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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
374/513

56









 翌日も、その次の日も、ユスター軍は国境に現れることはなかった。


 勝利の報はまたたくまにシャルム諸侯らのもとへ届く。

 けれどシャルム国民には、ユスター国との戦いは曖昧な噂としてしか伝わってこなかった。なぜならば、ユスター軍の侵略さえ正式に公表されていないのだから、撃退したとの話を聞いたところで真実かどうか判然としないからだ。


 このような状況は、国と国との戦いとしてではなく、あくまで両国の王が絡んでいないところでの戦いとみなされたことによる。

 つまり、シャルムにおいてはさして珍しくもない、国境周辺の小競り合いとして認識されることとなったのだ。


 事実を知るのは一部の諸侯と王家のみ。


 それでも、ユスター国境近くに住まう者たちは知っている。ロルム家、ベルリオーズ家、トゥールヴィル家という三公爵家を含んだ王弟派諸侯が、ユスターの大軍を退けたということを。


 そのことは、彼らの口から少しずつ……木の根に水が沁み入っていくように、今後広くシャルム国民に伝わっていくことになるだろう。






+++






 周辺諸侯ら以外で戦いの勝利をいち早く知ったのは、王都サン・オーヴァンの宮殿に住まう正騎士隊隊長シュザンと、副隊長シメオン、そして国王とその側近らだった。


 そして彼らとほぼ同時に知ることになった少年がいる。ロルム公爵家の長男コンスタンだ。


 手紙を受けとったとき、コンスタンは庭園の脇にある木立で剣の素振りをしていた。

 一心不乱に剣を振るっていたため、コンスタンはそばに人がいることに気づくことができなかった。相手はしばしのあいだその様子を見守っていたらしく、


「もう少し形を崩したほうがいい」


 と指摘されたときには、コンスタンは驚いて剣を落としかけた。


 はっとして振り返ったコンスタンの瞳に移りこんだのは、濃い茶色の髪と、優しげだが凛とした眼差しの若い騎士だった。


 引き締まった身体と、すらりとした長身。加えて文句なく美形だったので、コンスタンは戸惑う。いったい何者なのか。


「姿勢は整っているが、少し崩したほうが次の動作に移りやすくなる。わかるか? 反撃が容易になるんだ」

「……貴方は?」


 かすかな笑みを口元に刻んで、若者は一通の手紙をコンスタンに差し出す。


「お父上からの書状だ。コンスタン殿宛てだ」


 公爵家の嫡男と知ったうえで気安く話しかけくる相手を、ちらと不信の眼差しで見やりつつ、コンスタンは手紙を受けとる。


 受け取ったまま手紙を開こうとしないコンスタンに、若い騎士は「読まないのか?」と尋ねた。


「いいのですか?」


 ついこちらが敬語を発してしまったのは、そうしなければならないような雰囲気が相手にあったからだ。それは決して威圧的などというものではない。上品でありながら、心身の強さ――そして揺るぎない自信を感じさせるものだ。


「もちろん」


 若い騎士が答える。話し方は気さくなのに、なぜそんなふうに感じるのだろうか。

 戸惑いながらもコンスタンは手紙を開いた。


 文字を辿っていくうちに、コンスタンの双眸が大きく見開かれていく。途中からは手が震え――いや、視界が歪んで、しっかりと文章を辿ることさえできなくなっていった。


「よかったな」


 若者がほほえみかける。

 優しい笑みだ。


 手紙には、ユスターとの戦いに勝利した旨が、まぎれもない父公爵の字で綴られていた。このときはじめてコンスタンは、父親の無事と、戦いが無事に終結したことを知った。


 溢れそうになった涙を、けれどこぼれ落ちるまえに手の甲で拭って、コンスタンは目のまえの若い騎士を見据える。


「どこでこの手紙を?」

「コンスタン殿のお父上から私宛に届いた手紙に、それが入っていたのだ。私から直接コンスタン殿に渡してほしいと書かれていた」


 まじまじとコンスタンは若い騎士を見つめる。

 いったいこの人はだれなのだろう。


「手紙は最後まで読んだか?」


 問われて、コンスタンは慌てて視線を再び書状へ戻す。

 涙で霞んで最後のほうには目を通せていなかったのだ。



『……勝利の旨は同時に陛下にも書き送ったゆえ、戦いが終わったことはすぐに王宮内でも知れ渡ることだろう。だが、そなたにはだれよりも早く知らせたかった』



 自分にいち早く戦いの終結を知らせようとしてくれた、そのことがコンスタンはなによりも嬉しい。

 手紙はまだ続く。



『落ちついたら、そなたが正式に従騎士になれるよう取り計らうつもりだ。すでに正騎士隊隊長であるシュザン・トゥールヴィル殿に師事できるよう調整を始めている。最終的に決まれば知らせるから待っていてくれ』



 最後は、妹や母が元気でいること、再び会える日を楽しみにしていることなどで締めくくられていた。


「……シュザン・トゥールヴィル様?」


 その名をむろんコンスタンは知っている。


 シャルム正規軍を率いるシュザン・トゥールヴィル。

 正騎士隊隊長といえば、コンスタンのような貴族の子弟らにとっては遠く憧れの的だ。……あるいは貴婦人方にとってもそうかもしれないが。


 夢でも見ているかのような心地だった。

 戦いに勝利したうえに、シュザン・トゥールヴィルの従騎士になれるなんて。


「これ……本当?」


 思わずコンスタンはつぶやいていた。

 すると、すぐ目のまえに差し出された大きな手に気づき、コンスタンは顔を上げる。


「私がシュザン・トゥールヴィルだ」


 驚きのあまりコンスタンは口を大きく開き、声も出せずにシュザンを見つめた。


「お父上には世話になっている。コンスタン殿を従騎士に迎えられたら光栄だ」


 差し出された手を、握り返していいものかどうかわからない。あまりに遠いはずの存在が、こんなに近くにいて、いっしょに会話をして、さらに手を差し出しているなんて。


 ……それに。


「まだ、貴方の従騎士になれると決まったわけでは――」


 おそるおそる不安を口にする。

 都合のいい夢は、またたくまに覚めてしまう気がした。


「大丈夫だ。コンスタン殿を従騎士として迎えられるよう、私からも陛下に口添えする。鍛錬は厳しいがついてこれるか?」


 問われると、しばしぽかんとしていたものの、コンスタンは我に返って姿勢を正した。


「もちろんです! どれほど厳しい鍛錬にも負けません」


 シュザンが笑みを刻む。


「そうか」


 おずおずとコンスタンがシュザンの手を取ると、強い力で握り返される。


「よろしく」

「……よろしくお願いします!」


 ぽんとコンスタンの肩を叩くシュザンの手を、コンスタンはとても大きく感じた。







 待ちあわせていたカミーユが木立に現れたのは、シュザンが立ち去って間もなくのことだ。


「コンスタン、どうしたの? ぼんやりして」


 親友の姿をみとめて、コンスタンは駆け寄りその腕を掴む。


「聞いてくれよ、カミーユ! すごいよ、すごいことが起きたんだ!」


 ロルム公爵からの手紙の内容と、師事することになるだろうシュザン・トゥールヴィルその人に会ったことを伝えると、カミーユがコンスタンに負けぬほど顔を輝かせた。


「コンスタン、よかったね! ロルム領や家族が無事で――それに、従騎士になれるなんて!」


 幾度もうなずくコンスタンの瞳は、わずかに潤んでいる。


「シュザン・トゥールヴィル様の従騎士になるなんて、本当に幸運だよ! あのリオネル・ベルリオーズ様や、ディルクも師事していたんだよ。本当にうらやましいよ!」

「ああ、なんだか夢を見ているみたいなんだ。どうしたら現実と思えるかな?」

「頬をつねってやろうか?」


 え、とコンスタンが意味を解さぬうちに、カミーユの手が伸びて頬をつまむ。


「ほら」

「おい……い、痛っ」


 やったな、とコンスタンが怒って追いかけると、カミーユが笑いながら逃げる。


「だって、現実だと思えないって言うから」

「痛かったよ!」

「これで現実だってわかっただろう?」

「仕返しするからなっ」

「なんでだよ? コンスタンのためにやったのに」


 追いつきそうになるコンスタンから、カミーユは「わ~」と言いながら逃げ惑う。ついにコンスタンに肩を掴まれ、カミーユは地面に倒れた。


「つ、捕まった!」

「それ、仕返しだ」


 そう言ったもののコンスタンはカミーユの頬をつねったりはしなかった。代わりに、カミーユの手をしっかりと握る。


「?」


 拍子抜けしたカミーユから視線を外し、コンスタンはうつむきながら言った。


「ありがとう」

「え?」

「嬉しい気持ちを、こうして分けあえる相手がいるのだから、おれは幸せだ」

「…………」


 わずかなあいだ沈黙してから、へへ、とカミーユは照れくさそうに笑う。


「なんだかコンスタンが急に大人に見えたよ」

「いっしょに大人になろう、カミーユ。自分の欲や保身のためだけに力を尽くす大人じゃなくて、人を愛して、その人たちのために力を尽くすことのできる大人に」


 コンスタンの瞳を、カミーユの強い眼差しが見返す。

 二人は声を出さずに、笑みを交わした。


 王弟派のシュザン・トゥールヴィルに師事することになったコンスタン、そして国王派のノエル・ブレーズの従騎士であるカミーユ。

 立場の大きく異なる二人には、まだ乗り越えなければならない壁が、大きく立ちはだかっている。


 けれど、自分たちならば、深い友情でその壁を乗り越えられる気がした。






+++






 王都より戦場に近いこの場所へも、すでにシャルム軍が勝利したとの報は届いていた。


 ブレーズ邸。


 駒を動かす手が、不意に止まる。

 しばらくそのままでいたのち、


「打つ手がない」


 と低く駒の持ち主が言った。


「いいえ、殿下。まだチェックメイトエシェッケマットを避けることはできます」


 殿下と呼ばれた若者――ジェルヴェーズはかすかに眉を寄せる。それからじっとチェス盤を見つめた。

 けれど途中で集中力が途切れたかのように力を抜き、顔を上げて腹心へ視線を向ける。


「リオネル・ベルリオーズは、左腕が動くようになったらしいな」


 その声には苛立ちが混じっている。けれど、受け答えるフィデールは普段どおり淡々としていた。


「さようですね」

「戦いに勝利したのはいいが、その他のことについては、なにひとつ思うように事が運ばなかった」

「それ以外というのは、リオネル殿の怪我が治ったことですか?」

「それだけではない。ベルリオーズ家の騎士団における負傷者はわずかで、戦死者にいたっては皆無。これでは、ほとんど損害がなかったといっていもいい。思うような結果に導くことができなかったではないか」


 無表情だった顔を、笑うとまではいかぬ程度にわずかにゆるめて、フィデールは視線をチェス盤へ落とす。


「たしかにベルリオーズ家それだけで見れば、被害は大きくはありませんが、今回戦いに参加した王弟派諸侯ら全体を見れば、死者も少なからず出ていますし、それなりに疲弊しています」


 ジェルヴェーズはなにも答えずに、フィデールへ砂色の瞳を向けた。


「王弟派が少しでも弱まり、同時に王都にいる正騎士隊や国王派諸侯が無傷で戦いに勝利することができたのですから、充分満足できる結果です」

「おれはリオネルとベルリオーズ家を叩きつぶしたい」

「それは私も同様です」

「ならば――」

ナイトキャヴァリエです、殿下」


 なんのことだと問うジェルヴェーズの瞳に、フィデールは笑いかける。


「殿下のキャヴァリエが、まだ動かせるではありませんか」


 はっとしてジェルヴェーズは盤へ視線を戻す。砂色の瞳は大理石で作られた駒のひとつの上で止まった。


「……なるほど」

「たいして役に立たないと思っていた捨て駒が、意外と役に立つものです」


 駒をつまみ上げ、ジェルヴェーズはそれをキングロワのまえへ移動させる。


「これで殿下のロワは守られました」

「つまらぬ駒に助けられるとはな」

「無傷で残った捨て駒は、また別の機会に利用できます。いいえ、むしろ残しておいたほうが後々役に立つのです」


 そう言いながら、フィデールは迷うことなく次の一手を打つ。

 ジェルヴェーズが笑った。


「そういう考え方もあるか」

「そちらのほうが意外とおもしろいかもしれません」


 相手がそう答える間に、ジェルヴェーズは自らのルークトゥールを移動させた。


「チェックメイトだ」


 フィデールは視線を盤のうえへ落とす。


「――私としたことが迂闊でした。話に夢中になりすぎたようですね」

「今回は我々の勝利としよう。だが、フィデール。隠れて姿の見えぬクイーンダムを取りたいときは、どうすればいい?」


 話が突然代わったので、フィデールは盤からジェルヴェーズへ視線を移す。ためらう色のない眼差しが見返していた。


「そうですね……」


 しばし考え込んでからフィデールは真顔で答えた。


「まずは相手のポーンピヨンやナイトを取って、ダムの居場所を探し出してみてはいかがでしょう」

「それでも見つからなければ?」

チェスエシェックのルールを変えてしまえばいいのでは」

「それはおれが玉座についたときだ。いますぐ欲しいならどうすればいい?」

「ならば、明日は街へ『クラウディア』でも観に行かれてはいかがですか」


 声を上げてジェルヴェーズは笑う。


「それもいい」

「同伴する美しい娘をご用意いたします」


 フィデールの計らいを、「いや」とジェルヴェーズは退ける。


「明日はおまえだけでいい」


 ふとフィデールが不思議そうな面持ちになる。


「娘は不要ということでしょうか」

「私が欲しいのは劇中の女だ」

「ああ」


 そういうことですか、とフィデールは頷いた。


「殿下好みの娘をレナーテ役にするよう手配しておきましょう」

「淡い橙色の髪に、澄んだ空色の瞳の少女だ」

「……かしこまりました」


 レナーテ役をこなせる役者のなかで、果たしてジェルヴェーズの好む容姿の娘がいるだろうかと、フィデールは内心で首をひねる。が、いなければ用意するしかない。


「さて、私のロワは取られる運命にあるようですが、次はいかがいたしますか?」

「これで互いに一勝一敗。ならば、どちらかが先に二勝したら終わりとする」


 大理石の駒は、それぞれ定位置へ戻されていった。










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