玩具にしていたシュザン殿は、おそろしいほどの感性を身につけたでしょうね」
「さあ、あいつも鈍いところがあるからな」
そう言いながら笑ったものの、フェルナンがふと視線を脇に立つ甥へ向けたのは、リオネルが怪訝そうに眉をひそめていたからでいたからである。
フェルナンは、はっとした面持ちになった。フェルナンが口を開くより先に、リオネルが尋ねる。
「陛下が母上に言い寄ったとは?」
リオネルにとっては、はじめて聞く話だ。それもそのはず、この事実を知るのは、当時アンリエットやエルネストのそばにいたごく一部の者だけである。
「そうか……知らなかったか」
やや気まずそうにフェルナンが言う。
「――本当の話ですか?」
リオネルは動揺するでもなく、落ち着いた様子で尋ねる。ややあって、エヴァリストがうなずいた。
「ええ、本当です」
エヴァリストを見つめたあと、リオネルは赤毛の用心棒へ視線を移した。
「ベルトラン、知っていたのか?」
「隠すつもりはなかったが、わざわざ言う必要もないと思っていた。黙っていてすまない」
「父上はこのことを?」
問われてベルトランはフェルナンへ視線をやる。視線を受けたフェルナンが、ベルトランに代わって答えた。
「姉上は、エルネストが言い寄っていることについて、けっしてクレティアン様に伝えてはならないと常々仰っていたからな。だから知らないはずだが、実際のところはおれにもわからない」
「陛下が母上を……」
「弟の婚約者を奪いたかったのか……あるいは本気で惚れたのかもしれない。姉上に憧れる諸侯は多かった」
リオネルは沈黙した。考えを整理しているようでもある。
「だが姉上はクレティアン様だけを愛し、エルネストのような男には見向きもしなかった。無事にクレティアン様に嫁ぎ、リオネル、おまえを生んだのだ」
「昔の話です、あまり気にすることでもありませんよ」
エヴァリストもまたそう言ったが、むろんすぐに消化できることではないはずだ。眉根を寄せたまま軽くうつむく。けれど次の瞬間、ふとリオネルは顔を上げ、吸い寄せられるように扉口へ視線を向けた。
皆がつられて視線を追う。その先にいたのは、ベルトランの若い従騎士。
彼――実のところ彼女だが――は、警戒する小動物のようにおそるおそる会場へ足を踏み入れる。その姿が、戦うときとは別人のように頼りなげだ。
まえに比べて顔色のいい少年を見やって、フェルナンが言う。
「ああ、随分と回復したようだな」
「迎えにいってきます」
リオネルは扉のほうへ歩き出そうとしたが、すぐにその足を止めた。先に近づく者があったからだ。
アベルものとへ足早に歩み寄ったのは、正騎士隊の将官フランソワ・サンティニである。
考えてみれば、アベルが回復してから――いや戦場で負傷してからこれまで、まだ二人はきちんと話す機会がなかった。命を救われたフランソワには、アベルに伝えたいことがたくさんあるだろう。
「しばらく、二人で話させてやったらどうだ?」
「そうだね」
リオネルはベルトランにうなずきを返した。