55
寝室に集まったのは、アベル、リオネル、ベルトラン、ディルク、マチアス、そしてレオンという馴染み深い面々である。
「本当に久しぶりだなあ」
寝台に浅く腰かけるアベルへ、ディルクはしみじみと言った。
「いなくなってからずっと心配していたんだよ」
本来ならば横になっていなければならないアベルだが、今は客人のまえなので、身体を起こしている。
「その……もう二度と会えないかと思っていたから、会えて嬉しい」
控えめながらレオンもまた再会の喜びを伝えてくる。
皆の優しさに、アベルは胸がじんと熱くなった。
「本当にご心配をおかけしました」
「早くアベルと話したかったんだけどさ、ケチなリオネルが全然会わせてくれなかったんだよ」
「ケチ、ですか」
その表現に目を丸くすると、ディルクは腕を組む。
「アベルに関しては、リオネルはひどくケチな男になる」
リオネルが苦笑した。
「ごめん」
自覚があるのか、否定はしない。
「会わせてもいい頃合いかとも思っていたのだけど」
「アベル殿が動くことのできるようになった今が、最もいい頃合いだったのでしょう」
結論付けたのはマチアスだ。
「いつもながら、主人であるおれよりも、リオネルの肩を持つ従者だな」
ディルクがつぶやくと、
「いや、素晴らしい従者だ」
といつものようにレオンがマチアスを褒め称える。片眉を吊り上げてディルクは沈黙した。
「あの……遅くなりましたが、ご戦勝おめでとうございます」
頭を下げるアベルに、リオネルが目を細める。
「ありがとう。勝つことができたのは、戦いに参加したひとりひとりの勇気と努力、そしてアベルの功績があったからだよ。あのとき、右翼が総崩れになっていたり、あるいはフランソワ殿になにかあったりしたら、シャルムの勝利は危うかった」
「過分なお言葉です」
そう答えるアベルの表情は晴れない。
もっと――もっと戦って力になりたかった。それなのに自分は怪我を負い、後半はリオネルの寝台を奪って休んでいるしかなかった。それが悔しい。
「けれど、これからはあんな危ないことをしないでくれ。たった二騎で敵軍に突っ込むなんて」
「……あのときは、そうする以外に方法が見つかりませんでした」
リオネルは小さく息を吐く。
「わかっている」
アベルの意思もさることながら、指示を出したのがフランソワだということも、リオネルは知っている。だからこそ、それ以上強くは言い諭せないようだった。
ディルクがいつもの明るい調子で言う。
「まあ、おかげでシャルムは勝利したんだし、こうしてアベルは助かったんだし、よしとしようよ、リオネル」
沈黙したリオネルの代わりに、それにしても、とレオンが口を開く。
「アベルはここへ来るまで、いったいどこでなにをやっていたのだ?」
「え?」
突然の問いに、アベルは口ごもった。聞かれることは予想していたが、話題が急に変わったので、適当な答えが用意できていなかったのだ。
「ええ、その……」
ジェルヴェーズから身を隠していた、とでも言っておけばよかったのかもしれないが、うまく最後まで言い訳できる自信がなかった。
「突然ベルリオーズ邸からいなくなったから驚いた。もう二度と会えないのかと心配した」
「すみません」
「本当にリオネルのもとには戻らないつもりだったのか?」
まさか、という様子でディルクに確認され、アベルは口ごもる。そのとおりなのだが、是とも非とも答えることができない。
「本当の本当に?」
「あの……」
「やめてくれ、おれたちのところからいなくなるなんて。リオネルに愛想が尽きたなら、おれのところへくればいい」
「リオネル様に愛想が尽きるなんて、そんなことあるはずありません」
慌ててアベルが答えると、
「それは冗談だけどさ」
と真面目な口調でディルクが返す。
「なにがあったのか、おれたちにはさっぱりわからないから」
「…………」
それはそのとおりだ。アベルが館を去った理由を彼らは知らないのだから。例えジェルヴェーズから身を隠すためだったとしても、長期に渡ってリオネルのもとを離れる理由にはならない。
「アベルがいなくなってからのリオネルは、荒れに荒れていたんだよ」
「荒れる?」
「ディルク」
咎める眼差しをリオネルはディルクへ向ける。それ以上言うなというリオネルの目だが、ディルクは続けた。
「荒れてたっていうのは、なんというのかな」
助言を求められるようにディルクからちらと視線を向けられれば、レオンは少し考える顔になる。そして静かに言った。
「魂が抜けたようだった」
「そう、そんな感じだよ。アベルはあんなリオネルを見たことがないだろう? そりゃそうだ、アベルといっしょにいるときのリオネルは本当に楽しそうだからね」
「もういい、ディルク。その話はやめてくれ」
やや不機嫌にリオネルが話を遮る。
「ああ、わかったよ。でもひとつだけアベルに確認したいんだ。もう、ひとりでどこかへ行こうだなんて考えていないだろうね?」
あらためて問われると、どきりとする。
リオネルとは約束したが、本当にいいのだろうかという思いはぬぐい切れていない。
このままリオネルのそばにいることが、果たして彼のためになるのだろうか……?
皆はアベルがここにいることを求めてくれるが、それに甘んじてよいのか不安になる。感情だけではどうにもならないことも、この世のなかにはあるのではないか。
それでも、今はうなずく以外にないのでアベルは首を縦に振る。リオネルとの約束もある。
そう、許されるなら、リオネルが白髪になるまで仕えていたい。
「本当に? うなずくまでに間があったようだけど」
「ほ、本当です」
「どう思う、リオネル?」
意見を求められたリオネルは、わずかに目を細める。
「真意はともかく、信じなければ、おれは夜もおちおち眠れない」
「どうせ、おちおち寝てないんだろう?」
「そうかもしれないね」
リオネルは小さく笑う。
「信じたいと思っているよ、心から。けれど不安になる――アベルはいつも、気づけばどこかへ消えてしまいそうだ」
「…………」
なにも告げずにいなくなった前科がありながら、信じろというほうが難しいだろう。アベル自身、未だに迷いがあるのだから尚更だ。
「我らのリオネルが眠れないでは困ったね。動けるようになってきたし、今夜からは、ひとりずつ交代でアベルの見張りをしようか」
それは妙案だ……とはだれも言わない。
が、反対意見も出なかった。
「だれも反対しないのか? それはそれで怖いな」
自分で提案しておきながら、ディルクが苦笑する。リオネルはむしろ実行したかったかもしれない。
「どこへ行くんだ、アベル?」
問われたとき、アベルはすでに寝台から腰を浮かして、扉のほうへ向かおうとしていた。
「諸事情で、お暇をいただきたく存じます」
「冗談だよ。見張ったりなんかしないから」
「動いてはいけないと言っているだろう」
リオネルに叱られ、アベルは腰を再び寝台へ下ろした。
「おまえたち、どこからどこまでが冗談なんだ?」
ベルトランが苦笑する。
「それぞれ、ある程度本気な気もするが」
平坦な声音でレオンが言った。と、扉を叩く音がする。マチアスが開けに行くと、盆を持った兵士が立っていた。
「お食事をお持ちしました」
礼を述べてマチアスが盆を受けとる。マチアスはそれを寝台の脇に据えられた小卓に置いた。
「ゆっくり召し上がってください」
「そろそろおれたちは会議に戻らなければな」
ベルトランが言うと、ディルクが残念そうな顔になる。
「もう少しここにいてもいいんじゃないか?」
「会議が終わるぞ」
戦いは終わったが、後処理は多く残されている。リオネルが立ちあがり、アベルのそばへ寄った。
小卓に置かれたスープの皿からは、香草の香りがする。
しゃがんで目線を合わせると、リオネルは軽くアベルの腕に触れた。
「きみが食べられるようになって嬉しい。一日でも早く回復することを祈っている」
腕に触れるリオネルの手の温度を意識しながら、アベルはうなずく。
いつだって――こんなわずかな別れだって、寂しい。
それなのに、よくリオネルのもとを去ることができたと今更ながら思う。あるいは、一度完全なる別れを決意し、再び彼のそばへ戻ったからこそ、もう二度と離れたくないと思うのだろうか。
「また来るから」
こくんとアベルはうなずいた。
リオネルが立ちあがり、手が離れていく。
残されたリオネルの香りと、彼の手の温度を、アベルは無意識に心のなかで抱きしめた。
「また来るからね」
そう言いながら出口へ向かうのはディルクだ。
「回復されたら、また皆で蜂蜜酒など飲みましょう」
とマチアスがほほえむ。
「剣の稽古は、傷口が完全にふさがってからだな」
片手を上げて部屋を出ていくベルトラン。一方で、レオンは重い足取りで扉へ向かう。
「また会議か……」
するとリオネルが扉のまえで振り返った。
「レオンはここに残ってくれないか」
え、とレオンは顔を上げる。
「ひとりで食事をさせるのは忍びないから、アベルといっしょにいてあげてほしいんだ」
恐縮して断ろうとしたが、レオンの晴れやかな表情が目に飛び込んできたので思わずアベルは言葉を呑む。
「ああ、お安い御用だ」
「アベルが眠ったら、ここで哲学書でも読んでいてくれたら助かる」
これはもしやディルクが言っていた「見張り」というものだろうかとアベルは疑心暗鬼になったが、レオンがいやに嬉しそうなので、別の事情も絡んでいそうだと察する。
「感謝する、リオネル」
なぜか感謝までして喜ぶレオンと共に、アベルは部屋に残って食事をすることとなった。
+++
スープを口に運ぶ。
香草と野菜の甘みが身体に沁みた。
「どうだ、おいしいか」
普段は力の抜けた調子のレオンが、やけに嬉しそうに聞いてくる。
アベルはうなずいた。
「とてもおいしいです」
「よかったな」
「すみません、わたしのために残っていただいて」
詫びるとレオンは小さく笑った。
「違うんだ」
アベルは首を傾げる。なにが「違う」のだろう。
「リオネルは気を利かせてくれたのだ。リオネルやディルクらといるのはいいが、王弟派諸侯らの集まりのなかにいるとどうも居心地が悪くてな」
なるほど。アベルは合点がいった。
「あまり気にする必要はないのではありませんか?」
「そうはいっても気になる。兄や父のやりようはあまりにひどい。自分でそう思うのだから、王弟派諸侯らが話すのを聞けば尚更こたえる」
レオンの微妙な立場にアベルは同情した。彼は現王家の者ながら、従兄弟のリオネルや、その親友ディルクと仲がいい。難しい立ち位置にいることは容易に察せられる。
「それでも、レオン殿下はレオン殿下ですから」
かすかな笑みを添えてアベルは言った。
困ったような、わずかに照れるような表情でレオンが眉を下げる。
「そう言ってもらえると安心する」
「国王派とか、王弟派とか関係なく、皆、レオン殿下が大好きなのです。もちろんわたしもです」
レオンが頭をかく。
「アベル、あまり面と向かって言われては照れる」
「大切なことです」
「そう言ってくれるアベルだから、皆がそばに集まるのだな」
「集まる? わたしたちはリオネル様のまわりに集まっているのですよ」
「それもそうだが、それだけではない。アベルがいるだけでなにかが違う」
言いにくそうに話すレオンに、アベルは笑顔で冗談を放る。
「わたしだって、あまり面と向かって言われては困ります」
虚を突かれた様子でレオンがアベルを見返し、そして二人は同時に笑った。
「王弟派だとか、国王派だとか、そんなものが早くなくなればいいですね」
家を追放された今となってはさほど関係がないことだが、自分自身が生粋の国王派である母から生まれたこともあり、アベルは心からそう思う。
「本当だな」
ぽつりとレオンは答えた。
「父上が、クレティアン殿から玉座を奪ったりしなければ、このようなことにはならなかったのだ」
言葉を探せず、アベルはレオンを見つめる。
「この国を治めるのは、叔父上のはずだった。リオネルが『王子殿下』と呼ばれるべきだったのだ」
「……今更、過ぎた話ではありませんか」
「悪いことをすれば、必ず自らに跳ね返ってくる。父上が卑劣な手段で玉座を手に入れたりしなければ、兄上があそこまで苦しむこともなかった」
「苦しむ?」
意外な言葉を耳にしたような気がして、アベルは問い返す。
煙突掃除夫に扮した際、ジェルヴェーズから容赦ない暴力を振るわれたことを思い出す。残酷で傍若無人な彼のうちに、苦しみがあるなどとは考えたこともなかった。
「ああ、兄上はおそらく苦しんでいるのだ」
そう言ったあとで、レオンは申し訳なさそうにアベルを見た。
「アベルは兄上から暴力を受けたのだから、このような話は聞きたくないだろうが」
「いいえ、聞いてみたいです」
やや躊躇う素振りを見せてから、レオンはゆっくりと口を開いた。
「兄上も、おそらく心のどこかでリオネルこそが王位継承者であるべきだと考えているのだ。だから、あれほどリオネルを憎むのだと思う」
「…………」
「兄上はけっして馬鹿ではない。むしろ頭がよく、ぼんやりした性格のおれなどより、よほど繊細な精神の持ち主なのだ。だからこそ葛藤が大きく、ああして冷酷で身勝手に振る舞うことでしか対処できない」
「そう、なのですか」
「兄上の心は空虚だ。王位を継ぐべく育てられ、それなのに自分ではなくリオネルこそが正しい者だと頭のどこかで思っている。王にならなければ意味がないと叩きこまれてきた者が、実は真の後継者はおまえではないと言われる気持ちを想像できるか?」
存在意義を否定されたも同然だろう。
「兄上はリオネルが邪魔なだけではない。憎いのだ。自分をこれほどまで苦しませる存在――それがリオネルだからだ」
「だから、リオネル様がなにをしたというわけでなくとも、その存在自体に憎しみを抱くのですね」
「殺したいだけではない。自分が味わった苦しみ以上のものを与えなければ、気が済まないのだ」
けれど、リオネルはなにも悪いことをしていない。
頭の片隅でそう思ってから、先程の自分の言葉を思い返す。そう、なにをされたわけではなくとも、リオネルの存在自体をジェルヴェーズは深く憎んでいるのだ。
逃れようのない運命が、二人のあいだには存在する。
「物心ついたときから、おれは、神経質で暴力的な兄上が苦手だった。だから、その気持ちに気づいたのは最近のことだ」
言葉がなかった。リオネルへの憎しみは理不尽だが、ジェルヴェーズの苦しみも想像できないではない。
「ブレーズ家がベルリオーズ家を敵視しているのは知っているか?」
「……はい」
母親の実家だけに、答える声は小さくなる。
「昔から両家は不仲だったが、先王がベルリオーズ家の令嬢を正妻として迎えたことが、亀裂を深くさせた。ブレーズ家の者は、心底ベルリオーズ家を忌み嫌っている」
「理不尽な話です」
心からアベルはそう思った。ブレーズ家に生まれたからといって、ベルリオーズ家を憎むなんて――あるいはその逆も、どう考えてもおかしい。
「そうだ。だが、そういうものだ。ディルクの婚約者がブレーズ家の血を引いていたことは知っているだろう?」
ディルクの婚約者――それは紛れもなく、過去に葬り去った自分自身だ。
心臓が跳ね、アベルは返事ができなかった。
「ディルクも悩んでいた。婚約を破棄したのは、ディルク自身のためではなく、婚約者を苦しませないためだった」
鼓動が早鐘を打つ。これ以上聞くことは、辛かった。
「それなのに、相手の女性は死んでしまった。……婚約者の家であるデュノア家は事故だと言っているが、自殺とも言われている」
「…………」
「ディルクは気丈に振る舞っていたが、婚約者を死なせた苦しみは想像のできないものだ。ああ見えても、未だに自分を責め続けているだろう。デュノア家の幸福も崩れた。これほど多くの者の苦しみを生んだのは、他でもないおれの父親だ」
気がつけば、アベルは両手で顔を覆って目を硬くつむっていた。
「アベル? 大丈夫か、具合が悪いのか」
慌てた足取りでレオンが駆け寄る。
「平気です、少し眩暈がしただけで……」
「眩暈? リオネルを呼んでこよう」
部屋を出ていこうとするレオンを、アベルは服を強く引っ張ることで制する。
「いいんです、本当に大丈夫ですから」
レオンは足を止め、戸惑う様子でアベルを見下ろした。
「……そうか。それなら、まあ、おれでよければそばにいる」
アベルは小さくうなずく。わずかに安心した相手の気配があった。
「すまない、少し話をしすぎたかな」
「いいえ……このスープ、甘くて本当においしいです」
アベルはなにも考えないようにして、優しい味を噛みしめた。