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食堂に会していた諸侯らの視線がいっせいにアベルのほうへ向けられる。それに気づいたアベルは、驚きの表情になった。
食事の時間はとうに過ぎているというのに、これだけ諸侯らがそろっているのだから、アベルも驚くはずだ。
「ご、ごめんなさい」
引き返そうとするアベルを、マチアスが呼び止める。
マチアスがアベルと再会するのは二ヶ月ぶりのことだ。以前よりアベルは痩せており、片手を壁について立っている姿は、とても本調子であるようには見えない。
「待ってください、アベル殿」
振り返りながら、アベルはマチアスを見やって小声で言った。
「……お久しぶりです、マチアスさん」
平凡な挨拶を寄こすアベルに虚を突かれながらも、マチアスは心もとなく立つアベルの腕を支える。
「挨拶などしている場合ですか。部屋で休んでいなければ」
なにか言おうとしたのかアベルが口を開きかけたとき、リオネルが二人のもとへ歩み寄ってくる。
「どうしてここへ?」
続いてディルクがひょこっとその背後から顔を出す。先程までは空気のように存在感を消していたはずのレオンも、足早に駆け寄ってきた。
「アベル! 本当にアベルだ」
ディルクは心から感動しているようだ。なんと言ってよいかわからぬ様子のレオンを尻目に、ディルクはアベルのそばへ寄る。
「なんて久しぶりなんだ! 動けるようになったのか?」
抱きつきそうな勢いのディルクに先んじて、リオネルがアベルの手をとった。
「動いてはいけないと医師に言われているだろう?」
リオネルの声は、わずかに責める調子だ。
「お腹が空いて」
遠慮がちに返されたアベルの台詞に、リオネルが拍子抜けした面持ちになった。
「近くにだれもいなかったので下りてきたんです」
脱力したようにリオネルは息を吐く。
「そうか、すまない。すぐに戻ろうと思っていたんだ。会議が思いのほか長引いて」
「国境から、ユスター軍は引き揚げたのですね」
真っ直ぐに見上げるアベルの眼差しに、リオネルはややあってしっかりとうなずきを返した。
「そうだ。どうしてそれを?」
「デュカスさんから聞きました」
アベルがユスター軍の撤退を耳にしたのは、かれこれ一時間ほどまえのことだった。
『いい知らせです』
勝利の報告を、アベルは医師デュカスの口から聞いた。
『先程、戻ってきた兵士の方からうかがいました。ユスター軍は、シャルム領土内から引き揚げていったそうですよ』
この知らせを受けたとき、アベルが負傷してからすでに半月近く経っていた。
『本当ですか』
思わずアベルが身を起こすと、デュカスは渋い顔になる。
『少しよくなってきたからといって、激しい動きは禁物です』
『ユスター軍は、シャルム領土内から出ていったのですか?』
『ええ、じきにリオネル様やベルトラン様も戻られ、貴女に直接お話しされるでしょう』
大きく息を吸ってから、それをアベルはゆっくり吐き出す。
戦いが終わった。
一ヶ月以上、壮絶な殺し合いをした。いつまで続くか、先の見えなかった悲惨な戦いが、ついに幕を下ろした。
言葉にならない。
この思いを、どう言葉にすればいいかわからなかった。
『貴女もよくがんばりましたね』
デュカスは淡々と言った。
『正直、負傷した貴女をはじめて見たときは、助からないかもしれないと思いました。屈強な騎士ならいざ知らず、女性があれほどの怪我を負っていたのですから』
戸惑うような面持ちのアベルに、デュカスは小さく笑う。
『けれど、リオネル様が「助けてほしい」と私に懇願されましてね――ついつい、必ず助けると誓ってしまいましたよ。それからは神に祈る日々です。傷の手当に最善を尽くすことはできますが、人の生き死にだけは、医者の手ではどうにもならないことですから』
『……大変ご迷惑をおかけしました』
生真面目に謝罪するアベルへ、デュカスはうなずきを返す。
『本当に寿命が縮まる思いでした。リオネル様にあれほど頼まれたにも関わらず、貴女を死なせたら申しわけが立ちませんから。けれど貴女はよく頑張ってくれました。よく、生き抜いてくれました』
無言でアベルはデュカスを見つめる。
『小さな身体に宿る、強い生命力を私は感じましたよ。まるで奇跡です。きっとリオネル様やお仲間の思いが通じたのでしょう』
『本当は、リオネル様のお力になれるなら、死んでもかまわないと思っていました』
ぽつりとアベルが告白すれば、デュカスはやや驚いた面持ちになった。が、すぐにもとの表情へ戻る。
『命をとりとめたのは、貴女に生きる意志があったからこそですよ。ご自身でも気づかぬ思いが、きっとあったのでしょう』
『…………』
『ここはご存知のとおり、リオネル様の寝室です。負傷された貴女がいらしてからは、リオネル様は寝台を貴女に譲り、ご自身は傍らに布団を敷いてお休みになられています』
デュカスの視線につられて、アベルは床を見た。厳しい戦いの日々なのに、硬い床で休まねばならなかったリオネルのことを思えば、いたたまれぬ思いに駆られる。幾度この寝台から降りようと考えたことか。
心情を見透かしたようにデュカスが言った。
『私が言うのもいかがかとは思いますが、負い目を感じる必要はありません。リオネル様は貴女が回復することだけを望んでおられ、貴女はそれに応えたのですから』
『でも……』
『私が言いたかったのは、それほどまでに貴女はリオネル様に大切にされているのだということですよ。この世に未練も残るはずです』
どう答えればいいかわからず、アベルはうつむく。リオネルから大切にされるなど身に余る境遇だ。
『戦いは終わりました。あとは貴女の傷が完全に癒えれば、リオネル様の憂いも晴れるでしょう』
深く笑んでから、デュカスは部屋を出て行った。
彼が出て行ったあと、アベルはひとりで密かに泣いた。安堵の涙だ。そして、リオネルへの感謝の涙だった。
リオネルのためになにができるか――そう考えたとき、アベルは一刻も早く元気な姿を見せることだと思い至る。
元気になるためには、きちんと食事をとり、よく休まねばならない。
ようするに、今のところじっとしているしかないのだ。
元来お転婆なアベルにとって、それはもどかしいこと。
一刻も早くリオネルに元気な姿を見せたい。そうしてアベルが思いついたのは、まずは食事をとることだった。
食欲はさほどないが、少しは精のつくものを口にしなければ。
かくしてアベルは食堂へ降りてくることとなった。食堂が、諸侯らの会議の場になっていることなどつゆとも知らずに。
「とにかく」
言い聞かせる口調でリオネルは言った。
「食事は部屋へ運ばせるから、アベルは寝台へ戻るんだ」
リオネルに言われ、アベルは素直にうなずく。
「部屋まで送るよ」
「……自分で戻れます」
「アベルがよろよろと階段を降りて、ここまで来た姿を想像するだけでぞっとする。なにもなくてよかった」
本当に無茶ばかりする、と口にするリオネルの顔には呆れとも諦めともつかぬ表情が浮かんでいる。
「まだおれたちには話させてくれないのか?」
アベルを促し、歩きだそうとするリオネルへ、すかさずディルクが声をかけた。振り返ったリオネルだが、すぐに視線はディルクの背後へ向けられる。
「叔父上」
つられてアベルも振り返れば、興味深げにこちらを見ていたのは、トゥールヴィル公爵フェルナンだ。
むろんアベルは知るはずなかったが、「叔父上」とリオネルが呼んだことで察せられる。リオネルが「叔父」と呼ぶ者は、母親であるアンリエットの弟であるフェルナンとシュザンしかいないからだ。
「例の怪我人か?」
フェルナンはちょうど戦いに駆けつけた際に、アベルが負傷した姿を目にしている。
「ええ、従騎士のアベルです」
「回復したのか」
「無茶をして寝台から出てきました。部屋まで送ってくるので、しばしお待ちいただけますか」
「ああ、かまわないが――」
早々に話を打ち切り、リオネルは踵を返そうとする。
すると、
「それで、おれたちとはいつ話させてくれるんだ?」
と、先程から質問に答えてもらえていないディルクが声を上げた。
「寝室までなら、ついてきてもかまわないよ」
歩きだしながら、リオネルがあっさり告げる。
「いいのか?」
普段から軽快なディルクの声が、一段と明るくなる。
「会議があるから長居はできないけど」
「アベルのためなら、会議なんてもういいよ」
話を聞いていたフェルナンが苦笑した。
「随分とおまえたちは仲がいいのだな」
「おれもついていっていいのか?」
おずおずと尋ねるレオンに、もちろんだとリオネルは答えた。レオンはほっとした表情になる。彼はアベルに付き添って、そのまま王弟派の会議には戻らないつもりでいるに違いない。
「おまえの従騎士は大人気だな」
おかしそうにフェルナンが言う。淡々とした口調でベルトランは答えた。
「そうですね」
「腕が立つそうだが、どこの家の子弟だ?」
「貴族ではありません」
「貴族ではない?」
少なからずフェルナンは驚いた様子だ。
「貴族以外が騎士になれるものではない」
話しているうちに、すでにリオネルらは廊下の先まで進んでいる。
「どういうことだ?」
「申しわけありませんが、リオネルの許可がなければこれ以上は話せません」
「おまえの従騎士だろう?」
フェルナンに問われると、ベルトランは口端を吊り上げて微笑する。
「あの子はすでに従騎士という存在を超えていますから」
不思議そうな表情のフェルナンが見つめるなか、ベルトランは主らのあとを追っていった。
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「今のは?」
扉口に現れ、そして去っていく少年を見送りながら、ルブロー家の長男エヴァリストが軽く首を傾げる。
「アベルですよ。ベルトラン殿の従騎士です」
答えたのはシャルルだった。
「へえ、ベルトランの」
弟の従騎士と聞いて、エヴァリストは虚を突かれた顔になる。
「らしくないですね、ベルトランがあのような細身の少年を従騎士にするとは」
ぼそりと兄に向けてつぶやいたのは美形のロランドだ。
「たしかにベルトランには似合わない。おまえの従騎士だと言われたほうが納得する」
冗談なのか、真面目なのか、エヴァリストはおっとりと言う。自席へ戻ってきたフェルナンが苦笑した。
「ローブルグ王ではあるまいし、美形ばかりがそろっても落ちつかないぞ」
そうかもしれませんね、とエヴァリストは笑った。
「あのような容姿ですが、相当な腕の持ち主です。私のせいで負傷させてしまいましたが」
フランソワが説明する。
「それに報いるだけの戦いを、フランソワ殿はした。気にかけるのは大切だが、必要以上に気に病む必要はない」
「かなり回復したようですしね」
その言葉がどこかひとりごとのように聞こえたのは、シャルルが心持ち小さな声で言ったからだ。
「美しくて腕が立つとは、本当にロランド殿のようですな」
テュリー公爵が言うと、
「本当にそうですね」
と身内でありながら、てらいもなくエヴァリストが答える。「ベルトランの従騎士のほうが純粋そうですが」と笑顔で付け加えながら。
ロランドが、形のよい眉をわずかにひそめた。
前回は1回目が短かったので2話目を更新しましたが、本日はこの一話のみですm(_ _)m yuuHi