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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
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 わずかに開いた窓から、雨が降っているのが垣間見える。


 寝台に伏してから何日経つのか、もはやアベルにはわからない。わかるのは、雨が長らく降り続いているということだけだ。


 怪我した当初より、傷口の痛みも高熱によるだるさも幾分か和らいだ。

 けれど朦朧とした意識から回復し、他のことを考えることができるようになるにつれ、不安も募るようになった。


 戦場にいる仲間のことを思う。


 ザシャはリオネルの命をつけ狙ってはいないだろうか。ディルクやレオン、マチアスは無事だろうか。クロードは、ラザールは、ダミアンは、ナタルは、バルナベは……。


 多くの命が失われていることを思えば、アベルは居ても立ってもいられない気持ちになる。今すぐ寝台を抜けだし、剣を握って皆と戦いたい衝動に駆られる。


 が、身体は思うようには動かない。


 痛みをおして半身を起きあがらせようとするが、すぐに動けなくなる。激痛には抗えない。大きく溜息をついて、アベルは双眸を閉ざす。

 戦うこともできずに、ただ寝台に横たわっていなければならない自分が情けなかった。



 音もなく扉が開く。


 窓の外は暗いが、それは厚い雲のせいで、陽が落ちたわけではない。まだ昼時――このような時分にだれだろう。


 顔を上げることができないので、訪問者の姿は確認できなかった。

 けれど、こちらへ近づく足音と、透明感のある香りで、アベルは相手を悟る。


 ――間違いない、リオネルだ。


 なぜリオネルがここにいるのだろう。

 戦いから戻ってくれば、ほとんどアベルにつきっきりのリオネルだが、明るいうちには基本的に顔を出さない。それがどうしてここにいるのか不思議だった。


 相手の姿が視界に入ると、二人の視線がからみあった。

 アベルはかすかに目を細める。


「アベル」


 わずかな驚きを含んだ低い美声が降ってくる。


「気がついていたのか」


 リオネルは寝台に歩み寄り、床に片膝をついた。アベルは安堵する。今日も彼が生きているということに。


 リオネルはアベルのひたいに手を置く。しばらく温度を確かめていたようだが、表情を和らげて手を離した。


 重く感じられる瞼の隙間から、アベルはリオネルを見つめる。


「どうして、リオネル様が……?」


 尋ねると、リオネルは困ったように笑った。


「ちょっと用事があってね」

「……………」


 戦場を抜けてくるほどの用事などあるのだろうか。用事があるなら、このような場所にいていいのだろうか。


「気分は? 苦しくはないか」


 ザシャに斬られてから何日経つかわからないが、時が経つにつれて意識が戻る回数が増え、少しずつ食事も口にしていた。


「とても、いいです」


 虚ろな瞳で応えると、リオネルが眉を下げる。


「無理しなくてもいいんだよ。熱は下がってきているけれど、まだ高い」

「こんなときに、ご迷惑をおかけして……本当に申しわけありません」


 かすかに残っていた笑みが、リオネルの口元で切なげな表情へと変わる。


「どうして謝るんだ?」

「皆様が戦っているのに、わたしだけが休んでいるなんて」

「アベルはフランソワ殿を救った。シャルム兵のために戦って、負傷した。感謝はしても、だれも責めたりはしない。きみはもう充分に戦ったんだ」

「もっと」


 消え入るようにアベルは言った。


「……もっと戦って、お役に立ちたかったです」

「充分だよ」


 布団から先のほうだけ出ているアベルの細い指先に、リオネルの指が重ねられる。


「今日、ザシャに会った」


 ザシャ――その名に、アベルの意識は急速に覚醒した。目を見開くと、リオネルが柔らかい表情で告げる。


「彼は脇腹に深手を負った。もうおそらく戦場には現れないだろう」

「それはリオネル様が……?」


 リオネルはうなずいた。


 アベルは小さく息を吐く。

 深く安堵した。もしこの戦いでリオネルが命の危険にさらされるとしたら、それは相手がザシャのとき以外にないと思っていたからだ。


 よかった、リオネルになにもなくて。


 と同時に、すごい、とアベルは思った。アベルはあの男にまったく太刀打ちできなかった。それをリオネルは対等に戦い、しかも討ち負かした。


 自らの力不足を思い知る。リオネルを守るためには、このままではいけない。リオネルを守れるくらいにならなければ。まだまだ自分は非力だ。


 なにかあってからでは取り返しがつかない……そう考えてから、ふとアベルは思い至る。


 ――まさか。


 指先に重なる温かな手を、軽く握り返す。リオネルは不思議そうな面持ちになった。


「アベル?」

「……リオネル様」


 ん、とリオネルが首を傾ける。


「お怪我を……されたのではありませんか」


 アベルが尋ねると、リオネルの紫色の瞳にかすかな隙が生じた。


 そう、責任感の強いリオネルが戦場から退き、軍営で休んでいるなど、よほどのことだ。だが負傷して、強制的に戻されたとすれば納得がいく。


「大丈夫だよ」


 優しげにリオネルは笑う。けれど、アベルはその笑顔を信じなかった。


「……嘘です」

「嘘じゃない、ほら元気だろう」


 沈黙してアベルはリオネルをじっと見据える。潤んだ瞳で睨み据えられたリオネルは困惑の表情になる。


「――アベルは変なところで鋭いね」


 降参したようにリオネルは苦笑する。


「変なところ、って……」

「恋愛には鈍いから」

「…………」

「すまない、その話はしない約束だったね」


 胸がざわつく。繋がっているリオネルの手を、強く意識してしまってどうしたらいいかわからなくなる。

 なんだか気恥かしい。けれど、けっして嫌なわけではない。むしろ……。


 ひどく動揺している自分に、余計に戸惑う。


「たしかに軽く怪我をした。けれど心配はいらないよ、かすり傷だから」


 アベルは眉を寄せた。


 今、アベルの目に見える範囲で、リオネルの身体に包帯や怪我の跡はない。ということは、服の下に怪我を負ったということだ。

 戻って休まねばならぬほどなのに、軽傷なはずがない。


「せっかく、左腕が治ったのに……」

「本当に大丈夫なんだ。左腕もおかげさまで調子がいい」

「どこを、怪我されたのですか?」


 ややあってから、リオネルはアベルと手を繋いでいないほうの手を、胸元へやる。手が置かれたその場所を目の当たりにして、アベルの背筋を冷たいものが走り抜けた。


 ――心臓部ではないか。


 さすがはザシャと言うべきだろう。一歩間違えば、大怪我どころか、命を失っていたはずだ。


 死は、リオネルからとても近い場所にあった。

 そう思えば、胸が締め付けられる。


「そんな顔をしないでくれ」


 リオネルは胸元から手を離し、アベルの頬へ伸ばす。


「心配をかけて、すまない」


 力をふりしぼって布団から腕を動かし、頬に触れるリオネルの手に、アベルは己の手を重ねる。そして、目をつむった。


 リオネルの温もり。

 この人が生きている。

 そのことを実感するだけで、胸は震えた。


 この温もりを失うことが、どうしようもないほど恐ろしい。


「今日はもう戦場には戻らないつもりだ。アベルのそばにいても、かまわないだろうか」


 アベルは小さくうなずく。

 いてほしいと、素直に思った。

 ずっとそばにいて、彼の無事を確かめていたい。もう戦場になど行ってほしくない。けれどそう願うことが、自分には許されているのだろうか。


「ヒュッター殿が手配したという名目で、ローブルグから援軍が到着した」


 え、とアベルは目を開く。リオネルはほほえんだ。


「今日、シャルム軍に加わったんだ。すでにシャルム軍は優勢だった。そこへローブルグ軍が加わったのだから、まもなく戦いは決着するだろう。もちろんシャルム軍の勝利という形で」


 瞳を見開いたまま、アベルは大きく息を吐く。

 リオネルがそう言うのだから、間違いない。この厳しい戦いにも終りが見え始めた。


「また、戦場へ赴くのですか?」

「明日から戦いに戻るつもりだ」

「……行かないで、ください」


 重ねた手に力を入れるアベルを、リオネルは目を細めて見やる。


 切なげな紫色の瞳に、アベルは胸が苦しくなった。


「最後まで戦い抜きたい。――こんな形でしか、きみを守ることができないから」


 さりげなく紡ぎだされるリオネルの言葉の端々に、彼の想いを感じてアベルは戸惑う。

 その戸惑いに向き合うことが無性に不安で、今は考えないようにしながら、アベルは正直な思いを伝えた。


「……怖いのです」


 リオネルが戦場へ行くことが、ひどく怖い。自分の手で彼を守れないことが、こんなにもどかしいなんて。


「こんな状態のアベルを置いては死なないよ」

「でも――」

「そんなに心配してくれるなら」


 リオネルが笑んだ。


「もう一度約束してくれないか――戦いが終わり、アベルの身体がもとどおり元気になったら、再びおれのもとへ戻り、仕えてくれると。そうすればおれは安心して戦える」

「…………」

「以前約束してくれたのを覚えているだろうか?」


 ――覚えている。


 高熱と痛みのなかで、交わした約束。


「しつこくて、すまない。けれど不安でしかたがないんだ。戦場から戻ってきたら、アベルがいなくなっているのではないかといつも思ってしまう。戦いに集中できなくなるくらいだ。……だから、もう一度だけ」


 泣き出しそうな気持ちで、アベルはリオネルの紫色の双眸を見つめる。


「……わたしは、あなたのおそばに相応しくない者です」

「アベルと共に生きたい」

「リオネル様は、私の過去をご存じないのです」

「どんな過去があってもかまわない」


 アベルは言葉を呑んだ。


「なにがあったとしてもかまわない。周りからなにを言われようともかまわない。他の誰からも認められなくともかまわない」


 二人の視線が間近でからみあう。


「ただ、おれはアベルといっしょにいたい――それだけだ」


 ……本当にリオネルの瞳は綺麗だ。


 断れるはずないではないか。

 彼をまえにすれば、なにも言えなくなる。だから、あの夜アベルは黙って館を出たのだ。

 引き止められれば、こうなるに決まっている。


「……おそばに、いたいです」


 目の端から涙がこぼれて、こめかみを伝う。


「本当はずっとおそばに――」


 本当は、リオネルといっしょにいたい。

 離れたくなんてない。

 望んでこの人から離れたわけじゃない。


 本当は、ずっと、ずっと……。


 リオネルの指先が、こぼれた雫をぬぐう。濡れた指先でアベルの手を握り直し、ようやく聞きとれるほどの声でリオネルはささやいた。


「すまない、おれがアベルを苦しめたんだ。すべて忘れてほしい。そして、そばにいてくれないか。この先もずっと……」


 許されるのだろうか。

 もし、互いに想いを口にしなければ、それが許されるのだろうか。


「……そばにいて、いいのでしょうか?」

「もちろんだ」

「リオネル様が、白髪になるまで?」


 真面目に尋ねると、リオネルがふっと笑う。


「ああ、互いに白髪になるまでだ。けれど耄碌もうろくしても、おれはアベルのことだけは忘れない」

「……そんなこと言って、わたしの顔を見て、『だれだったかな?』なんて言うのではありませんか?」

「絶対に言わないよ」

「本当に?」

「何年先の話だ?」


 二人は見つめあい、小さく笑った。


 胸の奥に、すとんと収まる感情がある。この想いはなんだろう。

 あたたかい。

 この感情を、安堵とか、幸福とか、人はそんな言葉で呼ぶのだろうか。


 ――失いたくない。


 本当にそばにいてもいいのか。いまだに答えが見つけられない。自分がそばにいることで、リオネルを追い詰めることにはならないだろうか。


 それでも……。


 考えているうちに、意識がぼんやりして次第に指先から、瞼から、身体から力が抜けていく。


「たくさん話して、疲れさせてしまったね。ゆっくり休んで」


 リオネルの笑顔が、少し遠く感じられる。

 まだ、起きていたいと思った。

 たとえ答えは出なくとも、この笑顔を見つめていたい。この手の温もりを感じていたい。


 繋いだままのリオネルの手を懸命に握り返して、アベルはその暖かさを胸に刻んだ。










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