51
わずかに開いた窓から、雨が降っているのが垣間見える。
寝台に伏してから何日経つのか、もはやアベルにはわからない。わかるのは、雨が長らく降り続いているということだけだ。
怪我した当初より、傷口の痛みも高熱によるだるさも幾分か和らいだ。
けれど朦朧とした意識から回復し、他のことを考えることができるようになるにつれ、不安も募るようになった。
戦場にいる仲間のことを思う。
ザシャはリオネルの命をつけ狙ってはいないだろうか。ディルクやレオン、マチアスは無事だろうか。クロードは、ラザールは、ダミアンは、ナタルは、バルナベは……。
多くの命が失われていることを思えば、アベルは居ても立ってもいられない気持ちになる。今すぐ寝台を抜けだし、剣を握って皆と戦いたい衝動に駆られる。
が、身体は思うようには動かない。
痛みをおして半身を起きあがらせようとするが、すぐに動けなくなる。激痛には抗えない。大きく溜息をついて、アベルは双眸を閉ざす。
戦うこともできずに、ただ寝台に横たわっていなければならない自分が情けなかった。
音もなく扉が開く。
窓の外は暗いが、それは厚い雲のせいで、陽が落ちたわけではない。まだ昼時――このような時分にだれだろう。
顔を上げることができないので、訪問者の姿は確認できなかった。
けれど、こちらへ近づく足音と、透明感のある香りで、アベルは相手を悟る。
――間違いない、リオネルだ。
なぜリオネルがここにいるのだろう。
戦いから戻ってくれば、ほとんどアベルにつきっきりのリオネルだが、明るいうちには基本的に顔を出さない。それがどうしてここにいるのか不思議だった。
相手の姿が視界に入ると、二人の視線がからみあった。
アベルはかすかに目を細める。
「アベル」
わずかな驚きを含んだ低い美声が降ってくる。
「気がついていたのか」
リオネルは寝台に歩み寄り、床に片膝をついた。アベルは安堵する。今日も彼が生きているということに。
リオネルはアベルのひたいに手を置く。しばらく温度を確かめていたようだが、表情を和らげて手を離した。
重く感じられる瞼の隙間から、アベルはリオネルを見つめる。
「どうして、リオネル様が……?」
尋ねると、リオネルは困ったように笑った。
「ちょっと用事があってね」
「……………」
戦場を抜けてくるほどの用事などあるのだろうか。用事があるなら、このような場所にいていいのだろうか。
「気分は? 苦しくはないか」
ザシャに斬られてから何日経つかわからないが、時が経つにつれて意識が戻る回数が増え、少しずつ食事も口にしていた。
「とても、いいです」
虚ろな瞳で応えると、リオネルが眉を下げる。
「無理しなくてもいいんだよ。熱は下がってきているけれど、まだ高い」
「こんなときに、ご迷惑をおかけして……本当に申しわけありません」
かすかに残っていた笑みが、リオネルの口元で切なげな表情へと変わる。
「どうして謝るんだ?」
「皆様が戦っているのに、わたしだけが休んでいるなんて」
「アベルはフランソワ殿を救った。シャルム兵のために戦って、負傷した。感謝はしても、だれも責めたりはしない。きみはもう充分に戦ったんだ」
「もっと」
消え入るようにアベルは言った。
「……もっと戦って、お役に立ちたかったです」
「充分だよ」
布団から先のほうだけ出ているアベルの細い指先に、リオネルの指が重ねられる。
「今日、ザシャに会った」
ザシャ――その名に、アベルの意識は急速に覚醒した。目を見開くと、リオネルが柔らかい表情で告げる。
「彼は脇腹に深手を負った。もうおそらく戦場には現れないだろう」
「それはリオネル様が……?」
リオネルはうなずいた。
アベルは小さく息を吐く。
深く安堵した。もしこの戦いでリオネルが命の危険にさらされるとしたら、それは相手がザシャのとき以外にないと思っていたからだ。
よかった、リオネルになにもなくて。
と同時に、すごい、とアベルは思った。アベルはあの男にまったく太刀打ちできなかった。それをリオネルは対等に戦い、しかも討ち負かした。
自らの力不足を思い知る。リオネルを守るためには、このままではいけない。リオネルを守れるくらいにならなければ。まだまだ自分は非力だ。
なにかあってからでは取り返しがつかない……そう考えてから、ふとアベルは思い至る。
――まさか。
指先に重なる温かな手を、軽く握り返す。リオネルは不思議そうな面持ちになった。
「アベル?」
「……リオネル様」
ん、とリオネルが首を傾ける。
「お怪我を……されたのではありませんか」
アベルが尋ねると、リオネルの紫色の瞳にかすかな隙が生じた。
そう、責任感の強いリオネルが戦場から退き、軍営で休んでいるなど、よほどのことだ。だが負傷して、強制的に戻されたとすれば納得がいく。
「大丈夫だよ」
優しげにリオネルは笑う。けれど、アベルはその笑顔を信じなかった。
「……嘘です」
「嘘じゃない、ほら元気だろう」
沈黙してアベルはリオネルをじっと見据える。潤んだ瞳で睨み据えられたリオネルは困惑の表情になる。
「――アベルは変なところで鋭いね」
降参したようにリオネルは苦笑する。
「変なところ、って……」
「恋愛には鈍いから」
「…………」
「すまない、その話はしない約束だったね」
胸がざわつく。繋がっているリオネルの手を、強く意識してしまってどうしたらいいかわからなくなる。
なんだか気恥かしい。けれど、けっして嫌なわけではない。むしろ……。
ひどく動揺している自分に、余計に戸惑う。
「たしかに軽く怪我をした。けれど心配はいらないよ、かすり傷だから」
アベルは眉を寄せた。
今、アベルの目に見える範囲で、リオネルの身体に包帯や怪我の跡はない。ということは、服の下に怪我を負ったということだ。
戻って休まねばならぬほどなのに、軽傷なはずがない。
「せっかく、左腕が治ったのに……」
「本当に大丈夫なんだ。左腕もおかげさまで調子がいい」
「どこを、怪我されたのですか?」
ややあってから、リオネルはアベルと手を繋いでいないほうの手を、胸元へやる。手が置かれたその場所を目の当たりにして、アベルの背筋を冷たいものが走り抜けた。
――心臓部ではないか。
さすがはザシャと言うべきだろう。一歩間違えば、大怪我どころか、命を失っていたはずだ。
死は、リオネルからとても近い場所にあった。
そう思えば、胸が締め付けられる。
「そんな顔をしないでくれ」
リオネルは胸元から手を離し、アベルの頬へ伸ばす。
「心配をかけて、すまない」
力をふりしぼって布団から腕を動かし、頬に触れるリオネルの手に、アベルは己の手を重ねる。そして、目をつむった。
リオネルの温もり。
この人が生きている。
そのことを実感するだけで、胸は震えた。
この温もりを失うことが、どうしようもないほど恐ろしい。
「今日はもう戦場には戻らないつもりだ。アベルのそばにいても、かまわないだろうか」
アベルは小さくうなずく。
いてほしいと、素直に思った。
ずっとそばにいて、彼の無事を確かめていたい。もう戦場になど行ってほしくない。けれどそう願うことが、自分には許されているのだろうか。
「ヒュッター殿が手配したという名目で、ローブルグから援軍が到着した」
え、とアベルは目を開く。リオネルはほほえんだ。
「今日、シャルム軍に加わったんだ。すでにシャルム軍は優勢だった。そこへローブルグ軍が加わったのだから、まもなく戦いは決着するだろう。もちろんシャルム軍の勝利という形で」
瞳を見開いたまま、アベルは大きく息を吐く。
リオネルがそう言うのだから、間違いない。この厳しい戦いにも終りが見え始めた。
「また、戦場へ赴くのですか?」
「明日から戦いに戻るつもりだ」
「……行かないで、ください」
重ねた手に力を入れるアベルを、リオネルは目を細めて見やる。
切なげな紫色の瞳に、アベルは胸が苦しくなった。
「最後まで戦い抜きたい。――こんな形でしか、きみを守ることができないから」
さりげなく紡ぎだされるリオネルの言葉の端々に、彼の想いを感じてアベルは戸惑う。
その戸惑いに向き合うことが無性に不安で、今は考えないようにしながら、アベルは正直な思いを伝えた。
「……怖いのです」
リオネルが戦場へ行くことが、ひどく怖い。自分の手で彼を守れないことが、こんなにもどかしいなんて。
「こんな状態のアベルを置いては死なないよ」
「でも――」
「そんなに心配してくれるなら」
リオネルが笑んだ。
「もう一度約束してくれないか――戦いが終わり、アベルの身体がもとどおり元気になったら、再びおれのもとへ戻り、仕えてくれると。そうすればおれは安心して戦える」
「…………」
「以前約束してくれたのを覚えているだろうか?」
――覚えている。
高熱と痛みのなかで、交わした約束。
「しつこくて、すまない。けれど不安でしかたがないんだ。戦場から戻ってきたら、アベルがいなくなっているのではないかといつも思ってしまう。戦いに集中できなくなるくらいだ。……だから、もう一度だけ」
泣き出しそうな気持ちで、アベルはリオネルの紫色の双眸を見つめる。
「……わたしは、あなたのおそばに相応しくない者です」
「アベルと共に生きたい」
「リオネル様は、私の過去をご存じないのです」
「どんな過去があってもかまわない」
アベルは言葉を呑んだ。
「なにがあったとしてもかまわない。周りからなにを言われようともかまわない。他の誰からも認められなくともかまわない」
二人の視線が間近でからみあう。
「ただ、おれはアベルといっしょにいたい――それだけだ」
……本当にリオネルの瞳は綺麗だ。
断れるはずないではないか。
彼をまえにすれば、なにも言えなくなる。だから、あの夜アベルは黙って館を出たのだ。
引き止められれば、こうなるに決まっている。
「……おそばに、いたいです」
目の端から涙がこぼれて、こめかみを伝う。
「本当はずっとおそばに――」
本当は、リオネルといっしょにいたい。
離れたくなんてない。
望んでこの人から離れたわけじゃない。
本当は、ずっと、ずっと……。
リオネルの指先が、こぼれた雫をぬぐう。濡れた指先でアベルの手を握り直し、ようやく聞きとれるほどの声でリオネルはささやいた。
「すまない、おれがアベルを苦しめたんだ。すべて忘れてほしい。そして、そばにいてくれないか。この先もずっと……」
許されるのだろうか。
もし、互いに想いを口にしなければ、それが許されるのだろうか。
「……そばにいて、いいのでしょうか?」
「もちろんだ」
「リオネル様が、白髪になるまで?」
真面目に尋ねると、リオネルがふっと笑う。
「ああ、互いに白髪になるまでだ。けれど耄碌しても、おれはアベルのことだけは忘れない」
「……そんなこと言って、わたしの顔を見て、『だれだったかな?』なんて言うのではありませんか?」
「絶対に言わないよ」
「本当に?」
「何年先の話だ?」
二人は見つめあい、小さく笑った。
胸の奥に、すとんと収まる感情がある。この想いはなんだろう。
あたたかい。
この感情を、安堵とか、幸福とか、人はそんな言葉で呼ぶのだろうか。
――失いたくない。
本当にそばにいてもいいのか。いまだに答えが見つけられない。自分がそばにいることで、リオネルを追い詰めることにはならないだろうか。
それでも……。
考えているうちに、意識がぼんやりして次第に指先から、瞼から、身体から力が抜けていく。
「たくさん話して、疲れさせてしまったね。ゆっくり休んで」
リオネルの笑顔が、少し遠く感じられる。
まだ、起きていたいと思った。
たとえ答えは出なくとも、この笑顔を見つめていたい。この手の温もりを感じていたい。
繋いだままのリオネルの手を懸命に握り返して、アベルはその暖かさを胸に刻んだ。