57
寒い。
久しぶりに外へ出てみれば、ひどく肌寒く感じた。
外の空気を吸うのは半月ぶり――いや、それ以上だ。
すでに十一月も半ば。天気は良いが空気は冷たいはずだ。
やはり外套を羽織ってくればよかったと思いながら身震いしたアベルの肩に、リオネルが携えていた己の外套をかける。
「平気です」
アベルは謝絶するが、リオネルは子供を言い諭す父親のような表情をこちらへ向けた。
「風邪をひかせるわけにはいかないから。ちゃんと羽織って」
「はい……」
雰囲気に呑まれ、気がつけばアベルはうなずいている。
天幕のほうへゆっくりと歩を進めれば、ひとり、二人とその姿に気づいて顔を上げた。
「アベル! アベルだ!」
騎士らが声を上げる。三秒と数えるまもなく、アベルとリオネル、そしてベルトランの周りにはベルリオーズ家の騎士が集まった。
その様子を他家の兵士らが何事かと不思議そうに見守っている。
「アベルじゃないか、久しぶりだなあ!」
「アベル! いったいどこへ行っていたんだ」
「怪我をしたと聞いたが、大丈夫なのか?」
むろん集まる騎士らのなかに、かつてアベルを館から追い出そうとしたトマ・カントルーブらの姿はない。天幕のなかにいるのか、彼らの姿さえ見当たらなかった。集まったのは、アベルに対して好意的な騎士たちだけである。
いっせいに話しかけられ、アベルはなにから答えようかと迷いながらも口を開く。
が、次の瞬間、猛烈な勢いでこちらへ駆けてくる相手をみとめた。
思わずリオネルが警戒してアベルのまえへ出ようとするほどの速さで近づいてきた相手は、大声でアベルの名を叫んでいだ。
「アベル~~~~~~~~ッ!」
身構える間もなくアベルは、がっしりとした腕に抱きしめられる。
「なにがあったんだ、アベル、まったくおまえというやつは!」
周囲に集まっていた騎士らは初め呆気にとられていたが、すぐに笑顔が広がった。相手を知れば、この勢いも道理だからだ。
リオネルはというと、心配そうながらも微笑で見守っている。
「ラザールさん……」
そう、猛烈な勢いで駆けてきてアベルを抱きしめたのはラザールだ。そのすぐ背後には、苦笑するダミアンや、穏やかな面持ちの老騎士ナタルもいた。
「アベル、無事でよかった」
ダミアンから声をかけられるが、アベルが返事するより先にラザールが話しだす。
「おまえはすぐにどこかに消えては、大怪我を負って戻ってくる。まったく心配かけるやつだ。そんなふうではリオネル様に円形脱毛ができてしまうぞ」
「円形脱毛ができるのはラザール殿では」
と、どこかからおかしそうにささやく騎士の声がする。
「いや、もうすでにできているという噂だぞ」
「本当か、ラザール殿がついに禿げたか」
なにやら楽しげに話す騎士らを「うるさい」とラザールは一喝した。と、話し声はすぐに止む。
「すみませんでした」
抱きしめられたままアベルは小さな声で謝罪する。
「今度こそもう会えないかと思ったじゃないか。そうしたら急に戦場に現れ、それも怪我を負ったと聞いて、いったいなにがどうなっているのかさっぱりわからない」
「あの……少し、痛いです」
遠慮がちに訴えれば、ラザールは顔色を変えて身体を放した。
「す、すまん。つい力が入ってしまった」
「――アベルは胸の下から左脇腹にかけて負傷している。今だからこそ言えるが、助かったのは奇跡だ」
静かに説明したのはリオネルだ。
説明を聞いていたラザールが腕で目元を覆う。
「ちくしょう、そんな話を聞けば涙が出るじゃないか」
敬語でないあたり、アベルに話しかけているのだろう。その様子をまえに、アベルもぐっと胸に込み上げてくるものがある。
「本当にご心配をおかけして、なんとお詫び申し上げればいいのか……わたしもラザールさんや皆様にこうして再会できてとても嬉しいです」
「詫びなどいらないから、もう二度といなくなるな」
顔から腕を離したラザールは、潤んだ瞳をアベルへ向けた。アベルはそれをまっすぐ見返して安心させるように笑う。
「いつだってこうして帰ってくるではありませんか」
「すべて結果論だろう。敵に斬られて死んでいたら、いったいおれたちは、どうすればよかったんだ? そう思うのはおれだけじゃないぞ。だれよりも、リオネル様がご心配なさっているんだ。ちゃんとわかっているのか」
「はい」
「それで、どこへ行っていたのか聞かせろ」
「ええっと……」
「こんなにまた痩せて、いったいなにを食べていたんだ」
たじろぐアベルは助けを求めてリオネルへ視線を向ける。すると、リオネルも不思議そうな顔をした。
「そういえばアベルは、ほとんど所持金がなかったようだけど、いったいなにがあったんだ?」
助けを求めたつもりが、さらに追い詰められてアベルは視線を彷徨わせる。
「それは、その……」
「そうなのか? 夜盗にでも遭ったのか?」
と聞いてきたのはラザールだ。が、
「まさかアベルが夜盗ごときを追い払えないわけがないでしょう」
とダミアンに言われて、「それもそうだな」と納得している。
「ええっと、あの、そういえば、お、落としたんです。……さ、財布を」
「落とした?」
ラザールが目を丸くする。
「それは間抜けなことだな」
そうですね、とアベルは笑ってみせたが、こちらを見つめるリオネルはというと、どうもアベルの言葉を鵜呑みにしている様子ではない。アベルはなるべくリオネルのほうを見ないようにした。
「けれど、アベルは本当に戻ってきましたね、ナタル殿」
しみじみとダミアンが言う。
「どういう意味だ、ダミアン?」
「なんでもありませんよ、ラザール殿」
含み笑いで答えるダミアンに、ラザールは怪訝な眼差しを向ける。
「ラザール殿は、アベルがいなくなってからまったく元気がなくなってしまっていましたからね。本当にこうして再会できてよかったです」
「おまえもだろうが、ダミアン」
照れ隠しにむっとするラザールを無視して、ダミアンはアベルに笑いかける。
「おかえり、アベル」
「よく戻ったな」
ナタルもほほえんでいた。
「……ありがとうございます」
皆に温かく迎えられて、アベルは不覚にも泣いてしまいそうになる。
「ああ、何事かと思ったら、アベルじゃないか!」
不意に声が聞こえてくる。声のほうへ皆がいっせいに振り返れば、従騎士のジュストと共にきびきびとした足取りで騎士隊長のクロードが、こちらへ歩んでくるところだった。
クロードはリオネルに一礼してからアベルのそばへ寄る。
「久しぶりだな。思ったよりは元気そうでよかった」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや、アベルの活躍は聞いている。ユスター軍に立ち向かったうえに、サンティニ将軍を救ったそうじゃないか。なかなかできることではない。勇気ある行動に心から感謝する」
「感謝なんて」
「それに、やはりベルリオーズ家の騎士団にはアベルがいなければな」
「え?」
「アベルが出ていったあと、ベルトランが所在無げにおれのところへきた。あのように気勢を削がれたベルトランは初めて見た。肩を落とす大男の姿などもう二度と見たくないから、これからは我々のもとを離れたりしてはいけないぞ」
「だれが肩を落とした大男だって?」
不機嫌に放ってよこしたのはベルトランだ。
「おまえ以外にいないだろう。今までなにを聞いていたんだ?」
「肩を落としていたのは事実だが、大男は余計だ」
「充分にでかいだろう」
「おまえは人のことを言えた体格か?」
「ベルトランほどでかくはない」
冗談にしながらも優しい言葉を伝えてくるクロードに、アベルは温かい気持ちになる。
いや、クロードだけではない。ラザール、ダミアン、ナタル、その他こうして集まってきてくれた大勢の騎士たち……。
自分を慕い、受け入れてくれる人がいる。
彼らにアベルは心から感謝した。
恵まれている――。
そう、自分は恵まれているのだと実感する。
リオネルに仕えることを許され、多くの仲間に囲まれ、居場所を与えられている。
三年前に死にかけた――いや実際に心は一度死んだのかもしれないけれど、気づけばアベルは生まれ変わっていた。
まったく新しく。
川で捨てようとした命を救われたときから、リオネルに与えられた新しい人生。
長く冷たい冬のあとに訪れた、暖かい春。
自分を慕ってくれる者たちを守るためならば、なんでもできるような気がした。
瞳を潤ませるアベルに、リオネルが笑いかける。
「よかったね、アベル」
こくんとアベルはうなずいた。
「こんなにもたくさんの者たちが、アベルの帰りを待っていたんだよ」
もう一度アベルはうなずく。
「さあ、アベルもこうして回復したし、今夜は祝いだ。飲むぞ、食うぞ!」
ラザールが右腕を天に突き上げて吠える。
「ほどほどにしてくださいね、ラザール殿」
ダミアンが笑った。
今夜は祝勝会が催される予定である。それに先んじて、アベルはベルリオーズ家の仲間に挨拶しにきたのだ。
祝勝会が終われば、翌朝にはシャルムの連合軍は解散し、諸侯らは兵を率いて自領に戻ることになる。
「アベルも会には出席できるのか?」
ナタルに問われる。
「少しだけ顔を出させていただこうと思っています」
「そうか、私たちは城のなかへは入らないが、よかったらここへも顔を出してくれ。皆が楽しみにしているから」
「ええ、そうします」
笑顔でナタルに答えてから、アベルはリオネルへ視線を移す。行くとは答えたものの、よかっただろうかと思ったからだ。
視線が合うと、アベルの不安をくみ取ったらしく、リオネルは微笑した。
「いいよ。きちんと外套を羽織っていくというなら」
「ありがとうございます」
「それと、疲れたら部屋に戻ること」
「わかっています」
「よかったらリオネル様もごいっしょに足をお運びください。騎士らが喜びます」
そう言うクロードにリオネルはうなずいてみせた。
「ああ、遠慮なく顔を出させてもらうよ」
今夜の祝勝会で、この戦いに区切りをつけることになる。またいつ他国と剣を交えることになるかわからないが、共に戦った他家の兵士らともしばしの別れだ。
「ロルム公爵様から大鹿をいただいた。酒もたくさんある。皆、今夜に向けて用意をしよう」
騎士らに向けてクロードは告げた。地響きが起こるのではないかというほどの、男たちの歓声が湧き起こる。
時刻はまだ昼前。
だれもが夜を待ち切れぬ様子だった。
+
ラザールらと別れると、負傷者を見舞うためにリオネルは城へ戻った。
アベルもまた祝勝会まで休むようにと言われて自室へ向かう。自室――といっても、正しくはリオネルの寝室だが。
ひとりで部屋まで行けるとアベルは言ったが、リオネルはジュストに付き添うように命じた。ジュストはやや驚いたような顔をしていたが、その理由をアベルは知らない。
大広間のあたりでリオネルやベルトランと別れると、アベルはジュストと共に階段を上った。兵士らがせわしなく行き来し、今夜の祝勝会の準備にあたっていた。
最上階まで上ると、ようやく周りが静かになる。
長い廊下を無言で歩いていれば、アベルは気まずさを覚えた。それはジュストも同じだったらしく、彼は小さく咳払いした。
「アベル」
突然名を呼ばれてアベルは驚く。驚いたのは、単に名を呼ばれたことだけではなく、その声が大きく聞こえたからだ。
ジュストも自らの声が、思いのほか大きくなってしまったと感じたのかもしれない。再び咳払いしてから声の大きさを下げた。
「ごめん、いや、その……言うのが遅くなったけれど、元気になってきてよかった。歩けるまでに回復して、本当に安心している」
「あ、ありがとうございます」
どうも最近の――いや、ベルリオーズ邸を出て、ここで再会してからのジュストは様子が変だ。彼はこれまでアベルのことを嫌悪していたはずなのに。
「きみが怪我から回復したら言いたいことがあるって、まえに言っただろう?」
むろん覚えている。高熱に浮かされ、意識は朦朧としていたが、ジュストから言われたことはたしかに記憶に残っていた。
アベルがジュストへ眼差しを注ぐと、ジュストはそこから逃れるように視線を逸らす。
「覚えています。言いたいことってなんですか?」
「……ええと」
まごつくジュストはまるで少年だ。
迂闊にそんなことを思ってしまって、アベルは気を引き締めた。相手はあのジュストだ。なにかとんでもない嫌味を言われるかもしれない。
けれど、やはり目のまえのジュストからは、嫌味を口にするような雰囲気は感じられなかった。
突如ジュストが足を止める。
つられてアベルも歩くのをやめた。
対面し、まっすぐに見下ろされると、いつのまにか自分よりはるかに長身に成長しているジュストに戸惑う。
「……これまで」
最初にアベルを呼んだときと比べて、ジュストの声はかなり小さい。聞き取りづらいほどだ。
アベルが首を傾げると、ジュストは思いきったように口を開いた。
「これまで、幾度もひどいことをして悪かった」
思いも寄らぬ謝罪を受けて、アベルは我が耳を疑う。
「嫌味を言ったり、暴力を振るったり、ベルリオーズ邸から出ていけなどと言ったり、あの夜ジェルヴェーズ王子のまえに出させたり……本当に色々すまなかった」
そう言って深く腰を折るジュストを、アベルは唖然と見つめた。
「あの……」
なんと言っていいかわからない。
今更謝るなんて、どういう風の吹き回しだろう。からかわれているのだろうか、それにしてはジュストの態度は真剣だ。
だとすれば、なんと答えればいいのだろう。
――いいんです、そんなの。気にしないでください。
とか、
――どうしたのですか? ジュストさんらしくありません。
とか……?
けれど、どれもしっくりこない。
結局「こちらこそ……」という実に曖昧な言葉をアベルはジュストに返すしかなかった。我ながら、こちらこそなんなのかよくわからない。
「いや、アベルはいつも一生懸命にやっている。これまで意地悪をしてきたのは、アベルが疎ましかったからなんだ」
「…………」
「おれはずっとベルトラン様の従騎士になりたかった。けれど、おれは師事させてもらえず、代わりに突然現れたアベルが従騎士になった。リオネル様にも気に入られて、そんなアベルがうらやましかったし、目障りだった。心の底では、アベルよりおれのほうが能力があるのに、どうしておれが同じ場所に立てなかったのだろうって思っていたんだ」
耳の痛い話だが、ジュストの言うことはもっともだとアベルは思った。
実際に、あらゆることにおいてジュストの能力はアベルを凌ぐ。ジュストは頭の回転が早く、気も利き、細かいことによく気がつく。体格もいいし、力もあり、剣の腕も素晴らしい。ジュストがアベルを疎ましく思うのも当然だ。
「ごめんなさい」
素直にアベルは謝った。
それ以外に伝える言葉を見つけられない。
「いや、違うんだ。責めたいんじゃない。気づいたんだ。必要なのは能力だけじゃない。気持ちとか、思いやりとか、優しさとか……なんというか、いい言葉が見つけられないんだが、そういうものがおれには足りなかったと気づいたんだ」
少しばかり混乱して、アベルはジュストを見つめた。
「その……つまりおれは、なにもわかっていなかったということだ。もう少し思いやりがあれば、もっと早くに色々なことに気づけていたかもしれない」
「色々なこと?」
「ともかく、おれがしてきたことをアベルに謝りたい。これからは仲間として手を携えていけたら嬉しい。……おれを赦してくれないだろうか」
淡い水色の瞳を幾度かまたたかせ、アベルは言葉を失ったまま立ちすくむ。
それから、ふとなにかがすとんと身体の奥に落ちて、自然と笑みがこぼれた。
「赦すことなんてなにもありませんよ。熱が出ているあいだに、なにもかも忘れてしまいましたから」
赦すというのは、相手からの謝罪をただ受け入れることではないとアベルは思う。すべてを完全に忘れるということ――それが、真に相手を許すということではないか。
きょとんとした表情になってから、ジュストはアベルの言葉の意味を理解して、表情を崩した。
「アベル……」
「けれど、ひとつだけ覚えていることがあります。踊り子に扮したあの夜、ジェルヴェーズ王子のまえに出たのは私の意志です。そして、ジュストさんは心配そうに見守ってくれて、助けようとしてくれました」
眉根を寄せて、ジュストはうつむく。その顔は、嬉しそうというよりは、なにかに耐えているかのようだ。
「これからも仲間として力を合わせていきましょうね」
アベルは手を差し出す。
けれど、それをジュストは握り返さなかった。
「ジュストさん?」
すっとジュストが顔を上げる。それから、険しかった表情を和らげて、かすかに笑った。
「完敗だよ」
「なんのことですか?」
「アベルは本当に……」
言葉を切ってから、ジュストは目を細めた。
「なぜリオネル様がアベルを大切にするのか、本当によくわかった。どうして気づかなかったのだろう。おれには一番大切なものが欠けていた。おれに欠けていたものを、すべてアベルは持っている。ああ、リオネル様がアベルをおそばに置くのも当然だ」
「わたしはなにも――」
最後まで言い切らぬうちに、ジュストに手を握り返される。思っていたより、はるかに逞しい手だ。力強いけれど、優しい力だった。
「ありがとう、アベル」
「……ど、どういたしまして」
戸惑いの連続だった。
「これからは、アベルを守るから」
「守る?」
――わけがわからなくなってきた。
「いったいなにから?」
「知らないほうがいい」
命をつけ狙われるリオネルと違って、アベルは守られるような立場にはないので、なんだか気になる。
戸惑いを察したらしいジュストが言った。
「虫歯とか、風邪とか、馬の後ろ蹴りとか、そういう類のものだよ」
ジュストの冗談にアベルが笑うと、つられたようにジュストも笑う。ジュストと笑いあうなんて、初めてのことだ。
「今夜は雹が降るかもしれませんね」
「そうしたら、これからは毎日雹が降ることになる」
もう一度、二人は視線を交わして笑いあった。